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三 「下敷」の検証

2024-05-25 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

三 「下敷」の検証
 さて上田は同論文で、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(投稿者略)…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており((七))
と述べていたので、私も実際当該の「文篇」を渉猟してみたところたしかにそのとおりだった。

『宮澤賢治と三の人女性』
 ところが、「下敷」になっている『宮澤賢治と三の人女性』( 森荘已池著、人文書房、1949年)

における露に関する記述内容には、信憑性が危ぶまれる箇所が少なくないことを知った。例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた((八))。
という記述がそれだ。
 当時の露は寶閑小学校に勤めていたのだが、その時の露の教え子である鎌田豊佐さんに私は直接会うことができ(二〇一二年一一月一日)て、「当時、露先生は西野中の高橋重太郎さん方に下宿しておりました」と教わった。さらに、その下宿の隣家の高橋カヨさんからは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただし賄いがつかなかったから縁側にコンロを持ち出して皆さん自炊しておりましたよ((九))。
ということも教わった(上田はこれらのことは同論文では明らかにしていない)。
 さてそうなると、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならずその他に自炊するための炊事用具一式等も必要だったということになる。そこで、一部の口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を伝え聞いて、「もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、云々」と男女間の下世話にし、そのような「風聞」を森はそのまま活字にしてしまったという蓋然性が高い。なぜならば、その典拠がそこには何ら書き添えられていないからだ。
 さらに同書には、
 彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた((十))。
ということも述べられているが、当時の露の勤務先の寶閑小学校は現「山居公民館」の直ぐ近く、下宿は現「鍋倉ふれあい交流センター」の直ぐ近くにそれぞれあった(上田は、これらの場所は同論文では明らかにしていない)から、「露の下宿→下根子桜(宮澤家別宅)」へ最短時間で行くとなれば、そのルートと所要時間は当時の花巻電鉄「鉛線」の『列車時刻表』((十一))等によれば、
となっただろうから、最短でも往復約四時間はかかる(上田は、「当時往復するだけで二時間前後はかかるのである」と同論文で述べている)。したがって、「一日に三回もやってきた」となれば往復するだけでも最低一二時間は要したであろうし、前掲の時刻表を見てみると、「二ッ堰駅」の始発発時刻は午前5:44で、「西公園駅」の終電発時刻は午後8:22だから、そのようなことの可能性は限りなくゼロに近い。
 だからそうではなくて、露が週末や長期休業中に生家に戻って来ていた際にであれば、「一日に三回もやってきた」ことはあり得る。がしかし、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家(上田は、同論文でその住所名を明らかにしているが、そこが地理的にどこであったかは明らかにしていない。これは、上田哲以外の賢治研究者も同様である。ただし幸運にも私は、伊藤博美氏のお陰で、露の生家は、向小路の北端であることを明らかにできた)と下根子桜の宮澤家別宅との間は約一㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた「風聞」であったという蓋然性が高い。

「ライスカレー事件」
 では、いわゆる「ライスカレー事件」(上田の論文はこの「事件」のところで、未完のまま終わってる)についてだが、当時賢治の許にしばしば出入りしていた高橋慶吾の追想「賢治先生」によれば、
(露が)或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶか〳〵弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした((十二))。
というような、ライスカレーにまつわる事件があったという。
 さてこの証言に基づけば、当日は少なくとも二~三人の来客があったのだから賢治の分も含めれば、最低でも三人分のライスカレーを露は作っていたことになる。ところが、当時賢治と一緒に暮らして炊事等も手伝っていたという千葉恭は、「台所は裏の杉林の中…(投稿者略)…燃料はその辺の雑木林の柴を取つて来ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです((十三))」と証言しているから、露が三人分以上のライスカレーをそこで作るということは大変なことだったはずだ。にもかかわらず、賢治は突如自分の都合が悪くなったので頑なにそれを食べることを拒否したというのであれば、仮に露が「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」と詰(なじ)ったとしても、そして心を落ち着かせるためにオルガンを弾いたとしてもそれは至極当たり前のことであり、その責めは賢治にこそあれ露には殆どなかろうから、このような「事件」で露だけを〈悪女〉にすることはもちろんできなかろう。
 では次に、森が『宮澤賢治と三人の女性』において伝えているところの同「事件」を一部引用してみよう。例えば、
 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが貪((ママ))べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頬をひきつらし、目にまたたきも与えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、真赤な顔が蒼白になると、ふいと階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(投稿者略)…その楽音は彼女の乱れ砕けた心をのせて、荒れ狂う獣のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顔いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顔を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた((十四))。
とある。ただし、この時に森がそこに居合わせたということを彼自身は述べていないから、この記述の元になったのは殆ど前掲の慶吾の証言であろうし、それ以外の人の証言は見つからない。しかも、慶吾は「悲哀と失望と傷心とが、……ふいと飛び降りるように」とか、「降りていつたと思う隙もなく、……ひとびとは、お互いにさぐるように顔を見合わせた」とかというようなことはそこでは述べていない。そのようなこともあってだろうか、佐藤通雅は『宮澤賢治 東北砕石工場技師論』(洋々社、2000年)

の83pにおいて、この引用部分のことを指して、
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(投稿者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる((十五))。
と明快に断じていて、先の引用部分には森の手による創作があったと、私も同様の判断している。
 というわけで、この「ライスカレー事件」を始めとして、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述にはあやふやなことが少なくないから、検証や裏付けもなしにこれを「宮澤賢治伝」の研究のための資料に資することはできない。
 なお、今まで考察してきたこと以外のことで、当時賢治と露に関して巷間どんなことが噂されていたかというと、前掲の高橋慶吾の「賢治先生」や関登久也の「返禮」(『宮澤賢治素描』所収)等によれば、
・賢治は顔に灰(一説に墨)を塗って露に会った。
・賢治は一〇日位も「本日不在」の表示を掲げた。
・賢治は露に対して癩病と詐病した。
・賢治は襖の奥(一説に押し入れ)に隠れていた。
・賢治が露に布団を贈った。
などという噂が流されていたということを知ることができる(上田哲はこれらのことについては同論文で詳しく論じている)。ただし、今となってしまってはこれらの真偽の程は判りにくいが、仮にこれらの行為が事実だったとしても冷静に考えてみれば、いずれも賢治の奇矯な行為だなどと言われこそすれ、これらの噂で露独りだけが一方的に〈悪女〉にされたとすればそれはアンフェアなことだ。
 しかも、高橋慶吾によれば、賢治の父政次郎もこの件に関して、
 その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会つた時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない((十六))。
と賢治を叱責して反省を求めたということであり、関登久也も同様なことを『宮澤賢治物語』で述べている((十七))。さらに、政次郎ととても親しかった賢治研究家の小倉豊文も、このことに関連して次のように述べている。
 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯を見せるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている((十八))。
 したがってこれらの証言等から、この件に関しては賢治にほとんどの責任がある、というような叱責を賢治は父から受けたということはほぼ確実だろう。

「一九二八年の秋」
 さて、さらに大問題となるのが、『宮澤賢治と三人の女性』の中の、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。国道から田圃路に入つて行くと稲田のつきるところから((十九))、
における「一九二八年の秋」という記述であり、これは致命的なミスだ。その頃既に賢治は豊沢町の実家に戻って病臥していて下根子に居なかったので、これはあり得ない話となるからだ。
 そこでどうしたかというと、いわゆる『新校本年譜』は、
 「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く((二十))。
と注記し、「一九二七年の秋の日」の間違いであったと見做していて、これが通説となっている。たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』は一九四九年発行だから、「一九二八年の秋の日」と記述するところのその訪問はそれよりも約二〇年も前のことなので、森の記憶違いであり、ケアレスミスであったということは十分に考えられる。
 ところが、森は一九三四年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(一九三九年)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(一九七四年)でもこの訪問時期については一様に「一九二八年の秋」としている。となれば、これはもはやケアレスミスとは言えまい。
 次に、『宮澤賢治と三人の女性』で西暦と和暦がどう使われているかも調べてみた。すると、全体では和暦が三九ヶ所もあったのだが、西暦は一ヶ所しかなく、それがまさに件(くだん)の「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の箇所だった。しかも、同じ年の和暦表現である「昭和三年」を他の五ヶ所で使っているというのに、だ。したがって、この件(くだん)の箇所だけは西暦で「一九二七年」とも、和暦で「昭和三年」とも書くわけにはいかなかったと判断せざるを得ない(言い換えれば、森の「下根子桜訪問」は通説となっている「一九二七年」でもなければ、はたまた「昭和三年」でもなかったとほぼ言えそうだ)。
 では、なぜ彼は通説となっている「一九二七年の秋の日」と書くわけにはいかなかったのだろうか。このことに関しては、道又力の『文學の國いわて』等によれば、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は…(投稿者略)…心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
 昭和三年六月、病の癒えた荘已池は、盛岡中学時代から投稿を重ねていた岩手日報へ学芸記者として入社。会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった。((二十一))
ということであり、森は病気になって一九二六年一一月に帰郷、その後盛岡病院に入院したりして長期療養中だった。しかも、快癒したという一九二八年六月以降でさえも彼は、「会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった」というくらいなのだから、病が癒える前の、通説となっている「一九二七年の秋の日」の下根子桜訪問が実際に行われたということは考えにくい。
 ならばいっそのこと、「一九二七年の秋の日、下根子桜の別宅に賢治を訪れた際に道で露とすれ違い、その日はその別宅に泊まった」と森は始めから嘯くこともできただろうに、なぜそうせずに頑なに「一九二八年の秋」としたのだろうか。私はその理由を、彼は一九二七年当時重篤だったことが当時世間に知られていたからに違いないと推測した。
 そこで実際に一九二七年の『岩手日報』を調べてみると、
・その時の一人森君は今、宿痾の為、その京都の様な盛岡に臥つてゐる。(四月七日)
・森さんが病気のため帰省したこと脚気衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。(六月五日)
・いつも考へてゐながら森佐一(森荘已池の本名:投稿者註)には一度も音信せない、やむ君に対してとても心苦しい。(六月一六日)
というような記事が載っていて、しかも『広辞苑』によれば、「脚気衝心」とは、「脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」ということだから、これらの一連の報道から、森は病気となって帰郷、しかもかなり重篤であったということが世間に知られていたであろうことが明らかとなった。となれば、彼が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」と書くわけにはいかなかったということもまたおのずから明らかだ。もしそのような書き方をしたならば、「重篤な森にそれは無理、嘘だろう」と世間からすぐに指摘されてしまいかねないからだ。

〈高瀬露悪女伝説〉は単なる虚構
 そこで私は、
〈仮説一:森の件(くだん)の「下根子桜訪問」も、「その際に森が露とすれ違ったこと」もともに虚構であった〉
が定立できることに気付く。しかも、ここまでの検証結果を振り返って見ればこの〈仮説一〉を裏付けるものこそあれ、その反例は一つも見つからないことにも気付く。つまり、この仮説は今後反例が見つからない限りという限定付きの「真実」となった。端的に言えば、件(くだん)の「下根子桜訪問」は虚構であったということになる。
 なお、上田は同論文でこの件に関して、
〈一九二八年の秋の日〉羅須地人協会の賢治宅を訪ねる途中の道で彼女にあっていると書いている。併し、その年の八月十日発熱し豊沢町の実家で病床に伏せていたのである。((二十二))
というように、この時の訪問には矛盾があるということを指摘してはいるが、さらなる追及はしていなかった。
 以上、ここまでの考察の結果、この虚構の「下根子桜訪問」を始めとして、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する重要な記述の中には幾つかの「虚構」や「風聞」と思われるものがあるということが明らかになった。しかも、上田が、「一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にして」と言っているように、この「下敷」によって直接的に、あるいは、延いては高瀬露は〈悪女〉にされたと言える。
 そこで逆に、
〈仮説二:高瀬露は悪女とは言えない〉
が定立できることにも容易に気付くし、併せて、その反例がないということもここまでの検証によれば明らかだ。端的に言えば、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は単なる虚構である、ということになった。
 ところで、ここで注意しておかねばならないことが一つある。それはこの「下敷」そのもの、そしてこれを拡大再生産したとも言える儀府成一の『宮沢賢治 その愛と性』等を含め、昭和四〇年(一九六五年)代頃まではこの〈悪女〉の名が高瀬露だとは、誰一人として論考等において明記していなかったということをだ。よって、せいぜい一部の人だけが内々に知っていた限定的〈悪女・高瀬露〉でしかなかったことになるから、〈高瀬露悪女伝説〉の全国的流布の責任をこの「下敷」等に負わせることはできなさそうだ。

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