<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



レバノンの首都ベイルートで発生した硝酸アンモニウム2700t余りの大爆発の映像は映画の世界が実際に起ったらどうなるのかというような光景を見せつけた。
そのインパクトはかなり巨大だ。
映画「ダイハード3」で街をぶっ飛ばすかも知れない爆弾を止めるシーンがある。
ブルース・ウィルス演じるマクレーン刑事がこの場でも奔走するのだが、ホントに爆発したら多分こんなことになっていたのだろう。

今回の爆発ですぐに思い出したのは5年前に発生した中国の天津のナトリウム大爆発。
小さな火事が発生してそこに駆けつけた消防隊が水を使って消火活動。
すぐ近くにアトリウムの塊が保管されているとはつゆ知らず。
ざあざあ消火活動を続けていたら水がナトリウムにかかって化学反応。
大爆発を起こしたという事故だった。
爆発したあとは大きなクレータができていた。
爆発の瞬間の映像も凄まじく40フィートの海上コンテナが宙を舞うその光景もまた映画の世界そのものなのであった。

天津の事故は場所が中国ということもあり詳細の映像やその後その行政がどうしたのかというような内容はなかなか伝わらなかった。
あれだけの事件なのに。
今も謎が多い。
事故を起こした新幹線車両を穴を掘って埋めてみたり、後に武漢ウィルスで世界に数十万人の死者を出すことになった中国だけに、都合の悪いことには蓋をしたに違いない。

一方今回のベイルートの爆発事故は様々な映像や写真、証言が取り上げられ、もし大量の危険物が不適切に管理されているとどういうことが発生するのか。そしてその被害はどうなるのか、ということの重要な資料となりそうだ。

大爆発というと私が大学生だった頃。
1982年8月に大阪堺市にあったダイセル化学工業でプラントの大爆発があり、工場から5km以上離れた私の家のガラス戸も地震のような強い衝撃を受けた。
「ドンッ!ガチャガチャガチャ」
「なんやなんや」
という感じだった。
我が家のガラスは無事だったが500mほど離れた駅前のパチンコ屋ではガラスが割れたと言って大騒ぎになっていた。
ダイセル化学工業はタバコのフィルタをほぼ独占的に作っている大手企業で富士フィルムはここのフィルム部門だった。
今はイオンモール鉄砲町店になっているが、近くを通ったりここで買い物をすると今もダイセル化学工業の大爆発を思い出す。

日本でもプラント設備の管理不備や時に危険物の違法管理で事故を起こすことがある。
中国やレバノンのようなところでは管理に関する法律もどうなっているのかわからず管理するためのライセンスも微妙なところがあるに違いない。

ちなみに私はナトリウムの爆発実験には立ち会ったことがある。
サイコロよりも小さなナトリウムをビーカーに入った水にポチャっと入れるとどうなるのかという観測だった。
最初はブクブクと気体を出すが、しばらくすると「バンッ!」と大きな音を立てて爆発する。
それをベニヤ板の防御壁に隠れて見ていたがベニヤ板を破るんじゃないかといささか心配になるくらいの迫力であった。

大爆発。
色いろな記憶を呼び覚まさせてくれる衝撃なのであった。



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京都の五山の送り火で有名な大文字。
今年はコロナの関係で中止するということだったのだそうだが、誰かがその大の字を照明で点灯。
「犯人は誰だ!」
と大騒ぎになっているようだ。
なんとなく京都の大学生のいたずらのように思うのは私だけだろうか。

いしいひさいちの4コマ漫画「バイト君」。
主人公の菊池くん、久保くんたちは「安下宿共闘会議」という左巻きの臭いのする学生連合のメンバーだ。
ある夏、安下宿共闘会議は大文字の送り火協力スタッフとして申し出たが「わけのわからない集団」と思われ体よく断られた。

「おのれ、我々の協力を拒否するなど許せん!」

とばかりにテロを決行。
東山の如意ヶ嶽のスグ右側の山の斜面にトーチを手に取り集まった安下宿共闘会議の学生たちが描いた文字が「便」。
京都市中から眺めると「大」の字と「便」の字が組み合わされ、「大便」と描き出された。

私のお気に入りのいしい漫画の一つなのだ。


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兵庫県立美術館で開催している「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」展を鑑賞してきた。

この展覧会は昨年東京都現代美術館に別の展覧会を観に行った時に開催されていた展覧会で、その時は時間もないし関心もなかったし、平日にも関わらず随分と混雑していてチケット売り場に行列ができていたので鑑賞しなかったのだ。
しかも、なによりもそれよりも、私は皆川明を知らなかったのだ。

「この展覧会見に行きたいねん」

と兵庫県立美術館のウェブサイトを開いて私に言ってきたのはカミさんなのであった。
「つづく」
と書かれた展覧会の名前を見た私は、
「ん、どこかで見たことのあるような」
と思ったものの東京で目撃いしていたことは記憶の奥深くに入ってしまっていて思い出すことはなかった。

久々の兵庫県立美術館ということでコロナばかりで引きこもりもつまらないので展覧会に行くことにしたが、ここもご多分にもれずに予約制になっていた。
事前に鑑賞したい日時を選んでローソンチケットで購入してから会場に行かなければならなかったのだ。
したがって購入してからのキャンセルが効かず覚悟を決めて見に行く必要があった。
しかし東京都現代美術館のようにチケット売り場に並ばなくても良いというメリットもある。
そう思いながらローソンでチケットを受け取っって会場へ行ってみると結局インフォーションでチケットの確認手続きがあり並ぶことになってしまった。
なんという手間。

とはいえ入場制限をしている美術館はゆったりとしていていい。
コロナは歓迎できないがゆったり鑑賞は大歓迎だ。

皆川明はファションデザイナーということで私の不勉強もて手伝ってくれているうえ興味があまりない分野でもあったのでカミさんと違って期待をせずに見に行った。
この期待をしないという心理的準備は時に感動を増幅させる効果があるが、今回はまさにそれなのであった。

まず、エントランスの壁に貼り敷き詰められたクッション。
これが色彩と質感で面白い。
しかも兵庫県立美術館は安藤忠雄設計のコンクリート壁。
この安藤忠雄の意匠の世界と皆川明のファッションデザインの世界が融合して面白い空間を作りだしていた。

「これは.......面白いかも知れない」



今回の展覧会ではもちろん皆川明が得意とする独自のデザインのテキスタイルを使った衣装デザインが多く展示されていたが、デザインスケッチや、発想のもとになった絵画やコンセプト建築など分野は多岐に渡っていたのだった。
私もデザイナーの端くれでもあるので、こういう幅広くデザインのコンセプトや発想、その流れを紹介する展覧会は大好きである。
とりわけ切り紙で構成された海と泳ぐ人の絵やテキスタイルのためのパターン案の数々は見応えがありしばし見惚れることも少なくなかった。
普通であれば一つの作品の前でじっと見続けることなできないに違いない。でも今回は人が制限させているために作品の細やかさや思いに没入することができ素敵なひとときを過ごすことができたのであった。

なお図録が4000円以上するのはなんとかしていただきたかった。







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京都市立美術館が3年間の休業を伴う大改装プラス増築が施されてこのほど京都市京セラ美術館としてリニューアルオープンした。
いったいどのような美術館に変貌したのか。
休館前はお気に入りの美術館の一つであっただけに、どのようにリニューアルされたのかに大きな関心があったのだ。

たまたまこの日。
知人が京都市内で個展を開催しているとのことで、その個展を訪れるついでに市立美術館を訪れることにした。
平日でもあるしインバウンド休止状態の京都は空いている。
普段は大観光エリアである平安神宮を中心にした東山エリアも混雑しておらず駐車場も容易に探すことができると思ったこともある。

京都市立美術館を最後に訪れたのは2015年に開催された「パラソフィア」という巨大なアートイベントだった。
このパラソフィアは世界的に活躍する著名なアーティストはもちろんメディアや一般の作家も参加しているという京都市内全体を会場としたインスタレーションを主体とするアートだった。
京都市立美術館は市立文化博物館とともに中心的な会場で私はたまたまこのアートイベントに遭遇する形で鑑賞することになった。
圧巻だったのは京都市立美術館の中央ホールに設置された巨大な造形物「京都 ダヴィンチ」というNYで活躍する中国人作家の作品であった。
多くの作品が生き生きとしており、それが美術館の建物と渾然一体となり有機的なエネルギーを放っていたのだ。

あれから5年。
京都市立美術館のリニューアルは多くの関係者の思いが錯綜して難航しているというような噂も途中で耳にすることがあったものの、やはり日本を代表する美術館の一つでありその進化は常に注目されていたのだった。
私も市立美術館の向かいにある京都国立近代美術館を訪れるたびに工事中の市立美術館が気になりしばし工事の風景を見つめたものであった。

今回新たになった美術館を訪れて最初に驚いたのは玄関が地下になっていたことだった。
正しくは玄関側の広場が半円形の臼状に掘り下げられていて旧正面玄関の真下に近代的なガラス張りの玄関口が設けられていたことだ。
もともとの建物の色である淡い土色を基調にした入り口までのスロープは石張り。
緑がなんとなく少ない。
午後の陽光と共に全体が輝いてるように見えるのは狙ってのことなのか。
玄関の両側は右側(南側)がミュージアムカフェ。左側(北側)がミュージアムショップになっていた。
両方とも外部からでも中の様子がくっきりと眺められる綺麗さがある。
玄関を入り正面ロビーにでると左側にチケット売り場があった。

チケットにはバーコードが印刷されていた。
このバーコードが新しいシステムの要の一つのようで、各展覧会に入場する際にはこのバーコードを「自動改札」にかざして入るシステムになっていた。
また各展覧会を出るときもこのチケットは必要で、出口にある自動改札のセキュリティにかざさないと出ることができない。
美術館に自動改札が必要かどうか不明だが、できれば無いほうが自然ではないかと私は思う。
この無味乾燥なアートとは程遠いシステムを導入させたのは誰なのか。
大いに気になったりした。

パラソフィアの時に巨大なインスタレーションが展示されていた中央ホールは真っ白に塗られ、各展覧会へのジャンクションの役割になっていた。
入館者がコロナ対応で規制され少ないこともあったが、なんとなく白い壁に囲まれた人工的な洞窟にいるような気がする。
ホールを抜け東側へ出る。
そこには大きな一枚ガラスで構成された高さ3mはあろうかという広い窓が広がり、その向こう側に日本庭園が見える。
庭園の中央にはガラス張りの茶室がある。
これは今開催されている写真家杉本博司のデザインによるものであるという。

モダンだ。
でもこのモダンさが京都に馴染むかどうか。
大いに考える必要もありそうな気がする。

庭園の向こうには東山の景色が広がりこれは京都らしい風景だ。
この庭園の左手、つまり北側に新たな展示棟が建てられていた。
10年ほど前にルノワール展を訪れた際、家族で90分並んで待った外構のところだ。
建物は新しく生まれ変わり、清潔感が漂いクールである。
しかし一方において冷たさを感じるクールであり、かつハイテクシステムを使った入退場管理や色調、奇をてらっているようで実はどこかで見たことのあるような意匠の数々は、果たしていいのか悪いのか。
ファインセラミックの世界企業の冠がついているからかどうかはわからないが、どことなく冷たい空気が漂う凍った美術館になってしまっているのではないか。
外は真夏の京都で摂氏35℃以上に違いない。
しかし美術館の中は冷房以外に冷たいものをなにか感じるものが漂っていた。
つまりあのパラソフィアで感じた生き生きさは感じられなかったのだ。

なお、メインの展示である「杉本博司 瑠璃の浄土」展はボリューム・内容からすると入場料1500円は高いと思った。
それが「ん〜〜〜〜、なんとなく期待はずれ」となって冷たいと感じさせたのかもわからない。




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飛騨高山を訪れるなら、必ず訪れたい観光スポットは「高山陣屋」であった。

江戸時代。
高山は天領だった。
高山陣屋はその徳川幕府の役所跡で、現存する江戸時代のホンモノの役所の建物はここだけだ。
全国唯一の歴史的建造物なのだ。

急ぎ足での高山巡りのハイライトとして訪れた高山陣屋はこの日、無料開放日だった。
コロナで凹んだ観光客の増加を狙っての政策なのか、それとも文化関係のイベントなのか、ラッキーな訪問になった。

コロナ対策で入り口でサーモカメラを使った体温測定があった。
「38度です。」
「えっ!?」
いきなりビックリだ。
朝早く大阪を出発して睡眠時間が少ないということを除くと体調は絶好調だ。
なのになぜ?
みたらし団子の件もあり味覚は失っていない。
「やっぱりだめだ。」
と計器担当の人がつぶやいた。
「だめ?」
「炎天下歩いてきてもらったら皮膚が焼けて体温が高くでてしまう」
「ん?」

この日。
朝は雨で大変だったのだが天気が回復。私がここを訪れた時はピーカン照りの夏日になっていた。
徒歩できた私は帽子もかぶらずにやってきていたので一見体温が高いように見えたのだろう。
しかもこのヘンテコリンな結果は私が初めてではないようで、要はせっかく用意したハイテク装置なのに役たたずになってしまっていたようなのであった。

「どうぞ、入ってくださいね」

案内の人に促されるまま正門を入って玄関口で靴を脱ぎビニール袋に入れる。
出口は別の場所なので靴は持って歩いてくださいとのことであった。

江戸時代の建物。
とりわけ武家の建物を初めて意識して見たのは山口県萩市にある武家長屋を訪れたときだっただろう。
あの時は江戸時代といっても幕末の騒乱期にその中心的存在になる長州藩出身の英雄たちのあれこれを訪ねて回るというのが目的だった。
松下村塾。
明倫館跡。
高杉晋作の生家とお墓。
野山獄跡。
などなど。
その中に武家長屋があった。
ホンモノの武家屋敷は現在の建物と大きく異なったのは明かり取りに工夫していることだったと思う。
江戸時代は電気もないし行灯の油は高価なので昼間でも薄暗くなるうような作りには絶対することなく、外の明かりでも部屋で執務がやりやすいように外に向かって縁側や障子などが広々と取られていた。

ここ高山陣屋でも同様なのであった。
入ってすぐのところは広い役所スペース。
間に柱のない大広間になっていて、そこには見台が置かれていた。
板敷きの廊下がその執務スペースの前をズズズッと奥まで続いている。
廊下の右側が明り取りで、左側が畳敷きの執務スペースだ。
かつてはここで多くのお役人様たちが働いていたのだろう。
なんとなくその時代の息吹が感じられるのがいい。

少し行くと別の棟になっていて町年寄や僧侶の詰め所などがある。
詰め所は4畳半というか6畳ぐらいの広さで落ち着ける雰囲気がある。
こちらは廊下からも入れるし、その反対側には小さな玄関が有り、正面から入らなくともここへ詰めることができるようになっていた。
おそらく通常はこちらから入り、身分の高い人や何らかの正式な入り口は廊下側からだったのだろう。
私はこの詰め所のスペースがなかなかいいな、と思った。
仕事をするのであれば、ここなら落ち着いてできるような雰囲気が漂っていたのだ。

陣屋の建物は実際にはいくつかの棟に分かれているのかも知れないが廊下が全てつながっていてかなり広い。
南側、西南側は広い庭になっている。
代官が生活した部屋は「嵐山の間」と呼ばれており縁側からは一面に庭園が望まれる。
京都を意識した作りでなかなかな風情がある。
こういう場所でゴロンとしてみたいものだ。



台所は板敷きで清潔感がある。
これが町家や農家であれば土間になっているはずだが、流石に役所。
しっかりした作りになっていて土間で料理を作るようなことはなかったのだろう。
ここで時代劇のシーンが正しく作られているのかどうか、少しく気になり始めたのだ。
そもそも時代劇の台所シーンなど、なかなか目にすることは少ない。
「長七郎天下御免」では日本橋浜屋という仕出し屋がメイン舞台になっていたが、あっちは武家屋敷ではないのでこんな雰囲気ではなかった。
「武士の献立」の映画は見たのだが、詳細まで思い出すことはできない。



どうしたものであろうか。
次第に私は無意識に時代劇の諸々のシーンと実際の陣屋の建物を比べはじめてしまっていた。
時代劇ならあのシーン。
ここに仲代達矢が居ると様になるだろう。
あそこに川谷拓三の忍者が潜んできたら面白い日がない。
などなど。
文化財ではなく京都太秦映画村のセットの中を歩いているような感覚になってきたのだ。
で、その感覚が頂点に達したのはお白州に到着したときだった。

江戸時代の陣屋は裁判所の役割も果たしていて裁判所にあたるお白州もあった。
ここには各種拷問具や囚人護送用の籠など、時代劇ではおなじみの様々な小道具大道具が置かれていた。
「おお、ホンモノのお白州」
私は暫しその薄暗い部屋を見つめていたのであった。

お白州のスグ南側が出口になっていた。
その先は収蔵庫になっているようだったが、この日、そちらは立入禁止になっていた。
おそらくコロナの関係だろう。
警備も十分にするのは難しい状況なのかもしれない、と思った。

それにしても素晴らしいコンディションで保存されているものだ。
同様の施設では以前大阪の鴻池新田駅近くにある鴻池新田会所跡を訪れたことがある。
そちらはやはり江戸時代の建物なのだが幕府の建物ではなく鴻池という豪商が幕府から委託を受けて地域の行政を司っているという場所なのであった。
委託なので会所は役所というよりも民間の庄屋屋敷みたいな感じなので高山陣屋とは大きく雰囲気が異なっていた。
やはり身分が異なると、いかに天下の豪商鴻池といえどもそのスタイルは高山陣屋とは差があるものなのだろう。

高山の名所。
訪れてよかったと思ったスポットなのであった。





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数年前。
50回目の誕生日を迎えるのを待たずに髪の毛が薄くなり始めた。

「髪の毛、薄くなるで」

と30代の頃に予言をしてくれた同僚の予言は正しかった。
彼は理髪師の免許を持っていて髪を見るとその人の数年後の運命がわかるのだと言っていた。プロの目検はすごいものだ。
すでにペーパー理髪師というか現場からは遠ざかって数年が経過していたが、理髪師の経験は彼の脳に焼き付いていたとうわけだ。
この時は私も髪の毛がふさふさしていた。だからやがて訪れるであろう「髪は長ーい友達」の事態は予想することができず、

「そんなことはないでしょ」

と返していたものだった。

あれから年月が経過して、たしかに頭頂部が怪しくなりオデコも谷村新司ほどではないが、広くなってきているような気がする。
鏡を見てみると確かに髪の毛がかなり薄くなり、頭頂部が顕著でもある。
大阪府堺市の小学校ではずいぶん早い段階で南蛮貿易の授業があるのだが、その時に必ず登場する聖フランシスコ・ザビエルの肖像画を見ては「カッパや!」と言っていたのだが、今私自身の頭がその肖像画に近づいてきていることに年月のあれこれを感じてしまうのだ。

で、カッパハゲ。
頭頂部が薄くなってきているのを気にしていると、白髪もすごく増えてきていることに気がついた。
私はどちらかというと司馬遼太郎とは正反対でなかなか白髪が出てこなかったのだが、最近目立つほど白髪が増えていることに気がついた。
で、単純に考えたのが「髪を染めるかどうか」だ。

でもここで思考にストップがかかった。
ハゲて来ているのに染めてどうするんだという疑問だ。
染めてもハゲは改善されることはない。
かといって白髪そのままもどうなんだろう。

ハゲと白髪。
なかなかどうバランスをとるのか難しい状況だ。

なお、今年89歳の父は70代のときに丸刈りにしてしまった。
ある意味、これが正解かも知れない。


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