年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 明治19年④

2006年05月23日 | べったら市
コレラと日本橋魚河岸 魚河岸100年史より
 コレラの話は魚河岸の人は話したがらない。しかし、語らなければ“くされ市”が“べったら市”にならない。
 明治の中期になると、東京の人口も江戸と呼ばれたときの人口を越し、100万人をはるかに越し、日本橋魚河岸も問屋,仲卸をあわせて800名を越すようになっていた。東京の人口の増加は日本橋魚河岸の人、品物を増やし混雑を際立たせてくることになる。毎朝数千人の買出し人は日本橋のたもとにある一つしかない共同便所を使い汚物をたれながした。売場を洗った水も日本橋川に流した。日本橋川は悪臭を放っていて、コレラが流行りだすと、生魚を食べないように衛生当局から注意がでていて、食物はよく火を通して食べるように通達されていた。しかし、当時生で食べるのは魚だけであったから魚が嫌われた。魚というと魚河岸、魚河岸は悪臭を放つ不潔な所、東京の真中において置くのはけしからんとなった。東京一の繁華街の隣に魚市場があることは、都市美観のうえからも、都市衛生の画からも好ましいことではない。首都の中心繁華街から、魚市場をとりのぞくことは近代化都市計画にとって重要懸案である、との当局の考え方が移転問題の底流にあった。コレラが流行るたび、魚河岸の移転の話が出てきた。魚河岸は明治19年コレラの影響で不潔が指摘され、終に明治21年「東京市区改正条例」が出来、具体的に移転計画の話が出た。
その後、東京府の食品市場は警視庁の管轄になり、延び延びとなった魚河岸の移転は何かとあると警視庁から移転を迫られた。また、魚を扱う高級料理店の中には夏は休んだので影響はかなりあった。

安政6年に出版された「青物魚軍勢大合戦の図」 歌川広景画の解説で、安政の当時から、青物(野菜)は魚に比べてコレラに安全な食物と考えられていた。
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