まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

連合運動会

2018-05-28 | 暮らし

先週火曜日。加賀市内のすべての小学6年生が集い、中央公園の陸上競技場で連合運動会があった。加賀市で一番人数の多いのは山代小学校で600人余り。錦城小学校310人。錦城東小学校230人・・・で、南郷や勅使は70人で、三木は36人、東谷口小学校は32人らしい。そうなると、学校対抗は不公平となるので、800mとリレーは選ばれて出るようだ。

100mは全員が走る。人数の少ない学校を応援したくなる。とはいえ、800mとリレーの選手に選ばれたkouを、実家の母を連れて応援に行った。実家は陸上競技場のマイクの声がよく聞こえるので、誘ったら二つ返事だった。天気も良く、木の陰の芝生にいるだけで気持ちがいい。

運動会と言えば、クシコスポストが気持ちを高揚させる。ドイツのヘルマン・ネッケ作曲であるが、ドイツでは今、日本の運動会でお馴染みであることで、また見直されているという。ドイツの運動会では何を鳴らすのだろう?運動会はないのか?

玉入れは各学校の混成競技で、見ているだけで楽しい。ピンクはkouの組らしいが、孫の姿は見つけることは出来ない。陸上競技場は広すぎる。こういう時は良いカメラが欲しくなる。でも、今この雰囲気を味わえば十分なのである。

しかし、後でカメラに映ったのを見るのもやはり楽しい。あ、いたいた・・この後ろ姿は絶対そうだ。ばばバカである。もちろん、ついに分からない時が多い。

あらかじめ、娘からのラインでプログラムを送ってもらい、出番を知っていたので、豆粒のような遠いところからでも、何とか確認が出来たことと、名前を一人ずつアナウンスするのでありがたい。それでも、後ろにいた父兄の方は、100mが終わって「いつ走ったか分からんだ・・」と、残念がっていた。

kouが6年生になって走るのを見たら、殿と一緒に、kouが2年生の時マラソン大会を応援に行ったことを思い出した。2年生はグランド1km走るのだ。殿は駐車場からグランドの端まで歩くのがやっとで、立っていられなくて、コンクリートの階段に座布団を敷いて座っていたのに、kouの出番には前へ出て「最後までがんばれ!!」と、大きな声で応援していた。わたしの身長を追い越したkouを殿に見せたいと思ったら鼻につんときた。この後、4か月で殿は逝ってしまったのだった。最後の力を振り絞っていたのは、じぃじだったんだね。

 

 

 

 

 


心配しなさんな 悩みはいつか消えるもの

2018-05-28 | 暮らし

わたしが日々暮らすなかでの悩みなど取るにたらないものである。人の生死に関わるもの以外は、大した悩みではないのだが。それでも、ガサガサと気持ちが悪い時がある。それが対人関係であったら、厄介だったりする。

そんな時は、早寝するに限る。そうしたら4時頃空が白んだ時に目が覚めてしまった。

明日も無事に目が覚めて、朝を迎えられますようにと、毎晩祈って寝たことがあった。 そして「おはよう」と、声を掛け合う人がいることを幸せに感じた頃があった。次の日の朝、ふたりして空を眺めることが出来ることが最大の幸せだと感じた。多くを望まなかったし、家族や友達の優しさを感じた。殿が「唯、足るを知る」を、よく口にしていたことを、今頃になって少し分かる気がする。

「心配しなさんな。悩みはいつか 消えるもの」というのは、板橋興宗禅師が説く本の表題である。「人は生きているだけで素晴らしいのです。」という言葉に癒される。人は頭の中で悩みを作る。そして、ささやかな言葉に癒される。また、その逆に傷つくこともある。それもこれも、自身が作り出すものだ。

その中で、平常心について語るところがある。武道やスポーツの中でよく出てくる言葉だ。日頃、稽古を本番のように気を入れてすることが、試合などで平常心で臨めるということだと勘違いしていた。だから、本番で緊張して手が震えたときに、どうにかして止めなければと思ったことがある。日ごろの稽古不足、修行不足のせいにして、だから平常心で臨めないのだと思った。武道ではそう教えるのである。

ところが、禅の考え方は、緊張は緊張のまま受けとめるというもの。座禅をしていて、無心になろうと考えれば考えるほど雑念だらけになってしまう。なので、緊張は緊張のまま、そのまま放っておく。ありのままでよいということ。暑い時は「暑い」と、嬉しいは嬉しいまま、悲しいは悲しいまま。これが「いのち」の実感という。

あ、そういえば、弓道のI先生に「ふだんは全然大丈夫なのに、緊張すると手が震えるのは、押手に力が入るからしょうか?」と、問うと「そのまま受け入れなさい。」と、言われて、その後何もせずにほったらかしていたら、いつの間にか治っていた。