若い後輩たちとやっている朝勉(早朝勉強会、略して「朝勉」)のテキストが終わったので、地元の歴史に残る偉人について学ぶことになった。
そして、今日がその最初の勉強会。
テーマに選んだのは、今の道後温泉本館を造った伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)。
テキストは、道後温泉旅館協同組合が昭和63年に発行した「道後の夜明け ~伊佐庭翁ものがたり~」
88頁ほどなので一気に読める量である。
伊佐庭如矢は初代道後湯之町長。
有名なのは道後温泉本館を改築し、今の建物にしたくらいしか知られていない。
彼はさまざまな偉業を残している。
例えば、明治新政府から松山城を破棄する命が下ったときに、これを阻止したメンバーの一人に入っていた。
また、道後鉄道や道後公園整備にも尽力している。
ユニークなところでは、坊ちゃん団子の発明にも寄与しているようである。
そして、特筆すべきは「坂の上の雲」に出てくる秋山兄弟や正岡子規と同じ時代に生きていたということである。
道後温泉本館を建てることは、大偉業であった。
計画を発表したときから大反対された。
それは、町全体、町民全部を敵に回しながらの四面楚歌の中で戦うのと等しい状況であった。
しかし、彼は粘り強く説得していく。
その代表的な話として次のようなものが残っている。
伊佐庭如矢と蜂須賀兵蔵(はちすか ひょうぞう)が富田喜平を仲立ちにして会ったのは、温泉前の鮒屋旅館である。
(中略)
「兵蔵さん、わしは本館改築を、しだいによってはやめてもええと思うとる」
予想外の如矢のことばに、あいさつの後の所在のない空白を、新築の養生湯に視線をあそばせていた兵蔵は、一瞬、虚をつかれたかのように目を如矢の顔にうつし、しばらく呆然としてつぎの言葉をまった。
「温泉をなにもわしが建てんといかんちゅうわけじゃないけんなもし、じゃが、誰かが、いつかはやらんといかん。そこで兵蔵さんに頼みがある。もしこれから十年たち、十五年、二十年たつうち、たぶん、そのころにはわしらは死んでおるまいが、あんたがやっぱりこの温泉新館は建てにゃいかんと思いたら、その時はあんたがこれをやっておくれんか」
「私がいつまでもそう思わなんだら、どうするおつもりぞなもし」
兵蔵は、ちょっと、意地悪くたずねた。
「いや、かならずそう思う日がくる。もしあんたがほんとうにこの道後が好きで、道後の繁栄を願うとるなら、かならずそうなる」
如矢のかたわらで富田喜平が、いちいち、うなずきながら如矢の話を聞いていた。
「兵蔵さん、いまの世の中はこれまでにないほど激しく変わりよる。現に、蒸気船ができ、明治四年のくれに大阪―九州航路の汽船舞鶴丸が、この三津浜(松山近くの港町)へ寄港するようになったし、明治十二年には大阪商船ができて、大阪と九州を結ぶ定期便の寄港が実現した。それきりじゃない、県内でも明治十七年に宇和島運輸が、二十一年には肱川汽船が発足した。こうして中国地方や瀬戸内の島々、それに沿岸各地との交通の便も、くらべもんにならんくらいようなっとる。陸上では、この松山でも伊予鉄道が三津から城下まで岡蒸気を走らせよるが、やがて鉄道は国じゅうにつながって網の目のようになるじゃろう」
「なんでそんなことが、わかるんぞなもし」
「まだわしが若かったころ、明治四年のはじめじゃが、新松山藩から権少参事(ごんのしょうさんじ)の野中久徴(のなか ひさなり)という人が外国開花事情の視察のため、アメリカやイギリスをまわって帰ってきた。その人の話を聞くと、あちらでは鉄道が発達して、国内各地をむすんで走っとるということじゃった。いま、日本はアメリカやイギリスに少しでも近づこうと、国をあげて努力しよるとこじゃ。げんに先年、東京新橋から神戸まで鉄道が貫通しとろうがな」
「・・・・・・」
「これからは、国じゅうのひとの行き来がずっとさかんになる。兵蔵さん、この道後に、もっと近在のひとや伊予各地、四国、中国、いや、日本じゅうの人がたくさんやってくるようになったらどんなにええか、そうはお考えんか」
「いまのままでも、道後はやっていけるんじゃないかなもし」
「今、日本では、温泉場もそうじゃがそのほかの都市や町でも、みんな文明開化の波に乗りおくれまいと思うて必死じゃ。まわりがようなって道後だけがかわらなんだら、悪うなったんとついじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「兵蔵さん、あんたが旅をして宿屋に泊まる時、きたない宿屋と立派な宿屋と、どっちがええぞな。お金のない人はきたのうても安い宿へ泊るじゃろが、お金のある人はええ宿をえらぶじゃろ。わしは、この道後をきたないほうの宿屋にしとうない。道後へ行けば無料の松湯もあれば病人の薬湯もある。無料じゃないが安い養生湯もある。その上、日本じゅうのひとが驚くような本館ができたらどうじゃろ。そしたら、貧乏な人から金持ちまで、いろんな階級の人たちが集まってくる。だいいち、そうせんとこの道後は、やがて、やっていけんようになる。口を酸っぱくして言うとるように、道後は名湯じゃが湯量が少ない。地の利もわるいし、附近にこれといった遊覧地もないんじゃけんなもし」
如矢はお茶を一口飲んで、さらに話を続けた。
「わしは料理が好きじゃ。男のくせに自分でもいろんなものを作る。この料理が、それを入れる器によってずいぶん味がちごうてくる。不思議じゃが、本当に味がちがって感じるんじゃ。兵蔵さん、ものは中味も中味じゃが、人の心をひくのは容物(いれもの)がだいじぞな。そのためには、、いま計画しとるくらいの本館を建てんといけん。少々のものでは、ここ十年やそこらは人目をひいても、すぐ他所(よそ)にそれ以上のものができてしまう。それでは元が取れんうちに見捨てられる。いづれ大金を使うんじゃけん、ここは思いきって、そのかわり、五十年、六十年、いや百年のちまでも、他所がまねのできんようなものを作ってこそ、はじめてそれが物を言うことになるんじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「わしはなにも町のことばかりを言うとるんじゃあない。町は大金を使うて、その元を取るだけでも十五年も二十年もかかるじゃろう。しかし、たくさんの人が集まってくることで、この町で商売をしている人たちがうるおい、ひいてはお百姓さんや職人さんたちの暮らしもよくなるじゃろ。わしが夢見とるんはそのことぞなもし」
兵蔵はおもわず如矢の話に引き込まれていた。彼は一徹ではあるが、反面、人なみ以上の理性をもっている。如矢の道理を尽くして語る理想に、いつのまにか魅入られている自分に気付いていた。
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類まれな先見性と一心不乱の情熱、そして夢(理想)を語れることが大事だということがわかる。
そして、今日がその最初の勉強会。
テーマに選んだのは、今の道後温泉本館を造った伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)。
テキストは、道後温泉旅館協同組合が昭和63年に発行した「道後の夜明け ~伊佐庭翁ものがたり~」
88頁ほどなので一気に読める量である。
伊佐庭如矢は初代道後湯之町長。
有名なのは道後温泉本館を改築し、今の建物にしたくらいしか知られていない。
彼はさまざまな偉業を残している。
例えば、明治新政府から松山城を破棄する命が下ったときに、これを阻止したメンバーの一人に入っていた。
また、道後鉄道や道後公園整備にも尽力している。
ユニークなところでは、坊ちゃん団子の発明にも寄与しているようである。
そして、特筆すべきは「坂の上の雲」に出てくる秋山兄弟や正岡子規と同じ時代に生きていたということである。
道後温泉本館を建てることは、大偉業であった。
計画を発表したときから大反対された。
それは、町全体、町民全部を敵に回しながらの四面楚歌の中で戦うのと等しい状況であった。
しかし、彼は粘り強く説得していく。
その代表的な話として次のようなものが残っている。
伊佐庭如矢と蜂須賀兵蔵(はちすか ひょうぞう)が富田喜平を仲立ちにして会ったのは、温泉前の鮒屋旅館である。
(中略)
「兵蔵さん、わしは本館改築を、しだいによってはやめてもええと思うとる」
予想外の如矢のことばに、あいさつの後の所在のない空白を、新築の養生湯に視線をあそばせていた兵蔵は、一瞬、虚をつかれたかのように目を如矢の顔にうつし、しばらく呆然としてつぎの言葉をまった。
「温泉をなにもわしが建てんといかんちゅうわけじゃないけんなもし、じゃが、誰かが、いつかはやらんといかん。そこで兵蔵さんに頼みがある。もしこれから十年たち、十五年、二十年たつうち、たぶん、そのころにはわしらは死んでおるまいが、あんたがやっぱりこの温泉新館は建てにゃいかんと思いたら、その時はあんたがこれをやっておくれんか」
「私がいつまでもそう思わなんだら、どうするおつもりぞなもし」
兵蔵は、ちょっと、意地悪くたずねた。
「いや、かならずそう思う日がくる。もしあんたがほんとうにこの道後が好きで、道後の繁栄を願うとるなら、かならずそうなる」
如矢のかたわらで富田喜平が、いちいち、うなずきながら如矢の話を聞いていた。
「兵蔵さん、いまの世の中はこれまでにないほど激しく変わりよる。現に、蒸気船ができ、明治四年のくれに大阪―九州航路の汽船舞鶴丸が、この三津浜(松山近くの港町)へ寄港するようになったし、明治十二年には大阪商船ができて、大阪と九州を結ぶ定期便の寄港が実現した。それきりじゃない、県内でも明治十七年に宇和島運輸が、二十一年には肱川汽船が発足した。こうして中国地方や瀬戸内の島々、それに沿岸各地との交通の便も、くらべもんにならんくらいようなっとる。陸上では、この松山でも伊予鉄道が三津から城下まで岡蒸気を走らせよるが、やがて鉄道は国じゅうにつながって網の目のようになるじゃろう」
「なんでそんなことが、わかるんぞなもし」
「まだわしが若かったころ、明治四年のはじめじゃが、新松山藩から権少参事(ごんのしょうさんじ)の野中久徴(のなか ひさなり)という人が外国開花事情の視察のため、アメリカやイギリスをまわって帰ってきた。その人の話を聞くと、あちらでは鉄道が発達して、国内各地をむすんで走っとるということじゃった。いま、日本はアメリカやイギリスに少しでも近づこうと、国をあげて努力しよるとこじゃ。げんに先年、東京新橋から神戸まで鉄道が貫通しとろうがな」
「・・・・・・」
「これからは、国じゅうのひとの行き来がずっとさかんになる。兵蔵さん、この道後に、もっと近在のひとや伊予各地、四国、中国、いや、日本じゅうの人がたくさんやってくるようになったらどんなにええか、そうはお考えんか」
「いまのままでも、道後はやっていけるんじゃないかなもし」
「今、日本では、温泉場もそうじゃがそのほかの都市や町でも、みんな文明開化の波に乗りおくれまいと思うて必死じゃ。まわりがようなって道後だけがかわらなんだら、悪うなったんとついじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「兵蔵さん、あんたが旅をして宿屋に泊まる時、きたない宿屋と立派な宿屋と、どっちがええぞな。お金のない人はきたのうても安い宿へ泊るじゃろが、お金のある人はええ宿をえらぶじゃろ。わしは、この道後をきたないほうの宿屋にしとうない。道後へ行けば無料の松湯もあれば病人の薬湯もある。無料じゃないが安い養生湯もある。その上、日本じゅうのひとが驚くような本館ができたらどうじゃろ。そしたら、貧乏な人から金持ちまで、いろんな階級の人たちが集まってくる。だいいち、そうせんとこの道後は、やがて、やっていけんようになる。口を酸っぱくして言うとるように、道後は名湯じゃが湯量が少ない。地の利もわるいし、附近にこれといった遊覧地もないんじゃけんなもし」
如矢はお茶を一口飲んで、さらに話を続けた。
「わしは料理が好きじゃ。男のくせに自分でもいろんなものを作る。この料理が、それを入れる器によってずいぶん味がちごうてくる。不思議じゃが、本当に味がちがって感じるんじゃ。兵蔵さん、ものは中味も中味じゃが、人の心をひくのは容物(いれもの)がだいじぞな。そのためには、、いま計画しとるくらいの本館を建てんといけん。少々のものでは、ここ十年やそこらは人目をひいても、すぐ他所(よそ)にそれ以上のものができてしまう。それでは元が取れんうちに見捨てられる。いづれ大金を使うんじゃけん、ここは思いきって、そのかわり、五十年、六十年、いや百年のちまでも、他所がまねのできんようなものを作ってこそ、はじめてそれが物を言うことになるんじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「わしはなにも町のことばかりを言うとるんじゃあない。町は大金を使うて、その元を取るだけでも十五年も二十年もかかるじゃろう。しかし、たくさんの人が集まってくることで、この町で商売をしている人たちがうるおい、ひいてはお百姓さんや職人さんたちの暮らしもよくなるじゃろ。わしが夢見とるんはそのことぞなもし」
兵蔵はおもわず如矢の話に引き込まれていた。彼は一徹ではあるが、反面、人なみ以上の理性をもっている。如矢の道理を尽くして語る理想に、いつのまにか魅入られている自分に気付いていた。
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類まれな先見性と一心不乱の情熱、そして夢(理想)を語れることが大事だということがわかる。