さて、私は今から4年ほど前に木村東吉氏の論文「宮沢賢治・封印された『慢』の思想―遺稿整理時番号10番の詩稿を中心に―」によって、賢治が封印した詩稿群「10番稿」があるということを知った訳だが、その際に、私からすればかなり意外に思えたのがその中に一般的には評価の高い次の3篇〔あすこの田はねえ〕「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」までもが含まれていたことである。
一方、下表【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
から明らかなように、昭和2年の3月~夏場にかけての賢治は創作活動が旺盛で沢山の詩を詠んでいるが、それらの多くは「農民文芸会」の提唱する「農民詩」に近いものが多いと私には感じられる。ところがこれらの詩は、『心象スケッチ 春と修羅』所収の詩に見られたようなかつての煌めきも瑞々しさも失ってしまっているものが多いように私には見受けられる。しかも、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には先に私が主張したように虚構があり、その虚構の在り方を知ってしまった私にはもはこれらの詩は感動が薄いものになってしまった。私がそう感ずるくらいだから、当の賢治本人はそのことは百も承知であったであろう。
そういえば、草野心平が言っていた。以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟で投稿したものだが、
と。つまり、賢治は当時「傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」と弱気になっていたと言えそうだ。
これが、もし『農民文芸会』の白鳥省吾や佐伯郁郎に対してならばまだ賢治は彼らと折り合いをつけることはできたであろう。例えば、大正15年の7月下旬に直前で面会を謝絶したであろうこと等によって。ところが、詩集『野良に叫ぶ』が大正15年に発刊されて評判となった渋谷定輔、さらに昭和2年に入ると今度は同じ『銅鑼』の仲間の坂本遼や、三野混沌がにわかに脚光を浴びて高い評価を受けるようになったということだが、賢治ははたして渋谷、坂本、三野等とは折り合いがつけられたであろうか。白鳥や佐伯と違って彼らは本物の農民であったが故に賢治にはそれが難しかったのではなかろうか。そこで、そのことに対して賢治は焦りを抱き始め、そのことをして突如大胆な虚構を賢治の詩においてなさしめたということはなかろうか。
つまり賢治は、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等において先に私が主張したような虚構をしたということはなかろうか。そして、それまでは殆どしたことがなかったようなことまでも虚構してしまっことを恥じ、同時に「農民詩」という分野における自分の限界を悟って、
実際に、『銅鑼』に載っている彼らの作品を拾い上げてみると以下の通り。
たしかに賢治は『銅鑼』第14号以降には投稿していない。それに代わって三野混沌が沢山寄稿しているように見える。しかも最も驚くことは、何と
賢治は「春と修羅 第三集」所収の詩篇は1篇たりとも『銅鑼』に寄稿していなかった。
ということである。それは単純に考えれば、賢治は「第三集」所収の詩篇には「第一集」や「第二集」のそれらと比べて、相対的にはあまり自信がなかったということになりそうだ。
そこで、繰り返しになるが、それまでは「第三集」所収の詩篇において意識して虚構などしたことがなかったと私には思える賢治だったが、渋谷、坂本、三野が『銅鑼』等で華々しい活躍をしていることに刺激を受けて、賢治も我こそと決意して昭和2年7月頃から突如大胆な虚構を取り入れ始めた可能性がかなり大きい。〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」がその具体的な例だ。
しかし、賢治らしからぬそのような行為が災いしたのだろうか、まさに〔何をやっても間に合はない〕状態に追い込まれて賢治の詩嚢は枯渇し、詩の創作はぷっつりとその後途絶えてしまったかの如き現象が起こったであろうことを上掲の棒グラフが暗示していそうだ。もしかすると、この7月~8月に詠まれたこれらの詩に禁じ手と思われるものまでも用いて虚構してしまったことが賢治にとっては「禁断の木の実」であり、そのことによって賢治の詩の創作意欲や創造力を一気に萎えさせてしまったということはなかっただろうか。
そして以下のことは私の単なる妄想であるが、
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一方、下表【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
から明らかなように、昭和2年の3月~夏場にかけての賢治は創作活動が旺盛で沢山の詩を詠んでいるが、それらの多くは「農民文芸会」の提唱する「農民詩」に近いものが多いと私には感じられる。ところがこれらの詩は、『心象スケッチ 春と修羅』所収の詩に見られたようなかつての煌めきも瑞々しさも失ってしまっているものが多いように私には見受けられる。しかも、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には先に私が主張したように虚構があり、その虚構の在り方を知ってしまった私にはもはこれらの詩は感動が薄いものになってしまった。私がそう感ずるくらいだから、当の賢治本人はそのことは百も承知であったであろう。
そういえば、草野心平が言っていた。以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟で投稿したものだが、
「坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」
宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
<『詩と詩人』(草野心平著、和光社)212pより>宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
と。つまり、賢治は当時「傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」と弱気になっていたと言えそうだ。
これが、もし『農民文芸会』の白鳥省吾や佐伯郁郎に対してならばまだ賢治は彼らと折り合いをつけることはできたであろう。例えば、大正15年の7月下旬に直前で面会を謝絶したであろうこと等によって。ところが、詩集『野良に叫ぶ』が大正15年に発刊されて評判となった渋谷定輔、さらに昭和2年に入ると今度は同じ『銅鑼』の仲間の坂本遼や、三野混沌がにわかに脚光を浴びて高い評価を受けるようになったということだが、賢治ははたして渋谷、坂本、三野等とは折り合いがつけられたであろうか。白鳥や佐伯と違って彼らは本物の農民であったが故に賢治にはそれが難しかったのではなかろうか。そこで、そのことに対して賢治は焦りを抱き始め、そのことをして突如大胆な虚構を賢治の詩においてなさしめたということはなかろうか。
つまり賢治は、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等において先に私が主張したような虚構をしたということはなかろうか。そして、それまでは殆どしたことがなかったようなことまでも虚構してしまっことを恥じ、同時に「農民詩」という分野における自分の限界を悟って、
坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます。
と本心を吐露したのかもしれない、ということもあり得ると私は思った。実際に、『銅鑼』に載っている彼らの作品を拾い上げてみると以下の通り。
・大正?年
第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)補遺・資料篇』(筑摩書房)343p~より>第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
たしかに賢治は『銅鑼』第14号以降には投稿していない。それに代わって三野混沌が沢山寄稿しているように見える。しかも最も驚くことは、何と
賢治は「春と修羅 第三集」所収の詩篇は1篇たりとも『銅鑼』に寄稿していなかった。
ということである。それは単純に考えれば、賢治は「第三集」所収の詩篇には「第一集」や「第二集」のそれらと比べて、相対的にはあまり自信がなかったということになりそうだ。
そこで、繰り返しになるが、それまでは「第三集」所収の詩篇において意識して虚構などしたことがなかったと私には思える賢治だったが、渋谷、坂本、三野が『銅鑼』等で華々しい活躍をしていることに刺激を受けて、賢治も我こそと決意して昭和2年7月頃から突如大胆な虚構を取り入れ始めた可能性がかなり大きい。〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」がその具体的な例だ。
しかし、賢治らしからぬそのような行為が災いしたのだろうか、まさに〔何をやっても間に合はない〕状態に追い込まれて賢治の詩嚢は枯渇し、詩の創作はぷっつりとその後途絶えてしまったかの如き現象が起こったであろうことを上掲の棒グラフが暗示していそうだ。もしかすると、この7月~8月に詠まれたこれらの詩に禁じ手と思われるものまでも用いて虚構してしまったことが賢治にとっては「禁断の木の実」であり、そのことによって賢治の詩の創作意欲や創造力を一気に萎えさせてしまったということはなかっただろうか。
そして以下のことは私の単なる妄想であるが、
それこそ、封印された「10番稿」の一つ〔何をやっても間に合はない 一九二七、八、二〇、〕に詠まれている「仲間のひとり」とは昭和2年8月頃の他ならぬ賢治自身のことであり、まさに「何をやっても間に合はない」という心理状態に追い込まれてしまった賢治はもはや身の置き所がなくなってしまった。そこで賢治は、かつての賢治年譜」に
昭和二年
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
とあったように、昭和2年の9月一時東京へ逃げた。そして一旦花巻に戻った賢治は再び11月頃に、九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ。
と澤里武治に言い残して上京したのだった。実は前々から疑問に思っていたこの澤里に語った「今度」の意味するところは、この9月の一時の滞京に対する、11月頃の「セロを持って上京してくる」という再びの上京のことを、それも、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」という不退転の決意をしての滞京のことを意味していたのである。続きへ。
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《鈴木 守著作新刊案内》
この度、お知らせしておりました『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』が出来いたしました。
◇『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』(定価 500円、税込み)
本書の購入をご希望なさる方がおられましたならば、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければまず本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円(送料込)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守
電話 0198-24-9813
なお、本書は拙ブログ『宮澤賢治の里より』あるいは『みちのくの山野草』に所収の、
『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
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◇『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)
ご注文の仕方は上と同様です。
なお、こちらは『宮沢賢治イーハトーブ館』においても販売しております。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』のご注文につきましても上と同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。また、こちらも『宮沢賢治イーハトーブ館』において販売しております。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
ただし、『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』は在庫がございません。
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