彦四郎の中国生活

中国滞在記

なぜ日本に「土堡」や「土楼」のような村人の城はできなかったのか①中国と日本の城

2016-03-31 13:35:04 | 滞在記

 2月下旬から3月中旬にかけて、福建省の三明市尤渓県の「土堡群」や福建省龍岩市永定県の「土楼群」を見学して思ったことがある。「なぜ日本に、土堡や土楼のような村人(農民)の城はできなかったのだろう?」ということである。いろいな要因があると思われるが、なぜなのか考えてみたい。
 考えるにあたって、特に2つの視点は重要かと思われる。「日本の城郭と中国の城郭の比較」と「日本の歴史と中国の歴史における虐殺史の比較」である。

 ❶―日本の城郭と中国の城郭の比較と違い―

  ―中国の城(城市)―

 上記の写真や地図は、北京の城市である。巨大な外壁の中に街があり多くの人々が住む。さらにその街の内側に内城とも言われる皇帝などが住む城がある。北京城市の紫禁城と呼ばれる城域である。

 上記の地図・絵地図や写真は左から、陝西省の大城郭「西安城市」と福建省の「尤渓城市」である。外壁の内部に多くの住民が住む城の造りとなっている。このため中国の城は「城市」と呼ばれる。
 ひとたび戦争となり城市が包囲されると、何万人という住民もこの城に立て籠もることとなる。城から出る門には包囲される前から兵士が警戒しているので、脱出することは難しい。城市が陥落する時、大虐殺が始まることとなる。小さな城市である尤渓も同じような造りである。中国の領主にとって城を守ることは、何万人という城内の一般住民の命を守るということにつながる。

 上記の写真は、左より2枚は湖南省の「長沙城市」、3枚目は福建省泉州市にある「崇武城市」である。倭寇対策に海沿いに造られた「崇武城」であるが、この城の内部も2万人以上の人々が現在も暮らす「城市」なのである。
 「万里の長城」のような超巨大な、国を囲むような長城を何百年にわたって造営するというのも、中国の歴史と戦いを象徴するような人工物である。

 ―日本の城(城郭)―

 城とは、「土で成る」と書くが、日本には約3万以上の城跡があると言われている。最も多いのが近畿地方である。県単位としては滋賀県が最も多い。これらのほとんどは中世に造られた山城や平山城であり、部分的にも石垣を使っている城は少数である。ほとんどが山の地形を利用した、土と木だけで造られた城である。
 『日本城郭大系』(1980年)という本がある。全20巻あり、都道府県別の日本の城郭について書かれている。(地図や写真もある) この本には古書としてしか購入することができないが、全巻を買おうとしたら20万円以上の値段がする希少品だ。この本が、発刊以後の日本の城郭研究に与えた影響は多大でもある。
 この本を運よく購入することができて以降、私の城巡りは加速された。多い年には1年間に200余りを記録した。2009年~2012年の大学院生時代(仕事と兼務)には、「立命館大学城郭研究会」の学部学生達と一緒に城の調査に行ったことも何回かあった。
 上記の写真は、「奈良県の鹿背山城」と「京都府の周山城」だが、二つとも山城だ。山頂に造られた周山城は石垣が使われた城跡である。
 日本の城のほとんどは、住民(村人や町人)が住む村や町とは距離のある場所に造られた城である。山の麓には住民が住んでいるが、城そのものは防衛拠点を守ることを目的としたもので、住民を守るという発想では造られていない。

 京都府の周山城がある同じ町(京北町)に、中江城という山城がある。小さな城跡だが、日本の山城の典型的な型の城跡である。城に興味のある人でも、「ここは城址だ!」ということは気が付きにくい。地元の人も知らない人が多いようだ。しかし、山城に典型的な段々畑のような「堡塁」が形成され、「堀切」といわれる防御土木施設の跡もある。
 規模からも、「村人の城」のような城址なのだが、これは戦国時代にこの地を占拠していた領主「宇津一族」の城跡(※本拠地は、宇津城)のようだ。麓には村人の住まいがあるが、戦乱となったら 村人は避難することができるので、住民の大量虐殺の事態はおこりにくいと思われる。戦乱となったら、村の城といわれる場所もあったようだが、それは山の中の「隠れ場所」のようなもので、簡易な小屋もあっただろう。ここに村人は隠れ潜んだものと思われる。従って、中江城のような城跡遺構も残されていないようだ。
 『日本城郭大系』には、1万か所以上の城跡が記載されているが、「村の城」の記載はないと思われる。

 ※上記の写真 左より「江戸城絵地図」「松本城城下絵」「吉野ヶ里遺跡」
 1580年以降の近世には、「総構え」といわれる城郭が日本で造られる。小田原城や大阪城、江戸城などがそうだ。城の内堀内には「領主一族」、外堀と内堀の間の場所には「武士集団」が居住する。そして、外堀の周りに住民が居住する。これが日本の総構えの城郭だ。この総構えの城であっても、戦乱の際、住民は遠くに避難することが可能だ。
 このように、日本の城郭は中国の城郭と比較すると、「城主を守る」という城郭位置構造となっているため、住民の虐殺被害は非常に少ない。
 佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」は弥生時代の城郭遺跡だが、この時代の大型城郭遺跡は、空堀と柵の中に住民の住居も造られていたようだ。戦争に負け、城が陥落した場合、住民も奴隷とされた時代でもある。人間人口の少ない時代だから、虐殺をできるだけ避け、奴隷=労働力として生かされたのだろうか。

 ◆「なぜ日本に土堡や土楼のような村人の城は造られなかったのだろう」は、次回に続きます。


 















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