風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2013年09月14日 | 雑感
人の生きる進路には常に壁が立ちはだかります。
それが、ある人であったり状況だったりするわけですが。
お金がないから、できない。
したいことが誰それの反対で、或いは邪魔で、できない。
したいことをするためには、あれこれこういう条件が整う必要がある。
きりもなく次々と自分の外部に壁が立ちはだかります。

ほんとうは、壁というのは誰か他の人であったり、状況であったりするわけではありません。
自分の中にある、人とか状況に対する条件付けがあるだけす。
こうすれば上手く行くという仮定に反する状況なり、人物なりが現れると、上手く行くはずがないと思い込むだけです。

自分が自分の壁を創ります。
できるできないを思い悩むのは自分です。
何でもかんでもできると思うのも問題ありですが、したいことをするということに当たって、できるかどうかを問うべきではありません。
できるかどうかよりも、するかしないか、です。

「する」というのは一切のごまかしが効きません。
なにかを「する」、ということのだけです。
なにかをしようと検討するとか、思いを巡らすとか、そういうことではありません。
結果は分からないけれども、「する」という自分の意思に、決断に自分という全存在を委ねます。
結果はもちろん保証されません。
したことによって、おおいに傷付くことだってありえます。
でも、「した」ことによる、した人にしか分からない経験を積むことができるし、次のステップに向けての反省も生まれます。

壁というのは人の心の「恐れ」が産み出す幻です。
幻だからどうでもいいといいということでもありません。
何でもかんでもしたいようにできることが許容されるほど人は練達していません。
なんの恐れもなく、地球を、人々を蹂躙されてはたまったものではありません。
今の段階の人類には、なにかをするに当たっての「恐れ」というものが必要なのも、むべなるかな、です。

それでも、そろそろ、その「恐れ」を超克する時が来ているように思います。
「恐れ」の内容は人それぞれです。
臆病、無関心、傲慢、人のせい。
どれもが「恐れ」がなければ効力を失う心理的傾向です。
心理的傾向というのは、自分というものをなにがなんでも保持するためのもであるだけに、とても頑固です。
その頑固さも「する」という唯一の具体的な行動の前には口を出せません。
世の中の平和をいくら布団の中で夢想しても、「おはようございます」と無邪気に陽気に挨拶できる人の作り出す現実には敵いません。
政治家をいくら攻撃しても、畑で野菜を収穫する人が感じる平安を得ることはできません。

くどいようですが、何でもかんでもすればいいというわけではありません。
すべき価値が自分であると確信したことに関しては、果敢に実行に移せばいいのです。
その際に、失敗かどうかを気にする必要はありません。
したいことをするという、人間として生まれてなによりも尊い自由を行使するのですから。

じゃあ、人を殺したいと思うのも自由か、と問われます。
自由です。
それがあなたという人間の価値です。
それだけのことです。