年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

丹前(どてら)の由来

2006年05月01日 | 宅老のグチ
掘丹後守直寄は掘家の傍流から出て努力を家康に認められて最後は越後村上藩10万石の城主となったが、徳川に参加したのは関ヶ原直前であったため、かなり無理していた。沢庵に接近したのも沢庵の権力情報の入手の手段であったかもしれない。彼の嫡子は幼少の時なくなり、彼の死後改易となったが、後に徳川は掘丹後守直寄の功績を認め、堀家を再興し、越後村松藩堀家の始まり.明治まであった。
 丹前の由来
雉子町(きじちょう)東京都千代田区神田小川町1丁目、内神田2丁目付近
千代田区一ツ橋にある共立学園のそばにある雉子橋は江戸時代日本に来た朝鮮通信使の接待のための雉子を飼っていたところです。元和年間(1615-23)に現在のJR神田駅の付近へ移転しました。
 雉子町には寛政年間ごろに丹前風呂で賑わっていました。かつて、この地に
堀丹後守直寄の屋敷があり、屋敷あとの前の地を丹前と呼んでいました。ここに数件の湯女風呂ができ、特に有名な湯女の外出着が袖口の広い、ゆったりとした派手で衣装を(丹前)と呼んだ。これが(丹前)(どてら)の始まりと言われる。
 なお、雉子町には「江戸名所図会」著者斎藤月岑も住んでいました。
「お江戸の地名の意外な由来」 中江克己著より
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