スペイン・イタリアへの一人旅2005『シーザーとの再会』
5-3-2005:
いつもより出発時間が少し遅くなったような気がする午後2:25、関西空港発アリタリア航空に乗り込む。今年は予定していた2月のスリランカ出張が津波の影響により延期という事態があり、これが今年初めての海外出張となった。
去年は無理押しして、バンコク経由のフライトを利用していたが、もっとヨーロッパへ入り込むべきとの社長の指示の下、今回はイタリアから生まれて初めての訪問となるスペインに入ることにする。2週間の旅、バンコクでの親友サミーとの常にプラスのエネルギーが蓄積できる飲み会が出来ない残念感はあるが、それはそれでまた、日本ででもその機会を持てば良い事である。
今回の大きな目的であるスペイン市場開拓を前に、かつてカナダ・トロント留学時代に出会い、未だに親交を続けているCESARへ連絡し12年ぶりに再会する流れとなった。とても楽しみである。
日本出発前に、京都にある外人観光客向けの『HANDY CRAFT CENTRE』へ出向き、彼への手土産として、有田焼の湯飲みセットを奮発して購入した。CESARは、ヴァレンシアから南にバスで約2時間の海沿いの町・ALICANTEに住んでいる。そこへ週末の2日間、世話になる予定である。
卒業シーズンからかほぼ満席のAZ794便にて、定刻通り、ミラノ・マルペンサ空港に到着した。
相変わらず退屈で、寝にくい機内では、トムクルーズ主演の『コラテラル』の映画を観て過ごした。コラテラルという意味がよくわからない。ラテラルとは確か、側面的なる意味だったきがするのだが、定かではない。帰ってから調べてみよう。
すっかり暗くなった午後7:30、マルペンサ空港よりミラノ中央駅へシャトルバスで出て、そこよりタクシーにて、常宿・HOTEL GRAN DUCA DI YORKへ。
スタッフのみんなの元気そうである。ここの所、このホテルは改装ということもあり、しばらく別のホテルに宿泊していたので久しぶりのみんなとの顔合わせとなった。
早速、バーテンダーのMARCOにスペインの情報を聴く。彼は6回訪れたことがあり、バルセロナが一番好きな街だとの話である。
ホテルにチェックインし、時計を見る。午後9:00だ。日本時間の午前5:00である。さすがに目がしょぼしょぼする。
いつも通り、さささっと東方飯店へ出向き、麻婆豆腐と炒飯にハイネケンビールを腹に詰め込み、部屋に戻った。
6-3-2005:
時差のおかげであろう。午前5:30のフロントからのモーニングコールもそれほど苦にならず、スパッと目が覚め、するりとベットを離れた。シャワーを浴びて、まだ暗い午前6:00、ミラノ・リナーテ空港へ向けてタクシーを走らせる。
途中、対向車が事故を起こしてボンネットがぺちゃんこになっていた。
「今日これで3件目ですよ」、運ちゃんは話す。
どうも週末の明け方は事故が多いらしい。
リナーテ空港に近づくにつれてフォグがかかってきた。前が見えない。
「リナーテ空港はいつもこの時期この霧なんです」と運ちゃんは言った。
そういえば、初めてイタリアに訪れた12年前も、ここは霧がかっていた。あの時はトロント留学からの帰り、直接イタリア・ポルトガルへ入り、社長と合流したのであった。あの時の事は今でもはっきりと覚えている。
リナーテ空港のBARにて、朝食を食べる。『ミラノ』と呼ばれる、フランスパンにハムとチーズを挟んだサンドイッチとカプチーノである。
本屋でヴォーグジュエリー誌と空色の手帳(9ユーロ)を購入する。
マドリッド行きのアリタリア航空には、僕を合わせたった18名の乗客であった。離陸し霧空を抜けると遠く左手には雪のアルプスの山並みが連なっている。絶景である。
「本当にスペイン・イベリア大陸は茶色いのだろうか?」という疑問の答えを確かめたく窓側の席を希望したのだが、それは正確だった。素晴らしい景色、眩しすぎる朝日に、目が開けれないほどである。気持ちがいい。朝日の当たる左頬がほんのり温かくなる。
着陸後、霧の壁を通り抜け、目前に現れたイベリア半島はやっぱり茶色であった。
マドリッド・バラハス空港よりタクシーに乗り、ホテルへ向かう。
地下鉄を乗り継ぎ行く手もあったが、今回は手元にまとまった金を持っているため、備えあれば憂いなしとタクシーを利用することにしたまでである。
チェックイン後、早速、世界3大美術館の一つとして名高いプラド美術館へ訪れた。
驚くほど広いこの美術館にて最も眼に迫った絵は、ゴヤの『着衣のマハ』であった。この絵は昔、美術の教科書で見たことのある絵である。その後、ソフィア王妃芸術センターへ出向き、ピカソ作『ゲルニカ』を観賞した。5分ほどだろうか、この『ゲルニカ』の、前に立ち止り、傍楽その絵を目に焼き付けた。
ピカソの絵はシャガールの絵と同じく、見れば見るほど想像の世界が広がる。
その後、スペインに来たならまず『パエリア』をと、一人いそいそと近くのレストランへ入り、ミックスパエリアと生ビールを頼んだ。20分ほどして現れたそのパエリアは全く持って満足いく出来栄えであった。味加減が日本人の舌にぴったりなのである。具はトリ、エビ、ムール貝などである。サフランの香りがとてもよい。 満足、満足であった。
満足した腹をなでながら、マドリッド市街を歩き回った。
残念ながら、日曜日にて宝飾店のほとんど全てが店を閉めており、明日の為の散歩となった。
歩きつかれてホテルに戻った僕は、そのままビールを飲んで寝てしまい、おきると深夜0時(日本時間午前8時)と、まだ日本時間のままの生活である。
困ったものだと、スーパーにて購入したビールをがぶがぶ飲みながら、部屋でお客さんに絵葉書を書いていた。
TVのCNNニュースで、なぜ最近、日本人が韓国へよく行くのかをこの地マドリッドで放送していた。
7-3-2005:
朝8:00、ホテルでビュッフェの朝食を取った後、セラーノ通りへ向かった。ここは、マドリッド随一の高級店が軒を並べる地区、日本でいえば表参道といったところか・・・。
街の雰囲気とジュエリーのトレンドを追いかけるべく、大きな宝石店にはとりあえず飛び込み、商品を見せてもらう。
モダンなラインは、イタリアのものとそう変わらないように思える。一部、おもしろそうなラインを見つけるが、小売店では価格的に合わない。
アンティークジュエリーの店を見つける。なかなかおもしろいジュエリーを見つけるも、価格が合わず断念する。
マイヨール広場近くのBARにて生ビールとパエリアを頼む。
昨日と今日も買ったのだが、ソルにある百貨店の地下、食料品売り場で売っている絞りたてのオレンジやグレープフルーツジュースが恐ろしく美味い。プラスティックボトルに500CCで売っている。その酸っぱさは、思い出すだけで唾液が出るほどである。
歩きつかれて夕方、部屋に戻るとまた寝てしまい、起きると午前1時。昨日も今日も夕食をとれず、ずっと日本時間が続いている。
8-3-2005:
朝6:00起床、マドリッドのホテルをチェックアウトし空港に向かう。しかし、スペインという国は、もっと物価の安い国かと思っていたのだが、そうでもないようだ。
安く思えるのは、街で買うビール(1缶0.57ユーロ)ぐらいで、ちょっとBARに食事に入っても20ユーロは取られる。EUとして通貨統合されてからだろうか、とにかく決して物は安くない。
バルセロナ空港に到着し、節約しようと、タクシーを使わず、空港バスにて市内中心地であるカタルーニョ広場まで出てからタクシーでホテルへ向かう。
ホテルは三ツ星ながら、とても綺麗で予約してくれたCESARに感謝である。
荷を解き、早速、街へ繰り出す。
目抜き通りであるランブラス通りを歩く。
歩きながら驚いた。街には活気があるのだ。人々も明るい。生き生きしている。これは正直、マドリッドの比ではなく、ひょっとしたらミラノよりも街が息づいているのではと思った。
とても印象がよい街。僕の中のヨーロッパ都市ランキングでトップに躍り出るほどである。
しばらく歩くと左手にインターネットカフェがあったので、メールをチェックした。
またテクテクと歩くと、左に大きな市場があった。(後で知ったが、サン・ジュセップ市場という有名な市場であった)道をそれて市場に入る。
すごい活気だ。
花を売る店。果物を売る店。豚を吊る店。魚介類を売る店・・・。市場は楽しい。楽しいのでぐるぐる見ながら歩いていると、店の合間にカウンターを作り、魚介類や野菜を焼いている屋台を発見した。
なにやら美味そうだし、腹も減ってきている。
言葉もまったく通じないのは承知で、カウンターの空いた席に腰掛けた。
働くオッサンが「オラ!」っと微笑む。
「生ビールを一つ!」とイタリア語で言ってみた。
イタリア語とスペイン語は極めて近い言語なので通じたようである。
次に、隣に座る人が食べているアサリと謎の縦1CM横5CMほどの細長い貝が気になり、指差してそれをオーダーする。
しかし、初めて見る貝であって、黒くて長い。ちょうど中指くらいの大きさなのである。
これらを塩コショウ、オリーブオイル、ガーリックで、いわゆるボンゴレ風に味付け、レモンを添えて出てきた。
「美味い!」一人、日本語で唸ってしまった。
新鮮な市場の魚介類をその場で焼いてもらいビールを飲む。きっと、他所よりは高いのだろうが、そんなことは今はどうでもよいのだ。
ボンゴレを食べ、フランスパンをかじり、ビールを流し込む。
ただただ、これの繰り返し。
たまに唸る。
気がつくと、日本人の若いカップルが、カウンターの後ろに立っている。唸っているのを見られたのだろうか。僕の横がちょうど2席空いていたので、どうぞ、どうぞと席を勧める。
聴けば二人ともイギリスに住んでいるとのこと。現実を逃避して日本よりイギリスに行き、バルセロナに来て、更にイギリスより逃避したくなったと彼は言った。
「あほか」と思ったが、聴かないふりをした。海外に行くとこういう輩が多い。
唸っている二人を放って、又、僕は目抜き通りを歩き始める。しばらく歩くと、空港バスを下りたカタルーニャ広場に出た。どうやらここがバルセロナのヘソの様である。
地下鉄(メトロ)の入り口が地下に伸びていたので、そこを下り、売り場で一日乗車券を購入し、まず、国鉄サンツ駅に向かう。
明後日の朝、この駅よりヴァレンシアへ向かうべく、特急列車のチケットを買わないといけないのである。
前売券売り場は、日本の銀行の窓口の様に番号札を手に待つスタイル。僕の番が来て、AM8:00発の席を確保できた。
サンツ駅で違うラインの地下鉄に乗り換え、ガウディのサグラダ・ファミリア聖堂へ向かった。この天空に4本の筒が飛び出している建造物は1882年に建築が始められ、ガウディのデザインにて彼の死後も着々と建築されている。完成までに後200年かかるらしい。
ガウディだけでなく今生きている誰もが完成を待てないのである。不思議な気分である。
芸術とはそういうものなのかもしれない。
高級ブティックが並ぶグラシア通りを歩く。この街はやはり明るい。観光客もマドリッドの比ではなく、通りには大道芸人達が人集めをし、花屋が花を売っている。人々を勧誘しながらポートレイトを書いている画家(?)もいる。
カタルーニャ広場まで戻り、マドリッドでも世話になったスペイン随一の百貨店の地下へ買い物に行く。
ビール、プチトマト、オレンジとブルーチーズ。
歩きつかれたので、部屋に戻り休もう。そして夜、又、BARへ繰り出そう。
驚くほど甘酸っぱく美味いプチトマトと、驚くほど香るオレンジを食べながらハイネケンを2本空けて僕は昼寝した。
午後8:30、BARへ行こうと出発。残念ながら、ホテル周辺は柄が悪そうである。嫌な雰囲気がする。早めに帰ったほうがよいと僕の中の危険信号が発令する。
昼間見つけていたBARで生ビールとタパスを2種類頼む。今夜はサッカーのチャンピオンシップでスペイン屈指のここバルセロナが、イギリス名門チェルシーに対戦するのだ。
頑張れ、バルセロナ! 頑張れ、ロナウジーニョ!! デコ!! エトゥ!!
酒飲む人々が熱くなり始めたので、ホテルに帰る事にした。めちゃくちゃ煙草が吸いたくなったが我慢する。
9-3-2005:
朝より耳の奥が痛い。喉も少し痛い。鼻水が止まらない。ひょっとしたら風邪をひいたかもしれない。
午前9:00、宿泊ホテルのフロントに今回新規でアポ取りしたメーカーであるR社のオーナーが来てくれた。この会社はスペインの老舗ジュエラーとしてその名声はスペイン国内に留まらず、あのカルティエの『タンク』シリーズのデザイン供給をした会社としても知られている。所有する宝飾品にもそのおもむきが覗える。
サンプルとしてカタログの女性モデルが身に着けているものを10点ほどオーダーすることにする。
オーナーであるカルロス氏はとても心安い。オジサンなのだが、そのハゲ具合は到底44歳とは思えない。僕の事を20代と思っているようである。そのままにしておく。
正午、アールヌーヴォー期のジュエリーを製作する事で世界的に有名なM社へ。その芸術的な作品の数々を見せてもらう。この会社は2つのブランドを有するが、その1つは既に日本にてEXCLUSIVEな輸入代理店を持っているので正規輸入は出来ない。ここではもう1つのブランドの輸入に関するMEETINGとなったが、卸価格を提示できるトップが不在にて、現状の価格では納得いかず仕切り直しとなる。とりあえず我らの主旨は伝えた。商材はさすがの一言につきる。
夕方、本日最後のアポであるA社に地下鉄で向かう。オーナーは英語を操れず、オーナー御令嬢でマネージメントの軸を務めるベラと約二時間話した。
ここもスペインでは名の知れたメーカーである。この二時間に自分を売り、会社を売り、朝の商談と同じD/A at 90DAYSという信用買いでサンプルをオーダーした。ベラはとても気さくで面白い女性である。仕事の枠を超えて、人として魅力を感じた。
夕日の沈む夕暮れ時の帰り道、自身納得の行く仕事の出来た僕は、昨日訪れたガウディのサグラダ・ファミリア聖堂の横をスーツ姿で歩いた。薄暗い中に天空へそびえ立つこののっぽな建造物は昨日見たより、ずっと崇高で厳粛な思い雰囲気を醸し出していた。
流石に疲れた。ホテルへ帰る途中の目抜き通りにあり中華料理レストランに立ち寄った。客が多いのは、きっと美味いのだろうと思っていたが、僕が頼んだ「Beef with Hot Souse と Fried Rice」は全くもって満点の味であった。
今回は、ここバルセロナの道標をうまくつける事が出来た。もっと掘り起こせば良いジュエラーがたくさんあるに違いなく、今後はスペイン国際宝飾展に参加するか、少しずつバルセロナに立ち寄り、新規開拓していきたいと思った。
スペインの人々は、気軽な挨拶として「オラ!」と云う。いわゆる英語の「ハロー!」、イタリア語の「チャオ!」に近い言葉のようなのだが、僕の中での「おらっ!」は、どちらかといえば、なんとなく投げやり的言葉なのでなかなか慣れる事が出来ないでいる。
10-3-2005:
僕は午前8:00のバルセロナ・サンツ駅発バレンシア行きのユーロ・メッドに乗り込んだ。これから3時間は列車での旅となる。
列車はイベリア半島東海岸沿いを、ただただ南下する。
左手の車窓には穏やかな地中海が広がっている。車窓から見えるその風景を見ていると、まるで時間が止まっている様な錯覚を受ける。
今朝起きると、喉と鼻と耳の奥が更にやばくなっており、チェックアウトの際、フロントの兄ちゃんに「個人的なものだけどどうぞ!」と薬をもらったのだが、どうやらこれがとても効いているのかもしれない。
列車に独り揺られていると、その痛みを感じなくなった。薬のおかげだろうか、はたまた、この穏やかな景色のおかげであろうか・・・。
眠ってしまっていた。
心地よい列車の揺れに目を覚ますと、車窓は変わり、オレンジ色の実をたわわと付けたみかん畑が連なっている。
「これがバレンシアオレンジか・・・」と独り納得する。そして、ピンクの花咲く畑も見える。どうやら桜のようなのである。桜畑とは生まれて初めて見る。サクランボでも取るのであろうか。
バレンシアのホテルより、スペイン大使館より入手した情報を元に、気になる宝飾メーカーに電話を入れるも全く英語が通じない。歯がゆく思いながら受話器を置く事、数回。結局、明朝のアポ1件にて終了である。
街に出るが足が重い。咳が出始める。
オレンジが生い茂っている並木道の並木を「日本だったら全部捥がれてしまうだろうな」と重いながらフィルムに納め、そのすぐ傍のオープンカフェにてピザを食べた後、ホテルに戻り静養する事にした。
深夜2:00、毛布を2枚被るも寒い。熱が出てきたかもしれない。フロントへ電話し薬を貰おうとしたが常備していないとの話。
「4つ星ホテルやろ!?」と独り愚痴るも仕方なし、とにかく水分をたくさん採って寝ることにする。
しんどい。海外に出て体調を壊すのは、新婚旅行以来である。あの時はイスタンブールで食べたムール貝に二人してあたったのであった。懐かしい想い出が頭をよぎった。
11-3-2005:
寝たり起きたりしながらベッドの中に15時間程。
午前9:00からの新規アポにはどんなことをしても行かなくてはならない。往きしに薬局で薬を購入する。この薬は粉薬なのだが、やけに量がある。きけばどうやら水に溶かして飲むようである。水に溶かすとそれはオレンジジュースになった。さすがバレンシアである。関係ないか・・・。
今朝の訪問先A社はスペイン語しか通じないようで、日本人の女性の通訳が一緒に待っていてくれた。まだ若い彼女はバレンシアに来て2年ほどとの事。ふと昔、カナダに留学していた頃の自分を思い出した。このスペイン第3の街・バレンシアに住んでいる日本人のほとんどは顔見知りだと彼女は話した。
どんな夢を持ってここで生活しているのであろうか。
ホテルの部屋に戻り、ソファーでうたた寝、熱が下がっている様なので、思い切って二日ぶりのシャワーを浴びる。
夕方までの時間を潰すべく、荷物を駅のコインロッカーに預ける(3ユーロ)。
アリカンテへの列車は、さしずめ日本でいう新快速といった感じであった。しかし驚くほど混んでおり、学生風の若者達が大きな荷物をそれぞれ手持ち乗っている。早めに待っていて良かった。危うく立ち乗りになる所であった。
2時間ほどの茶色の世界の旅。
到着したアリカンテ駅には12年ぶりにて髪が少し白くなったがほとんど昔のままのCESARと、彼の娘・ANDREAが立っていた。もじもじするシャイなANDREAに挨拶をした。この街には日本人がいないので、東洋人にいささか面食らっているのか、とても可愛らしい。
CESARの運転するシトロエンに乗り込みビーチサイドを散歩する。
12年前のトロントでの日々、CESARが自慢していた街がここにあった。自慢していた海がここにあった。
ついに僕は12年前の約束どおりここにやってきたのである。なるほど誇れるだけの素敵な街である。
CESARの家では嫁さん・MARと1歳のチビ・ALEXが待っていてくれた。笑顔が止まないであろう素晴らしい家族の生活スペースがそこにあった。
部屋でビールと手土産の茶飲みセットで入れた日本茶で乾杯した後、ビーチサイドのPIZZARIAへ5人で出かける。心温かいもてなしに心から感謝する。その後、CESARと二人で軽くBARで飲んだ。
12-3-2005:
朝、CESAR家のリビングの窓一面に広がる海に感動する。
昼前、アリカンテ市内を歩く。街に宝石店が多いことにCESARと二人して驚く。途中、市場で出かける。週末故、街のオバサン達で賑わっている。肉屋が多い。ウサギも皮をむかれ耳を取られては、何の動物かわからない。ヤギの脳みそから牛タンまるまる一本まで売っている。やはり肉食人種である。
12年ぶりにトロント留学時代に俺の当時のコンドミニアムで、CESARがフィッシュマーケットにて、鱒かなにかの大きな魚を一匹調達し、料理してくれた事を思い出した。
その後、CESAR家族と山間の村へ向かう。そのAGRESという村は、アリカンテより高速で約1時間の所にあった。茶色い山肌の中に点在するレンガ作りの家々。ポツポツと開花する桜だが、茶色の岩肌に咲く桜は、それ程魅力的には見えない。
未だに鼻水が止まらない僕だが、どうやらMARにもうつしてしまった様で、彼女も咳ごみはじめる。
いつも独り、BARでタパスとビールでの食事をしてきたので、考えてみればはじめてのレストランでの食事であった。CESARがオーダーしてくれる。出てくるお皿をみんなでシェアしたのだが、今これを書きながら思えば、風邪の僕と皿をシェアするなど、風邪をうつしているようなものである。
イカフライや数種のソーセージの盛り合わせ、野菜を塩コショウで網焼きしたもの。それぞれに美味しい。ANDREAがMARに云われ、半泣きになり鼻を摘みながら茄子を食べている。どこの国も同じである。最後は黄色いライスに豚足や野菜を混ぜて蒸したものがやってくる。これは何というメニューか訊いたが忘れてしまった。パエリアではないらしい。
しかしこのレストランは有名なのであろうか。こんな小さな山間の村なのに客が一杯なのだ。もちろん東洋人は俺一人なのだが・・・。
夕方、CESAR宅に戻る。僕の風邪は薬を飲み続けるも良くなる兆候はなく、それ以上にMARやALEXにまで波及させつつある。本当に申し訳ないと思う。
夜、CESARとANDREAとでスペインのテーブルゲームをする。金髪のANDREAは本当に可愛い。きっと素敵な女性になるのであろう。無性に自分のチビ達に会いたくなる。
ベッドに入るも寒く、服を着込んで、靴下を履いて、バスタオルを足に巻いて丸まって寝る。
薬を飲んで安静にすれば良いものの、すぐに寒空の下、出回ったりするから飲んでいる薬も利かなくなってきた気がする。
CESARの家は、CESARとMARが共稼ぎという事もあり、家の事も共同でしている。ALEXのオムツを替えるのもCESAR、風呂に入れるのもCESAR、洗濯を干したり、週末の朝、ANDREAのパンを焼いたりするのも彼の担当のようである。夜も、CESARが子供をあやしている間、MARは何やらレポートを書いている。なかなか僕には真似が出来そうにない。
「ひょっとしたらMARの方がCESARより収入がおおいのかもしれんなぁ」と思った。
まぁ僕には関係のない事である。
13-3-2005:
朝、目が覚めるもやはり体は重いままである。午前中、アリカンテのカテドラルへ連れて行ってくれると言っていたCESARの誘いを断り、部屋で昼迄、寝かせてもらう事にする。今日、午後のフライトでミラノに戻ることになっている。
午後、リビングのほうが賑やかだったので出て行くとCESARのご両親が来られていた。御父上は会社経営者らしく、きびきびとした英語がわかりやすい。
別れの時、空港に送ってくれるCESARと御父上以外のみんなに挨拶をする。ANDREAが次に会う時どう成長しているかが楽しみである。
考えてみれば、今から12年前のたった一ヶ月、カナダはトロントという街でのひょんな出会いが、今、このような温かいもてなしに変化するとは、当然思いもつかなかった。人との出会いとは素晴らしいとつくづく思った。
こんな日本からものすごく離れたユーラシア大陸の西端のイベリア半島の海沿いの街も自分がいた事を、日本に戻り、家で地球儀を廻しながら、ビールを片手に回想したいと思う。
夜、ミラノの常宿より薬局へ向かうが、抗生物質は医者の処方箋がなければ売ってくれない。仕方がないので強い風邪薬を購入する。
久しぶりにシャワーを浴びる。驚くほど髪の毛が抜けてびっくりする。
14-3-2005:
やはり体調は完調に程遠い。まだ食欲があるだけ良い方である。
朝、既存取引先・G社にて仕入れを行う。体調を社長であるアントニオ氏に話し、うまく抗生物質を裏から入手してもらう。1日2錠。これが効いてくれれば良いのだが。しかしやたらとデカイ錠剤である。飲み込むのに一苦労する。うちのチビなら無理であろう。昼よりF社にて仕入れ。
しかし、海外をしばらく一人旅にすると、嫁や子供の大切さを痛感するのは俺だけだろうか。普段、そばにいるのが当たり前で、感動を共有することを求めず、流れるように生活している事、遠く離れた地に来るとなぜかよくわかるのである。反省すべきことである。
夜、歩いていて見つけた日本食レストランの暖簾をくぐる。キリンビールと天ぷらうどん、鉄火巻きを頼むが、その味の悪さにムカついてしまうほどである。
悪いと思ったがほとんど残し、席を立った。働いている偽日本人スタッフ達は驚いた様子だったが、これが日本食とミラノに住む人々に認識されるという方が驚くというものである。
部屋に戻りなんとなく効いてきている気がする抗生物質第二段を体内に投入する。
15-3-2005:
間違いなく薬が効いてきている。
フィレンツェに向かうユーロスターに揺られながら、次第に回復しつつある体調に安心する。
いつもながらのフィレンツェへの列車の中、日本より持参した文庫本『漂泊の牙・熊谷達也著』を一気に読む。この作品、ニホンオオカミを題材にした小説なのだが、さすがは新田次郎賞を獲っただけあり、とてもおもしろかった。
日本よりホテルへFAX。営業数字が全然伸びていない様子。帰国後、頑張るだけの事である。もう焦りはしない。
フィレンツェのマネッティ氏の工房にて、オーダーしていた商品を受け取り、彼の工房で働くマクシミリア氏の夏の来日について話し合う。盆明けに企画を打ち出す事にする。
話し合っている途中、気品ある婦人がマネッティ氏の店に来られ紹介される。話しているとこのマダムはフィレンツェでも指折りの家系であることが判った。
「タック、このマダムはパレス(宮殿)に住んでいるんだよ」マネッティ氏が話す。
「もし良ければ、お茶でも飲みに来ない?」とのマダムよりの誘いに、興味本位で付いて行く事にしたのだが、行ってみて吃驚した。
マジで美術館級なのである。建物は12世紀に建てられたとの事だが、部屋の調度品は当然のこと、天井のフレスコ画は素晴らしくヴァチカン宮殿のミニチュア版なのである。部屋方々に置かれた写真には、イギリスのブレア首相(とても仲が良いらしい)やローマ法王といった大物との物ばかりである。聞けばチャーチルの遠縁であるらしい。娘は有名なダンサーでありソムリエらしい。ミキモトのモデルでもあるらしい。確かに写真に写る彼女は女優そのものである。
話を聞くと、創業994年のワイン製造会社のオーナーであった。1000年以上も続く会社なのである。会社のパンフレットをみると、かのミケランジェロが書いたこの会社へのワインに関するコメントなどが残っている。こんな出会いは初めてかもしれない。深々と頭を下げてマネッティの工房に戻ったのであった。
マネッティの工房にてフィレンツェ紋章のダイヤのブローチが痛く気に入り購入し持ち帰ったのだが、その後、日本のヴァンサンカン誌(2005年5月号)に『オーダーの頂点に君臨するスタイリスト』としてマネッティ氏が取り上げられ、僕が入手したブローチが載っていた。
フィレンツェ駅前のレストランで左唇奥に出来た口内炎を気にしつつ、パスタを食べた後、帰りの列車でミラノに戻った。
長かった出張も明日で終わりである。
16-3-2005:
午前中、日本からの指示によりS社へChain類を仕入れに行く。
昼からカドーナ駅よりマルペンサエクスプレスに乗り、マルペンサ空港へ。帰国の途につく。
振り返れば長い出張であった。
これだけ長い出張もまれである。目標にしていた仕事はこなせたと満足している。生まれて初めて訪れたスペインに新天地を見出せた事、自分なりに満足している。今後はスペイン市場もイタリア市場と同様に、気を配りたいと思う。
帰りのフライトも山盛りの日本人。この人達はいったいどこにいたのであろうか・・・。
街を歩いてもほとんど見かけなかったのに。きっとみんな缶詰のようにギュッとつまって動いていたに違いない。間違いない。間違ってても関係ない。
僕は今、ただただ居酒屋のカウンターで焼き鳥などを暗いながら、しっくり、ぽっくり、ゆっくりしたいだけである。
日本人バンザイ!
終
5-3-2005:
いつもより出発時間が少し遅くなったような気がする午後2:25、関西空港発アリタリア航空に乗り込む。今年は予定していた2月のスリランカ出張が津波の影響により延期という事態があり、これが今年初めての海外出張となった。
去年は無理押しして、バンコク経由のフライトを利用していたが、もっとヨーロッパへ入り込むべきとの社長の指示の下、今回はイタリアから生まれて初めての訪問となるスペインに入ることにする。2週間の旅、バンコクでの親友サミーとの常にプラスのエネルギーが蓄積できる飲み会が出来ない残念感はあるが、それはそれでまた、日本ででもその機会を持てば良い事である。
今回の大きな目的であるスペイン市場開拓を前に、かつてカナダ・トロント留学時代に出会い、未だに親交を続けているCESARへ連絡し12年ぶりに再会する流れとなった。とても楽しみである。
日本出発前に、京都にある外人観光客向けの『HANDY CRAFT CENTRE』へ出向き、彼への手土産として、有田焼の湯飲みセットを奮発して購入した。CESARは、ヴァレンシアから南にバスで約2時間の海沿いの町・ALICANTEに住んでいる。そこへ週末の2日間、世話になる予定である。
卒業シーズンからかほぼ満席のAZ794便にて、定刻通り、ミラノ・マルペンサ空港に到着した。
相変わらず退屈で、寝にくい機内では、トムクルーズ主演の『コラテラル』の映画を観て過ごした。コラテラルという意味がよくわからない。ラテラルとは確か、側面的なる意味だったきがするのだが、定かではない。帰ってから調べてみよう。
すっかり暗くなった午後7:30、マルペンサ空港よりミラノ中央駅へシャトルバスで出て、そこよりタクシーにて、常宿・HOTEL GRAN DUCA DI YORKへ。
スタッフのみんなの元気そうである。ここの所、このホテルは改装ということもあり、しばらく別のホテルに宿泊していたので久しぶりのみんなとの顔合わせとなった。
早速、バーテンダーのMARCOにスペインの情報を聴く。彼は6回訪れたことがあり、バルセロナが一番好きな街だとの話である。
ホテルにチェックインし、時計を見る。午後9:00だ。日本時間の午前5:00である。さすがに目がしょぼしょぼする。
いつも通り、さささっと東方飯店へ出向き、麻婆豆腐と炒飯にハイネケンビールを腹に詰め込み、部屋に戻った。
6-3-2005:
時差のおかげであろう。午前5:30のフロントからのモーニングコールもそれほど苦にならず、スパッと目が覚め、するりとベットを離れた。シャワーを浴びて、まだ暗い午前6:00、ミラノ・リナーテ空港へ向けてタクシーを走らせる。
途中、対向車が事故を起こしてボンネットがぺちゃんこになっていた。
「今日これで3件目ですよ」、運ちゃんは話す。
どうも週末の明け方は事故が多いらしい。
リナーテ空港に近づくにつれてフォグがかかってきた。前が見えない。
「リナーテ空港はいつもこの時期この霧なんです」と運ちゃんは言った。
そういえば、初めてイタリアに訪れた12年前も、ここは霧がかっていた。あの時はトロント留学からの帰り、直接イタリア・ポルトガルへ入り、社長と合流したのであった。あの時の事は今でもはっきりと覚えている。
リナーテ空港のBARにて、朝食を食べる。『ミラノ』と呼ばれる、フランスパンにハムとチーズを挟んだサンドイッチとカプチーノである。
本屋でヴォーグジュエリー誌と空色の手帳(9ユーロ)を購入する。
マドリッド行きのアリタリア航空には、僕を合わせたった18名の乗客であった。離陸し霧空を抜けると遠く左手には雪のアルプスの山並みが連なっている。絶景である。
「本当にスペイン・イベリア大陸は茶色いのだろうか?」という疑問の答えを確かめたく窓側の席を希望したのだが、それは正確だった。素晴らしい景色、眩しすぎる朝日に、目が開けれないほどである。気持ちがいい。朝日の当たる左頬がほんのり温かくなる。
着陸後、霧の壁を通り抜け、目前に現れたイベリア半島はやっぱり茶色であった。
マドリッド・バラハス空港よりタクシーに乗り、ホテルへ向かう。
地下鉄を乗り継ぎ行く手もあったが、今回は手元にまとまった金を持っているため、備えあれば憂いなしとタクシーを利用することにしたまでである。
チェックイン後、早速、世界3大美術館の一つとして名高いプラド美術館へ訪れた。
驚くほど広いこの美術館にて最も眼に迫った絵は、ゴヤの『着衣のマハ』であった。この絵は昔、美術の教科書で見たことのある絵である。その後、ソフィア王妃芸術センターへ出向き、ピカソ作『ゲルニカ』を観賞した。5分ほどだろうか、この『ゲルニカ』の、前に立ち止り、傍楽その絵を目に焼き付けた。
ピカソの絵はシャガールの絵と同じく、見れば見るほど想像の世界が広がる。
その後、スペインに来たならまず『パエリア』をと、一人いそいそと近くのレストランへ入り、ミックスパエリアと生ビールを頼んだ。20分ほどして現れたそのパエリアは全く持って満足いく出来栄えであった。味加減が日本人の舌にぴったりなのである。具はトリ、エビ、ムール貝などである。サフランの香りがとてもよい。 満足、満足であった。
満足した腹をなでながら、マドリッド市街を歩き回った。
残念ながら、日曜日にて宝飾店のほとんど全てが店を閉めており、明日の為の散歩となった。
歩きつかれてホテルに戻った僕は、そのままビールを飲んで寝てしまい、おきると深夜0時(日本時間午前8時)と、まだ日本時間のままの生活である。
困ったものだと、スーパーにて購入したビールをがぶがぶ飲みながら、部屋でお客さんに絵葉書を書いていた。
TVのCNNニュースで、なぜ最近、日本人が韓国へよく行くのかをこの地マドリッドで放送していた。
7-3-2005:
朝8:00、ホテルでビュッフェの朝食を取った後、セラーノ通りへ向かった。ここは、マドリッド随一の高級店が軒を並べる地区、日本でいえば表参道といったところか・・・。
街の雰囲気とジュエリーのトレンドを追いかけるべく、大きな宝石店にはとりあえず飛び込み、商品を見せてもらう。
モダンなラインは、イタリアのものとそう変わらないように思える。一部、おもしろそうなラインを見つけるが、小売店では価格的に合わない。
アンティークジュエリーの店を見つける。なかなかおもしろいジュエリーを見つけるも、価格が合わず断念する。
マイヨール広場近くのBARにて生ビールとパエリアを頼む。
昨日と今日も買ったのだが、ソルにある百貨店の地下、食料品売り場で売っている絞りたてのオレンジやグレープフルーツジュースが恐ろしく美味い。プラスティックボトルに500CCで売っている。その酸っぱさは、思い出すだけで唾液が出るほどである。
歩きつかれて夕方、部屋に戻るとまた寝てしまい、起きると午前1時。昨日も今日も夕食をとれず、ずっと日本時間が続いている。
8-3-2005:
朝6:00起床、マドリッドのホテルをチェックアウトし空港に向かう。しかし、スペインという国は、もっと物価の安い国かと思っていたのだが、そうでもないようだ。
安く思えるのは、街で買うビール(1缶0.57ユーロ)ぐらいで、ちょっとBARに食事に入っても20ユーロは取られる。EUとして通貨統合されてからだろうか、とにかく決して物は安くない。
バルセロナ空港に到着し、節約しようと、タクシーを使わず、空港バスにて市内中心地であるカタルーニョ広場まで出てからタクシーでホテルへ向かう。
ホテルは三ツ星ながら、とても綺麗で予約してくれたCESARに感謝である。
荷を解き、早速、街へ繰り出す。
目抜き通りであるランブラス通りを歩く。
歩きながら驚いた。街には活気があるのだ。人々も明るい。生き生きしている。これは正直、マドリッドの比ではなく、ひょっとしたらミラノよりも街が息づいているのではと思った。
とても印象がよい街。僕の中のヨーロッパ都市ランキングでトップに躍り出るほどである。
しばらく歩くと左手にインターネットカフェがあったので、メールをチェックした。
またテクテクと歩くと、左に大きな市場があった。(後で知ったが、サン・ジュセップ市場という有名な市場であった)道をそれて市場に入る。
すごい活気だ。
花を売る店。果物を売る店。豚を吊る店。魚介類を売る店・・・。市場は楽しい。楽しいのでぐるぐる見ながら歩いていると、店の合間にカウンターを作り、魚介類や野菜を焼いている屋台を発見した。
なにやら美味そうだし、腹も減ってきている。
言葉もまったく通じないのは承知で、カウンターの空いた席に腰掛けた。
働くオッサンが「オラ!」っと微笑む。
「生ビールを一つ!」とイタリア語で言ってみた。
イタリア語とスペイン語は極めて近い言語なので通じたようである。
次に、隣に座る人が食べているアサリと謎の縦1CM横5CMほどの細長い貝が気になり、指差してそれをオーダーする。
しかし、初めて見る貝であって、黒くて長い。ちょうど中指くらいの大きさなのである。
これらを塩コショウ、オリーブオイル、ガーリックで、いわゆるボンゴレ風に味付け、レモンを添えて出てきた。
「美味い!」一人、日本語で唸ってしまった。
新鮮な市場の魚介類をその場で焼いてもらいビールを飲む。きっと、他所よりは高いのだろうが、そんなことは今はどうでもよいのだ。
ボンゴレを食べ、フランスパンをかじり、ビールを流し込む。
ただただ、これの繰り返し。
たまに唸る。
気がつくと、日本人の若いカップルが、カウンターの後ろに立っている。唸っているのを見られたのだろうか。僕の横がちょうど2席空いていたので、どうぞ、どうぞと席を勧める。
聴けば二人ともイギリスに住んでいるとのこと。現実を逃避して日本よりイギリスに行き、バルセロナに来て、更にイギリスより逃避したくなったと彼は言った。
「あほか」と思ったが、聴かないふりをした。海外に行くとこういう輩が多い。
唸っている二人を放って、又、僕は目抜き通りを歩き始める。しばらく歩くと、空港バスを下りたカタルーニャ広場に出た。どうやらここがバルセロナのヘソの様である。
地下鉄(メトロ)の入り口が地下に伸びていたので、そこを下り、売り場で一日乗車券を購入し、まず、国鉄サンツ駅に向かう。
明後日の朝、この駅よりヴァレンシアへ向かうべく、特急列車のチケットを買わないといけないのである。
前売券売り場は、日本の銀行の窓口の様に番号札を手に待つスタイル。僕の番が来て、AM8:00発の席を確保できた。
サンツ駅で違うラインの地下鉄に乗り換え、ガウディのサグラダ・ファミリア聖堂へ向かった。この天空に4本の筒が飛び出している建造物は1882年に建築が始められ、ガウディのデザインにて彼の死後も着々と建築されている。完成までに後200年かかるらしい。
ガウディだけでなく今生きている誰もが完成を待てないのである。不思議な気分である。
芸術とはそういうものなのかもしれない。
高級ブティックが並ぶグラシア通りを歩く。この街はやはり明るい。観光客もマドリッドの比ではなく、通りには大道芸人達が人集めをし、花屋が花を売っている。人々を勧誘しながらポートレイトを書いている画家(?)もいる。
カタルーニャ広場まで戻り、マドリッドでも世話になったスペイン随一の百貨店の地下へ買い物に行く。
ビール、プチトマト、オレンジとブルーチーズ。
歩きつかれたので、部屋に戻り休もう。そして夜、又、BARへ繰り出そう。
驚くほど甘酸っぱく美味いプチトマトと、驚くほど香るオレンジを食べながらハイネケンを2本空けて僕は昼寝した。
午後8:30、BARへ行こうと出発。残念ながら、ホテル周辺は柄が悪そうである。嫌な雰囲気がする。早めに帰ったほうがよいと僕の中の危険信号が発令する。
昼間見つけていたBARで生ビールとタパスを2種類頼む。今夜はサッカーのチャンピオンシップでスペイン屈指のここバルセロナが、イギリス名門チェルシーに対戦するのだ。
頑張れ、バルセロナ! 頑張れ、ロナウジーニョ!! デコ!! エトゥ!!
酒飲む人々が熱くなり始めたので、ホテルに帰る事にした。めちゃくちゃ煙草が吸いたくなったが我慢する。
9-3-2005:
朝より耳の奥が痛い。喉も少し痛い。鼻水が止まらない。ひょっとしたら風邪をひいたかもしれない。
午前9:00、宿泊ホテルのフロントに今回新規でアポ取りしたメーカーであるR社のオーナーが来てくれた。この会社はスペインの老舗ジュエラーとしてその名声はスペイン国内に留まらず、あのカルティエの『タンク』シリーズのデザイン供給をした会社としても知られている。所有する宝飾品にもそのおもむきが覗える。
サンプルとしてカタログの女性モデルが身に着けているものを10点ほどオーダーすることにする。
オーナーであるカルロス氏はとても心安い。オジサンなのだが、そのハゲ具合は到底44歳とは思えない。僕の事を20代と思っているようである。そのままにしておく。
正午、アールヌーヴォー期のジュエリーを製作する事で世界的に有名なM社へ。その芸術的な作品の数々を見せてもらう。この会社は2つのブランドを有するが、その1つは既に日本にてEXCLUSIVEな輸入代理店を持っているので正規輸入は出来ない。ここではもう1つのブランドの輸入に関するMEETINGとなったが、卸価格を提示できるトップが不在にて、現状の価格では納得いかず仕切り直しとなる。とりあえず我らの主旨は伝えた。商材はさすがの一言につきる。
夕方、本日最後のアポであるA社に地下鉄で向かう。オーナーは英語を操れず、オーナー御令嬢でマネージメントの軸を務めるベラと約二時間話した。
ここもスペインでは名の知れたメーカーである。この二時間に自分を売り、会社を売り、朝の商談と同じD/A at 90DAYSという信用買いでサンプルをオーダーした。ベラはとても気さくで面白い女性である。仕事の枠を超えて、人として魅力を感じた。
夕日の沈む夕暮れ時の帰り道、自身納得の行く仕事の出来た僕は、昨日訪れたガウディのサグラダ・ファミリア聖堂の横をスーツ姿で歩いた。薄暗い中に天空へそびえ立つこののっぽな建造物は昨日見たより、ずっと崇高で厳粛な思い雰囲気を醸し出していた。
流石に疲れた。ホテルへ帰る途中の目抜き通りにあり中華料理レストランに立ち寄った。客が多いのは、きっと美味いのだろうと思っていたが、僕が頼んだ「Beef with Hot Souse と Fried Rice」は全くもって満点の味であった。
今回は、ここバルセロナの道標をうまくつける事が出来た。もっと掘り起こせば良いジュエラーがたくさんあるに違いなく、今後はスペイン国際宝飾展に参加するか、少しずつバルセロナに立ち寄り、新規開拓していきたいと思った。
スペインの人々は、気軽な挨拶として「オラ!」と云う。いわゆる英語の「ハロー!」、イタリア語の「チャオ!」に近い言葉のようなのだが、僕の中での「おらっ!」は、どちらかといえば、なんとなく投げやり的言葉なのでなかなか慣れる事が出来ないでいる。
10-3-2005:
僕は午前8:00のバルセロナ・サンツ駅発バレンシア行きのユーロ・メッドに乗り込んだ。これから3時間は列車での旅となる。
列車はイベリア半島東海岸沿いを、ただただ南下する。
左手の車窓には穏やかな地中海が広がっている。車窓から見えるその風景を見ていると、まるで時間が止まっている様な錯覚を受ける。
今朝起きると、喉と鼻と耳の奥が更にやばくなっており、チェックアウトの際、フロントの兄ちゃんに「個人的なものだけどどうぞ!」と薬をもらったのだが、どうやらこれがとても効いているのかもしれない。
列車に独り揺られていると、その痛みを感じなくなった。薬のおかげだろうか、はたまた、この穏やかな景色のおかげであろうか・・・。
眠ってしまっていた。
心地よい列車の揺れに目を覚ますと、車窓は変わり、オレンジ色の実をたわわと付けたみかん畑が連なっている。
「これがバレンシアオレンジか・・・」と独り納得する。そして、ピンクの花咲く畑も見える。どうやら桜のようなのである。桜畑とは生まれて初めて見る。サクランボでも取るのであろうか。
バレンシアのホテルより、スペイン大使館より入手した情報を元に、気になる宝飾メーカーに電話を入れるも全く英語が通じない。歯がゆく思いながら受話器を置く事、数回。結局、明朝のアポ1件にて終了である。
街に出るが足が重い。咳が出始める。
オレンジが生い茂っている並木道の並木を「日本だったら全部捥がれてしまうだろうな」と重いながらフィルムに納め、そのすぐ傍のオープンカフェにてピザを食べた後、ホテルに戻り静養する事にした。
深夜2:00、毛布を2枚被るも寒い。熱が出てきたかもしれない。フロントへ電話し薬を貰おうとしたが常備していないとの話。
「4つ星ホテルやろ!?」と独り愚痴るも仕方なし、とにかく水分をたくさん採って寝ることにする。
しんどい。海外に出て体調を壊すのは、新婚旅行以来である。あの時はイスタンブールで食べたムール貝に二人してあたったのであった。懐かしい想い出が頭をよぎった。
11-3-2005:
寝たり起きたりしながらベッドの中に15時間程。
午前9:00からの新規アポにはどんなことをしても行かなくてはならない。往きしに薬局で薬を購入する。この薬は粉薬なのだが、やけに量がある。きけばどうやら水に溶かして飲むようである。水に溶かすとそれはオレンジジュースになった。さすがバレンシアである。関係ないか・・・。
今朝の訪問先A社はスペイン語しか通じないようで、日本人の女性の通訳が一緒に待っていてくれた。まだ若い彼女はバレンシアに来て2年ほどとの事。ふと昔、カナダに留学していた頃の自分を思い出した。このスペイン第3の街・バレンシアに住んでいる日本人のほとんどは顔見知りだと彼女は話した。
どんな夢を持ってここで生活しているのであろうか。
ホテルの部屋に戻り、ソファーでうたた寝、熱が下がっている様なので、思い切って二日ぶりのシャワーを浴びる。
夕方までの時間を潰すべく、荷物を駅のコインロッカーに預ける(3ユーロ)。
アリカンテへの列車は、さしずめ日本でいう新快速といった感じであった。しかし驚くほど混んでおり、学生風の若者達が大きな荷物をそれぞれ手持ち乗っている。早めに待っていて良かった。危うく立ち乗りになる所であった。
2時間ほどの茶色の世界の旅。
到着したアリカンテ駅には12年ぶりにて髪が少し白くなったがほとんど昔のままのCESARと、彼の娘・ANDREAが立っていた。もじもじするシャイなANDREAに挨拶をした。この街には日本人がいないので、東洋人にいささか面食らっているのか、とても可愛らしい。
CESARの運転するシトロエンに乗り込みビーチサイドを散歩する。
12年前のトロントでの日々、CESARが自慢していた街がここにあった。自慢していた海がここにあった。
ついに僕は12年前の約束どおりここにやってきたのである。なるほど誇れるだけの素敵な街である。
CESARの家では嫁さん・MARと1歳のチビ・ALEXが待っていてくれた。笑顔が止まないであろう素晴らしい家族の生活スペースがそこにあった。
部屋でビールと手土産の茶飲みセットで入れた日本茶で乾杯した後、ビーチサイドのPIZZARIAへ5人で出かける。心温かいもてなしに心から感謝する。その後、CESARと二人で軽くBARで飲んだ。
12-3-2005:
朝、CESAR家のリビングの窓一面に広がる海に感動する。
昼前、アリカンテ市内を歩く。街に宝石店が多いことにCESARと二人して驚く。途中、市場で出かける。週末故、街のオバサン達で賑わっている。肉屋が多い。ウサギも皮をむかれ耳を取られては、何の動物かわからない。ヤギの脳みそから牛タンまるまる一本まで売っている。やはり肉食人種である。
12年ぶりにトロント留学時代に俺の当時のコンドミニアムで、CESARがフィッシュマーケットにて、鱒かなにかの大きな魚を一匹調達し、料理してくれた事を思い出した。
その後、CESAR家族と山間の村へ向かう。そのAGRESという村は、アリカンテより高速で約1時間の所にあった。茶色い山肌の中に点在するレンガ作りの家々。ポツポツと開花する桜だが、茶色の岩肌に咲く桜は、それ程魅力的には見えない。
未だに鼻水が止まらない僕だが、どうやらMARにもうつしてしまった様で、彼女も咳ごみはじめる。
いつも独り、BARでタパスとビールでの食事をしてきたので、考えてみればはじめてのレストランでの食事であった。CESARがオーダーしてくれる。出てくるお皿をみんなでシェアしたのだが、今これを書きながら思えば、風邪の僕と皿をシェアするなど、風邪をうつしているようなものである。
イカフライや数種のソーセージの盛り合わせ、野菜を塩コショウで網焼きしたもの。それぞれに美味しい。ANDREAがMARに云われ、半泣きになり鼻を摘みながら茄子を食べている。どこの国も同じである。最後は黄色いライスに豚足や野菜を混ぜて蒸したものがやってくる。これは何というメニューか訊いたが忘れてしまった。パエリアではないらしい。
しかしこのレストランは有名なのであろうか。こんな小さな山間の村なのに客が一杯なのだ。もちろん東洋人は俺一人なのだが・・・。
夕方、CESAR宅に戻る。僕の風邪は薬を飲み続けるも良くなる兆候はなく、それ以上にMARやALEXにまで波及させつつある。本当に申し訳ないと思う。
夜、CESARとANDREAとでスペインのテーブルゲームをする。金髪のANDREAは本当に可愛い。きっと素敵な女性になるのであろう。無性に自分のチビ達に会いたくなる。
ベッドに入るも寒く、服を着込んで、靴下を履いて、バスタオルを足に巻いて丸まって寝る。
薬を飲んで安静にすれば良いものの、すぐに寒空の下、出回ったりするから飲んでいる薬も利かなくなってきた気がする。
CESARの家は、CESARとMARが共稼ぎという事もあり、家の事も共同でしている。ALEXのオムツを替えるのもCESAR、風呂に入れるのもCESAR、洗濯を干したり、週末の朝、ANDREAのパンを焼いたりするのも彼の担当のようである。夜も、CESARが子供をあやしている間、MARは何やらレポートを書いている。なかなか僕には真似が出来そうにない。
「ひょっとしたらMARの方がCESARより収入がおおいのかもしれんなぁ」と思った。
まぁ僕には関係のない事である。
13-3-2005:
朝、目が覚めるもやはり体は重いままである。午前中、アリカンテのカテドラルへ連れて行ってくれると言っていたCESARの誘いを断り、部屋で昼迄、寝かせてもらう事にする。今日、午後のフライトでミラノに戻ることになっている。
午後、リビングのほうが賑やかだったので出て行くとCESARのご両親が来られていた。御父上は会社経営者らしく、きびきびとした英語がわかりやすい。
別れの時、空港に送ってくれるCESARと御父上以外のみんなに挨拶をする。ANDREAが次に会う時どう成長しているかが楽しみである。
考えてみれば、今から12年前のたった一ヶ月、カナダはトロントという街でのひょんな出会いが、今、このような温かいもてなしに変化するとは、当然思いもつかなかった。人との出会いとは素晴らしいとつくづく思った。
こんな日本からものすごく離れたユーラシア大陸の西端のイベリア半島の海沿いの街も自分がいた事を、日本に戻り、家で地球儀を廻しながら、ビールを片手に回想したいと思う。
夜、ミラノの常宿より薬局へ向かうが、抗生物質は医者の処方箋がなければ売ってくれない。仕方がないので強い風邪薬を購入する。
久しぶりにシャワーを浴びる。驚くほど髪の毛が抜けてびっくりする。
14-3-2005:
やはり体調は完調に程遠い。まだ食欲があるだけ良い方である。
朝、既存取引先・G社にて仕入れを行う。体調を社長であるアントニオ氏に話し、うまく抗生物質を裏から入手してもらう。1日2錠。これが効いてくれれば良いのだが。しかしやたらとデカイ錠剤である。飲み込むのに一苦労する。うちのチビなら無理であろう。昼よりF社にて仕入れ。
しかし、海外をしばらく一人旅にすると、嫁や子供の大切さを痛感するのは俺だけだろうか。普段、そばにいるのが当たり前で、感動を共有することを求めず、流れるように生活している事、遠く離れた地に来るとなぜかよくわかるのである。反省すべきことである。
夜、歩いていて見つけた日本食レストランの暖簾をくぐる。キリンビールと天ぷらうどん、鉄火巻きを頼むが、その味の悪さにムカついてしまうほどである。
悪いと思ったがほとんど残し、席を立った。働いている偽日本人スタッフ達は驚いた様子だったが、これが日本食とミラノに住む人々に認識されるという方が驚くというものである。
部屋に戻りなんとなく効いてきている気がする抗生物質第二段を体内に投入する。
15-3-2005:
間違いなく薬が効いてきている。
フィレンツェに向かうユーロスターに揺られながら、次第に回復しつつある体調に安心する。
いつもながらのフィレンツェへの列車の中、日本より持参した文庫本『漂泊の牙・熊谷達也著』を一気に読む。この作品、ニホンオオカミを題材にした小説なのだが、さすがは新田次郎賞を獲っただけあり、とてもおもしろかった。
日本よりホテルへFAX。営業数字が全然伸びていない様子。帰国後、頑張るだけの事である。もう焦りはしない。
フィレンツェのマネッティ氏の工房にて、オーダーしていた商品を受け取り、彼の工房で働くマクシミリア氏の夏の来日について話し合う。盆明けに企画を打ち出す事にする。
話し合っている途中、気品ある婦人がマネッティ氏の店に来られ紹介される。話しているとこのマダムはフィレンツェでも指折りの家系であることが判った。
「タック、このマダムはパレス(宮殿)に住んでいるんだよ」マネッティ氏が話す。
「もし良ければ、お茶でも飲みに来ない?」とのマダムよりの誘いに、興味本位で付いて行く事にしたのだが、行ってみて吃驚した。
マジで美術館級なのである。建物は12世紀に建てられたとの事だが、部屋の調度品は当然のこと、天井のフレスコ画は素晴らしくヴァチカン宮殿のミニチュア版なのである。部屋方々に置かれた写真には、イギリスのブレア首相(とても仲が良いらしい)やローマ法王といった大物との物ばかりである。聞けばチャーチルの遠縁であるらしい。娘は有名なダンサーでありソムリエらしい。ミキモトのモデルでもあるらしい。確かに写真に写る彼女は女優そのものである。
話を聞くと、創業994年のワイン製造会社のオーナーであった。1000年以上も続く会社なのである。会社のパンフレットをみると、かのミケランジェロが書いたこの会社へのワインに関するコメントなどが残っている。こんな出会いは初めてかもしれない。深々と頭を下げてマネッティの工房に戻ったのであった。
マネッティの工房にてフィレンツェ紋章のダイヤのブローチが痛く気に入り購入し持ち帰ったのだが、その後、日本のヴァンサンカン誌(2005年5月号)に『オーダーの頂点に君臨するスタイリスト』としてマネッティ氏が取り上げられ、僕が入手したブローチが載っていた。
フィレンツェ駅前のレストランで左唇奥に出来た口内炎を気にしつつ、パスタを食べた後、帰りの列車でミラノに戻った。
長かった出張も明日で終わりである。
16-3-2005:
午前中、日本からの指示によりS社へChain類を仕入れに行く。
昼からカドーナ駅よりマルペンサエクスプレスに乗り、マルペンサ空港へ。帰国の途につく。
振り返れば長い出張であった。
これだけ長い出張もまれである。目標にしていた仕事はこなせたと満足している。生まれて初めて訪れたスペインに新天地を見出せた事、自分なりに満足している。今後はスペイン市場もイタリア市場と同様に、気を配りたいと思う。
帰りのフライトも山盛りの日本人。この人達はいったいどこにいたのであろうか・・・。
街を歩いてもほとんど見かけなかったのに。きっとみんな缶詰のようにギュッとつまって動いていたに違いない。間違いない。間違ってても関係ない。
僕は今、ただただ居酒屋のカウンターで焼き鳥などを暗いながら、しっくり、ぽっくり、ゆっくりしたいだけである。
日本人バンザイ!
終