Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

誰得のタイ国鉄レッドライン撮影事情と公式サイトからのあれこれ

2023-04-25 21:10:22 | 交通
タイ国鉄はレッドライン各駅での撮影禁止を緩和して商用写真や集団写真以外の撮影を解禁した模様です。公式には出ていませんが、公式SNSに掲載されたと現地から情報が来ました。これでカンケーハ以南のレッドライン各駅で中線を駆け抜ける長距離列車を撮影できますが、停車列車の撮影はクルンテープアピワット、ドンムアンとも乗車券が無いと入場できず、そこが難点です。

公式SNSに出ていたイラストから察するに、そもそもが撮り鉄の規制ではなく、各地の駅構内で当たり前のように行われていた「記念撮影」や商用撮影の規制だったようです。特に絵になるファランポーンでは公認のロケと思しき撮影からゲリラ的な撮影、さらには「映え」狙いのグループとか、ホームのみならず線路上に出たり停車中の車両に入ったり、果ては隣接する留置線に停車中の車両に乗り込んだりとやりたい放題でした。


(公式ロケの例。ファランポーンがカラチに化けた)

(車両もパキスタン風に)

またどうも卒業式などのイベントで駅構内で撮影するのが流行りなのか、大学卒業式で使用するガウンを着た集団がファランポーンのみならず大学最寄り駅(例えばKMITL=モンクット王工科大学ラートクラバン校の最寄りのプラチョンクラオ駅)では特に卒業式当日は線路上を埋め尽くす感じでの撮影会になっています。




(プラチョンクラオにて)


(ニコムロッファイコモ11にて)

けっこう定期列車などとのトラブルにもなっているようで、これをレッドラインでされてはたまらないということなんでしょうね。いずれにしても今回の措置で撮り鉄や乗り鉄レベルの撮影は解禁されたという理解ですが、警備員が変更を理解しているかでしょうね。あとレッドライン(ダークレッドライン)各駅はドンムアン空港への高速道路とも並行しているため、高速道路を王族はじめ要人が移動する際にはホームからの撮影どころか立ち入りすら制限されることがあるので注意が必要です。街中でも王族の「お成り」による規制は結構ありますから。王族それぞれ固有の旗を掲げた高級車とその車列はすごいの一言ですが。

なおタイ国鉄公式の情報としては、4月もキハ183はツアーでの運用だけのようです。
昨年始まったケンコーイ(サラブリ県。東北本線のブアヤイ支線との分岐駅)の歴史を辿るツアーも今年はキハ183での運行になるようです。


(2022年の運行時)


(横サボは指定席車のみ)

これは1945年4月2日にあった米軍B24によるケンコーイ空襲の慰霊式と、空襲の痕跡が残る鉄道施設の見学ツアーで、昨年は午後発でしたが今年は朝から1日ケンコーイを堪能するツアーになっています。なお昨年同様当時を思わせるレトロな服装での参加が推奨されています。


(ケンコーイ駅)

その他、チャチューンサオ、アユタヤ、ラチャブリーへの催行が案内されています。(ダイヤが示されたパンフ情報が画像なので自動翻訳が効かないのがネック)

またクルンテープアピワットとファランポーン間の高速経由無料連絡シャトルバスが4月20日から運行、ということもあります。

そしてヲタ向け最大の話題としては、全線時刻表がネットからダウンロードできるというサービス。北本線、東北本線、南本線、東本線、メークロン線(東)、同(西)、バンコク近郊通勤列車のそれぞれ上下1葉ずつの12枚に表紙の13枚仕立てで、e-bookとPDFの両方があります。
Covid19明けのダイヤですが、運休列車は出ていません。実はこの体裁、一部駅では紙ベースの配布が従前あり、Covid19明けで現在運休列車も記載というバージョンがあります。


退避作戦はうまくいったが

2023-04-25 21:09:01 | 時事
スーダン情勢には驚きました。クーデターによる軍事政権が民政移管に抵抗して話かと思いきや、民政移管は進む半面、軍事組織と国軍の統合問題でこじれての「開戦」だそうで、政治的には安定気味だったからこそ唐突感があったわけです。

正規軍と非正規軍の交戦という厄介な事態ですが、いきなりの戦火に泡を喰ったように各国が自国民の国外退去に動きました。
一部攻撃があったとの話もありますが、先進国の総撤退という事態に、さすがに手を出せない、というより「事故」が遭っても困ると悟ったのか、急遽停戦合意が成立し、さらに延長と、それなりに気を遣ってるようにも見えます。

我が国もアフガンでの失敗に懲りたのか、早々に自衛隊の派遣を決めましたが、いつの間にかジブチが自衛隊の海外拠点になっているんですね。海賊対応のベースキャンプから国際協力、邦人救出と多目的化、恒常化しているわけで、まあ周辺国家も含めて自衛隊という統制が取れた近代的な軍隊が駐屯することはお互いにwin-winなんですが、恒久的な駐屯というのは見方によっては国家主権にもかかわる話であり、デリケートな面を持っています。

まあご都合主義としか言いようがないのが左翼系、いや、リベラル系も含めて目立った批判をしない事。海外派遣(派兵)ガー、というのであれば、他国にベースキャンプを持つってどうよ、という話になるはずなのに。在日米軍への批判、反発と整合するんでしょうか。

それはさておき、結局紅海に面したポートスーダンまで陸路移動で、そこから空路ジブチに取り込んだわけです。
ポートスーダンであればサウジのように海路での撤収も可能であり、航空機を派遣したのはどうなんだ、という議論になりかねません。結果論であり空路での退避もあり得た、という批判はあるでしょうが、手近な空港から退避できなければポートスーダンであり、航空機じゃないと、とはいかなかったわけです。今回は人数もそう多くなかったのでジブチに取り込みましたが、まとまった人数となればそうはいきませんし。

あるいはフランスのように首都近郊の空港を使えなかったか。信用性の問題になりますが停戦合意と自国民退避がどうやらリンクしているのであれば、その時間に退避するという前提で両勢力ともいるわけで、正面切って首都の空港を使うと通告してもよかったのでは。滑走路が破壊されていたら無理ですが。

ところで今回は3機の派遣ですが、給油機はともかく輸送機がC2とC130となったのはなんででしょうね。どんな事態でも対応するために2種類にしました、ということでしょうか。航続距離、速度、搭載量ともC2が優位なので、C2を2機にしなかった判断が気になります。
まあかつての輸送機の主力で、空挺団の降下訓練でもお馴染みだったC1は、周辺諸国までの飛行が可能だと刺激するから航続距離を抑えるべし、という政治判断で、北海道から沖縄に展開できないというお粗末な機材でしたが、今や途中給油はしますがジブチまで行くんですから隔世の感です。


(降下始でのC1)


(同じくC130)

それでもアフガンの時に比べると格段の進歩ですが、気がかりというかどうなったのかと言いたいのは、当初は在留邦人のほか、邦人と働くスーダン人も対象といっていたのに、いつの間にか日本人だけでミッション完了という話になっていること。アフガンの時のように外国人への協力者が「狩られる」というリスクもないから、スーダン人は自国で運命を切り開いてね、ということなんでしょうね。フォローが聞こえてこないのを考えると。
逆に米国が早々に大使館員の避難完了を発表していますが、自国民はどうなったのか。自国民の退避はさらに早く終了というのであれば鮮やかですが。






斯くして歴史は書き換えられる

2023-04-25 21:07:30 | 歴史
4月24日のNHK「映像の世紀」は「大東亜共栄圏」をテーマにしていましたが、まあ結論ありきで歴史を歪めていましたね。日本を貶めるというのはNHKなどメディアの恒例行事ですが、今回はインドネシアなど各国も貶めるという最悪の出来でした。

番組を通してインドネシアとフィリピンが取り上げられていましたが、まず日本にとって都合のいい部分は全部カットして「日本ヒドイ」に仕立て上げているわけです。日本政府が「大東亜共栄圏」を方便としていたことは事実ですが、それを利用してでも宗主国である欧米から独立しようとした動きを否定したわけです。フィリピンでは第2共和政のラウレル大統領を取り上げていましたが、さすがに対日協力者というようなレッテル張りは出来ないのか、いわゆる「南特」、すなわち「南方特別留学生」に子息が選抜されたことを「人質」呼ばわりしてまでいました。ちなみに「南特」は1943年と1944年の2年間しか選抜されませんでしたが、日本で官費で高等教育を受けるというシステムを各国人に提供したわけです。留学中に敗戦となりましたが、戦後各国が強制帰国させたケースや陸軍士官学校への留学を除き(陸士入学者は別の教育機関へ「転校」しているケースもある)、留学生は戦後も留学を継続したのです。そしてこれら人材は戦後の各国のエリートとして政財官に根付いています。

この「人材育成」は日本の「植民地支配」特有のシーンともいえるわけで、朝鮮と台湾に内地に7つしかない帝国大学(総合大学)を開設したのはその際たるもの。大学は今のように開設すれば何とかなるというものではなく、大学を頂点とした教育、研究システムが整備されないと機能しません。つまり、旧制高校や師範学校から小学校まで学制が整備されたことを意味します。インドネシアについて日本が「皇民化教育」をしたと否定していたシーンも、インドネシア人に教育と学習のチャンスを与えたわけで、エリート育成と草の根の水準向上が図られました。

NHKが仕掛けた罠というかデタラメの一つがそこにあり、インドネシアへの関心が高まって内地でもマレー語がブームになったというくだり。「インドネシア語」が定着したのが日本軍政下ということが伏せられていたわけです。それどころか「インドネシア」の呼称もオランダが禁止していたのを解禁したという事実も。オランダ領東インド時代はジャワ、スマトラなど各島ベースの集合体というレベルの認識だったものが、「インドネシア」として一つの概念になった時期です。
そこでジャワ、スマトラなど各地の言語に対し、どこが優位ということも無いようにマレー語をベースに整備されたのがインドネシア語です。統治のツールとしてインドネシア語に統一したほうが都合がいいこともありましたが、これで単一国民の意識や連携が可能になったという側面は否定できません。朝鮮において朝鮮知識人から「諺文」と蔑まれていたハングルを普及させた朝鮮総督府以上の成果です。

また「ロームシャ」だけ強調して、郷土防衛義勇軍(PETA)も一種の徴兵のように扱っていますが、これも最低ですね。PETAには士官学校の側面があり、独立戦争から戦後のインドネシア国軍の中核になった人材を育成しているのですが。
もちろん大戦後期には日本政府の無思慮な政策もあり、PETAですら反乱がおきるなど、緒戦の南方軍(第16軍)の政策を踏み躙るような劣化があり、NHKなどはここぞとそういう個別事例をクローズアップしています。確かに日本政府の無能ぶりは話にならず、まがいなりにも独立国で「同盟国」だったタイでタイ人のプライドを傷つけるような行為を平気でするようになっていましたが、一方で第16軍や20世紀初頭の台湾での後藤新平のように「郷に入れば」を踏まえた施策で今に続く友好的な感情の基礎を築いたケースもあるわけで、どちらかをクローズアップすればいいというものではありません。

そして最大の問題、特にインドネシアを貶めたとしか言いようがないのが、「独立」の部分の描写です。旧宗主国のオランダが「復帰」しようとした時に日本が武装解除を受け入れてオランダに従ったような描写。確かに陸軍と中央政府はその姿勢で恭順の意を呈したのですが、現場では独立を支援したという事実に全く触れませんでした。それどころかインドネシアの独立が1949年としたわけで、これは最大の侮辱でしょう。インドネシアは公式に独立を1945年8月17日としています。なぜ4年も後というようにしたのか。それはインドネシア独立を1945年として扱うとNHKなどにとっては「不都合な真実」が出てくるからです。ちなみにWikiでも同じ傾向があり、歴史を書き換える勢力が今なお根を張っています。






(2017年の独立記念日を祝う各地の様子。72周年とありますよね)

独立宣言がなぜ敗戦の2日後なのか。インドネシアは「小磯声明」によるインドネシア独立許容を受けて独立準備調査会を発足させ、憲法草案を確定させたところで、南方軍から独立スケジュールが示されたため、実行組織としての独立準備委員会が設置されたのがまさに敗戦のタイミングであり、委員会を開催している暇は最早なく、オランダが戻って来ないうちに急遽独立宣言を行ったのです。日本は残念ながら陸軍に緒戦の第16軍のような人材がおらず独立への支援を事実上断ったのですが、海軍はジャカルタ在勤武官が公邸を独立宣言起草の場として提供、保護し、しかしインドネシア人による宣言を守るために指揮、関与はしない、という支援を行いました。
NHKは初代大統領であるスカルノはさすがに隠せませんでしたが、副大統領となるハッタは全く出しませんでした、この一点をもってしても不誠実な番組です。インドネシアの最高額の紙幣である10万ルピア札にはスカルノとハッタの肖像が描かれ、首都の国際空港は「スカルノハッタ空港」とあるように、車の両輪でしたから。ちなみにスカルノの第4夫人がタレントのデヴィ夫人ですが、このひどい内容をどう見てますかね。
なお2016年まで発行されていた先代の10万ルピア札は、2人の肖像画の真ん中に独立宣言の冒頭と両名のサインが記載されていますが、独立宣言の日付が「05年8月17日」になっているのは有名な事実です。(紙幣の画像にもある)
これ、まさかの「皇紀」で2605年を意味していますが、軍政下の公式年号が西暦ではなく皇紀だったとはいえ、独立にあたり皇紀を積極的に使う理由もないわけで、実は大東亜共栄圏における最後の独立ともいえるシーンです。


(スカルノハッタ・ジャカルタとあります)

じゃあ1949年はというと、オランダがのこのこ戻ってきて再植民地化を図り、独立戦争となってさすがに欧米各国もオランダのKYぶりに圧力をかけるようになり、独立を渋々承認したのが1949年です。これでヨーロッパでは小国ですが広大なオランダ領東インド(蘭印)の存在で大国ぶっていたオランダの没落が決定的になったわけで、それが江戸時代の友好関係がウソのように反日運動が先鋭化した原因です。日本がオランダの栄光をダメにしたのですから。

大東亜共栄圏での「独立国」やその指導者は戦後各国が改めて独立した際にも否定されていません。NHKが貶めていたフィリピンのラウレル大統領も「第2共和政」として歴代大統領に第3代としてカウントされています。戦後対米従属に努めたようにこれも蔑んでいましたが、フィリピンでは指導者の一人として扱われています。そして今回は全く無視されていたビルマは、敗色が濃くなって袂を分かつまでは国軍の指導者だったアウンサン将軍がいたわけで、アウンサン将軍が「対日協力者」といった裏切り者扱いであれば、アウンサンスーチーはここまで支持されなかったでしょう。そしてスカルノとハッタは言わずもがなです。

なお戦後の日本の経済的進出が軋轢を生んだのは事実ですが、1973年、田中首相訪問時に起きたインドネシアでのマラリ事件を日本の経済的進出による「搾取」的なニュアンスで取り上げたのもまたデタラメが混じってます。これ、当時のスハルト政権下の官民挙げての腐敗と、華人系への富の集中への反発があったわけで、日本の経済的進出がそれに寄与しているとしての暴動でした。これもスカルノが1967年に親共、親中(北京)路線で事実上失脚してからまだ6年ということも要因の一つで、華人への反発という東南アジアに共通する国民感情を何に忖度したのか伏せているからこうなるのです。なお、植民地時代に甘い汁を吸っていた華人層は、旧宗主国とともに日本軍の進攻に伴い放逐されたわけで、そこを踏まえると大戦に対する現地の評価と華人層を中心とした批判という構成も腑に落ちます。

敗戦から78年、戦後生まれも続々寿命を迎える中で、当時を知る人の多くは鬼籍に入っています。そしてNHKなどのメディアやWikiなどのネット、さらに左派勢力お馴染みの「新事実」が当時を知る人がいなくなると出てくるという様式美も最早恒例行事です。
それこそ「南特」で戦後の国家建設の柱となった人たち、また日本軍の佐官クラスの実務トップとして各国の独立運動と向き合った人たち(番組に出て来た第16軍宣伝班のトップも中佐でした)、彼らは東南アジアと日本の懸け橋になった人たちでもあったわけですが、存命の間は今のような安っぽいウソで固めても一蹴されるだけだったのに、没後はやりたい放題です。

私自身も遥か昔の学生時代に縁あって、インドネシア独立戦争の参加者や、ビルマでの南機関の人に会う機会がありましたが、彼らの活動は決して独りよがりではなく、現地の「独立の闘士」との交流が続いていることを誇りにしていましたね。私自身はもちろん戦後生まれで親もギリギリ戦争体験を覚えているレベルでしたが、戦争経験者、それも戦時中に一兵卒ではなく何かしらの「働き」をしていた人々から直接話を聞くことが出来た最後の世代だと認識しており、それだけに歴史が現在進行形で変わっていくのには耐えがたいものがあります。



街も一般路線バスもやる気がない

2023-04-24 21:06:12 | 交通
先日紀伊半島の方に行ってみたんですが、何とも考えさせられる状況でした。
バスなどで回るヲタのお好み旅行でしたが、それなりに客がいるかと思ったらいないんですよね。まずここで躓きました。
特に存在意義を疑う状況なのが、かつての南紀特急バスの末裔でもある松阪熊野線で、熊野古道ラインとか愛称までつけて、一般道経由の路線バスであるがゆえに熊野古道めぐりの利用もあるかと思っていたら全く無いに等しく、尾鷲手前の集落へ遠路向かう老人を除けば区間利用が数人、大半が松阪市内で降りてしまう惨状でした。それこそ多気のVISONで泊まってバスで古道へ、という流れは1人たりともなかったわけです。

まあ御多分に漏れず一般路線バスは須らくバリアフリーということでノンステとなり、ハイバックシートで32席あるのは今時としては頑張っていますが、観光路線を意識しながら荷物対応は皆無。松阪まで乗った近鉄急行からはキャリーバッグを持った旅行者らしい人が何組かいましたが、バスへの乗り継ぎは無し。乗り継いでも荷物の取り回しで絶望するから救いがないのですが。

熊野市まで4時間超で2700円はJRの普通列車よりも高く、熊野市でほぼ同着の紀勢線普通へは松阪を小一時間遅く出れるといいところなし。まあJRもキハ25の2次車でオールロングという居住性ながらバスよりはるかにマシという状況では、途中の沿道需要すら取り込めてないようです。途中道の駅おおだいでは大杉峡谷登山バスの受付に長い列が出来ているのを見ましたが、公共交通利用ならJRなんでしょうね。上記の普通からも乗り継げますし。(三重交通は高速バスでのアクセスが出来ないなどやる気がない。東京線は停まるのですが夜行ですから)

さらに名古屋からの高速バスがカバーしており、5往復中4往復が紀勢道をまっすぐ走らずに沿線もカバーする(ただしクローズドドアで名古屋とVISON以外からの乗降不可)、という状況に一般路線バスは眼中にないのでしょう。高速バスが津や松阪をカバーしてくれたら存在意義が皆無になってしまう感じです。
趣味的には多気町を離れるとR42を延々と走り、荷坂峠をかけ下り、熊野灘を望み、矢ノ川(やのこ)峠を越えて熊野市までは景色も飽きさせず堪能できましたが、なんとも寂しい道中でした。ちなみに道の駅おおだいと三交海山で休憩がありました。

普段使いにはいいんでしょうが、観光利用を考えると一般路線バスは最早選択肢に上がらずという感じでしょうね。なまじ公共交通を使っている観光客ほど逆に一般路線バスの実態を知っているから忌避している可能性すらあります。観光地で混みそうな路線だと荷物置きにも苦労して阿鼻叫喚と。
バリアフリーは必要とはいえ、都市部と一律同じのアコモが何を招くか。バリアフリーを推進することで、利用そのものを失っていないのか。

松阪熊野線もそうでしたがそれなりの拠点間だとJRの普通列車の方が安いですからね。青春18を持ち出さなれなくても勝てないんです。熊野市-新宮間に至っては普通列車はバスの半値以下、特急自由席でもまだ安いという状況では、区間需要しか狙えないうえに、そこにはコミバスがあるという八方塞がりです。

そして駅など公共交通の拠点の周辺が「滅んで」いることにも驚きです。食事を摂るとか以前の問題として、商店がありません。土産物を買う場所もないんですから。「ひなびた観光地」ではなく世界遺産になった熊野古道ですよ。熊野市はまだ公共でしょうか、物産館が1軒駅前にありましたが、新宮は最悪で何もありません。駅前のバスセンター内にある観光案内所が幾許かの商品を扱っているだけです。まあバスセンターや乗り場が会社別という昭和のスタイルが未だ直っていないのも最悪ですが、一般路線バスは熊野御坊南海バス(熊野交通)の乗り場に統一されているのが救いです。逆に本宮方面の奈良交通と熊野交通が分かれているのはどうして直らないのか。

公共交通で本宮方面に行こうとすると新宮乗り換えがまず思いつくはずですが、バスに乗ろうとすると乗り場トラップがあり、帰りに土産物を買おうとすると店すらないと。駅も売店が消えて久しく、早朝の南紀夜行から降りると駅そばの湯気とめはり寿司やサンマ鮨などの駅弁が出迎えていた時代が懐かしいです。駅員はかろうじているがみどりの窓口は「プラス」で、有人対応はオペレーターが出ないと対応不可、有人対応に時間を食って指定席券売機で十分な客も足止めと誰得状態です。熊野市も新宮も駅から少し離れた市街地に商業集積はあり、ドライブイン的な土産物屋もありますが、公共交通利用だと全く無縁ですから。まだ紀伊勝浦の方が「生きて」いましたね。

意外だったのは南紀白浜空港へのリムジンに勝浦、串本、周参見から合計10人超の利用があったことと、最終の大阪行き高速バスに紀伊田辺駅からまとまった利用があり、窓側がすべて埋まるレベルになったことでしょうか。特に南紀白浜空港は意外と使われている感じでしたが、アクセスが微妙で、白浜の海岸や温泉街を経て白浜駅、田辺駅に向かう最終バスが遅れの羽田発を受けずに定刻出発は路線バス兼務とはいえどうなのか。タクシーも乗り場に2台程度しかいなかったわけで、到着客はどうやって移動するんでしょうね。入り込みにはやや遅い時間ですが、観光客がいないことはないでしょうし。温泉街にしてもタクシーで1000円台と決して安くはないですし。

まあ関西や中京圏からは紀勢道の整備、阪和道の印南以北の4車線化完成でクルマ利用がますますデフォルト化してるんでしょうが、大票田の首都圏をターゲットにしている空港アクセスは考えたほうが良いでしょうね。城崎など但馬と並び、一級の観光地だけど首都圏から行きづらいというのは何とももったいない話ですから。首都圏側の「奥座敷」系の観光地は都心からそこまで離れていないだけに、関西のほうは条件が悪いので、より一層の努力が必要です。



倒す気もない野党の「ゆ」党化

2023-04-24 21:04:58 | 時事
統一地方選の後半戦が終わりましたが、国政選挙の補選は自民が4勝1敗と大勝した格好です。
落としたのは爆弾事件があった和歌山だけという、同情票はどうしたというような皮肉な結果ですが、まあここは維新が取ったわけで、関西特有の事情なんでしょうね。

象徴的なのは千葉5区で、前任者が規正法違反で辞職したという経緯がありましたが、結局自民です。公募で選ばれた帰化ウイグル人の落下傘候補で、確かに俊英ではありますが浦安・行徳の選挙区の候補という意味ではピンとこないわけで、それでも通るんですか、という感じです。
まあこの原因ははっきりしているわけで、野党が毎回自爆しているわけです。前回総選挙でも今般辞任した自民候補に対して立民、維新、国民が候補を立てて3人の合計なら自民候補を上回ったのに、という結果になったばかりか、分散して比例復活も出来なかったというオチまでつけています。まあ前回は立民が共産との共闘と野党統一に背を向けた結果でもありますが、今回は共産も独自候補なのに乱立という結果になっており、案の定の結果です。

自民が決して盤石でないことは、参院大分補選で立民ではあるが社民の元代表が大接戦の末敗れたことでも分かります。
元々革新系が強いとはいえ、立民、共産、社民の共闘という左翼色が極めて強い共闘で接戦です。もともと革新系の議席とはいえ、足下ずっと吹いている左翼勢力への逆風があって、さらに地盤は確固とはいえ社民色が極めて強いわけで(今回出馬のために辞任した比例区での当選時は社民所属)、純化した左翼が通るほど甘くはないはずなのに大接戦でした。

その意味では野党は敵に塩を送りまくったわけですし、一人負けの格好の立民は代表や幹事長が責任問題に非ずと言ってますが、責任問題でしょう。自分で勝手に負け戦にしてしまったんですから。そして政権を取るどころかどう見ても「連立与党」になりたそうな「ゆ党」的な政党はこれでいいと思っているんでしょうが、まあ「別動隊」の色彩をさらに強めています。