先日の講習会の中で、「執弓の姿勢を取った時に、どうして袂を弓の中へ入れるか」という課題で、話し合った。道具を大切にするとか、美しさだとかの意見が出た中で、S先生の自然体という言葉が一番しっくりした。着物を着て執弓の姿勢をしたら、無駄な事をしなければ袂はすとんと弓の中に落ちる。
何も考えず、ふっと立った時の姿が自然体という。人が受け入れる心地よい姿。しかし、これが微妙に違うときがある。力を入れたり、緊張したり、逆にくつろぎすぎたり。そういう時の為に、指導がある。皆との調和を保つために指摘する。立った時の視線は鼻頭を通して4メートル先とか具体的に表すと美しい。
さて、袂の件に戻るが、わたしはこの事が不可解だった。実は発言しなければよかったと後悔した。考えが違う方へ行ってしまったからだ。なぜ弓道だけ着物の袂を垂らしたまま道場へ入るのかということの疑問がわいたのだ。
命のやり取りが道場だと言われた人がいた。もしそうなら、道場に入る前に袂を処理しなくてはならない。剣道も、居合も筒袖だ。親のかたき討ちをするときは、始めから襷をかける。
そう、男でも襷がけをする。肌を脱ぐのは「遠山の金さん」ではないか。そんなことを考えたら、話がどこかへ行きそうでやめた。
結局、弓道は命のやり取りではなく、礼法なのだ。ということで、もやもやを片付けた。敵を倒すのではなく、自分を見つめる行為なのだ。だから、他のスポーツや、武道のように観戦していてわくわくしない。
試合は別だ。その時は、道着だから競う姿だ。そして、自分の力を試すから試合なのだと思う。
結論はない。