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2月17日(火) 学級委員長がなぜ差別なんだ?

 最近、学級委員長がいない学校があるとのこと。なんでも、人権団体とやらが「委員長になれない子供がかわいそう」との理屈で学校にクレームをつけてくるそうだ。
 アホとしかいいようがない。差別は許されない。しかし区別はしなければならない。差別と区別はどう違うか。差別は差別される人が不利益をこうむる。区別は区別される人は不利益をこうむらない。男女差別はなくさなければいけない。女というだけで不利益をこうむることはあってはならない。
 しかし、男女は区別しなければならない。男と女は体の構造も違うし生理も違う。トイレ、更衣室、風呂などは、別々にしなければならない。これは差別ではない。区別だ。
 学級委員長になる子はそれなりの理由があって委員長になる。勉強ができるか、リーダーシップがあるか、クラスで人望があって人気があるかだ。なれない子は、なれない理由があるのだ。このことで差別をしてはいけないが、区別をしなければならない。学校には多くの子供が集団で勉強している。様々な子供がいる。勉強のできる子。できない子。親分肌の子。子分になる子。群れ集う子。一人でいる子。これら、一人一人の個性を認め、認識した上で教育をほどこさなければならない。
 学級委員長になれない子/ならない子/できない子は、委員長になる子/できる子に比べて、確かにある種の能力が低いところがあることは否めない。しかし、これで卑下することは絶対に無い。子供である。人生の助走の段階だ。助走が遅いといって悲観することはない。助走は速いが、急に失速して、期待したほど伸びない子もいるだろう。逆に助走は遅いが、ぐんぐん加速して、大きく飛躍する子もいるだろう。その逆もある。「栴檀は双葉より芳し」ともいうし、「大器晩成」ともいう。ようはどんな大人になるかだ。いや、人間、死ぬ間際までわからぬ、というのが正解だろう。
 それを、学級委員長なるもので、学校にクレームをつけてくるとは、なんと近視眼的なモノの見方しかできない人たちであることか。委員長なる存在は、ある意味非常に良い教育の材料になるだろう。
 組織というものはリーダーばかりでは成り立たない。リーダーがいる。補佐役がいる。参謀がいる。一般構成員がいる。社長と役職者ばかりでは会社はできない。現場で働く社員は必ずいる。これはだれが偉くだれが下っ端でもない。社長は社長としての機能を果たしている。社員は社員としての機能を果たしている。確かに組織においては、仕事の指示を出す職制には、それなりの敬意を払う必要があるだろう。しかし、それはあくまで、仕事をスムーズに運ぶための潤滑剤にすぎない。社長だから、学級委員長だからといって、その全存在が、その組織内で最上級にある人間だといって、崇め奉る必要はさらさらない。彼らは社長、委員長の職務を遂行しているだけなのだ。社員、委員でないクラスの子、彼らの果たすべきことがある。彼らが、そのことを果たさなければ、組織は成立しない。そのことにおいては、社員と社長、委員長とクラスの子はみんな平等である。
 そういうことを、しっかり教育する良いきっかけとなるだろう、学級委員長なる存在は。それを否定するとは、社会とは、組織とは、人間とは、教え得る大切な機会を放棄しているのだ。もったいない話だ。

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