名古屋を出発して一路ソウルへ。
一旦入国して、すぐに出国して上海へ。着いたのは浦東空港、喀什へは翌朝、国内線が主で国際線は少ない虹橋空港から出発する。昨年末に開業した直通の地下鉄で40分程度で結んでいて大変、便利になったとか。確かに便利だったし、現金でも切符が買えたのはよかった。わかりにくいけど…。早朝に上海を発つとウルムチで一度着陸。給油と乗客の乗り換えの後、1時間半後に再出発、トータルで8時間、ようやく喀什へ到着。喀什は誰もカシュガルとは呼ばず、皆、カシュと呼んでいる。チケットの行先もアルファベットでKashだった。それならカシュで統一すれば良いのに…。それにしても、中国は東西に広いなとあらためて実感させられる。こんなに広いにもかかわらず、表向きは全土で北京時間で統一されている。この時期の喀什は夜明けが8時ごろで、夜は9時頃まで明るい。なので実際、人々はマイナス2時間のウィグルjタイムで生活している。
着いて、まず思ったのが、この時期の喀什は砂で覆われているということ。そして漢人が少ないこと、この2点。昔、来たことがある同じウィグルでも伊寧やウルムチ、トルファンなどとは比較にならないくらい在住漢人を見ない。もちろん居るところには居るんだろうけど…。当然、ホテルや喀什古城なんかの観光地にはいる。でもこれは他の地域から来た観光客の漢人で在住者ではなかった。で、後から気が付いたもうひとつは外国人観光客がいないということ。欧米人も韓国人もロシア人もお隣りのパキスタン人も、多分、中央アジアの人はいるんだろうけれど、ウィグル人と顔が似ているので、これはわからない。帰るまでにはどこかで一人くらいは会うだろうと思っていたが、一人も出会わなかった。居たのは中国人観光客ばかり。もちろん気が付かなかっただけの可能性もあるけれど、オフシーズンだからというのもあるだろうけど、それでも本当に不思議だった。
行く前の予定ではレンタカーを借りてカラコルムハイウェイをちょっと走ろうかと思っていた。3月の頭には国際免許も作り、車を借りようとレンタカー会社を調べていたら、中国では国際免許で運転できないことを知った。実際はそれを中国の免許証に書き換えることで運転できるのだが、短期の旅行者では無理だった。その時点で喀什を出ることは諦めたが、万が一、運転手付きの車を安く借りられたら、ちょっと郊外へ出ても良いかなと思い、とりあえず辺境通行証(喀什では外国人が郊外へ出るときは必須な証明書、パスポートだけでその場で無料で発給)だけは取っておこうかと思い、空港に着いて、その足ですぐに発給事務所に向かった。すると、すでに移転しており、さらに移転先にも行ったが、たまたま休みということもあり、これで喀什残留が決まった。
1997年の夏だったか、パキスタン側のカラコルムハイウェイを北上して中国の国境までたどり着いている。国境には石造りの碑が立っていて、それぞれ緑の文字のパキスタンと赤字で中国の字が刻まれていて、そこで記念に写真を撮っている。当時は、その後インドへ向かう予定だったので、そこから再びフンザへ戻ったが、どうせなら中国側のカラコルムハイウェイも少しは見たかったなと。それでも中途半端になってしまうので、行けないなら行けないで良かったんだけれど…。
宿は喀什古城に歩いていける距離のところにとった。町は至るところで工事をしていて古い建物を壊して、新しく町作りをしている、そんな感じだった。それにしても砂と煙、調べてみるとPM2,5など大気汚染が酷いと出てくる。タイのチェンマイも酷いが、その非ではない。マスクは必須だ。町は砂に覆われていて、逆にそれがそれなりの雰囲気を醸し出していたようにも思う。良いように言えばだけれど…。そして公安の多さも。監視カメラもそうだが、公安の数も相当なものだった。聞いてはいたが、もう至るところに公安がいる。街角には装甲車の上からマシンガンを構えた公安もいて、物々しい感じも漂っている。通りすがりの観光客でさえ、そう思うくらいだから、住んでいる者からすれば、相当な監視社会なはず。だからと言って公安の人が漢人というわけではなく、彼らもまたウィグル人なわけで、彼らの心中は複雑だろうな、と思った。わからないけれど…。
喀什は、町は中国的なのに想像以上にウィグルだった。
つづく…
一旦入国して、すぐに出国して上海へ。着いたのは浦東空港、喀什へは翌朝、国内線が主で国際線は少ない虹橋空港から出発する。昨年末に開業した直通の地下鉄で40分程度で結んでいて大変、便利になったとか。確かに便利だったし、現金でも切符が買えたのはよかった。わかりにくいけど…。早朝に上海を発つとウルムチで一度着陸。給油と乗客の乗り換えの後、1時間半後に再出発、トータルで8時間、ようやく喀什へ到着。喀什は誰もカシュガルとは呼ばず、皆、カシュと呼んでいる。チケットの行先もアルファベットでKashだった。それならカシュで統一すれば良いのに…。それにしても、中国は東西に広いなとあらためて実感させられる。こんなに広いにもかかわらず、表向きは全土で北京時間で統一されている。この時期の喀什は夜明けが8時ごろで、夜は9時頃まで明るい。なので実際、人々はマイナス2時間のウィグルjタイムで生活している。
着いて、まず思ったのが、この時期の喀什は砂で覆われているということ。そして漢人が少ないこと、この2点。昔、来たことがある同じウィグルでも伊寧やウルムチ、トルファンなどとは比較にならないくらい在住漢人を見ない。もちろん居るところには居るんだろうけど…。当然、ホテルや喀什古城なんかの観光地にはいる。でもこれは他の地域から来た観光客の漢人で在住者ではなかった。で、後から気が付いたもうひとつは外国人観光客がいないということ。欧米人も韓国人もロシア人もお隣りのパキスタン人も、多分、中央アジアの人はいるんだろうけれど、ウィグル人と顔が似ているので、これはわからない。帰るまでにはどこかで一人くらいは会うだろうと思っていたが、一人も出会わなかった。居たのは中国人観光客ばかり。もちろん気が付かなかっただけの可能性もあるけれど、オフシーズンだからというのもあるだろうけど、それでも本当に不思議だった。
行く前の予定ではレンタカーを借りてカラコルムハイウェイをちょっと走ろうかと思っていた。3月の頭には国際免許も作り、車を借りようとレンタカー会社を調べていたら、中国では国際免許で運転できないことを知った。実際はそれを中国の免許証に書き換えることで運転できるのだが、短期の旅行者では無理だった。その時点で喀什を出ることは諦めたが、万が一、運転手付きの車を安く借りられたら、ちょっと郊外へ出ても良いかなと思い、とりあえず辺境通行証(喀什では外国人が郊外へ出るときは必須な証明書、パスポートだけでその場で無料で発給)だけは取っておこうかと思い、空港に着いて、その足ですぐに発給事務所に向かった。すると、すでに移転しており、さらに移転先にも行ったが、たまたま休みということもあり、これで喀什残留が決まった。
1997年の夏だったか、パキスタン側のカラコルムハイウェイを北上して中国の国境までたどり着いている。国境には石造りの碑が立っていて、それぞれ緑の文字のパキスタンと赤字で中国の字が刻まれていて、そこで記念に写真を撮っている。当時は、その後インドへ向かう予定だったので、そこから再びフンザへ戻ったが、どうせなら中国側のカラコルムハイウェイも少しは見たかったなと。それでも中途半端になってしまうので、行けないなら行けないで良かったんだけれど…。
宿は喀什古城に歩いていける距離のところにとった。町は至るところで工事をしていて古い建物を壊して、新しく町作りをしている、そんな感じだった。それにしても砂と煙、調べてみるとPM2,5など大気汚染が酷いと出てくる。タイのチェンマイも酷いが、その非ではない。マスクは必須だ。町は砂に覆われていて、逆にそれがそれなりの雰囲気を醸し出していたようにも思う。良いように言えばだけれど…。そして公安の多さも。監視カメラもそうだが、公安の数も相当なものだった。聞いてはいたが、もう至るところに公安がいる。街角には装甲車の上からマシンガンを構えた公安もいて、物々しい感じも漂っている。通りすがりの観光客でさえ、そう思うくらいだから、住んでいる者からすれば、相当な監視社会なはず。だからと言って公安の人が漢人というわけではなく、彼らもまたウィグル人なわけで、彼らの心中は複雑だろうな、と思った。わからないけれど…。
喀什は、町は中国的なのに想像以上にウィグルだった。
つづく…
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