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虚空刑

 なぜあんなことをしたのか、自分でもよくわからない。裁判の過程で徹底的に調べられて、私という人間は完璧に分析しつくされたはずだ。その結果、私はこういう状態にある。 ついさっき、目が覚めた。とはいっても、今は朝なのか夜なのか、まったく判らない。光が見えないのだから。音が聞こえないのだから。
 空腹も感じない。私には、胃も腸も、いや、消化器官だけではない。心臓も肺もない。
 立ち上がることもできない。手も足もないから。なにもできない。私にできることは考えることだけ。
 私は、漆黒の闇の中に、ぽつんとただよっている。上も下も判らない。どっちが前で、どっちが後ろかも判らない。
 快楽もない。苦痛もない。苦しみもない。喜びもない。私は、ただ存在するだけ。

「主文、被告人を虚空刑とする」
 傍聴人の間でざわめきが起こった。これほど注目された裁判はない。
 一瞬にして四百二十九人が殺害された。海底トンネルを疾走する、三両編成のリニアモーターカーが急停止。乗員乗客全員が即死した。原因は車両側の磁力が突如消滅したことによる急停止。整備員の私が、車両制御用のLSIを全数引き抜いた。なぜそんなことをしたのかわからない。
 最初は整備上のミスだとされていた。過失による不幸な事故。社長以下経営陣は責任を取って辞任。リニアモーターカーの安全性が疑問視され、旧式の車輪式の電車に逆戻りすべきだという意見まで出た。
 その後、事故車の残骸の山から制御パネルの基板が発見され、磁力を制御する最も重要なLSIがすべて抜けていることが判った。 私はその部分の整備担当だった。参考人として警察に呼ばれた。そして、私は自分の手でLSIを抜いたことを白状した。こうして私は四百二十九人殺害の犯人として逮捕され、裁判となって、今日の判決を受けた。
 裁判官と裁判員は、私が殺意を持って四百二十九人を殺害したと判断した。
 虚空刑。最高の厳罰である。四百二十九人も殺害すれば、だれが見ても絞首刑では量刑不足。虚空刑以外の刑罰は考えられない。

 私に時間は存在しない。いや、無限にあるのかもしれない。一瞬の時間もないのかも知れない。私が刑に服して、どれだけの時間が経過したのか判らない。一瞬前かも知れない。千年前かも知れない。
 こんな私にも、ただ一つ残されたものがある。希望、希望といっていいのだろうか。この無限に続く、刑にもいつか終わる時がある。刑期終了。その時、私は永遠の安息を得る。 考える。私にできることは、考えることだけだ。それ以外のことは何もできない。そして、私が考えることは、ただ一つ。私はなぜあの時、基板からLSIを引き抜いたのか。二九個のLSIを一個一個引き抜き工具で引き抜いている時、私はなにを考えていたのか。こんなことをすれば、車両に供給されている電力がストップして、あのような大惨事になることは判っていたはずだ。
 魔がさしたというのだろう。LSIを抜けばどうなるか試したかった。結果は判っている。判っているが、実行すればどんな事態が発生するか、そして私がどういう境遇になるか知りたかった。気がつけば足元に二九個のLSIが転がっていた。
 四百二十九人の人命が一瞬に消滅した。原形をとどめている死体は皆無だった。
 量刑の判断は、私に殺意があったかどうかだった。LSIを抜いた時の私の、精神状態がどういうものであったか。責任能力の有無が問われた。
 そして、判決がでた。私には責任能力がある。そんなことを行えば、四百二十九人はどうなるか充分に知った上での行為と見なされ虚空刑がいいわたされた。これが私が、知らずに、いたずらでLSIを抜いたのならば、絞首刑ですんだかも知れない。

 コンソールパネルには四百二十九個のLEDが並んでいる。そのうち四百二十八個が点灯していた。そして今、最後のLEDが点灯して、すべてのLEDが点灯した。
 四百二十九人の審判員全員がが受刑者を許した。事故当時遺族だった者が審判員になる。審判員が死ねば親族の誰かが、審判員を受け継ぐ。受刑者が何を考えているか、常時、審判員は把握できる。受刑者は考えることしかできないのだから。
 アクリルのケースに、特殊な生理食塩水に漬けられた脳がある。生きている脳だ。係員がスイッチを押す。脳は死んだ。百三十六年ぶりに許されて、彼は安息を向かえた。
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