風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

選択の重み

2012年04月25日 | 雑感

日に日に日差しが強くなってきました。
昼間は半袖のTシャツ一枚でも大丈夫です。

しばらく映画を見ていません。
ツタヤから送られてくるDVDも封を閉じたまま放ってあります。
流石にこのまま無休のままいつまでも突っ走るわけにも生きませんので、GW明けからは週休を取りたいと思っています。
娘を畑や温泉に連れて行ったり、映画を見たり、楽しむことはたくさんあります。

何かをしてもしなくても、楽しく生きることはできます。
アハハと笑うこともできるし、ウフフでもクスクスでも何でもいいです。
笑わなくても楽しめます。
空を見ても楽しめますし、畳の目を数えても楽しめます。
おにぎり一個の食事でもいいし、漬物数切れで美味しいお酒も飲めます。
なんでもいいです。
青空も、雨の日も、吹雪の日だって楽しめばいいです。
子供の頃、台風の日にはカッパを着て夢中になって路傍でダムを作って遊びました。
それだけ大量の水で遊ぶ機会は台風の日しかなかったからです。

野菜を切るのも、ぬか床をかき混ぜるのも、包丁を研ぐのも楽しめます。
たいていのことは楽しもうと思ったら楽しめるものです。
それとは反対に、たいていのことに対して、不平を言おうと思えば不平を言うこともできます。
どうしてこんなことをしなければいけないのだとか、何で自分がとか、他に方法があるのにだとか、
不平の素もいくらでも周囲に転がっています。
楽しみたい人は楽しめばいいし、不平を言いたい人は不平を言うだけです。

人は自分のしたいことに責任を持つ必要があります。
そうしたいのは周囲の誰かではなく間違いなく自分自身ですから、楽しむのも不平を言うのも自分自身の選択です。
どちらを選択するにせよ、その結果の責任は100パーセント自分自身にあります。
楽しみながら不平を言うということもありませんし、不平を言いながら楽しくなるということもありません。
また、自分の行為の選択は、その結果が連鎖します。
楽しい行為を選択すれば、次々と楽しい行為と結果が連続しますし、不平感に満ちた行為を選択すれば、
次々と不平を言わざるを得ない状況が連続します。

いずれにせよ、自分の選択は間違いなく自分に委ねられています。
眼前の一瞬一瞬の行為を自分で選択していきます。
その結果を他人のせいにすることはできません。
これを厳しい因果律と取るか、行為の選択の自由が保証されていると取るか、その判断も個々人に委ねられています。

なんにせよ、もうすぐGWです。
旅行に行ったり、里帰りしたり、趣味に打ち込んだり、家族と遊んだり、いろいろな選択肢があることでしょう。
精一杯実りのある選択を積み重ねていきましょう。
ぼくも一日だけ家族と遊ぶ日を取れました。
あれこれあれこれ楽しみです。