2012年8月9日(木)
この日は朝から広島城を訪問した。
適当な駐車場を見つけられず、広島平和記念公園の近くの駐車場に停めたため、
思わぬ駐車料金にびっくり。高さ制限のない駐車場を探すのには毎回苦労する。
広島城は、最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、
広さ約12万平方mで大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。
名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われる。
毛利元就の孫、毛利輝元は天正十六年(1588)9月11日に豊臣秀吉自身の案内で
始めて大坂城の天守閣に登った。
この時の城下町の繁栄を目の当たりにし、吉田郡山城に代る新城建設の必要性を痛感したものと思われる。
吉田郡山城に帰った輝元は、広島に城を築くことを決め、天正十七年(1589)4月15日に着工し、2年後の
天正十九年(1591)に入城している。
三の丸跡から広島城の玄関である表御門と平櫓を見たところ。
表御門は毛利時代の創建。本丸へ至る広島城の正門で、木橋にしたので、橋御門とも呼ばれた。

太鼓櫓側の内堀から見た右から太鼓櫓、多聞櫓、平櫓

太鼓櫓と内堀
石垣が内堀に映えて美しい。

御門橋の正面が表御門、右に平櫓が構えている。
表御門は櫓門で、階下が城門で、階上は渡櫓になっている。
広島城の主要な城門はみなこの形式だった、とのこと。

表御門を入ると二の丸である。
二の丸側から見た表御門と平櫓

多聞櫓とその先に太鼓櫓がある。

広島城の初代城主は毛利輝元である。
平櫓内には毛利輝元の祖父である毛利元就の「三矢の訓」(みつやのおしえ)が展示されていた。

多聞櫓(長櫓)は平櫓と太鼓櫓を結ぶ全長35間の櫓であった。
多聞櫓の内部は梁を剥き出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになっている。

太鼓櫓(時櫓)
江戸時代にはこの太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして、
城門の開閉や藩士の登城の合図にしていた。

太鼓櫓辺りから二の丸全体を見る。
二の丸は毛利輝元が築城した当時の建築様式を基にして、忠実に復元されている。

二の丸から中御門跡を見る。

中御門跡の枡形を通り抜けると、いよいよ広島城の本丸である。

中御門跡を通り抜け、左手を見ると、広島護国神社がある。
今回は(次回があるかは不明だが)、時間がないので、一礼だけしておいた。

本丸天守閣方向へ進むと「広島大本営跡」があった。
広島大本営は明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島城内に設置された、
大日本帝国軍の最高統帥機関の大本営である。
今は基礎の石と碑だけが残っている。

広島城天守閣は北西の角に建てられている。
広島城天守閣は、複合連結式望楼型5重5階の城郭で、高さは26.6mとある。
旧天守閣は東と南に三重の小天守を連結していたが、大天守のみが鉄筋コンクリートで復元されている。

天守閣最上階に登ってみた。

望楼の状態

望楼からの眺望(1)
広島駅方面

望楼からの眺望(2)
県立総合体育館、広島市民球場方面

望楼からの眺望(3)
市営基町高層アパート群が林立している。

ここで、内堀を一周するため、かみさんといったん分かれた。
本丸跡を通り、裏御門跡へ向かう。

裏御門跡の石垣

裏御門跡から南方面を見たところ。

裏御門跡から北方面を見たところ。

内堀を反時計回りで一周してみることにした。
天守閣と市営基町高層アパート群は、やや違和感を感じる。

北方面から見た天守閣
堂々とそびえる姿は美しい。

西方面から見た天守閣

南方面から見た天守閣
やはり堀と一緒の方が城としては似合っていると思う。

旧三の丸門辺りから見た天守閣遠望

内堀を一周したところで、広島城を後にして、広島平和記念公園へ向かった。
明日は、今回の城巡りの最終日となる。
福山城と赤穂城を巡ることにする。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
この日は朝から広島城を訪問した。
適当な駐車場を見つけられず、広島平和記念公園の近くの駐車場に停めたため、
思わぬ駐車料金にびっくり。高さ制限のない駐車場を探すのには毎回苦労する。
広島城は、最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、
広さ約12万平方mで大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。
名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われる。
毛利元就の孫、毛利輝元は天正十六年(1588)9月11日に豊臣秀吉自身の案内で
始めて大坂城の天守閣に登った。
この時の城下町の繁栄を目の当たりにし、吉田郡山城に代る新城建設の必要性を痛感したものと思われる。
吉田郡山城に帰った輝元は、広島に城を築くことを決め、天正十七年(1589)4月15日に着工し、2年後の
天正十九年(1591)に入城している。
三の丸跡から広島城の玄関である表御門と平櫓を見たところ。
表御門は毛利時代の創建。本丸へ至る広島城の正門で、木橋にしたので、橋御門とも呼ばれた。

太鼓櫓側の内堀から見た右から太鼓櫓、多聞櫓、平櫓

太鼓櫓と内堀
石垣が内堀に映えて美しい。

御門橋の正面が表御門、右に平櫓が構えている。
表御門は櫓門で、階下が城門で、階上は渡櫓になっている。
広島城の主要な城門はみなこの形式だった、とのこと。

表御門を入ると二の丸である。
二の丸側から見た表御門と平櫓

多聞櫓とその先に太鼓櫓がある。

広島城の初代城主は毛利輝元である。
平櫓内には毛利輝元の祖父である毛利元就の「三矢の訓」(みつやのおしえ)が展示されていた。

多聞櫓(長櫓)は平櫓と太鼓櫓を結ぶ全長35間の櫓であった。
多聞櫓の内部は梁を剥き出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになっている。

太鼓櫓(時櫓)
江戸時代にはこの太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして、
城門の開閉や藩士の登城の合図にしていた。

太鼓櫓辺りから二の丸全体を見る。
二の丸は毛利輝元が築城した当時の建築様式を基にして、忠実に復元されている。

二の丸から中御門跡を見る。

中御門跡の枡形を通り抜けると、いよいよ広島城の本丸である。

中御門跡を通り抜け、左手を見ると、広島護国神社がある。
今回は(次回があるかは不明だが)、時間がないので、一礼だけしておいた。

本丸天守閣方向へ進むと「広島大本営跡」があった。
広島大本営は明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島城内に設置された、
大日本帝国軍の最高統帥機関の大本営である。
今は基礎の石と碑だけが残っている。

広島城天守閣は北西の角に建てられている。
広島城天守閣は、複合連結式望楼型5重5階の城郭で、高さは26.6mとある。
旧天守閣は東と南に三重の小天守を連結していたが、大天守のみが鉄筋コンクリートで復元されている。

天守閣最上階に登ってみた。

望楼の状態

望楼からの眺望(1)
広島駅方面

望楼からの眺望(2)
県立総合体育館、広島市民球場方面

望楼からの眺望(3)
市営基町高層アパート群が林立している。

ここで、内堀を一周するため、かみさんといったん分かれた。
本丸跡を通り、裏御門跡へ向かう。

裏御門跡の石垣

裏御門跡から南方面を見たところ。

裏御門跡から北方面を見たところ。

内堀を反時計回りで一周してみることにした。
天守閣と市営基町高層アパート群は、やや違和感を感じる。

北方面から見た天守閣
堂々とそびえる姿は美しい。

西方面から見た天守閣

南方面から見た天守閣
やはり堀と一緒の方が城としては似合っていると思う。

旧三の丸門辺りから見た天守閣遠望

内堀を一周したところで、広島城を後にして、広島平和記念公園へ向かった。
明日は、今回の城巡りの最終日となる。
福山城と赤穂城を巡ることにする。
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