長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

一滴のお茶会

2009-11-22 07:48:26 | Weblog
無事にお茶会が終わった。

朝おきて、久保さんの黄瀬戸の花器に、わびすけを一輪投げ入れる。
木曜日に嫁いできた土岐二三の「君が代」の軸をかける。
「君が代」というのは、天皇を連想する人が多い。それは
洗脳されているようなものだ。「君」というのは、「あなた」であり、
愛する君、であり、愛しい君、である。千代に八千代に、未来永劫変らないでほしい「思い」がたくされた詩(うた)だ。

京都からきたカルロスと中村さんに、玉露を入れた。
「どこのお茶ですか?」と中村さんに聞かれたので、
「荒神口のお茶屋からとっています」というと、
「シャンクレールのところですね」とかえってきた。
カルロスは、玉露を飲んだ瞬間に、何かが憑依したみたいに
瞑想をはじめ、その後に行った玉露席で、即効の音楽を
演奏してくれた。お茶に酔う、というのがぴったりな感じで、
みんなで一期一会の瞬間の中に、永遠を感じる、ような間を共有する。
「お茶」という深遠なる世界を、縁ある人たちと旅したようなお茶会だった。

玉露の椀は、升たかさんのもの。昨年買ったものだ。同じ窯で焼いた
もう一揃いは、京都の小川流の茶人のところに嫁いだ。
そんな話をしていたら、升さんがひょっこりコーヒーを飲みにきた。
その茶人と中村さんが知人で、しかもその茶人の写真(写真家なのだ)
の展覧会でインド音楽を演奏したことがある、ということがわかった。
みんな、無駄のない縁で繋がれている。

お茶を量る「茶合」(さごう)は、角居君がつくってくれた。
茶器を入れる折敷(おしき)は、般若君がつくったものだ。
古瀬戸風の水差しは、やはり久保さんに作ってもらったものだ。
煎茶の道具は、一般には売られていない。集めるのは大変だけど、
だからこそ、ひとつひとつに、魂がこもっていて、それを使うたびに、
それぞれの作家たちの「顔」が垣間見れて、またおもしろい。

こんなに素敵な「茶という総合アート」をせっかく先人が残してくれた。
それをなくしてしまうのは、日本人を捨てる、みたいなものだ。
天真庵で、そばやコーヒーを飲むのも、同じ流れだけど、源流は、
二階の小さな空間のい中にある一滴にある。
来週の土曜日は、お花の日。この会は「一滴(ひとしずく)の会」という。