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2月10日(火) 何が楽しくて盗作するのだろう

 十勝毎日新聞社が、短編小説を公募し、佳作に入選して紙面に掲載された作品が盗作だった。応募者の男は盗作を認め、新聞社は佳作を取り消した。
 向田邦子氏の短編「あだ桜」の前半部を丸写しした。男は「すばらしい文章だったので多くの人に知ってもらいたかった。もう応募はしません」といっている。
 いいわけをするなら、もっとましないいわけをしろ。すばらしい文章なら、「向田さんの本にこんな文章がありますよ」と、ブックレビューという形でなぜ発表しなかった。自分でブログを持っているのならば、そこに掲載すればいい。ブログをもっていなければ、アマゾンでもbk-1でも、だれでも自由にブックレビューが投稿できる場はいくらでもある。
 それをこの男は、その向田さんの作品を、いかにも自分の作品のように偽って応募したのだろう。絶対に許されないことだ。「もう応募はしません」といっているが、あたりまえだ。文を書くのは勝手で、それを自分の周辺の特定の人間だけに読ませるのも勝手だが、不特定多数の人間の目に触れる公の場に、自分の文章を発表する資格はこんな男にはない。
 すばらしい作品に接すれば、それに触発されて創作活動をする創作者は確かにいる。ゴッホには日本の浮世絵に触発されて描いた絵もある。また、恩田陸さんの「常野物語」はアメリカのSF作家ゼナ・ヘンダースンの「ピープル・シリーズ」に触発された作品である。これは恩田さん自身が同作のあとがきでふれておられる。これはあくまで、本歌と本歌とりの関係であって、恩田さんはヘンダースンを盗作したのでは決してない。
 それは恩田さんがヘンダースンの作品を、完全に自分に取り込み、咀嚼して、消化して、それを栄養源として自分自身の、他のだれでもない、恩田陸の作品として産みだしたからだ。
 ところが、この盗作男は向田さんの作品を、右から左に書き写しただけで、自分の作品として発表した。そこになんら創作活動はなされていない。
 文章を書いて創作活動をしている者は、万人に知られていない優れた作品を目にすれば、判らないだろうと思って、盗作の誘惑にかられることもあるだろう。事実、その誘惑に抗しきれず、何度となく盗作騒ぎを起している人もいるらしい。
 そのような盗作者は実に気の毒な人種である。プロの作家、あるいは小生のようなアマチュアも含めて、文章書きは何がうれしくて文章を書いているのだろう。他の人は知らないが、自分自身を分析してみた。まず、文を書くことそのものが楽しい。何を書こう、あれこれ頭をひねるのが楽しい。書き始める。どう書こう、どうまとめようと考える。これが楽しい。
 書いたらそれを人に読んでもらいたい。読んだら感想を聞きたい。ほめられればうれしい。けなされればかなしい。それが楽しい。だから、このようなブログをやっているわけだが。そして最後に、いくばくかのお金になり、さらにさらに、佳作入選との名誉まで得られれば、いうことなし。このように文章を書く楽しみは四つもあるわけだ。くだんの盗作男は最後の名誉だけが欲しかったのだろう。おまけだけ欲しかったわけだ。本当の文章書きの醍醐味を知らず、おまけだけ欲しがっている。グリコはいらん。おまけのおもちゃだけ欲しがっている。なんとも気の毒な男だ。
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