参院選が公示された段階で特定の政党を批判するのは気が引けるのですが、どうも気になるのが維新がしきりに主張する「身を切る改革」です。
公務員や行政の支出を削れば予算は捻出できる、という主張は昔からサンケイ新聞(当時)が行革キャンペーンなどで主張してきたスローガンの焼き直しですが、庶民のルサンチマン的な公務員叩きが浜の真砂のように尽きない以上は一定の支持を集めます。
確かに耳当たりの良いスローガンですが、結局デフレ志向の主張であり、公共は面唐ゥない、自己責任、という改革屋の王道を行く主張です。
一方で維新は「実績」を喧伝するわけですが、実は維新の手柄でも何でもない、それこそ前任者の時にスタートした企画だったりするわけで、慎重に見る必要がありますが、確かに「実績」になっているものは少なくないのも事実です。
ただ、これもよく見れば「身を切る」なのか怪しい部分もあるわけです。
無駄を省くというと聞こえはいいですが、では公共が「身を切る」で所得どころか雇用が失われる補償はどうなっているのか。まさにデフレ政策の真骨頂というか、デフレが招く最大の問題点ですが、それを克服している「さすが維新」なのか、というと当然さにあらずです。
地方自治では問われることがない部分に外部化しているわけですよ。景気、雇用は国政レベルで対応する話ですから、そちらで対応する話に持ち込めれば「身を切る改革」は大成功です。
逆に国政レベルで改革屋が二進も三進もいかなくなって投げ出す。地方自治レベルで外出しできない課題が見えてきたので投げ出す。改革屋の常套手段であり、過去何度も見せつけられた「現実」ですが、今回は見栄えのいい実績がある半面、外部化で逃げおおせるので笛や太鼓で「身を切る改革」としているわけです。
このあたりは香具師の口上レベルの美辞麗句を喧伝する側もさることながら、有権者のリテラシーが問われるわけです。その意味では先の堺市長選で維新の支持者がどう庇っても「トンデモ」の域の主張を繰り返していたわけで、残念ながら支持者(有権者)がそのレベルが、あの「地域政党」が圧勝できる素地といえます。
もちろん前にも指摘した通り、東京や中央へのルサンチマンが「判官贔屓」になる面が多分にあるわけですが、だとしてもこういう「選良」を送り出すことは、民主主義のコストとして受忍しなければいけないとはいえ、有権者に対してもう少し考えてほしい、ということは、決してわがままではないと信じます。
公務員や行政の支出を削れば予算は捻出できる、という主張は昔からサンケイ新聞(当時)が行革キャンペーンなどで主張してきたスローガンの焼き直しですが、庶民のルサンチマン的な公務員叩きが浜の真砂のように尽きない以上は一定の支持を集めます。
確かに耳当たりの良いスローガンですが、結局デフレ志向の主張であり、公共は面唐ゥない、自己責任、という改革屋の王道を行く主張です。
一方で維新は「実績」を喧伝するわけですが、実は維新の手柄でも何でもない、それこそ前任者の時にスタートした企画だったりするわけで、慎重に見る必要がありますが、確かに「実績」になっているものは少なくないのも事実です。
ただ、これもよく見れば「身を切る」なのか怪しい部分もあるわけです。
無駄を省くというと聞こえはいいですが、では公共が「身を切る」で所得どころか雇用が失われる補償はどうなっているのか。まさにデフレ政策の真骨頂というか、デフレが招く最大の問題点ですが、それを克服している「さすが維新」なのか、というと当然さにあらずです。
地方自治では問われることがない部分に外部化しているわけですよ。景気、雇用は国政レベルで対応する話ですから、そちらで対応する話に持ち込めれば「身を切る改革」は大成功です。
逆に国政レベルで改革屋が二進も三進もいかなくなって投げ出す。地方自治レベルで外出しできない課題が見えてきたので投げ出す。改革屋の常套手段であり、過去何度も見せつけられた「現実」ですが、今回は見栄えのいい実績がある半面、外部化で逃げおおせるので笛や太鼓で「身を切る改革」としているわけです。
このあたりは香具師の口上レベルの美辞麗句を喧伝する側もさることながら、有権者のリテラシーが問われるわけです。その意味では先の堺市長選で維新の支持者がどう庇っても「トンデモ」の域の主張を繰り返していたわけで、残念ながら支持者(有権者)がそのレベルが、あの「地域政党」が圧勝できる素地といえます。
もちろん前にも指摘した通り、東京や中央へのルサンチマンが「判官贔屓」になる面が多分にあるわけですが、だとしてもこういう「選良」を送り出すことは、民主主義のコストとして受忍しなければいけないとはいえ、有権者に対してもう少し考えてほしい、ということは、決してわがままではないと信じます。