みちのくの山野草

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高瀬露と賢治の詩( 〔うすく濁った浅葱の水が〕)

2017-04-09 10:00:00 | 賢治作品について
 賢治は「一九二七、四、一八、」付の次のような詩も詠んでいる。
 一〇三九    〔うすく濁った浅葱の水が〕     一九二七、四、一八、
   うすく濁った浅葱の水が
   けむりのなかをながれてゐる
   早池峰は四月にはいってから
   二度雪が消えて二度雪が降り
   いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
   そのいたゞきに
   二すじ翔ける、
   うるんだ雲のかたまりに
   基督教徒だといふあの女の
   サラーに属する女たちの
   なにかふしぎなかんがへが
   ぼんやりとしてうつってゐる
   それは信仰と奸詐との
   ふしぎな複合体とも見え
   まことにそれは
   山の啓示とも見え
   畢竟かくれてゐたこっちの感じを
   その雲をたよりに読むのである
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
 さて、どうして今回この詩篇を取り上げたのかというと、この詩篇も高瀬露のことをモデルとして詠んでいたと判断できそうだからである。なぜならば、同四巻によれば、この下書稿(二)において、
    「俸給生活者」に対して「サラー」と賢治はフリガナを付けている。
から、
    「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち
ということがわかるし、さらに下書稿(四)においては、
    「あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]に書き換えている。
から、
 「基督教徒だといふあの女」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人である。
と判断できそうだ(賢治周辺の女性でこれに当てはまる人は他にいない)からである。
 しかもこれで、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していた蓋然性が高いこともわかった。

 そこでこの詩を字面通りに解釈すれば、賢治がそのように認識していた露と目される女性に対して、
   なにかふしぎなかんがへが
   ぼんやりとしてうつってゐる
   それは信仰と奸詐との
   ふしぎな複合体とも見え
と詠んでいて、何と「奸詐」という辛辣な言葉までも用いて賢治は詩を詠み、それも、「信仰」と「奸詐」を並列させているから、この頃の賢治は露に対してかなり屈折した複雑な心理状態にあったという可能性がある。それは、先に、一〇四二 〔同心町の夜あけがた〕 一九二七、四、二一、ついて論じたところだが、この〔同心町の夜あけがた〕からは賢治の露に対する切ない想いも垣間見られたし、両者の日付の違いはたった3日しかないから、この頃の露に対する賢治の想いはかなり強く揺れ動いてと言えそうだからである。さらにそれを裏付けていそうなのが、あの「ライスカレー事件」や「高橋慶吾宛高瀬露書簡」である。

〈「ライスカレー事件」〉
 巷間この「ライスカレー事件」については、その内容がどこまで真実であるかはさておき、人口に膾炙しているこの事件がいつ頃起こったのかというと定説はない。ところが実は、高橋慶舟という人物が追想「賢治先生のお家でありしこと」において次のようなことを述べている。
 雪消えた五月初めのころ宝閑小学校の女の先生の勧誘で先生のお家を訪れました。
 小生は二階で先生と話しを致しており、女の先生は下で何かをしておりました。その時農家の方が肥料設計を頼みにまいりました。設計書を書き終わり説明をしているとき、下から女の先生がライスカレーを作っておもちになり、どうぞお上がり下さい下さいとお出しになされたその様子はこゝのお家の奥様が晝時になって来客に心利かせてすゝめる食事の如く、飛び上がるばかりに驚いたのは、外ならぬ先生なり。まづどうぞおあがりくださいと、皆にすゝめてたべさせて、私には食う資格はありませんと遂におあがりになりませんでした。それでお作りになった女の先生は不満やるかたなく、隅にあったオルガンをおひきになりました。それを聞いた先生は、トントンと二階からおりて、二階の板に片手をかけ、階段一二の上に足をとどめて、おりきらないまゝ先生は口を開くのです。今はまだ農家の方は野外で働いている時間です。どうかオルガンをひかないで下さい、と制せられるのでありました。
               <『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27p~より>
 この記述内容から判断して、この著者“高橋慶舟”とはあの高橋慶吾のことであり、“女の先生”も“Tさん”もともに高瀬露のことであることはほぼ間違いない。なぜならば、高橋慶吾は同じようなことを「賢治先生」で
 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探して「カレ-ライス」を料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)4pより>
と語っているし、「ライスカレー事件」に関してこのような具体的証言をできるのは慶吾の他にはいないはずだからである。
 したがってこの高橋慶舟の記述によれば、折角手伝いに来ていた露に対して、賢治は自分の都合でその場を取り繕うためにひどい仕打ちをしてしまったと言えそうだ。

〈「高橋慶吾宛高瀬露書簡」〉
 実は、小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』において、次のような内容の昭和2年6月9日付高橋慶吾宛「端書」が高瀬露から送られていたということを紹介している。
 高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
 そこでこの書簡に従えば、露は賢治から「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ」ということだから、賢治は露をこの時から拒絶したということが考えられるが、その拒絶をする直前までは、賢治は露を下根子桜の別宅に招き入れて讃美歌を歌ったり、美味しい食べ物を食べたりしながら二人だけで夜遅くまでそこに居た訳だから、賢治の言動は褒められたものではなく、その女性に対してひどい話であろう。

 これらを時系列に従って並べてみれば、
 〔うすく濁った浅葱の水が〕:昭和2年4月18日 基督教徒だといふあの女の/サラーに属する女たちの
 〔同心町の夜あけがた〕  :昭和2年4月21日
  ライスカレー事件     :昭和2年5月
 「マツ赤ナリンゴモ」の端書:昭和2年6月9日 先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。
という流れとなる。こうしてみると、露に対する当時の賢治の想いは振り子のように揺れ動いていたし、露に対しては煮え切らない態度をとり続けていた可能性もある。そして、その女性に対して誠実さに欠ける接し方を賢治はしていたと考えざるを得なさそうだ。

 そう考えれば、このような賢治の露に対しての接し方について政次郎が、
 「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)より>
たということも、
 父の政次郎さんは、そんな噂を聞いて、
「それは、おまえの不注意から起きたことだ。はじめて会った時に甘いことばをかけたのが、そもそもの間違いだ。女人に相対する時は、ゲラゲラ笑ったり、胸をひろげたりして会うべきものではない」と、きびしく反省をうながしたとのことです。
               <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月)89pより>
という、政次郎の賢治に対する叱責も尤もなことだと思えてくる。

 どうやら、賢治といえども女性に対しての接し方は慎重さに欠け、自己中心的傾向もあり、そのような賢治に駄目人間の私はますます人間的な魅力を見出して微笑ましく、親近感を感ずる。そして逆に、そのような賢治が文学の面でずば抜けた才能があったことに、そして素晴らしい多くの作品を残してくれたことに改めて感じ入っている。 

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 第1部 「羅須地人協会時代の宮沢賢治」につきましては、私鈴木守が、拙著『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』を主に、併せて『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』も資料として用いながら、「羅須地人協会時代の賢治」の真実に迫りたいと思っております。

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