みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「なめとこ山の熊」(「おもしろい」とは)

2017-02-28 10:00:00 | 賢治作品について
《なめとこ山遠望》(平成21年5月15日撮影、幕館橋より)
 さて今回は残っていた私の最後の課題を解決し、これで「なめとこ山の熊」シリーズそろそろ終わりにしたい。
 私は、このシリーズの最初で次のようなことを言及した
 この童話は、
 なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。
というようにして始まっていて、この唐突な「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という出だしが上手で、一気に物語の世界に引き込まれるのだが、この「おもしろい」は普通の意味のそれではないことに後で気付かされる。
と。
 そして実際に、テクニックとしてはこの出だしが上手いとしても、この「なめとこ山の熊」において普通の意味での「おもしろい」ところは何一つなかった。それどころかどちらかというとそれとは逆の内容の童話であった。切なくて悲しい物語だった。それでは、賢治はなぜ「おもしろい」と断言してからこの物語を始めたのだろうか、という大きな課題がである。

 前回考察してみたように、ストイックとも言えるジョバンニとカンパネルラそしてブドリの三人は皆先に「死ありき」、あるいは捨身ありきの嫌いがある。まずは宿命を素直に受け容れ、その不条理を止揚しようという苦悩も葛藤も窺えない。もちろん、ザネリを助けようとして代わりに死んだとも言えるカンパネルラも、その必然性が乏しいとは雖も農民を救うために捨身したというブドリも、あるいは星になろうとして一生懸命頑張って遂に星になったというあの「よだか」も皆ストイックで素晴らしい。しかし、そこには躊躇いが全く見られないから、読者としての私には今一つ響いてこない。ところが、田下氏の指摘により、小十郎と熊は「命への執着をとくことによって、精神的に結ばれ」て「不条理を止揚できた」のだということを私なりに了解できた。ならば、なにも先に「死ありき」でなくともよかろうにという疑問を私は抱いた。
 そこで私は直感した。この疑問に対しての答が、実は「なめとこ山の熊のこと」に注目すれば見出せるということに賢治は気付いたから「おもしろい」と真っ先に断言したのではなかろうか、という可能性があることをだ。もちろんそれは私の強引な解釈にすぎないのだが、毎日毎日精一杯生きている小十郎や熊であっても、宿業を受け容れて命を全うすれば、ストイックなカンパネルラやブドリそして「よだか」以上に魂の昇華ができる、ということを「なめとこ山の熊のこと」で語れることに賢治は気付いたので「おもしろい」と言い切って語り始めたのではなかろうかということを私は思いついたのだった。そう、ストイックという訳でもなく取り立てて取り柄が何一つある訳でなくとも、宿業を受け容れて命を全うすれば魂の昇華があり得るのだということが言えないだろうか。それも宗教性を抜きにしてだ。だから賢治は真っ先に「なめとこ山の熊のことならおもしろい」と伏線を張って物語を書き始めたのではなかろうか。

 つまるところ、この「なめとこ山の熊」という童話は読者にとっていわゆる「おもしろい」物語だということを賢治は言っている訳ではなくて、「なめとこ山の熊のこと」を主題とした童話を創作することは実に「おもしろい」ことだと、賢治が物語の創作者としての心情を吐露していたのだとは考えられないだろうか。実際この「なめとこ山の熊」は普通の意味では何ら「おもしろい」童話ではないのだが、「なめとこ山の熊のこと」を主題にした物語であれば、賢治が創作した他の童話から一つ突き抜けたものを創作できそうだと確信したから賢治はそのような意味で「おもしろい」といの一番に述べていたのだ、と。そして実際、この「なめとこ山の熊」は単に切なくて悲しい童話だった訳ではなく、そこを一つ突き抜けたとても美しい物語であった。
 というわけで、私には自分なりにこのように解釈できたので、これで残っていた課題も取り敢えずは解決できた。
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 少し前までは、私の大好きな賢治作品は心象スケッチ「原体剣舞連」や、童話「やまなし」「おきなぐさ」「銀河鉄道の夜」、そして〔あすこの田はねえ〕や「和風は河谷いっぱいに吹く」「野の師父」の詩などであったのだが、「羅須地人協会時代」の検証作業を通じて「銀河鉄道の夜」や〔あすこの田はねえ〕「和風は河谷いっぱいに吹く」「野の師父」については、もはや魅力を失ってしまったところだった。そんな状況下の私であったので、
 これで再び賢治の作品の中に「星の王子さま」に勝るとも劣らない私の珠玉の一篇「なめとこ山の熊」が見つかって嬉しい限りだ。私にとっては「なめとこ山の熊」は賢治童話の最高傑作だ。
と、くどくなるが最後に言わせてもらって、このシリーズ「なめとこ山の熊」を終えたい。最終回の論理は一寸強引だったかなと反省し、しかしこうでも考えないとこの「おもしろい」の使い方はおかしいよなと弁解しながら。

《平成28年花巻祭り 「西大通り」の山車の「見返し」は「なめとこ山の熊」だった》(平成28年9月9日撮影)


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