tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

雲見 ちゃんとした唐人お吉の話

2008-11-08 22:44:18 | プチ放浪 海沿い編

 

彼女の19歳当時の写真がここにある。→http://underzero.net/html/tz/tz_244_1.htm
確かに美しい。凛とした眼差しとキリリとした口元が印象的だ。1859(安政6)年、当時の女性がこのような髪型をしていたかどうかは不明だが、当時ではあり得ないカラー写真であることを考えると、多少のCGによる修正が入っているのかもしれない。
いずれにせよ、後世の男どもの心をがっちりと引き付けるビジュアルであることは間違いない。

本名・斉藤きち。愛知県知多郡内海に船大工市兵衛の次女として生まれた彼女は、7歳の時に下田新田町村山家の養女となる。
1857(安政5)年17歳の時に、将来を誓った大工鶴松との仲を引き裂かれ、下田奉行の命により米総領事タウンセンド・ハリスの元に奉公に出る。
安政元年(1854年)。ペリーが浦賀に続いて下田に来航し幕府に通商圧力をかけ「日米和親条約」が結ばれ、ハリスが日本総領事として赴任した頃の話だ。
彼女に関する伝承や水谷八重子主演の映画では、お吉は妾とされているが、事実は、ハリスが病に伏したためその看護のために雇われたらしい。
アメリカによる通商圧力に抗しえず開港した幕府には、お吉を通じて情報を仕入れ、交渉を有利にしようとした意図があったのかもしれない。いわゆる色仕掛けというやつ。しかし、ハリスの病気の記録や51歳という年齢と、謹厳実直なハリスの性格を考えれば、お吉とハリスの間には肉体的な関係がなかったのではと推測する。というのも、お吉は契約に沿って3日間、看護婦として接したのだが、ハリスに幕府の意図を勘づかれ彼女は自宅へ帰されているのだ。お吉が妾として数ヶ月奉公したという説は、実際にはお吉の雇用契約が打ち切られた期間をさすのではないだろうか。

それでも、奉公を辞した後のお吉は、恐ろしい人喰い赤鬼の妾ということで下田の民から「洋妾(らしゃめん)」とさげすまれた。それが生涯続いた。幼なじみの船大工・鶴松と横浜に所帯を持つものの、次第に彼女は酒に溺れ別れることになる。
幼少の頃を過ごした下田に戻ってきたお吉は、髪結いや小料理屋をするもうまくいかず、1890(明治23)年51歳の時に、食い詰めた彼女は稲生沢川の上流・お吉ケ淵に身を投げた。その遺体は引き取り手がなく、「さわると指が腐る」と二日間菰をかけられ放置されたらしい。それを哀れんだ宝福寺住職が「如来の腕に抱かれた兄弟」として、彼女の遺体を引き取って弔ったのだ。

なぜ、彼女は鶴松と所帯を持った横浜を離れ、下田に舞い戻ったのだろうか。横浜の地なら、人の目の陰に埋没して、それほど他人からさげすまれることはなかったと思うのだが。お吉の負けん気の強い性格が逃げることを良しとしなかったのだろうか。
下田駅から徒歩5分のところにある宝福寺。境内には、お吉の墓がある。今度、機会があれば、インストラクターを誘って彼女の墓のお参りをしてみようと思っている。


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