走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

湯築・道後校区育英基金

2011年03月15日 19時51分09秒 | 職場の出来事
 道後地域では、「湯築・道後校区育英基金」というものがある。
 この基金は、佐藤実病院(松山市本町6丁目3-1
)開設15周年記念として、当時の院長だった佐藤実氏が居住地の湯築・道後校区内の人材育成を図るために育英基金として、金500万円を社会福祉法人松山市社会福祉協議会を通じて湯築・道後校区社会福祉協議会に寄託されたのが始まりである。

 そして、同協議会はこれを「湯築・道後校区育英基金」と名づけ、運営委員会を立ち上げて管理している。
 進め方は、道後中学校にお願いして湯築校区と道後校区内から一人づつ高校進学する生徒さんを推薦していただき、運営委員会が審査・選考を行い委員長が決定するというものである。

 推薦基準は、様々な障害を乗り越え、たくましく夢をもって進んでいる生徒さんを推薦していただくようにしている。
学校側は、この基準が抽象的過ぎて推薦に苦慮されておられるのではないかと思うのだが、推薦文を読んでいると、日々生徒たちのことをしっかり見つめているなと、うかがい知ることができる。

 今回選考されたのは、男女一人づつで、男子生徒の方は高校に進学したら硬式野球をやりたいとガッツをみせる。かたや女子生徒は子どものころから病弱だったため、そのときにやさしくしてくれた看護師さんに憧れ、看護師さんを目指したいということである。
二人とも夢をしっかり持ちながら、歩みだそうとしている。

 そして、今日、この二人に出水委員長から奨励金が授与され、その足で佐藤実病院にお礼をいいに行く。
この基金のもとをつくられた佐藤実医師は既に他界しており、今はその遺志を息子(佐藤公治)さんが立派に継がれておられる。そして、その息子さんから生徒たちに励ましの言葉をいただいた。

 おそらく、このことは世に出ないであろう。
しかし、その高邁(こうまい)な精神は、今なお脈々と受け継がれている。
そして、何よりも生徒たちの心には深く刻まれるであろう。

 私自身も高校二年のときに父が死に、高校三年と大学の四年間の合わせて五年間奨学金を受けた経験がある。
特に大学のときの奨学金は助かった。

 「もちつ、もたれつ」

 助け合いながら、無償の愛に包まれた善意をいただいた。

 時おりしも、東北・関東大地震で被災された皆さんのために、職場に置いてある寄付金箱に善意が集まっている。
ランチの出前を持ってきてくれるおばちゃんが、「ウチは家族三人やから三千円」と言って入れてくれた。

 日本人、まだまだ捨てたもんじゃない,,,

上らぬ太陽はない

2011年03月13日 23時59分43秒 | 東日本大震災
 まずはじめに3月11日の東北関東大震災で被災されたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。

 ずっとテレビの報道番組に釘付けになり、時に母親を呼び続ける少女に涙し、諦めていた家族に再会し喜び合う人たちに心から感動している。

 私たち日本民族は、この地を住処(すみか)として選んだ時から、地震を含めた自然災害を宿命として捉えなければならない民族となった。
しかしながら、今回の東北関東大震災はやりきれない思いである。
アジアの最も東の地に「日本」という国家をなっした時から、アジアで最初に太陽が昇るこの地に国家をなっした時から、どの国よりも試練を強いられることとなった。

 私たちの祖先は、さまざまな苦しみや試練に耐え、乗り越えながら、この国を世界のトップレベルへと押し上げた。
それは、強い絆となによりもこの国を愛する思いが、それをなしえたと思う。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)では11日、阪神大震災当時に東京支局長だったニコラス・クリストフ氏の「日本へのお悔やみ、そして称賛」と題するコラムを掲載、日本人の精神力の強さをたたえ、復興に向けてエールを送ってくれている。

 クリストフ氏は、阪神大震災時の取材で、崩壊した商店街で略奪がほとんどなかったことや、支援物資の奪い合いが生じなかった事例を紹介。「我慢」という日本語を引き合いに「日本人の忍耐力や冷静さ、秩序は実に高潔だった」と説明し、「今後、それらが示されるだろう」と期待を寄せた。

 いまこそ、誇り高き日本民族よ、心を一つにして「オールジャパン」となり、この苦境を乗り越えようではないか。
しかし、個々人の力では限界がある。

 手に手をとってできることから始めよう。
 手に手をとって助け合いながら前進しよう。

 必ず太陽は昇り、夜明けは必ずやって来る。

農商工連携プランニング講習会 in 松山(最終日)

2011年03月09日 22時01分39秒 | うれしい
 早いもので同講習会も最終日を迎えた。
内容的には、講習会というよりも研修会といった方に近かった。
最終日は、今まで取り組んできたことをチームごとに発表するというものでした。

 途中からチーム制にし、私たちはテーマを「ドライフルーツ」にすることにし、メンバーは私の他に、スーパー日東を経営されておられる日東物産有限会社の東社長、さらには菊地農園の菊地さん、私が一番不要な存在のような気がしたのですが、おもろいということで仲間に入れてもらいました。

このチームは、食いしん坊が集まったせいか試食といいながらドライフルーツを準備し、食べてばかりだったような気がします。
でも、講師の大塚先生には実現しそうなモデルだから真剣に取り組んでみてはと薦められ有頂天になったのも事実です。

特に、菊地さんは本気モード全開なのでお手伝いできることはしようかなと、安直に物事を考える相変わらずいい加減な私がいるのでした。

 意識するとドライフルーツの種類が多いのに驚かされました。

 思わず「へぇ~」と思うようなものもありました。


 これは栗ではなくイチジクです。

 
最終形は、おしゃれでゴウジャスに製品化しようということになりました。このモデルをお手伝いすると、チャレンジドたちの雇用に結びつくような気がしてきました。

人の心をひくのは容物(いれもの)がだいじぞな

2011年03月08日 21時38分20秒 | つぶやき
 若い後輩たちとやっている朝勉(早朝勉強会、略して「朝勉」)のテキストが終わったので、地元の歴史に残る偉人について学ぶことになった。

 そして、今日がその最初の勉強会。
テーマに選んだのは、今の道後温泉本館を造った伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)。
テキストは、道後温泉旅館協同組合が昭和63年に発行した「道後の夜明け ~伊佐庭翁ものがたり~」
88頁ほどなので一気に読める量である。



 伊佐庭如矢は初代道後湯之町長。
有名なのは道後温泉本館を改築し、今の建物にしたくらいしか知られていない。
彼はさまざまな偉業を残している。

 例えば、明治新政府から松山城を破棄する命が下ったときに、これを阻止したメンバーの一人に入っていた。
また、道後鉄道や道後公園整備にも尽力している。
ユニークなところでは、坊ちゃん団子の発明にも寄与しているようである。

 そして、特筆すべきは「坂の上の雲」に出てくる秋山兄弟や正岡子規と同じ時代に生きていたということである。

 道後温泉本館を建てることは、大偉業であった。
計画を発表したときから大反対された。
それは、町全体、町民全部を敵に回しながらの四面楚歌の中で戦うのと等しい状況であった。
しかし、彼は粘り強く説得していく。
その代表的な話として次のようなものが残っている。

 伊佐庭如矢と蜂須賀兵蔵(はちすか ひょうぞう)が富田喜平を仲立ちにして会ったのは、温泉前の鮒屋旅館である。

 (中略)

「兵蔵さん、わしは本館改築を、しだいによってはやめてもええと思うとる」
 予想外の如矢のことばに、あいさつの後の所在のない空白を、新築の養生湯に視線をあそばせていた兵蔵は、一瞬、虚をつかれたかのように目を如矢の顔にうつし、しばらく呆然としてつぎの言葉をまった。
「温泉をなにもわしが建てんといかんちゅうわけじゃないけんなもし、じゃが、誰かが、いつかはやらんといかん。そこで兵蔵さんに頼みがある。もしこれから十年たち、十五年、二十年たつうち、たぶん、そのころにはわしらは死んでおるまいが、あんたがやっぱりこの温泉新館は建てにゃいかんと思いたら、その時はあんたがこれをやっておくれんか」
「私がいつまでもそう思わなんだら、どうするおつもりぞなもし」
 兵蔵は、ちょっと、意地悪くたずねた。
「いや、かならずそう思う日がくる。もしあんたがほんとうにこの道後が好きで、道後の繁栄を願うとるなら、かならずそうなる」
 如矢のかたわらで富田喜平が、いちいち、うなずきながら如矢の話を聞いていた。
「兵蔵さん、いまの世の中はこれまでにないほど激しく変わりよる。現に、蒸気船ができ、明治四年のくれに大阪―九州航路の汽船舞鶴丸が、この三津浜(松山近くの港町)へ寄港するようになったし、明治十二年には大阪商船ができて、大阪と九州を結ぶ定期便の寄港が実現した。それきりじゃない、県内でも明治十七年に宇和島運輸が、二十一年には肱川汽船が発足した。こうして中国地方や瀬戸内の島々、それに沿岸各地との交通の便も、くらべもんにならんくらいようなっとる。陸上では、この松山でも伊予鉄道が三津から城下まで岡蒸気を走らせよるが、やがて鉄道は国じゅうにつながって網の目のようになるじゃろう」
「なんでそんなことが、わかるんぞなもし」
「まだわしが若かったころ、明治四年のはじめじゃが、新松山藩から権少参事(ごんのしょうさんじ)の野中久徴(のなか ひさなり)という人が外国開花事情の視察のため、アメリカやイギリスをまわって帰ってきた。その人の話を聞くと、あちらでは鉄道が発達して、国内各地をむすんで走っとるということじゃった。いま、日本はアメリカやイギリスに少しでも近づこうと、国をあげて努力しよるとこじゃ。げんに先年、東京新橋から神戸まで鉄道が貫通しとろうがな」
「・・・・・・」
「これからは、国じゅうのひとの行き来がずっとさかんになる。兵蔵さん、この道後に、もっと近在のひとや伊予各地、四国、中国、いや、日本じゅうの人がたくさんやってくるようになったらどんなにええか、そうはお考えんか」
「いまのままでも、道後はやっていけるんじゃないかなもし」
「今、日本では、温泉場もそうじゃがそのほかの都市や町でも、みんな文明開化の波に乗りおくれまいと思うて必死じゃ。まわりがようなって道後だけがかわらなんだら、悪うなったんとついじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「兵蔵さん、あんたが旅をして宿屋に泊まる時、きたない宿屋と立派な宿屋と、どっちがええぞな。お金のない人はきたのうても安い宿へ泊るじゃろが、お金のある人はええ宿をえらぶじゃろ。わしは、この道後をきたないほうの宿屋にしとうない。道後へ行けば無料の松湯もあれば病人の薬湯もある。無料じゃないが安い養生湯もある。その上、日本じゅうのひとが驚くような本館ができたらどうじゃろ。そしたら、貧乏な人から金持ちまで、いろんな階級の人たちが集まってくる。だいいち、そうせんとこの道後は、やがて、やっていけんようになる。口を酸っぱくして言うとるように、道後は名湯じゃが湯量が少ない。地の利もわるいし、附近にこれといった遊覧地もないんじゃけんなもし」
 如矢はお茶を一口飲んで、さらに話を続けた。
「わしは料理が好きじゃ。男のくせに自分でもいろんなものを作る。この料理が、それを入れる器によってずいぶん味がちごうてくる。不思議じゃが、本当に味がちがって感じるんじゃ。兵蔵さん、ものは中味も中味じゃが、人の心をひくのは容物(いれもの)がだいじぞな。そのためには、、いま計画しとるくらいの本館を建てんといけん。少々のものでは、ここ十年やそこらは人目をひいても、すぐ他所(よそ)にそれ以上のものができてしまう。それでは元が取れんうちに見捨てられる。いづれ大金を使うんじゃけん、ここは思いきって、そのかわり、五十年、六十年、いや百年のちまでも、他所がまねのできんようなものを作ってこそ、はじめてそれが物を言うことになるんじゃなかろうかなもし」
「・・・・・・」
「わしはなにも町のことばかりを言うとるんじゃあない。町は大金を使うて、その元を取るだけでも十五年も二十年もかかるじゃろう。しかし、たくさんの人が集まってくることで、この町で商売をしている人たちがうるおい、ひいてはお百姓さんや職人さんたちの暮らしもよくなるじゃろ。わしが夢見とるんはそのことぞなもし」
 兵蔵はおもわず如矢の話に引き込まれていた。彼は一徹ではあるが、反面、人なみ以上の理性をもっている。如矢の道理を尽くして語る理想に、いつのまにか魅入られている自分に気付いていた。

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 類まれな先見性と一心不乱の情熱、そして夢(理想)を語れることが大事だということがわかる。

常にお客様を気づかう

2011年03月07日 21時06分38秒 | 職場の出来事
 本市には広聴機能として「わくわくメール」という仕組みがある。
組織として、苦情や住民ニーズなどを情報共有するという点では画期的なものだと思っている。
だが、ときどき内容によっては心が萎えることがある。

 最近、私の職場について書き込みしていただいた。
「道後支所の職員はダラダラしている」
かなり憤慨された内容の文章が続き、最後にこのご指摘である。
事情を聞いてみると、まずウチで管理していない情報だったということ。
そこで担当課に電話連絡し、その電話を変わってもらったということであった。
ただ、その情報がタイミング的に出せないものだったらしく、結果的にはそのお客様を怒らせてしまい、メールをいただくこととなった。
いたしかたない。諦めるしかない。

 そんなおり、次のようなお話をいただいた。

 ある送別会での出来事。
 隣に座った女性が
 「今はどちらにおられるのですか?」
 「道後支所です」
 「そうですか。道後支所といえば素敵な職員さんがおられますよね」
 「どういうことですか?」
 「実は、私の友人が長い離婚調停を終え、ついに離婚届を出すことになり、
  道後支所にいったそうなんです」
 「何か失礼はありませんでしたか?」
 「いえいえ、とんでもない。とてもよくしていただき、心身ともに疲れていたの
  ですがやさしく対応してくれたので救われたというのです」
 「それはよかった」
 「それがね、その後の話があって...」
 「どうしました?」
 「覚悟はしていたのですが、離婚届を出し、支所を出たとたん涙が止まらなかった
  というのです」
 「そうでしょうね」
 「そして、独りぼっちになった彼女は、悲観して自殺を考えたんだそうです」
 「え!!」
 「それがね自宅に帰り、どうやって死のうかと考えていたときに一本の電話が
  鳴ったそうなんです」
 「はい...」
 「電話の内容は『道後支所の○○です。大丈夫ですか?説明不足な点がありました
  のでご連絡を差し上げたのですが、よろしいですか』と。正直申し上げますと、
  それほど重要な内容ではなかったということなのです。でも、彼女はこみ上げる
  涙を抑えながら説明を聞いたそうです。そして、何度もお礼を言ったそうです」
 「それからどうなされたんですか?」
 「彼女は『大丈夫ですか』の一言で我にかえったというのです。孤独感と焦燥感
  から、自分などどうなってもいいといった自暴自棄からの自殺願望が、その
  一言で私を心配してくれている人がいてくれるということに気付いたときに、
  (自殺を)思いとどまれたと」
 「それはよかった...」
 「こちらこそ、お礼を言わせて下さい。私にとってもかけがえのない友人なの
  ですから」
 「いえいえ、とんでもないです」
 「本当に道後支所には素敵な職員さんがおられるんですね。私も用がある時は
  道後支所に行かせていただきます」
 「はい、どうぞ、どうぞ。お待ちしております」

 上司として、こんなに誇りに思うことはない。
 事務的に仕事をしていたら気付かなかっただろう。
 また、一本の電話が人の命を助けることがある。
 常にお客様を気づかう。
 その気持ちがとても嬉しい。
 この職場で仕事ができることの幸せを噛み締めることができた。



3月3日はひな祭り!!

2011年03月03日 08時00分49秒 | 職場の出来事
 職場の男性Yさん(女性の中に同姓がいます)は、手先がとても器用でコミュニティ・アート展に下のような趣味で作られている寄木細工(ポイ?)作品を展示してくれています。


 

 今日は3月3日ひな祭り。
そんなこともあって雛人形の作品を追加してくれました。
小さなお客様が来てくれたときに、ジーと観ている姿を見ると思わず噴出しそうになります。
内心、「してやったり」でしょうか...

 そして、今日はビックなニュースがあります。
やはり職場のKさん(女性)が大安ということで婚姻届を出されます。
結婚式は京都で親族だけで行うということで、彼女には内緒でささやかですがお花とお祝いを準備しました。
サプライズというよりは、ほとんどイタズラにちかいのですが、こちらも「してやったり」というようになると思っています。

 Kさん、末永いお幸せを祈っています。


椎川流「公務員十戒」

2011年03月02日 04時05分10秒 | 考え方
 椎川さんが自戒をこめて公務員の姿勢をわかりやすく説いていただいているので、これも紹介します。


〇公務員である以前に、まず普通の人として皆から尊敬される人間になること

〇常に、健康をチェックし、身体を鍛え、気力を充実させて、公務能率を
 上げられるよう心がけること

〇自分が権限を持っていることを意識した上で、それを振り回すことなく、
 いつも謙虚に、国民、住民のために真剣に汗を流すこと

〇自分だけの狭い世界に閉じこもらず、平日だけに限らず、自分の時間と
 お金を使ってでも勉強や人との付き合いをし、知識と人脈をひろげること

〇自分の住む地域の自治会活動でも、ふるさとの地域おこしでも、趣味の
 国際交流でもいいから、仕事以外のプラスワンとして、なにか地域活動、
 ボランティア活動、NPO活動、社会貢献活動などをし、机の上の理屈を
 言うだけでなく、実際に身体を動かすこと

〇自分の眼で現場を確認し、国民や地域住民の声に謙虚に耳を傾け、自分の
 担当する仕事に工夫を加えて、常に一歩前進するつもりで改革、改善に努め、
 スモールサクセスを積み重ねること

〇組織や上司のためでなく、直接国民や地域住民のためになっているかという
 公務員の最終ミッションを意識しながら、常に自分の仕事を点検すること

〇仕事から逃げることなく、責任を他人に押しつけることなく、自分のすべき
 ことをきちんと処理すること

〇失敗を部下のせいにすることなく、また、上司にこびることなく、自分の
 正しいと考えることをやり抜くこと

〇理屈だけでものを言わず、自分がそう言われて実際にそれを実行しなければ
 ならない立場になったらどうかということを必ず考えてからものを言うこと


徹底した現場主義のために

2011年03月01日 22時49分58秒 | 考え方
 NPOユニバーサルクリエートの米田さんから椎川忍さん(総務省自治財政局長、前総務省地域力創造審議官(初代)、元内閣官房内閣審議官(総理大臣官邸末吉参与室)、元自治大学校長(第43代))のお話をお聞きしたので紹介します。

 椎川さんは、地域が大好きで地域を元気にするために努力をされ、ライフワークを地域活性化に注がれておられます。そして、地域という現場を大切にするその信条はすさまじいものがあります。
地域活動の現場にいる者としては本当に参考になるお言葉です。

○基本は、「歩く、見る、聞く、食べる、飲む、泊まる、買う(特産品)、
 そして伝える」こと

○初めての土地に行ったら、まず1時間ぐらいまち歩きをする

○朝は早起きをし、まちなかをジョッギングする

○歩いたり、ジョギングをしたりするスピードでまちをみると、
 そこに住んでいる人たちの生活やまちの本当の姿がわかる

○できるだけ朝、昼、夜、それぞれのまちの姿を見る

○地元資本のホテルに泊まり、地元の人が行く居酒屋などで食事をする

○そうすると、そのまちのおもてなしの心やサービス業の水準がわかる

○土地の人たちと知り合いになり、人の輪(和)が広がる

○HP、ブログ、ツィッター、ML、メールで継続的に議論し、関係を深める

○人と人がつながると、思いがけないプロジェクトが生まれたり、育ったりする

「地域力創造訓」
    ~初めて地域力創造グループに来られた方へ

○権力やお金の力だけでは決して人は動かないし、地域も活性化しない

○地域おこしを実際にやっている人たちと一緒に考え、行動し、スモール
 サクセスを実現し、感動を共有する

○人材面での補完、ネットワークづくりに自分の持っている知見を役立て
 られるように努力する

○現場主義を貫き、地域の抱える課題をなんとかできないかと考え、一緒に
 汗をかいて問題解決にあたる

○机上の空論は最悪、実践による前進が尊い

○個人プレーでは限界、組織総力戦で最大限の成果をあげる

○地域にも、組織にも、一人として要らない人間はいない。
 みんなの力が必要である(やねだんの豊重公民館長の言葉より)


 本当にすごい人です。