ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

2023年05月13日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月13日(土)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

旧東海道第Ⅲステージは、第6回(2019/05/19~05/20庄野宿から関宿)までほぼ順調に歩いて来たが、
同年7月頃に予定していた、第7回(関宿~草津宿)直前になって、ちょっとした油断から風邪をこじらせ、
東京医科大での診断で、急性肺炎ということで緊急入院する羽目になり、当分の間は街道歩きの中断を
余儀なくされてしまった。

年が明けた翌2020年1月頃には肺の調子も大分良くなり、担当医師に通常の生活もOKと診断され、
街道歩きを再開しようと意気込んだその時、新型コロナウィルスの感染拡大で、他県への移動自粛制限
により、街道歩きどころではなくなってしまった。

それから1年9か月余の2021年10月にはワクチン接種のおかげもあってか、コロナ感染者数は
減り、他県への移動制限はなくなったことはご存じの通りである。

同年11月中旬になって、今度こそ”街道歩き再開”と亀山市と水口市のホテルの予約を済ませ、
数日後には出発を待つばかりという段階になって、急に胸の辺りに痛みが走り、息苦しさを
覚えるようになった。
何と、今度は肺から空気が漏れる”気胸”と診断され、再び10日間の入院を余儀なくさせられる羽目に。

急性肺炎やコロナ禍などで鈴鹿峠を前に関宿で留まること丸4年が経った。
このままでは近いうちに傘寿を迎えてしまうと思い、今回鈴鹿峠越えに挑むことにした。
計画では5月13日(土)に自宅を出て、14日に関宿をスタートして16日に草津宿到着を目指す
ことにしていたのだが、Yahooの予報では14日(日)、15日(月)はかなりの雨。
しかし、ホテルも既に予約済で、今回の旅行には是非とも付き合いたいという大分に住む
かみさんの妹も数日前から来宅して待機いることから、運を天に任せて13日早朝に自宅を出発した。
旧東海道関宿のある亀山市には13時半過ぎには到着した。
到着したこの日もあいにくの雨だったが、夕方には一時的に小降りになるというスマホの予報を信じ、
夕方までには鈴鹿峠は越えられるだろうと判断した次第。

14時46分、右手にデジカメ、左手に地図と折畳み傘を持ち、雨のなか関宿「西の追分」を出発。
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78Km)の距離がある。
一方、大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良へ至る道になる。


「西の追分」まで送ってくれたかみさん達とはいったんここで分かれ、いざ旧東海道へ。


しばらく国道1号に沿って進む。
甲賀まで27Kmの表示が見える。


鈴鹿川の一瀬橋手前に右”東海道(坂下宿)”の案内標識が。


案内標識に従って進み・・・


少し上流で鈴鹿川を渡り、


小さな集落を進むと・・・


国道1号に出た。


国道1号を横断したところに、浄土宗本願寺派の西願寺というお寺があった。
山門の前に常夜灯が建っているのが印象的である。


また国道に出て、しばらく国道1号を進む。


筆捨山バス停を通過
筆捨山はもともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと
筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞が立ち込め山の姿が全く
変わってしまったため描き足すことができず、諦めて筆を投げ捨てたことからこの名が付いたと
伝えられる。


この日の筆捨山方面も雲が立ち込めていて筆捨山は全く見えなかった。


15時28分、楢の木バス停辺りを通過。


東海自然歩道の道標があった。
文字は見づらいが、片山神社3.9Km、鈴鹿峠4.3Kmと判読できる。


沓掛の集落を進む。


真宗大谷派の寺院超泉寺前を通過


沓掛バス停前を通過


沓掛集落を進む。


15時43分、坂下簡易郵便局を通過
この辺りが坂下宿なのだろうか?


鈴鹿馬子唄会館前を通過して少し進むと・・・


道の左側に日本橋から順に旧東海道の宿場名を記した標柱が続いていた。


由比宿まで来ると、
昭和13年に建てられ、昭和54年3月に廃校となった「坂下尋常高等小学校」の校舎があった。
廃校後は坂下公民館等として坂下地区の人々を中心に利用され、現在は青少年のための
宿泊研修施設「鈴鹿峠自然の家」として利用されている、とのこと。
平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。


宿場名を記した標柱が続く。


標柱は坂下、土山、水口、石部、草津、大津と続き、


最後は三条大橋で終わっていた。
京都三条大橋まであと6つの宿場を残すのみとなった。


旧東海道を進む。
ここまで来て、もしかしたら坂下宿を通り過ぎてしまったのか? という不安が頭を過ぎり、
確認のためにもう一度坂下簡易郵便局まで戻って、それらしい目印を探した。
しかし本陣跡等を示す石柱などは何も見つからず、また標柱まで戻って来たため、その間
往復30-40分はかかったと思われる大幅なタイムロスをしてしまった。


この辺りは坂下宿だろうか?
目を凝らして旧東海道を進む。


松屋本陣跡と書かれた石柱があった。
ようやく東海道47番目の宿場町坂下宿に到着した。
坂下宿には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒があり、本陣などの規模も大きく、かなり大きな
宿場だった、とのこと。


大竹屋本陣跡の石柱


法安寺
ここの玄関は松屋本陣から移築したもので、これは坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構だそう。


小竹屋脇本陣跡の石柱


坂下宿を進むと、


家並みが無くなり、しばらく道なりに進んで行くと・・・


16時48分、道端に東海自然歩道の道標があった。
片山神社1.1Km、鈴鹿峠1.5Kmと書かれていた。


道標の指す先には急な階段が・・・やや愕然としたが、ここから本格的な峠越えが始まるのだ。
角度は30%はありそうな急斜面だが、ここは頑張って登るしかない。
関宿を出発した時には右手にデジカメ、左手に地図と傘を持っていたのだが、傘は折り畳んで
リュックに仕舞い、代わりに杖を持つことにした。


左手で杖を使いながら、急な階段を登る。


5-60段ほど登ると平坦な径になった。
片山神社方面へ。


小さな谷には板張りの橋が続いていた。


今度はコンクリート製の階段があった。
段差があって登りづらいし、角度も急で厳しい。


この後、谷を跨ぐ橋と


急な登りの階段が


交互に続いていた。
思っていた以上に厳しい鈴鹿峠である。
昔の人や馬はこの峠を行き来していたと思うと感心せざるを得ない。


それまで急な登りだった径が突然下りになった。
鈴鹿峠が終わったのか???


下り切った所に”南無阿弥陀仏”と刻まれた碑が建てられていた。
馬頭観世音碑だろうか?


直ぐ近くに東海自然歩道の道標があった。
片山神社0.2Km、鈴鹿峠0.6Kmと書かれていた。
まだ鈴鹿峠を越えていないと分かってガックリ。


片山神社はもう直ぐ、と思って進むと、片山神社と刻まれた大きな石柱が現れた。
神社はもう少し先のようだ。


さらに小径を進むと・・・


17時30分、ようやく片山神社に到着した。
急な階段を登り始めて50分ほどかかったことになる。
鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿明神と呼ばれ、坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったといわれている。
水害や火事の神様である。


一息入れていた時、かみさんから『万人講常夜灯で待っている』との連絡が入った。
鈴鹿峠を越えた先の万人講常夜灯を目指すことにした。
これまであった東海自然歩道の標識によると、鈴鹿峠はあと400mほど先ということになるのだが・・・


薄暗い坂道を上って行くと・・・


国道1号の下に出た。


石段を上って国道1号方面へ。


石段を上り切ると小さな空き地があった。
三重県関町と書かれた木製の柱があるのみで、案内板は剥げ落ちていて何が表示されていたのかは分からない。
鈴鹿峠は左の階段を登ることになると思われたので、手持ちの地図と勘を頼りに進んだ。


薄暗い坂道を上って行くと・・・鈴鹿峠の説明板があった。
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、
平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の
今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文を
唱えて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえた
という話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に
鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
環境省・三重県


さらに上りの石段の坂道が続く。


曲がりくねった急坂を息を切らしながら上って行くと・・・


径が平坦になって、鏡岩150mの案内表示が・・・
この時点でかなり疲れていたし、かみさん達を待たせることになるため、鏡岩(往復300m)
へ行くのは諦めることにした。


鈴鹿峠の説明板が。
鈴鹿峠は伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている、とある。
(以下略)
ここが鈴鹿峠の頂上(378m)と思われる。


左三重県・右滋賀県の境界を記す石碑が建てられていた。


旧東海道の石柱に従って、


石柱を過ぎて少し進むと・・・


18時7分、かみさん達が待つ万人講常夜灯に到着した。


万人講常夜灯
道中安全を祈願して江戸時代に建立されたもので、「万人講」・「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれています。
重さ38t、高さ5.44mの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられています。
由来書によれば、「文化年中」の霊験により見出された「神石」を用いたものといい、「甲賀郡中」の信心ある者たちが寄った「万人講」が企画・建立し、毎夜火を灯すようになったと云います。
鈴鹿トンネルの工事のため旧東海道沿いから現在地に移設されましたが、東海道随一の難所・鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことでしょう。
甲賀市教育委員会


この後、予約していた亀山市内のホテルに向かった。
夕食はホテルから5分ほどの和食レストラン「さがみ」へ。


和食御膳は盛りだくさんで美味かった。


この日の万歩計は18,000歩を計測していた。
関宿の西の追分から鈴鹿峠を越えただけだったが、意外と歩数が多かったのには驚いた。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

2019年05月20日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月20日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第6回(2日目)は、亀山宿(JR亀山駅)~
関宿(JR関駅)を歩くことにする。

朝、ホテルの窓から外を見ると、霧雨のような小雨が降っていた。
ここで引き返していては来た甲斐がない。
予報では午前中は降ったり止んだりなので、傘を差してでも行くしかない。


先ずはホテルの食堂へ。
バイキング形式で、和食・洋食の両方から選べる。


7時ちょっと過ぎだったが食堂は空いていた。
というより、宿泊客の多くは既に食事を終えていたようだ。


メニューは簡単なものだった。
パンにサラダに味噌汁、煮つけ。食後に果物・コーヒーといったところか。
ホテル宿泊の場合、自分が選ぶのは大体こんなメニューである。
朝食は宿泊代込みで5,200円だった。


7時45分、APA HOTELを出発!


先ずは北方面の「はま寿司」の方向へ。
昨夜夕食で訪れた店である。


県道565号商工会議所前交差点を横断し、緩い坂道を東町商店街へ。


7時57分、東町商店街に到着した。


東町商店街を市役所方面へ進むと、


ほどなく江ヶ室交番前に到着した。
昨日はここを真直ぐ亀山城址へ進んだ所である。


この日は交差点を左折して進むことにする。


遍照寺
微妙に曲がる道を進むと、左手に天台真盛宗の延寿山地蔵院遍照寺がある。
鐘楼門を潜ると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」と云われた、そうだ。


屋号札の掲示の説明板
亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です。
そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し、路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
かかる現状を憂え、協議を重ねた結果、歴史的な町の佇まいを復活する最初のプロジェクトとして、
屋号の木札を作り、該当する家に掲てもらうことを始めました、とある。
(以下略)
平成十三年十月 きらめき亀山21 町並み保存分化会(宿場の賑わい復活一座に改名)


屋号のある家
東海道亀山宿 万町いせや跡


屋号のある家
東海道亀山宿 万町だいさく家跡


古い大きな屋号のある家
東海道亀山宿 万町あらものや跡 の前を通り、緩やかな坂道を下って行くと、


右側に池があった。


県道302号を渡ると坂道の上り口に東海道亀山宿の碑が建っている。


緩い坂道を上って道なりに右に曲がって行くと、
旧館家住宅の案内表示があった。


東海道亀山宿 おかだや本店前を通過すると、


旧舘屋住宅(枡屋)があった。
枡屋は、幕末から大正にかけて呉服商を営んでおり、現在の主屋は明治六年(1873)に
建てられたものである。
木造2階建てのこの建物は、亀山宿を代表する商家建築として、平成19年市指定文化財に
指定されており、一般公開されている、とのこと。


亀山城西之丸外堀跡
この西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、
同十六年から3年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す記述はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと
推測されている。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


京口門跡碑があった。


京口門跡の解説
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
「九々五集」によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文十二年(1672)に完成したとされる。
翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城惣構の城門として位置づけられ、
両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門 と謡われるほどであった。


京口坂橋
京口門跡の先で竜川(たつかわ)に架かる京口坂橋を渡って進む。


こちらは竜川下流域


照光寺
京口坂橋を渡り詰めた右手に、日蓮宗の妙亀山照光寺がある。
照光寺は、もとは玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。
亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄二年(1689)
野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。


旧街道を進む。


森家住宅
照光寺から程なく左手に森家住宅がある。
街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。
また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。
現在は、伊勢うどんなどの幟を立てて飲食店として使用されている。


浄土真宗本願寺派の究竟山光明寺
光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建っている。


野村の町並み
連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている。


古い蔵のある家


信号十字路手前の右角に明治天皇御召替所跡がある。


壁面の解説には次のように記されている。
明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の
内宮と外宮を参拝された。
東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。
亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。
その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として三円を下された。


信号十字路を渡った所に小さな四阿があったので、雨宿りも兼ねて一休み。


東屋の隅に周辺地図があったので、この先の訪問地などを確認
間もなく野村一里塚である。


慈恩寺
浄土宗の亀鶴山無量院慈恩寺がある。
慈恩寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として
創建されたと伝えられている。
往時には七堂伽藍があったが、たび重なる兵火で焼失したという。


旧街道を進む。


8時53分、野村一里塚に到着
江戸日本橋から数えて105里目の一里塚である。
現在は三重県下で唯一原型をとどめる一里塚で、我国の交通史を考える上で
貴重な遺跡として、”国史跡”に指定されている。


この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。


大庄屋屋敷跡の標柱
広い空き地の前に標柱が建っており、正面に「史跡 亀山藩大庄屋打田権四郎昌克宅跡」
と記されている。
打田家は江戸初期に近江国から野尻村に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)亀山藩領86ヶ村を中心にした
記録集「九々五集」を編纂した。
現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。


東海道を進むと三叉路があった。


”東海道関宿 右”の標識が。


標識に従って進む。


大きな家を過ぎると、


左手に布気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があった。
布気皇舘太神社は、延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」とあり、
神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。


参道を進む。
一の鳥居の先に並ぶ石燈籠


布気皇舘太神社拝殿
布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、
明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、現在の社名となった。


街道に戻って神辺簡易郵便局前を進むと、


左手に落針観音堂があった。
観音縁起によれば、通称「昼寝観音」と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、
奈良より背負われて各地を巡り、此の地に伝わったという。
また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を
決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をしていて会議に行かなかったので、
33ヶ所の寺に選ばれなかったという。


落針観音堂


地蔵堂


落針観音堂前の坂道を下る。


坂道を下っていくと、逆Y字路に出た。
Y字路中央に、安政六年(1859)の常夜燈が建っている。


旧街道を進むと、


旧東海道は左折するよう案内標識があった。


案内標識に従って跨線橋を渡って国道1号と関西本線を跨ぐ。


跨線橋の先に大岡寺畷(だいこうじなわて)の桜並木が現れた。
大岡寺畷は、鈴鹿川の北堤を約18丁(3.5km)に及ぶ東海道一の長縄手であった。
江戸時代は松並木であったが、明治になって枯松の跡へ桜を植えたが、
その桜もほとんど枯れてしまった。
芭蕉もこの長い畷を旅して
から風の 大岡寺縄手 吹き通し 連(つれ)もちからも みな坐頭なり」と詠んでいる。


大岡寺畷のいわれ
畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。  
大岡寺畷は、東海道が約2Kmにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、
東海道の畷道では随一とされています。
松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が
から風の 太岡寺縄手 吹き透し」と詠んでいます。
この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地である
との認識がありました。
かつては「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い 松〈待つ〉ばかり」(『亀山地方郷土誌』)
と謡われたほどの松並木で、太田南畝(蜀山人)が享和元年(1801)に江戸から大阪まで
の旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり、此の十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった寺である「六門山四王院太岡寺に由来すると伝えられます。


名阪国道と東名阪自動車道の高架が横切っている。


高架下には、歌川広重の東海道五十三次画が描かれている。
桑名宿 (七里渡口)


四日市宿 (三重川)


石薬師宿 (石薬師寺)


庄野宿 (白雨)


亀山宿 (雪晴)


関宿 (本陣早立)


坂之下宿 (筆捨山頂)


旧街道は、鈴鹿川に沿って続いていた。


左側を流れているのが鈴鹿川だ。


さらに旧街道を進み、


関西本線の小野踏切がある。


線路を横断すると国道1号に合流した。
左に曲がり、小野川歩道橋を渡る。


国道1号に入って直ぐ右手に旧道があり、道端に関宿の大きな看板があった。


関の「小萬のもたれ松」
小野ポケットパークの斜め向かいに関の「小萬のもたれ松」がある。
江戸中期、久留米藩士牧等左衛門の妻は夫の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿に止宿、
一女小萬を生んだ後病没。
小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修行し、見事仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれた
と伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。


関宿の東端の家並みが続く。


10時26分、東の追分に到着した。
東の追分は、伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、
古い鳥居を移築するのが習わしになっている。
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、
これが地名の由来ともなっている。


東の追分を過ぎると関宿の町並みが始まった。
慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で
47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられた。
江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど、約2kmにわたって続いている。


関宿を進む。


関宿を進む。


まちかど博物館があった。
何か資料でもと思って入ってみたが、館内には誰もいなかったので直ぐに出た。


関宿を進む。


関宿を進む。


御馳走場跡
宿場の役人が、関宿に出入りした身分の高い武家や公家に対し、衣服を改め宿場両端の
御馳走場まで出迎え・見送りを行った場所
享保十九年(1734)に造られた。
関宿には4カ所の御馳走場があった。


御馳走場跡には関宿かるたが提げられていた。
うち揃い 殿様迎える 御馳走場


芸妓置屋 開雲楼
関を代表する芸妓置店であった。
凝った意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残している。


その隣に鮮魚青果物商「遊快亭」が
地元のスーパーのようだが、かつては松鶴楼という芸妓置屋だった、とのこと。


百五銀行
百五銀行は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞
(景観づくり部門)を受賞している。


食事処
喫茶もやっているようだ。


関宿を進む。


関宿中町の町並み
関宿中町の町並みが続き、かつてこの中町に本陣や脇本陣があった。


関まちなみ資料館
この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、
亀山市関町の文化財・歴史資料を展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを
写真展示している。


鶴屋脇本陣
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、
平素は一般庶民も泊まれた。
鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣とも言った。
座敷の前に付いた千鳥破風がその格式を示している。


鶴屋脇本陣
関宿かるたが提げられていた。
泊るなら 鶴屋か玉屋 会津屋か


鶴屋脇本陣跡の隣に問屋場跡があり、山車庫が建っている。
「関の山」の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あった。
互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。


現在は4基の山車が4箇所に残っている。


川北本陣跡
山車庫の隣に川北本陣跡がある。
江戸時代初期から関で本陣を務めていた川北家の跡で、現在は、川北本陣跡碑が建っているのみだが、
本陣門は延命寺に移築されている、とのこと。


百六里庭
川北本陣跡の斜向かいに百六里庭・眺関亭がある。
関宿が江戸から百六里余りあることから名付けられた。
ここは関宿の町並みの中にある小公園で、中には東屋が設けられ、
休憩場所としては絶好の場所である。
通りに面した「眺関亭」からは、関宿の家並みが一望できる。


関宿地図で現在地を確認


伊藤本陣跡
伊藤本陣は川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たした。
現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に
道具置場に供する建物である。


伊藤本陣跡(逆方向から見たところ)


玉屋(旅籠玉や)
玉屋は「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの、
関宿を代表する大旅籠のひとつである。


旅人宿 石垣屋


「銘菓 関の戸」の深川屋(ふかわや)
徳川三代将軍・家光の時代(寛永年間)から続く創業370余年の餅菓子の老舗である。
屋根瓦のついた立派な看板だ。
看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっている。
旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと云われている、とのこと。


関郵便局


高札場跡
関郵便局前に、復元された高札場跡がある。
関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した場所にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、
枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付替えなどは亀山藩が行っていた。
その内容は、生活に関わる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった
幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などであった。
関郵便局の敷地は、天正二十年(1592)徳川家康が休息したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、
陣屋・役人の詰所などに使用された。


関宿を進む。


江戸時代より街道の旅人に親しまれてきたと云われる、関宿名物・志ら玉
1個90円(税込)とのこと。


地蔵院
天平十三年(741)、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる、日本最古の地蔵菩薩。


地蔵院の鐘楼
明治天皇行在所の碑も立っている。


地蔵院の向かいに会津屋がある。
会津屋は、関宿を代表する旅籠の一つであり、もとは山田屋と称し、小萬が育ったことで知られている。


関宿を進み、西の追分を目指す。
会津屋の先は新所と呼ばれる町並みで、江戸時代の特産物として火縄があり、
新所を中心に数十軒の火縄屋があったという。
火縄は鉄砲に用いたため大名の御用があったが、道中の旅人が煙草などに使うために
購入したため、大いに繁盛した、そうである。


西の追分を目指す。


古い家


西の追分を目指す。


観音院
新所の家並みを見ながら進むと、右手に天台真盛宗の関西山観音院がある。
観音院は、古くは福聚寺といい、嵯峨天皇の御代(820)に開創したと言われ、
土地の豪族関氏の祈願所として栄えた。
その後、江戸時代に入り寛文五年(1665)この地にお堂を建立し関西山観音院と称した。


坂道を下ると、西の追分である。


西の追分 休憩施設とあったが、扉は閉まっていた。
(開ければ開いたのかもしれない)


11時34分、西の追分に到着
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78㎞)、
大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至る。
この先で国道1号に合流する。


東海道五十三次 関宿 本陣早立ちの画


裏面には鈴鹿峠越えの馬子唄が書かれていた。
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
(以下略)


西の追分から引き返し、JR関駅へ向かう。
しばらく来た道(関宿)を引き返す。


会津屋、地蔵院辺り


「銘菓 関の戸」の深川屋辺り


関宿を引き返す。


百五銀行の手前の十字路を右折すると、関西本線のJR関駅方面だ。


しばらく進むと、関駅が見えて来た


12時9分、関駅に到着した。
11時59分発の亀山行きは10分前に出発した後だった。
次の亀山行きは1時間後の12時59分である。


駅の売店があった。
先ずはコーヒー(300円)を頼んだ。


巻き寿司(1本450円)は直ぐに取り寄せることが出来ると云うので頼んだ。
ものの数分で巻き寿司が届いた。
お茶は駅売店のおばさんがサービスに煎れてくれた。


12時59分発の列車に乗って1つ先の亀山駅へ。


亀山駅で13時24分発の名古屋行に乗り換え、名古屋駅からは15時26分発の
ひかり524号で東京・品川に向かって帰路に就いた。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の2日目(亀山宿から関宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、19,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

2019年05月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月19日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第6回(1日目)は、庄野宿(JR加佐登駅)~亀山宿(JR亀山駅)である。

東京駅7時33分発の新大阪行きひかり503号は、定刻通り9時17分に名古屋駅に到着した。


出発地の加佐登駅に向かうため、先ず名古屋駅から関西線四日市行き快速に乗る。


四日市駅から後から来た各駅停車の亀山行きに乗り替え、


11時2分、この日のスタート地加佐登駅に到着した。
家を出てから5時間半が経過していた。


11時3分、加佐登駅を出発!


加佐登駅前を亀山方面へ進み、


踏切を渡って、


500mほど進むと、庄野町西交差点があり、11時11分、東海道庄野宿の入口に到着した。


東海道庄野宿の碑
庄野宿は東海道45番目の宿場である。


安藤広重が描く「東海道五十三次」の風景版画の傑作といわれる、
「庄野の白雨」が知られている。


旧街道を進む。


庄野宿資料館
庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、
主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館した。
入館料は無料だが、内部の写真撮影は遠慮して欲しいとのこと。
内部は言うに及ばず、実物大の高札や減免陳情書控え、焼き米など一切撮らせてもらえなかった。


ただ、中庭の撮影だけはOKだった。
(中庭だけ撮ってもしようがないのだが・・・)


庄野宿資料館の直ぐ先の庄野町集会所に、庄野宿本陣跡の標柱が建てられていた。
”距津市元標九里拾九町”とあるのは、津までの距離(38㎞)と思われる。


庄野町集会所の左隣に高札場跡の立札が。
立札が建っている家が庄野宿脇本陣跡である。


高札場跡の説明板
庄野宿資料館には人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示してある、とある。
(庄野宿資料館が撮影禁止で紹介できないのが残念で仕方がない)


郷会所跡


郷会所は助郷の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。
江戸時代も後期になると助郷人馬の割当が多くなり、該当の村々の疲弊が重なり、
減免陳情のための会合が繰り返された。
庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている、とある。


延喜式内川俣神社


川俣神社社殿


神社境内の奥に県指定天然記念物スダジイの巨木がある。


高さ11m、幹周り5m、樹齢300年と云われる古木である。


庄野宿の提灯を提げた連子格子の古い家が、街道の面影を偲ばせてくれる。


比較的新しい東海道庄野宿道標の右側を進む。
この辺りが庄野宿の西口(京口)になる。


11時44分、国道1号に合流した。


合流点の国道1号に面して上手い具合にコンビニがあったので、おにぎりと菓子パンを買い、


地下通路を潜って国道1号の反対側へ。


県道637号の高架橋下を潜り、


旧街道は左に折れている。
汲川原東バス停を通過すると、


平野道と書かれた道標があった。
いぼとり地蔵 この奥50mとある。


旧街道を進んで行くと、


右側に従是東神戸領と書かれた領界石が建っていた。


反対側にも従是東神戸領の碑と女人堤防の碑が。


従是東神戸領の領界石


女人堤防の碑


女人堤防碑の説明
この辺りは安楽川と鈴鹿川の落ち合う処で、度々水害があり、人々は悩まされていた為、
文政十二年(1829)頃、築堤を神戸藩に申し出たが許可が出なかった。
そのため、女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろうと、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で
6年の歳月をかけて堤防を築き、補強したところである。
いったん捕らえられたものの、その後許され労をねぎらわれた。
(赤色で示されているのが、女人堤防)


今も女人堤防の一部が道路の両側に残っている。


12時15日分、旧街道を進むと式内川俣神社があった。


川俣神社社殿


お昼も過ぎていたので、境内の大木の下でコンビニで買ったおにぎりを食べた。


川俣神社には中富田一里塚跡碑がある。
江戸日本橋から数えて103里目の一里塚跡である。


中富田一里塚の説明
中富田村は、亀山領の東端にあたり、隣の神部領との境界を接する村である。
享和三年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の
東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。
大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成十三年十月 中富田一里塚保存会


一里塚碑の隣に従是西亀山領の領界石が建てられていた。


旧街道を進む。


富光山常念寺
天台真盛宗総本山西教寺の末寺である。


常念寺は、承応年間(1652-54)智詮和尚の開基と云われ、かつては別の場所にあったが、
安政元年(1818)の大地震により倒壊し、同じ村内にあった平建寺を買収して現在地に移転した。
本尊阿弥陀如来を祀る常念寺本堂


境内には、平建寺の本尊だった延命地蔵尊を祀った地蔵堂などがある。
真言宗白波山平建寺本尊延命地蔵尊の標柱が建っている。


延命地蔵堂の直ぐ近くの小さな地蔵堂にお地蔵さまが祀られていた。


十字路右角に道標らしき碑が建っていた。


ひろせ道と刻まれている。


安楽川の堤防手前に西富田の川俣神社があった。


庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも「式内川俣神社」の社標があり、
延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。


安楽川に架かる和泉橋を渡る。


安楽川
江戸時代、平水時は土橋、出水時は徒歩渡しだった、そうである。


和泉橋を渡って左へ進む。


13時ちょうど、和泉町公民館前を通過


旧街道を進む。


街道左手に小さな地蔵堂らしきお堂があり、


中には観音菩薩と思われる端正な顔立ちの石仏が祀られていた。


連子格子の趣のある古い家を過ぎ、


小田坂の下バス停を通過すると、


13時9分、極楽山地福寺に到着した。


極楽山地福寺には、常夜燈や観音堂、明治天皇御小休所石碑がある。
その他にも地蔵像や、


百度石なども。


13時21分、関西線の踏切を渡る。


13時32分、左手に井田川駅舎を見ながら通過。


国道1号を川合歩道橋で横断すると、


旧街道は少し先を左に折れて、法悦題目塔の方向へ。


旧街道を進む。


川合椋川橋を渡る。
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、
亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、
理左衛門橋と呼ばれた。


椋川


国道1号亀山BPを潜る。


ひょうたんがびっしり


法悦題目塔
東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」と呼ばれている。
総高2.5mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、


そして背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。


和田の道標
「東海道分間延絵図」には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、
若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。
市内に残る道標の中で最も古い。


旧街道を進む。


石上寺
右手段上に高野山真言宗の石上寺(せきじょうじ)がある。
正面に遊歌詠浄土と刻まれた石塔が建てられている。


石上寺本堂
石上寺は、延暦十五年(796)大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍」により
勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。
鎌倉時代には将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け、広大な伽藍寺領を誇ったが、
織田信長の伊勢侵攻による兵火で伽藍等を失い、衰微したと伝えられる。


東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂


弘法大師像


石段を上ると、


仁王護国般若経石塚が。


三重四国八十八箇所霊場の石仏の間を奥へ進むと、
鐘楼と社殿が見えた。


熊野三社を祀る拝殿、とのこと。


14時29分、和田の一里塚に到着した。
江戸日本橋から数えて104里目の一里塚である。
この一里塚は、亀山市内に所在する野村一里塚と共に慶長九年(1604)の幕府の命により
亀山城主であった関一政が築造したものである。


かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。
現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に、消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。


旧街道を進む。


亀山ローソク前バス停を通過すると、


左手に亀山ローソクの本社工場があった。


道路の分岐点に鳥居があった。


能褒野神社(のぼのじんじゃ)
明治時代に創建された神社で、旧社格は県社。
日本武尊を主祭神とし、建見児王および弟橘姫命を配祀する、とのこと。


鳥居を潜って150mほど進んでも神社らしき建物は何も見えなかった。
これ以上進むのは諦めて、ここで引き返した。
(能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあるそうで、引き返して正解だった)


露心庵跡
能褒野神社鳥居の直ぐ先に露心庵跡がある。


露心庵跡の説明
天正十二年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。
この合戦の戦死者を城下東端に2つの塚を築き葬ったという。
関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。
この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
明治に至り廃寺となった。
この庵から西が亀山宿となる。
(亀山市教育委員会)


宿場の面影を残した古い家が続く。


巡見道
十字路角に東屋のある本町広場があり、傍らに巡見道解説が建っている。
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。
巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(1633)のことで、
その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの
実情調査を行う目的で実施された。


巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、
伊勢国を通過し中山道とつながる。
(左が東海道亀山宿方面になる)


旧東海道を進む。


次第に古い家が多くなってきた。


連子格子の旧家が左右に建っている。


これらの家には、「はまだや跡」 「みかわや跡」 「きりや跡」 「まつばや跡」 「なべや跡」
「おけや跡」など、かつての屋号が掛けられている。


江戸口門跡
県道566号線に突き当たると、左角に江戸口門跡の解説があった。
解説によると、江戸口門は延宝元年(1673)亀山城主板倉重常によって築かれ、
東西120m、南北70mで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、
東端には平櫓が一基築かれていた。
曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。
この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門
と位置づけることができる。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路に
その名残をとどめている。
(亀山市教育委員会)


江戸口門跡を直角に右に曲がると東町商店街入口になる。


東町商店街を進む。


東町商店街を進む。


東町商店街の端の江ヶ室交番前に東海道の標識があった。
旧東海道はここを左折することになるが、それは明日にして、
この日は亀山城跡へ向かうことにして、真っ直ぐ進むことにした。


亀山西小学校を通過。
なかなか立派な建物である。


続いて亀山市役所前を通過すると、


15時36分、亀山城跡に到着した。
伊勢亀山城は、文永二年(1265)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により
関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。
天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、『九々五集』には
本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されている。
明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と
石垣・土塁・塀の一部が残されているに過ぎない。


亀山城址碑


本丸多門櫓と城郭石垣
多門櫓は、原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定されている。


本丸御殿跡から見た多門櫓


明治天皇行在所
解説によると、
明治天皇は、明治十三年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)
を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。
この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたものです。
建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、
同14年三重県史跡に指定されました。
同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。
なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。
何と4度も移転している。


亀山神社
亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から
石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりとされる。


大久保神官家棟門
江戸時代に南埼権現社の神官であった大久保家の邸宅門だった。


亀山神社拝殿
亀山宿に無事到着したことを報告!


宝篋印塔基礎部
正慶元年(1332)の銘があり、市内の石造物としては最古である。


楠門跡の碑前を通り、


坂道を下って行くと、


関見櫓跡の碑があった。
関見櫓は、西出丸の二重櫓で亀山城西端の関町方面を望見する位置にあることから、
関見櫓と呼ばれた。
(亀山市教育委員会)


本宗寺前を通り、亀山駅へ向かうため、旧東海道へ。


亀山城西之丸外堀跡


西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同十六年から
3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。


亀山城西之丸外堀跡の先に亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡が残る。
現在屋敷内に残されている長屋門は江戸時代中期に建てられたもので、三重県内に残る
数少ない武家屋敷の遺構として貴重なことから昭和25年に亀山市指定文化財に指定されている。


石川家家老加藤家屋敷
一般公開されており、開館日は土曜日・日曜日・祝日で、入場は無料となっている。


道が分岐しており、


左方向に亀山城の多門櫓が見えた。


右に曲がり、亀山駅を目指すことにした。


左前方にこの日の宿泊先APA HOTELが見える。


亀山駅へ。


16時14分、亀山駅に到着。
電車の時刻表などを確認し、


APA HOTELへ。


APA HOTELの近くには「はま寿司」や、


ラーメン「えびすや」がある。
夕食に困ることはなさそうだ。


APA HOTELに隣接してコンビニもある。
これは助かる。


16時56分、APA HOTELに到着した。

一息入れて、「はま寿司」、ラーメン「えびすや」へ向かった。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の1日目(庄野宿から亀山宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、26,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

2018年10月29日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月29日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第5回(2日目)は、四日市宿(近鉄四日市駅)~
石薬師宿(JR加佐登駅)を歩くことにする。

ホテルの食堂
7時頃だったがそれほど混んではいなかった。


朝食は無料である。
メニューは簡単なものだったが、この日の朝食は駅周辺のファミレスのモーニングあるいは
コンビニのおにぎりを想定していたので、助かった。


7時44分、三交インを出発!


近鉄四日市駅のガード下を抜けて国道1号方面へ。


スワマエ商店街に東海道の垂れ幕が下がっていた。


スワマエ商店街のアーケードを進むと、


中央緑地帯のある広い中央通りに突き当たった。


中央通りを横断して旧東海道へと進んだが、朝の時間帯で車も少なかったためか、
横断歩道を無視して渡る人も見かけた。


佛法山 宗顕精舎 左横面に丹羽文雄生誕之地と刻まれた石柱が建っていた。
”哭壁””蓮如”を残した作家丹羽文雄は、宗顕寺で生まれ少年期を過ごした、そうである。


街道沿いの旧い家
連子格子が美しい。


和菓子屋「東京堂」前を通過
主人と思しき人が店の前の道路を箒で掃いていた。


近鉄名古屋線の高架橋(諏訪赤堀線架道橋)下を進む。


街道沿いの旧い家
大きな家である。


旧東海道は狭いのだが、意外に車が多い。
車がすれ違う度にどちらかが道を譲るのがルールのようだ。


落合川を渡る。


東海道の標識
案内板によると現在、四日市宿と日永の中間地点を歩いていることになる。
もうすぐ鹿化(かばけ)橋だ。


鹿化橋


鹿化川


鹿化川を渡ると道路は大きく右に曲がって、一段と狭くなった。
それにしても車が多い。
歩き難いことこの上ない。


大宮神明社
永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。


大宮神明社拝殿
400年ほど前に炎上し、当時出来つつあった東海道に遷ってきたのがこの社である。


垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際、
この社に一時お留まりになったという伝えもある。


境内に皇大神宮遙拝所の碑が建てられていた。


風格のある家である。
ほんの一瞬だが当時の街道を歩いている気分にさせてくれる。


天白川に架かる天白橋を渡る。


天白川


広い通りを横断して進むと、


8時53分、日永神社に到着した。
日永神社の創祀は鎌倉時代建仁年間とされる。


鳥居脇に石柱と追分道標の説明板が。
この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍に立てられていた道標である。
この道標の正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」
そして裏面には「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。


この道標が立てられた明暦二年(1656)といえば、神宮遙拝鳥居が建立された時よりも
約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。


日永神社の参道を進む。


日永神社拝殿
昔、南神明社と言われており、主祭神として天照大御神を祀る。
日永神社という単称が許されたのは明治40年からである。


大宮神明社にあったものと同じような皇大神宮遙拝所の碑があった。


日永神社の直ぐ隣に建つ長命山薬師堂
鎌倉時代中期の制作と云われる檜材による寄せ木造りの薬師如来座像が安置されており、
市指定有形文化財(彫刻)となっている。
(四日市市教育委員会)
戸は閉じられており、内部は見えなかった。


街道沿いの旧い家


東海道総合案内図があった。
現在地は、四日市あすなろう鉄道内部線の南日永駅を少し過ぎた辺りだ。


日永一里塚跡
日本橋から100番目の一里塚である。
(四日市あすなろう鉄道内部線泊駅入口辺りで、この一里塚碑を見落としたことに気付き、
戻って来て撮ったという次第)


名残の松
富田の”かわらずの松”と並ぶ唯一残った松である。
こちらは、”東海道名残りの一本松”と呼ばれている。


9時22分、四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線泊駅入口を通過しようとした際、日永一里塚跡を
見落としていたことに気が付き、日永一里塚跡まで戻ることにした。
0.8Kmほど行き過ぎていたため、往復では約1.6Kmとなり、25分ほどタイムロスしてしまった。


東海道日永郷土資料館
何か街道歩きに参考になる資料でもと思って営業日に目をやると、


何と、土日と水曜日以外は休館日となっていた。
残念!


9時49分、国道1号に合流し、


9時52分、日永の追分に到着した。
「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。


日永の追分説明板


追分道標
左いせ本宮道 右京大阪道と刻まれている。


神宮遙拝御鳥居(伊勢神宮の二の鳥居)は、安永三年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛
と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遙拝するようにと思って立てたものである。
道路が拡幅される前は街道を跨いで立っていた。
鳥居は皇大神宮の遷宮に合せて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。
今の鳥居は、昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。


二の鳥居の傍に神宮遙拝御鳥居碑が建てられていた。


旧東海道を進む。


四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線追分駅を通過


追分駅前の旧東海道の道標


旧東海道を進む。
裏通りといった感じで、車は少なく歩きやすかった。


大蓮寺
当山の縁起は、当町南面に土岐代康氏が居城し、その跡に八幡宮を勧請した。
祈願所を米田山珠寳法鎮寺と号した、とのこと。


大蓮寺本堂


小許曽神社(おごそじんじゃ)入口


細い参道を進んで行くと鳥居があり、


その先に小許曽神社拝殿があった。
昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の御代延喜五年(905)式内神社と、
神名帳に記載されているところから、伊勢の国の235の大・中・小社の一小社として1100年程の
歴史を有する神社である。


小許曽神社
厳かな感じがする。


旧街道は大きく右に曲がっていた。


願誓寺前を通過し、


道なりに進む。


山中胃腸科病院前の県道407号小古曽交差点に旧東海道道標があった。


県道407号を横断したところに東海道と刻まれた石柱があった。
こういう道標を見つけると安心する。


しばらく進み、見えて来たのは内部(うつべ)橋である。


内部川を渡る。


内部川を渡って石段を降り、今渡って来た内部橋を潜って道路反対側へ。


道路反対側の直ぐ先の石段を上がり、堀に架かる橋を渡ると、
MAX VALUの看板が見えた。


MAX VALUの前で道は二つに分かれている。
旧東海道は左側の道で、右は国道1号である。


ここで、休憩のためMAX VALUに立ち寄り、昼の弁当と果物などを買った。
この日は朝から腰の調子が思わしくない。
昨日歩き過ぎたせいかもしれない。
背中の腰の辺りにいつも持ち歩いているバンテリンを塗って、様子を見ることにした。


旧東海道を進む。


右に大きく曲がり、


道なりに進んで左に折れると、小さな金刀比羅宮が鎮座していた。


金刀比羅宮の前の急坂の道を上って行くと、


道の左側に何かの碑が。


史跡杖衝坂の碑である。
杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所。
日本武尊が東征の帰途、大変疲れ「基地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、
御杖を衝かして、稍に歩みましき、故基地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、
その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」により、
その名が世に知られることになった。


井戸と説明板
杖衝坂にある二つの井戸は、坂の上手の井戸を「弘法の井戸」、下手のものを「大日の井戸」
といい、前者は弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ
清水が湧き出た井戸であると伝えられている。
後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(仏に手向ける水)を汲み上げた井戸と伝承されている。
写真は「弘法の井戸」
(芭蕉の句碑の左側に「大日の井戸」があったようだが、見落としてしまった)


芭蕉の句碑
歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな
貞享四年(1687)松尾芭蕉は紀行”笈の小文”の道中、伊賀へ向かう途次に
杖衝坂を馬で登っていたところ、落馬の憂き目にあってこの句を詠んだ。


さらに急坂を上る。
厳しい勾配の坂道のため、脚は疲れるし息も上がる。


黒塗りの土蔵の先に、


血塚社があった。


日本武尊御血塚社
日本武尊命が傷ついた足から流れる血を封じた場所と伝えられている。


采女(うねめ)の一里塚跡の説明板
日本橋から101番目の一里塚。
采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした土に木柱が立っていたが、昭和30年から40年代にかけて行われた
国道1号線の拡幅工事で姿を消した。
その後昭和62年(1987)「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元采女町の取り組みに
地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側、約100m西のガソリンスタンド脇に
石碑が建てられている。


少し進むと、旧東海道は国道1号と合流した。


旧東海道の道標


国道1号反対側のガソリンスタンド脇に采女一里塚跡の碑があった。


しばらく国道1号を進むと、


12時2分、鈴鹿市に入った。


国道1号から分かれて旧東海道を進むと、


延命地蔵尊(右)と単直庵(左)という小さなお堂が並んで建っていた。


旧東海道沿いにある旧い家


旧東海道を進む。


国道1号を横断し、旧東海道を進む。


また道路が二つに分かれていた。


12時21分、東海道の標識に従って右へ進むと、直ぐ左手に石薬師宿の碑が現れた。
石薬師宿は、江戸から数えて44番目の宿である。


石薬師宿入口に北町の地蔵堂がある。
延命地蔵尊で、家内安全・交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれる。
江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために建てられ、
宿場を往来する人々の信仰を集めた。


地蔵堂の前に小公園と東屋があったので、


弁当タイムにした。
MAX VALUで買った弁当である。


これより南 石薬師宿 信綱かるた道
1.8Kmの間に信綱かるたの短歌50首を掲示している、とある。


歩き出すと直ぐに佐々木信綱の短歌が掲示されていた。
湯の宿の つんつるてんの 貸し浴衣 谷の夜風が 身にしみるなり


佐々木信綱の和歌
氷りたる 水田にうつる 枯木立 心の影と 寂しうぞ見る


旧い家があり、


その軒先にも佐々木信綱の和歌が掲示されていた。
一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり 十歳作とある。


12時50分、大木神社鳥居前を通過
大木神社は石薬師の氏神様で、椎の森に囲まれた拝殿がある。


小沢本陣跡
歴史を感じさせる建物である。


小沢本陣跡の説明
東海道石薬師宿は元和二年(1616)、幕命によって設置された。
この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。
当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。
小澤家が本陣を勤めていた。
小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」とも言われていたという。
小澤家には当時の文書が多く残されており、元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の
名も見える。
(石薬師地区明るいまちづくり推進協議会)


小沢本陣跡に掲示されている佐々木信綱の和歌
障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく 五歳作とある。


天野記念館
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ(株)の創業者である。


12時55分、鈴鹿市立石薬師小学校を通過


石薬師文庫
石薬師小学校に隣接している。
佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したもので、現在も図書館として
ボランティアにより運営されている。


佐々木信綱資料館(記念館)
明治・大正・昭和にわたり、歌人・歌学者として万葉集研究の最高峰を究めた佐々木信綱博士
の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士誕生の
地に建設された。
著作や遺品などが収蔵・展示されている。
♪卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて♪ 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ♪
の作詞者として知られる。


資料館の隣に信綱の生家がある。


県道115号を横断したところに信綱の孫にあたる佐々木幸綱の歌碑と
しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人 幸綱


信綱の父佐々木弘綱翁の記念碑が建てられていた。


真宗高田派の浄福寺
開基(創建)は室町時代の永正年中(1504~1520)と伝えられている。
佐々木家累代の菩提寺である。


旧東海道沿いの旧い家


国道1号を跨ぐ瑠璃光橋を渡る。


瑠璃光橋の下を国道1号が走っている。
(写真は、加佐登方面)


瑠璃光橋を渡ると右手に石薬師寺の大きな看板があった。


石薬師寺の裏の山門を入る。


高富山石薬師寺の薬師如来と薬師堂
聖武天皇の時代の神亀三年(726)、泰澄(たいちょう)・空海(弘法大師)の開山。
弘仁年間(810~823)の開創と伝えられる。
東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したという。
本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で薬師如来を刻み込んだと伝えられ、
厄除け信仰を集めている。


弘法大師像


中門を抜け


正門を出て石薬師寺を後にする。


旧東海道を進む。


旧東海道沿いの旧い家


緩やかな坂道を上って行くと、


鈴鹿川の支流蒲川に架かる蒲川橋があった。


蒲川を渡ると、


13時21分、左手に史跡 石薬師の一里塚碑に到着した。
江戸より102番目の一里塚である。
信長記には、天文九年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、
その上に松と榎を植えさせたという。
くたびれた やつが見つける 一里塚」(江戸の川柳)


信綱かるた道はここで終わっていた。
生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を


次の宿場は庄野宿となる。


旧東海道は、JR関西本線の線路を潜って右に折れ、


JR関西本線に沿って続いている。


国道1号とJR関西本線が交差している。


今度は国道1号に沿って進むと、


旧東海道の道しるべがあり、


国道1号を潜る。


国道1号を潜って道なりに進み、小さな川を渡り、


県道27号の下を通り抜けると、


国道1号に合流した。


しばらく国道1号を進む。


国道1号から分れて右側の道路を進み、


JR関西本線の踏切を渡ると、


左手に加佐登駅が見えた。


加佐登駅へ。


13時49分、加佐登駅に到着した。


時刻表を見ると、次の四日市・名古屋方面行きは14時34分だ。
あと40分ほどここで待つしかない。


14時34分、JR関西本線名古屋行きに乗り、


名古屋駅には15時35分に到着した。
15時35分発のひかり号が出た直後だった。
次のひかり号は16時26分発である。
のぞみ号は本数は多いが、大人の休日倶楽部では、指定券を別に購入しなければ
のぞみ号には乗れない。
ひかり号を待つ間、数本ののぞみ号を見送った。


16時26分発のひかり526号で品川駅に向かった。

品川駅には18時3分に到着。
通勤時間帯だったが、18時24分発の常磐線には何とか座れて一安心。

第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の2日目(四日市宿から石薬師宿)を歩き終わった。
次回(第Ⅲステージ第6回目)は、石薬師宿(JR加佐登駅)から関宿(JR関駅)を予定している。

この日の万歩計は、28,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

2018年10月28日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月28日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第5回(1日目)は、桑名宿(JR桑名駅)~四日市宿(近鉄四日市駅)である。

東京駅の「膳まい」でいつもの「米八」の駅弁を買い、


東京駅7時3分発の岡山行「ひかり461号」に乗車。


この日は富士山がはっきりと見えた。
久しぶりに雲一つなく晴れあがった富士山を目にした。


9時7分、定刻通り名古屋駅に到着し、


駆け足で関西本線乗り場へ向かい、9時10分発の四日市行にぎりぎり間に合った。


10時5分、この日のスタート地点JR桑名駅に到着した。


国道1号を少し戻る形で七里の渡しへ。


諸戸氏庭園の裏を通り、七里の渡しへ向かう。


諸戸氏庭園のレンガ蔵
米蔵として使用されたもので、本来は5棟あったが、昭和20年(1945)に火災で2棟を失った。


七里の渡し公園
昨年の11月3日に一部がオープンしたばかり、とのこと。


「七里の渡し」を水と石で表現した歴史公園だそうである。


住吉神社
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、
木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきた。


ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていた。
これらの人たちによって、航海の安全を祈り、正徳五年(1715)に摂津の国「住吉大社」より
勧請してこの住吉神社が建立された。
(現地説明板)


山口誓子の句碑
水神に 守られ冬も 大河なり 誓子


大塚本陣跡
桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。
皇族・文人・政府要人の滞在先になっていた他、“歌行燈”(泉鏡花)の舞台になっている、とのこと。
建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として現在も営業している。


歌行燈(うたあんどん)句碑
「船津屋」の板塀をくり抜いた形で石碑が置かれている。
船津屋に宿泊しながら”歌行燈”の戯曲を書いた劇作家で俳人の久保田万太郎が、
船津屋の主人に求められて詠んだ句。
かわをそに 火をぬすまれて あけやすき 万
“歌行燈”には裏河岸から這い上がってきたカワウソが悪戯をするという噂話があり、
それを久保田万太郎が詠んだ、とのこと。


桑名宿脇本陣跡
脇本陣は桑名宿に4軒あった。そのうち最も格式の高いのが駿河屋だった。
現在は、料理旅館「山月」の一部となっている。


七里の渡し
桑名宿と宮宿の間は、江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里あることから、
”七里の渡し”と呼ばれた。


七里の渡しは、ちょうど伊勢国の東の入口に当るため、天明年間(1781~1789)に
伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられた。


七里の渡し付近
右端に蟠龍櫓が見える。


蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを、忠実に復元した蟠龍櫓。
かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すために
この櫓を象徴的に描いている。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことである。
龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。
蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。


蟠龍櫓から揖斐川を望む。


旧東海道の道標


旧東海道は、七里の渡しの伊勢神宮「一の鳥居」から西へと続いている。


料理屋
天丼・はまぐり・釜あげなどの”お品書き”の札が見える。
”その手はくわなの焼蛤”と云われるように、桑名といえば蛤が有名だ。
蛤の食べ方は、焼くのが最も良いとされている、そうだ。


春日神社の銅鳥居
寛文七年(1667)に七代桑名藩主松平定重が日本一の青銅鳥居の建立を願い完成した。
その後何度か倒壊したが再建され、今の鳥居は伊勢湾台風で倒壊したものを修復したもの。
(三重県指定有形文化財)
青銅製の鳥居は珍しい。


銅鳥居の左下に「しるべいし」と刻まれた石柱がある。
「しるべいし」は、「迷い児石」とも云われ、人の大勢集まる所に立てられた。
自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」にこどもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、
心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼る、というもの。
(桑名市教育委員会)


小さな公園があった。
”歴史を語る公園”は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして
造られている。


正面に見える石垣は、桑名城城壁の一部である。


積み石の状態は、乱積で野面接・打込接の二つの方法で積まれている。
今は石垣の上は普通の民家だが、昔は城だった。


日本橋を渡って公園内を進むと、


富士山だ!


さらに公園内を進む。


公園の先は三条大橋(左側の橋)で終わっていた。
何とか三条大橋まで行きたいものであるが、今年中は無理かもしれない。


歴史を語る公園を後にして旧東海道へ。


桑名市博物館脇に建つ道標
江戸時代、旧東海道筋に建っていた道標(場所不詳)をこの地に移した、とのこと
右京いせ道、左江戸道 と彫られている。


旧東海道


吉津屋見附跡碑
江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、
吉津屋見附と言った。
のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。
ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。
この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。


旧東海道
曲がり角にはこのような案内標柱があるので、心強い。


泡洲崎八満社
江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、
この付近一帯を泡洲崎と称し、當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。


慶長年中(1596~1614年)町割の時、旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守が
神主として奉仕されていた。
(以下略)


光徳寺本堂
古くは泡洲崎念仏道場と称した。
明治七年(1874)進善学校が当寺で開かれた。


桑名船場町の商人で、万古焼の創始者沼波弄山(ぬなみろうざん 1718~1777)の顕彰碑がある。


十念寺
境内に七福神を祭り、11月23日に七福神祭りが行われる。


十念寺山門


十念寺本堂
浄土宗の寺院で仏光山九品院と号す。
元は朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあり。
室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移る。
建物は戦災で焼失したが、祭礼図屏風(江戸初期)・当麻曼荼羅図(室町初期)・
仏涅槃図(室町時代)などの寺宝は残る。(以下略)
(桑名市教育委員会)


七福神を祀る赤い御堂と


整然と並べられた無数の墓石が印象的である。


旧東海道は、一時的に県道613号に合流するが、このあと直ぐに右に折れる。


天武天皇社


天武天皇社拝殿
壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(後の天武天皇)が桑名に駐泊されたことに因み、建立された神社。
天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。


一目連神社
多度大社の別宮一目連神社は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀る。
多度大社の本宮には天津彦根命が祀られているが、一目連神社の祭神は天目一箇命、
別名を”一目連”という妖怪、だそうである。


一目連は暴風神・雷雨神としても知られ、一目龍神、多度権現とも呼ばれている。
凄まじい風を引き起こして、人を吹き飛ばし、民家をも壊す神として庶民の間では信じられ、
恐れられていた。
東海地方では突然暴風が吹くことを”一目連”と呼んでいたという。


国道1号を横断し、


旧東海道(新地)を進むと、


突当り右角に火の見櫓があり、


矢田立場跡の解説板があった。
江戸時代の矢田町は、東海道の立場であった。
久波奈名所図会には、”此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無き事なし”とある。
福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。
現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。
福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、
宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。
また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
(桑名市・桑名市教育委員会 )


旧東海道


了順寺前を通過。
山門は桑名城のものを移築したと伝えられている。


江場松原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、江場から安永にかけての
192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が立ち並び、
一本の松も残っていない。


常南神社
神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり、
改築の慣例になっている、とのこと。


国道258号線


地下道を通って反対側へ。


伊勢両宮常夜燈
この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込め、
桑名・岐阜の材木商によって寄進された。


江戸時代はこの辺りに「町屋川橋」が架けられ、また舟遊びの船着き場もあったので、
大いに賑わったという。


伊勢両宮常夜燈の前に建っていた東海道の標識に従って真直ぐ進むと、


その先は安永第一公園という小さな公園があり、行き止りになっていた。


公園に町屋橋についての説明があった。
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、
また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋が架かっていた。
寛永十二年(1635)に初めて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、
一本の板橋であったり、しばしば変わっている。
下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。
昭和八年(1933)、国道1号線の橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。


伊勢両宮常夜燈まで戻って、現在の町屋橋へ。


町屋橋の袂の町屋橋広場の一角に猫の額ほどの小公園があった。


小公園で弁当タイムにした。
前回と同じ「米八弁当」である。


弁当タイムが終わり、町屋橋を渡る。


員弁(いなべ)川


員弁川を渡って右に折れると、旧東海道の標識が案内してくれた。
かつての町屋橋はこの辺りに架かっていたものと思われる。


旧東海道を進む。


家の角に一里塚跡の碑があった。


一里塚跡碑には何も説明がなかったが、「縄生一里塚跡」と思われる。
日本橋から97番目の一里塚である。


近鉄名古屋線伊勢朝日駅の踏切を渡り、


TOSHIBA三重工場前を通過


旧東海道標識


浄泉坊
浄土真宗本願寺派の寺院


浄泉坊本堂
慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことに始まる。


西光寺
真宗大谷派、朝明山と号する。
当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釈念正
本願寺釈実如(第九世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享二年(1685)
大谷派に転じ現在に至る、とある。


旧東海道は、大きく左に折れ、


右に曲がって進む。


伊勢湾岸自動車道と国道1号北勢BP下を通過


朝明川に架かる朝明橋を渡ると、


小さな広場があった。


力石
この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶屋「橋南のつる」の主
大久保つるが後世に残したものである。
石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100Kg)と想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に
保存されているものである。
東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を
持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。
又この辺りの地名を「茶屋の前」と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。


松寺の立場跡
松寺の立場跡には昔は大きな榎の木があり、街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして
杖を立て一休みした所を言う。
公の休憩所のことで茶屋などがあり、立場茶屋とよんでいた。
当時、桑名宿と四日市宿の間には五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。
(大矢知歴史研究会)


鏡ヶ池跡
聖武天皇が行幸の際に松原を通られると、一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。
ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって
天皇はこの田村家に宿をとられたという。
明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、
鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。
以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになった、と云われる。


線路が立体交差しているのは珍しい。
三岐鉄道とJR関西本線の立体交差である。
踏切の幅が狭くて歩行者は渡り難いので、注意が必要だ。


振り返ると、線路を跨ぐ鉄橋を貨物列車が通っていった。


道なりに進み、また線路を潜ると、


一里塚橋があり、


その右手に富田の一里塚跡の碑があった。
日本橋から98番目の一里塚である。


富田の一里塚跡碑の少し先に八幡神社址があった。


八幡神社址にも力石が。
「力石」は、鎌倉の頃より、江戸・明治・大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。
「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力
そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。
「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、
力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を
深めたのであろう。
しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に
放置される存在となってしまった。
昔日の人々のこの思いを引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
重量およそ百キログラム
「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
(冨田地区文化財保存会)


行啓記念道路碑
この碑は、大正天皇が皇太子時代に、この道路を通られたことを記念して建てられたもの。


14時25分、突当りになって、ここで道に迷ってしまった。
コンビニなどで道を尋ねたが、はっきりしない。
説明を受けてもさっぱり分からない。


感を頼りにいったん国道1号へ出て、常照寺を目指した。


14時59分、常照寺を見つけた。
道を間違って30分以上タイムロスしたが、常照寺を見つけることができて一安堵である。
常照寺は、天文七年(1538)釈法導によって開山された。


常照寺本堂
寛文年間(1661~1673)に天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来、400余年今日に至っている。
本堂は明治42年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。


本堂前に建つ親鸞上人像


常照寺の力石の由来
明治の中頃、この村にある二ヶ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。
また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。
茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。
石に三十二メと刻まれている。
左下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。


旧東海道の旧い家


茂福神社を通過し、県道64号の高架道下を通過すると、


八幡常夜灯があった。
米洗橋北に建っており、明治36年(1902)に建立されたものである。
この常夜灯は、堤防の改修や道路の拡幅の度に移設され、現在地に落ち着いたという。


八幡地蔵堂


地蔵堂内には八幡地蔵尊が安置されていた。


八幡神社跡
勧請年代は不詳であるが、江戸時代には一国一社の八幡神社として、皇国66拝の一つとして
名が聞こえていたといい、村名も神社に因んで八幡村となった。
明治の合祀令により、志氏神社に合祀され、旧社地には社名碑だけが残っている。


東海道と書かれた板の道標
このような道標がかなりの頻度で道の両側に現れるので、ありがたい。


しばらく進むと街道沿いに1本の松が。
江戸時代から唯一残った松で「かわらずの松」と呼ばれている。
昔は松並木が続いていたそうだが、道路の拡幅や松喰い虫に倒れ、今では日永にある1本と、
この1本だけになった、とのこと。
”かわらず”とは、その昔ここ羽津の地名が川原須と呼ばれており、その地名を取って命名した。


志氐(しで)神社前を通過し、


道なりに進むと、


国道1号に合流した。


海蔵川に架かる海蔵橋を渡る。


海蔵川


海蔵橋を渡った後、東海道の案内図を見ると、三ツ谷一里塚の碑を通り越していた。
ここは戻ることにして、


海蔵橋を戻る。


海蔵橋を渡り、堤防の桜並木を右に折れて20mほどの所に、


三ツ谷一里塚碑があった。
東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。
しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。


三ツ谷一里塚碑を確認して一安堵し、再度海蔵川を渡って旧東海道を進む。


三滝橋
四日市市街の中央部を流れる三滝川に架かる橋である。
江戸期は東海道を往還する人馬で賑う土橋だったが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、
大正13年、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改められた。


三滝川を渡ると、


和菓子の笹井屋本店があった。
「日永のなが餅」で知られる、創業が天文十九年(1550)という老舗である。


耳鼻咽喉科福生医院の前に説明板が。


東海道四日市宿
この場所には問屋場がありました。
四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。
幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました、とある。
(福生医院の看板かと思っていたので危うく見過ごすところだった)


道標
「すぐ江戸道」と書かれた道標。
往時は、この辺りが宿場の中心地だった、そうだ。


国道1号を横断すると、


諏訪神社があった。


諏訪神社拝殿
諏訪公園内にある神社で、地元の人々から「おすわさん」と呼ばれる。
四日市の産土神である。
何とか無事に四日市宿に到着できたことを報告した。


四日市駅の近鉄ビルに到着
この日宿泊するホテルは、このビルの反対側だ。


近鉄四日市駅を見ながら進む(振り返って見たところ)と、


この日宿泊する「三交イン四日市駅前」があった。
辺りは既に薄暗くなっていた。


夕食に出かけた。
駅周辺はけっこう賑やかで店も多い。


ある焼肉屋に入り、焼肉を注文した。


生ビールが美味かった。


第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の1日目(桑名宿から四日市宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、34,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

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コメント
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