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海外の都市紹介、 その20の5 『周荘』

2006年08月01日 | 海外の都市の紹介
これは屋敷内にある、沈万三の銅像です。
沈万三という名は俗称のようで、実際は名は富、字は件栄という記載もありました。
『万三』は巨富の人の別称という説もあるようです。



清代の「周荘鎮史」によれば、当時の沈家の当主沈本仁は放蕩息子であったようで、毎日麻雀に現を抜かしていたようですが、財産の切り売りを始めた時、身内の人が諭し、父の死後心機一転、毎日この銅像に手を合わせ、以降農業に力を注ぎ、現在の屋敷を建てたようです。



これが、当時の沈家の食卓の再現です。
伝説によると、彼は豚の腿肉が大好きだったので、周荘の腿肉を醤油で煮込んだ料理は、万三蹄と名づけられ、今ではどこのお店も名物料理として出しているそうです。
その他にも、周荘には「万三宴」という宴会料理も有名です。



当時の台所のようです。
当時の豪邸の台所は、毎年、新年に新しい絵を描く習慣があり、写真で見るような壁画が描かれていたそうです。



結構広い台所です。 
白壁に囲まれ、整然と台所用品が並べられています。



沈万三は西に延びる白蜆江により京杭大運河へ、東に延びる瀏河により海につながるという交通の要衝としての位置を活かし交易を行い、周荘を食料、シルク、各種手工業品の集散地として発展させました。
周荘は手工業品生産地としても発展し、シルク、刺繍、竹製品、白酒等が生産されたようです。
当時の模様が、壁にかけられていました。



明、清代に街がさらに拡大し江南地方の重要都市の一つとなり、商人が集まり人□が増加、明代初めには人口は約2000人、清代には約3000人にまで拡大したそうです。
清の康熙年元年に正式に周荘に改称されたようです。



明の初代皇帝、朱元璋が南京に都を定めた後、沈万三は都の建設費用の三分の一を拠出したそうですが、沈万三の軍をも動かす巨大な権力を皇帝が疎んじ、「富可敵国」(国と同じくらいの財産を持っている)と思われたため、雲南地方への流刑に処されました。
その後は、死ぬまで、ずっと雲南に住んでいたとされています。

続く...................................。