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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

雲見 3mmの差(2)

2008-11-11 22:38:51 | プチ放浪 海沿い編

 

「海中撮影への招待(→うろ覚え)」なる本の著者は、水中写真家の中村征夫氏の年譜と照らし合わせると年齢が合わず、中村氏よりもさらにその前のダイビング界の先駆者の方と考えられる。
そもそもダイビング機器は、その昔、潜水艦などとともに第二次大戦中に戦争兵器として開発されたものだ(と思う←いいかげん)。
大戦中の1943(昭和18)年にフランスの海洋生物学者ジャック・イブ・クストー がアクアラングのプロトタイプの製作に成功し、日本にアクアラングが最初に輸入されたのは、7年後の1950(昭和25)年のことだ。
ジャック・イブ・クストーのアクアラング開発ストーリー「海は生きている」の本が刊行されたのは1953(昭和28)年。このころから、アクアラングは一般化してきたのかもしれない。 
1961(昭和36)年にダイバーが漁を行い、真鶴にて漁民とのトラブルになっている。各地でこうした漁民とのトラブルが問題になり、翌年には小田原にて潜水士試験が行われ、潜水士資格が設定された。
水中撮影ができるようになったのは、1963(昭和38)年にニコノスⅠが発売されてから。翌年、1964(昭和39年)に伊豆海洋公園(東拓海洋公園)がオープンしてダイビング人口が増大しだした。
 ぼくが小学生のころに読んだ「海中撮影への招待(→うろ覚え)」なる本は、このころに出版されたものと思われる。

当時のレギュレータにはゲージ(残圧計)がなかった。だから、バイクのガソリンタンクのようにリザーブバルブが付いていて、あと30気圧になったときに一度空気が止まる仕組みだったようだ。ところが、このリザーブバルブ(Jバルブ)の設定を忘れて潜ると、30気圧で空気がいったん止まることなくタンクはカラになる。では、どうやって、タンクの残圧がゼロで深い海の底から帰還するか・・・・・・こんな古い時代の話をしてくれるインストラクターはカズさんぐらいで、後はいなくなってしまった。当時はマスクの曇り止めさえなく、濡れたタバコの吸殻でマスクの内側のガラスを拭いてその代わりにしていたと言う。


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雲見 3mmの差(1)

2008-11-10 22:06:58 | プチ放浪 海沿い編
 

ぼくがダイビングに興味を持ったのは、はるか大昔のこと。小学校からの帰り道に立ち寄った市の図書館で、「海中撮影への招待(→うろ覚え)」なる本を手にした時である。
だから、もう、40年も前になる。
当時、スキュバ(スクバ)ダイビングという用語は統一されておらず、フランス(?)のダイビングギアのメーカー(半世紀以上前に、世界で始めてダイビング機材を世に送り出したメーカー)のアクアラングと混同して使われていたように思う。当時、唯一の機材メーカーゆえに、ダイビングスポーツの代名詞だったわけだ。
このころダイビングに興味があったといっても、決して海にあこがれていたわけではない。むしろ、小学校のころはまったく泳ぎができなかったし、中学校の水泳検定で25m泳げずに途中リタイアしたから、むしろ水は苦手だった。これが泳げるようになったのは、大学のときに海洋博の数年後の沖縄に遊びに行き、暖かな海でリラックスすることを覚えてからだ。
沖縄の浅瀬の海底にごろごろあったバフンウニを、かたっぱしから採って割って食べていたのだが、潜ろうとしても人の体には浮力があり、潜ることが難しいことを学習して泳ぎを覚えた。
だから、そのとき興味があったのは、ただ単純にダイビングの方法。つまり、小さいころ、宇宙ロケットにあこがれるのと同じ次元で、アクアラングの道具に興味を覚えたのだった。そんなわけで、何度も繰り返してその本を読み、その年の夏には、学研の付録についてきたビニールパイプを組み合わせて手製のシュノーケルを作るに至ったのだが、実際の海で使ったところ、手製シュノーケルの先端が水面より上に出ることはなく、しこたま海水を飲んでその夏は終わった。


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雲見 幻のサカナ

2008-11-09 19:13:06 | プチ放浪 海沿い編



幻のサカナというと、何を思い浮かべるだろうか?
矢口高雄の漫画、”釣りキチ三平”の愛読者なら、山形県朝日村大鳥池の「タキタロウ」、釧路湿原のイトウ、四万十川のアカメ。しかし、秋鮭の鮭児も含めて、残念ながらダイバーがこれらの(淡水)魚を目撃するチャンスは少ない。
一方、海水魚としての幻のサカナ。雁屋哲原作、花咲アキラ作画による『美味しんぼ』(おいしんぼ)では、幻のサカナとして「アラ」が出てくる。

魚偏に荒と書いて「アラ」。漫画でも描かれているが、スズキ目ハタ科に属するクエ(九絵、学名:Epinephelus bruneus)の九州での地方名で、ややこしいことに、同じハタ亜科に属するアラ属のアラ Niphon spinosusとは別種だ。
このクエの地方名として、モロコ(西日本各地)、マス(愛知)、クエマス(三重)、アオナ(四国)などもある。
クエは先に書いたようにスズキ目ハタ科マハタ属で。茶褐色で、所々に6
本の黒褐色の斜走黄帯。
似たような体型の魚であるマハタ(Epinephelus septemfasciatus) は、スズキ目スズキ亜目ハタ科。体側に縦に7本の黒褐色のしま模様。ああ、ややこしいー。

マハタはあちこちの海で、50cmサイズのものを見かけるから、幻のサカナというほどではないのかもしれない。
さて、『美味しんぼ』で絶賛の「あら」。九州では大型のハタ類を総称するときも、アラと呼ぶ。漫画に出てきて以来、人気の「あら鍋」だが、九州で「あら鍋」というと実はクエ鍋を指すことが多い。ところが、グルメ雑誌などには単に「あら鍋」と書かれているのだが、この場合、ハタ科クエをさす「あら鍋」か、スズキ亜目ハタ科ハタの「あら鍋」か、ハタ科アラの「あら鍋」か、はてまた、魚の身を取ったあとに残る頭や骨や鰓などを鍋にした「あら鍋」か、まったく分からない。その上に輸入の怪しげな「クエ」や「あら」と呼ばれる白身魚の身の鍋も出回るので・・・・・・ああ、ややこしいー。

そして、最近、ベテランダイバーのオバサマから聞いた究極の幻のサカナ。
イントラのカズさんと他のゲストたちが、砂地の海底を取り囲んで覗き込んでいたらしい。カズさんが指差す先を、一緒に潜ったゲストたちが一生懸命、見ていたとのことだ。
オバサマがその輪に頭を突っ込んで、目を皿のようにして見ても、何もない砂地しか見えない。
そのうちに、ゲストたちがレギュをくわえたまま笑い出し、何のことかわからずにきょとんとしていると、実は、そのオバサマを罠にはめるトラップだった。当然のことながら、オバサマは水の中で怒り狂ったらしいのだが・・・・・・。チョイ悪のカズさんはお茶目で、年配のダイバーに対して、ときどきこんないたずらをする。
・・・・・・気をつけなくては。


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雲見 ちゃんとした唐人お吉の話

2008-11-08 22:44:18 | プチ放浪 海沿い編

 

彼女の19歳当時の写真がここにある。→http://underzero.net/html/tz/tz_244_1.htm
確かに美しい。凛とした眼差しとキリリとした口元が印象的だ。1859(安政6)年、当時の女性がこのような髪型をしていたかどうかは不明だが、当時ではあり得ないカラー写真であることを考えると、多少のCGによる修正が入っているのかもしれない。
いずれにせよ、後世の男どもの心をがっちりと引き付けるビジュアルであることは間違いない。

本名・斉藤きち。愛知県知多郡内海に船大工市兵衛の次女として生まれた彼女は、7歳の時に下田新田町村山家の養女となる。
1857(安政5)年17歳の時に、将来を誓った大工鶴松との仲を引き裂かれ、下田奉行の命により米総領事タウンセンド・ハリスの元に奉公に出る。
安政元年(1854年)。ペリーが浦賀に続いて下田に来航し幕府に通商圧力をかけ「日米和親条約」が結ばれ、ハリスが日本総領事として赴任した頃の話だ。
彼女に関する伝承や水谷八重子主演の映画では、お吉は妾とされているが、事実は、ハリスが病に伏したためその看護のために雇われたらしい。
アメリカによる通商圧力に抗しえず開港した幕府には、お吉を通じて情報を仕入れ、交渉を有利にしようとした意図があったのかもしれない。いわゆる色仕掛けというやつ。しかし、ハリスの病気の記録や51歳という年齢と、謹厳実直なハリスの性格を考えれば、お吉とハリスの間には肉体的な関係がなかったのではと推測する。というのも、お吉は契約に沿って3日間、看護婦として接したのだが、ハリスに幕府の意図を勘づかれ彼女は自宅へ帰されているのだ。お吉が妾として数ヶ月奉公したという説は、実際にはお吉の雇用契約が打ち切られた期間をさすのではないだろうか。

それでも、奉公を辞した後のお吉は、恐ろしい人喰い赤鬼の妾ということで下田の民から「洋妾(らしゃめん)」とさげすまれた。それが生涯続いた。幼なじみの船大工・鶴松と横浜に所帯を持つものの、次第に彼女は酒に溺れ別れることになる。
幼少の頃を過ごした下田に戻ってきたお吉は、髪結いや小料理屋をするもうまくいかず、1890(明治23)年51歳の時に、食い詰めた彼女は稲生沢川の上流・お吉ケ淵に身を投げた。その遺体は引き取り手がなく、「さわると指が腐る」と二日間菰をかけられ放置されたらしい。それを哀れんだ宝福寺住職が「如来の腕に抱かれた兄弟」として、彼女の遺体を引き取って弔ったのだ。

なぜ、彼女は鶴松と所帯を持った横浜を離れ、下田に舞い戻ったのだろうか。横浜の地なら、人の目の陰に埋没して、それほど他人からさげすまれることはなかったと思うのだが。お吉の負けん気の強い性格が逃げることを良しとしなかったのだろうか。
下田駅から徒歩5分のところにある宝福寺。境内には、お吉の墓がある。今度、機会があれば、インストラクターを誘って彼女の墓のお参りをしてみようと思っている。


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雲見 唐人お吉

2008-11-07 23:43:00 | プチ放浪 海沿い編

 

先日の田子でのダイビング2日目。欲張って4本潜ったぼくは、すでにダイビングを終えてクラブに戻ったゲストたちとは別に、一緒に潜ってくれたイントラと2人で下田に帰ることになった。
あたりには夕闇が迫り、昼間はあんなに賑わいを見せた田子の港には、もう、ほとんど人影が失せて閑散としていた。秋の風に吹かれて、港に係留された漁船が波間に静かに揺れていた。
イントラの彼女は、ダブルキャブトラックの長いホイールベースが苦手と言いながら、器用に車を運転していく。連休中日の日曜日の夕刻。下田に向かう136号線。家路を急ぐ車が時折、猛スピードでぼくらの乗ったダブルキャブを追い越していった。
ワインディングロードのカーブから、夜の帳に包まれた断崖と海が見える。眼下に白い波と群青色の海が広がっていた。

彼女は、例によって好きな音楽カセットがあったらどうぞと勧めてくれる。この時間、このシチュエーションでJAZZというのは反則技なのだが、以前、トシ君の運転で聞いたテープを選び出す。ダブルキャブの室内に、静かに流れ出す心地よいコンテンポラリージャズの曲。誰の演奏かはわからないが、スタンダードの名曲、フライミー・トゥ・ザ・ムーンだ。空には、新月を経て細く輝く三日月。
空腹でも口数が多くなるという、いつもおしゃべりな彼女が、音楽に耳を傾けて沈黙しがちになる。これで、ぼくが車を運転していたのなら、ぼくは間違いなく確信犯だ。

松崎街道を右折して414号線。下田湾に注ぐ稲生沢川沿に走る道路。その途中にお吉ケ淵がある。下田奉行の命により米総領事ハリスの元に奉公に出て、恐ろしい人喰い赤鬼の妾ということで、生涯、ラシャメンとさげすまれた薄幸の美女のゆかりの場所だ。

「唐人お吉って知ってます?」
ジャズの調べに乗せて、ぼくは彼女にたずねた。
「トウジン?オキチ?」
「そう、下田にハリスが来たでしょ。そのころの話」
「江戸時代の末期ね」
「っていうか、明治時代の初め・・・・・・」
「・・・・・・」
「<必ず戻ってくるから>と甘い約束をして、ハリスはお吉の元を去ったけど、もちろん、帰ってくる気などさらさらなかったんだ。
その約束を信じるお吉さん。彼女のおなかには、ハリスの子どもが宿っていた。
って、あれ?なんか話が違うくね?」
「・・・・・・」
「最後は、お吉は身投げして死んじゃうんだけど、ハリスがオーストラリアに遺灰を持っていて・・・・・・」
「それって、セカチュウじゃないですか?見てないけど」
「そう、松崎町でロケがあったんだよね?」

ということで、春には桜並木がきれいという陽が落ちた松崎街道を、心地よいジャズの調べを聴きながらのドライブ。
唐人お吉のちゃんとした話は、次回のドライブまでの宿題ということで、下田に到着。
・・・・・・ちゃんとした唐人お吉の記事は明日へ続く。


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