何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

力づくで従わせようとするのは指導側の敗北

2006-06-18 14:38:15 | 思いつくまま
 権威頼みの「厳格化」は敗北  義家 弘介(元・高校教諭、横浜市教育委員) 朝日新聞 2006.6.17 朝刊
-----転載ここから
 これまで教育は、次々と浮上する子供たちの問題を、モグラたたきのようにつぶすことばかり考えてきた。80年代に校内暴力が深刻化すると、おびただしい校則を作って沈静化させようとした。(中略)

 しかし、力で抑えつけても、子供たちのストレスが癒されるわけではない。その結果、夜のまちに少年社会ができていった。さらに、より巧妙になり、大人の目を盗む形で集団によるいじめが起き、不登校へと問題が複雑化した。(中略)

 高校で初めて担任を持ったとき、半数以上は私と同じ中退者で、どういうクラスになるのか不安だった。不安に思うと、ルールをどんどん増やして適用していくしかなくなる。しかし、それは教育ではなく、矯正である。(中略)

 この世に、教育ほど効率の悪い営みはない。バラバラなゴール(未来)に向かっている一人ひとりと、真剣に向き合うほど効率は悪くなる。教師はコンピューターやクルマをつくっているのではない。効率が悪いほど、いい教育が行われているとさえ思う。(中略)

 教育は5年後とか長いスパンで結果が出るもの。寛容さを失ってどうするのかと思う。
 権威ではなく、情熱と愛情を持った教師集団の力で導くのが教育なのに、こうした教師集団を作らないままルールだけを厳格にしようとしている。これでは教育の敗北だ。
 「ルールだから」という殺伐とした理由だけで処分されては、教育は死んでしまう。(中略)

 教師は感動の伝道師、プロデューサーである。規制の先にある矯正に、あなたは感動しますか。
-----転載ここまで

 教育を、教育研修や人材育成、生徒を社員やスタッフ、教師は上司や教育担当者、権威を権力や権限、ルールを規則や規定、といったものに置き換えて読めば、硬直した組織そのものとも言えるのではないか。

 しばしば役職が上だからとか、決まりだからとか、権限だとかを押し付けている光景がに出くわす。矯正を強制しているにすぎない。えてしてたいした見識も先見性、実績もなく、業績も出せずにいるときに見られる。そのような組織では、改善が進まないどころか、すべて命令で動かすような、従わなければ、気に食わなければ、制裁しますよ、と言っているようですらある。

 物事に説明ができないような状態なのであれば、その役職に留まること自体がふさわしくないことの証しであり、自らその地位を降りるべきではないか。身を引くことしか期待されていないのだから。

 それは教育ならぬ、指導の敗北でもあり、組織崩壊の序章であるかのようだ。
 教えることは十人十色への対応だから、全体的に基本を伝えるとともに個への対応が不可避だ。通知や指示だけで、すべて一律に達成しようという考えそのものが誤りだということだ。効率が悪くても、ひとつずつ片付けていくしか手はないようである。だから短期間で済むことなど、まれだといってもいい。
 焦って従わせなければいけない状況が続いていることは、危険な状態に陥っているといえそうだ 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする