小人数の真面目な会合だが、気の知れた仲間で合間には冗談も飛び交う。他県や市町村の人々を含めた地区の大会開催を手伝った知人。「あんたも(わしらと)一緒かな?」と尋ねられたと、そばに居た友人が「この人は、わしらより怖いぞ」と言うがぜよと。私たちは「うん、確かに人を見る目がある」とそろって笑う。
知人も普段から気の許せる仲間付き合いができるやつと、認められているから頼まれたのには違いない。同和教育か被差別問題、言い方は異なっても、人権(人間が人間らしく生きるために生来持っている権利)には私も関心があり、集会や学習会などにはよく気楽に出かけてきた。
「食事になって一緒に食べるの、かまんか」「と言うけん何のことかと思たら、一緒に食べるのを嫌がる人がいるらしい」。気遣いの言葉には「今でもそんなことあるんか」と驚いた。
政権が格差社会で差別を計画的に生み出すこの国。共にいっしょと感じることにも気を使わねばならない現実。
『』という呼び名は昔から地区割の区分を○○で表し共有していた。遊びにも行き仕事で出かけることも、付き合いもあり身近な感覚もある。
食事では以前このブログにも書いたが、朝鮮からの労働者宅で仕事をすませた後、酒とご飯をごちそうになったことがある。酒は、目の前で封を切り栓を開けたもの。食べ物はすぐそばの台所で作られた心のこもったもの。
なのに、その家のご主人「汚くないですから、どうぞ食べてください」を何回繰り返したことか。どんなに多くの日本人から差別に蔑視を受けてきたことかと私の方が心苦しくなった。
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