年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 明治19年③

2006年05月22日 | べったら市
わが国のコレラ史
文政5年8月に流行する。朝鮮より、九州・中国・大坂・京都の順に蔓延し沼津まで流行し箱根は越えなかった。
次回、安政年間江戸に流行する。武江年表によると8月1日より9月末までに患者28000人。死者9900人、十月に至って終息する・
第三回流行は安政6年から万延元年で9月に終息する。
武江年表によるウワサ
この頃魚類を食べると、これに当たり終に死に至ると言って魚類を買う人少ない。故に漁民・魚商はヒマになった。食堂も同様である。鰮(いわし)は鮮魚であるのに買う人はいない。従って、(代替の食品として)鶏卵や野菜は価格が上がった。
当時はコレラの原因がわからず、その対処法として文久2年10月に出た「官版疫毒予防説」洋書調所によるとコレラ病の予防方法として検疫の必要性が説かれている。
「流行病発生(コレラ)の疑いのある国より来る船舶及び旅客を用心のために、その地に交通させないで、別に建築した館(避病院-隔離用)に居住せしめ。40日間無事なるもの病気伝染せざる者とする。またこの期間中には貨物・書物等も煙にていぶすことにする。」とある。しかし、日米和親条約は不平等条約で、日本の検疫権がなく、このあともコレラの流行が続いた。
日本国の自主検疫制度が確立するのは不平等条約改正後、明治32年「海港検疫法」の成立まで待たなければなりませんでした。
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