彦四郎の中国生活

中国滞在記

なぜ日本に「土堡」や「土楼」のような村人の城はできなかったのか②中国の歴史の真実

2016-04-01 19:45:16 | 滞在記
 前回のブログ号では、❶―日本の城郭と中国の城郭の比較と違い―について述べた。戦争時になると、中国では城郭の構造にもより、大量の住民虐殺・殺戮が行われてきた歴史だったとも言える。
 今回と次回のブログ号では、❷―中国と日本の歴史における「大虐殺・殺戮」の歴史という視点から比較―してみたい。❶と❷の2つを日中比較することにより、「なぜ日本に土堡や土楼のような村人の城はできなかったのか」という疑問を解き明かす根底のようなものが見えてくるように思われるからだ。

  ❷ ―中国と日本の歴史における「大虐殺・殺戮」の歴史の比較と違い―


   (1)―日本人にとっての中国の一般的な歴史観(感)―
 上記の写真は、上の段の左より3枚は「キングダム」という日本の漫画である。戦乱で両親を失った主人公たちがたくましく生きていく物語で、「友情・勇気・愛」などをテーマとした「ワンピース」(漫画)とも相通じるところがあり、週刊少年漫画誌に連載されたこともあり、若者層に人気がある。時代背景は、中国の古代王朝「殷」や「周」である。(※漫画は紀元前1000年頃の時代背景)
 4枚目は司馬遷の「史記」に関する本。(※「史記」は殷や周、春秋戦国時代から中国の最初の大帝国ができた「秦」の時代成立と滅亡、漢の成立前後の約2000年間の歴史を叙述している。)
 5枚目は「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)。秦帝国滅亡後、漢帝国の樹立までが歴史的背景となっている。(※紀元前200年頃)
 そして6枚目は映画「レッドクリフ」。漢帝国滅亡後の「三国志」の時代が時代背景となっている。漫画「三国志」(横山光輝)は、現在50代以上の年齢の人は、この漫画を読んで中国の歴史の一端を知った人も多い。(※紀元後200年頃の時代。紀元後250年頃に、日本では「邪馬台国」がようやく成立している。)
 7枚目は「水滸伝」。これも横山光輝の漫画で有名になった。最近では「水滸伝」(北方健三著)の小説がある。時代背景は宋の時代(※1100年頃の時代背景)
 下段は、「岳飛伝」(※1140年頃の時代背景)。中国人にとって最も人気が高い武将であるが日本人はあまり知らない。非業の死をとげた日本での源義経や真田幸村とよく似た国民感情を持たれている歴史上の人物だ。日本のBS放送では、岳飛のドラマが放映されていた。
 あと、清朝末期を描いた「蒼穹の昴」(浅田次郎著)などもすばらしい歴史小説。その後の1911年から現在にいたる中国の歴史については、かなり知っている日本人も多い。(※日本人は、1842年のアヘン戦争以後の中国の歴史については 割と知っているようだ。私も同じだが---。しかし、それ以前の中国の歴史については、上記で紹介した「本」や「マンガ」「ドラマ」などで、時代を断片的に知る人が多い。)

 1980年代にNHKスペシャル番組「シルクロード」や「海のシルクロード」が放映された。この番組は、日本人の中国の歴史観(観)に多大な影響を与えた。その後の2000年代の初めに放映された「大黄河」もそうだ。多くの日本人が歴史ロマンを求めて「西安」や「敦煌」などへの旅行が大ブームとなった。
 日本人の多くは よく「中国4000年」の歴史という。「遥かなる悠久の4000年」とか--。「中国4000年の歴史には敬意を払う」など。私もそのようなイメージをもっていた一人だが、中国史を少し詳しく学び始めてから、このイメージが少し変わってきている。
 それは、この4000年の歴史は、実は繰り返される王朝の断絶(滅亡)と新王朝の成立、そして日本の歴史とは比べられないくらいの大虐殺(殺戮)が非常に大規模に繰り返された歴史であったということだ。それは近現代にまで至っている中国の歴史の裏面(中身)である。


―(2)中国4000年の歴史の恐ろしさ―
 中国の歴史は「大虐殺・殺戮」を伴った、王朝交代の歴史である。同じ王朝時代にも、皇帝の継承をめぐって大虐殺が行われている。多くの民族間の争いをともなってもいるのが中国の歴史である。日本のように同じ民族間の政権をめぐる争いの歴史という国の方が世界的には珍しいのかもしれない。
 中国のこのような歴史をめぐる実相を象徴する言葉が「易姓革命(えきしょうかくめい)」である。「易姓革命」とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳という言葉が使われているが、実のところは新王朝の正当性化を強調するために前王朝と末期皇帝や前皇帝の不徳と悪逆をを強調する。それを正当化する理論として機能していたのがこの思想なのだ。
 そのため、中国の歴史は、決して誇張ではなく血を血で洗う、前王朝や皇帝に関係する人々を徹底的に大量殺戮するという4000年の歴史といってもいいくらいで、私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史で全くないようだ。
 中国の「儒教」も中国の歴史に大きな影響を与えた。年長者や上司を敬うなど、社会秩序維持の面では国家理念の中心となり、日本にも伝えられた儒教。(江戸幕府の支柱となった朱子学はその一流派。) この儒教は、「親の仇を討ったら、その肉を食え。死んでいたら墓を暴け。肉が残っていたらそれを食え。」「復讐は九十九代に渡り、敵の骨を砕いて飲め」という教えがある。このため一族皆殺し(※「族誅」)は、中国では歴史上多く起きた出来事なのである。(※日本では「儒教」は、儒教の中の「礼」「義」が強調され、自分の利より公を重んじる面が受け入れられた。「族誅」などの面はあまり受け入れていない。)

 王朝が変わるごとに、または新皇帝の誕生ごとに、そして異民族間の国内での政権争いの4000年もの歴史の中で、大虐殺・の歴史は枚挙のいとまがないほどだ。一つ例を上げる。1636年に成立した「清王朝」は、1644年に都を北京に移す。中国南部に残っている「明朝」の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすざましい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間をする」のである。こう言うと「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのはほとんどが武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間が全て殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全体を殺すことである。清の征服軍が行った屠城で最も有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」である。当時 揚州はすでに人口100万人の大都市(城市)であった。その都市で大虐殺が実行された。生き残った者は、数えるほどだったという。記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも80万人以上に達したという。
 1800年代後半の清朝末期に起きた「太平天国」の乱は、世界史上最大の内乱ともいわれるが、この内乱では当時の中国の人口の5分の1にあたる5000万人が死亡したとも言われる。すざましい。
 1920年代以降の、日本軍の侵略、国民党と中国共産党との内乱、中華人民共和国の成立に至る時代、その後の1950年代の「大躍進時代」や1960年代から70年代にかけての「文化大革命時代」もこの歴史の流れは脈々と続いてきた。

 1958年からの毛沢東の「大躍進政策」による餓死者などの数は、わすが3年間に3000万人以上にのぼるという。また、「文化大革命」の粛清による死者も膨大な数にのぼる。密告が日常的となったこの時代、中国の人々は人を信用することが難しくなるという時代を経験する。
 2013年の11月に湖南省にある、毛沢東の生家や、文化大革命当時の毛沢東の故郷の近くにある別荘の執務室や寝室を福建省教育局の研修として見学したことがある。ここで、「文化大革命」の指揮を発していた時期もあったのかと思いながら見学した。近くの省都「長沙」にはスフィンクスのような毛沢東の巨大な像が建立されていた。
 現在の中国の貨幣は、1元・5元・10元・20元・50元・100元紙幣は、全て毛沢東の肖像となっている。中国で生活するうえでは、毎日彼の肖像画を見ることとなる。現在の「中国共産党」の正当性を維持するためにも日常的になくてはならない紙幣(お金)に印刷されているわけだが---。

 















 

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