Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

折り紙つきの無能総長

2013-08-28 23:57:00 | 時事
国連事務総長による日本の歴史認識に関する批判ですが、ほとほと呆れ返るというか、就任時から強く批判されている「資質」の欠如をまたぞろ露呈した格好です。

国連事務総長を「世界大統領」と意訳するお国柄ですから、事務総長就任により、全世界に号令できる、とでも勘違いしているのでしょう。
確かに事務総長のリーダーシップが必要な局面はありますが、それはあくまで国連という組織の運営であり、国連としての意思決定をどう導き出すかと言うことに過ぎず、事務総長が勝手に走ることはありえません。

言うならば議会の議長職であり、議会運営におけるリーダーシップを発揮するということで存在感を見せますが、内閣における首相のように、権力を主体的に行使するものではないということが分かっていないようです。
かの国においては司法府における法治主義の概念の欠如が露見しているのですが、立法府に擬すべき組織のトップのあるべき姿を理解していない、と言うことは、三権分立、いや、三権そのものの概念も理解していない、近代国家の体をなしていない状態であり、そのような国から国連事務総長を出すと言うことは悪い冗談であり、総会で解任、と言うような「前代未聞の措置」を取るべき「前代未聞の人物」でしょう。そもそも本件がなくても就任直後から無能の誉れ高かったのですから。

政府の対応も手ぬるく、イスラエル高官の「放言」の時もそうでしたが、こういうケースでは初動が肝心です。国連の発言、行動として極めて不穏当として国連をつるし上げないといけません。あくまで「国連」としての行動を咎めているのであり、「韓国」は咎めていない、と言えば、かの国は手詰まりです。韓国として容認し難い、と騒ぐのであれば、国連事務総長が韓国、いや、母国の立場を代弁したわけで、一方当事者の側に立ったということで資質どころかその地位の正当性すら問われる事態です。まあ最近の反日行動は理性も合理性も欠いていますから、事務総長が身びいきをした、と言うあってはならない前提になっても騒ぎそうですが。

さて、事務総長の「批判」をそれこそ「世界大統領」的な存在が批判したと騒ぎ立てるメディアもあるわけです。
日本人が「国連」を神聖視しすぎることがこういう為にする批判を招くわけですが、もともと、いや、今でも「連合国」であり、敵国条項がある国連に対して距離を置くべき、という知恵を身につけるべきでしょう。
無能な事務総長の愚かな発言はその好機です。分担金の拠出を停止するといった実効性のある対応でもいいですが、まずは国連への「不信感」を前面に押し出してみましょう。

実はたいした組織ではない、という認識が普及すれば、国連と言う組織との付き合い方も変わってくるでしょう。


朝日の裏返しに過ぎない

2013-08-28 23:00:00 | ノンジャンル
「はだしのゲン」に対する産経のイライラが見ていて痛々しい件については前にも書きましたが、閲覧制限撤回を受けた27日の紙面は、結局やっていることは朝日の裏返しに過ぎない、という「馬脚」です。
制限に対する批判や、同書に対する評価は「一部」と印象操作を図り、保守系の被爆者団体のコメントを大きく取り上げ、子供向けのQ&Aでも「騒いでいるのは特定の人で、内容は問題なんだよ」とあらゆる手段を総動員しているわけです。

保守系の被爆者団体があるのもおかしくはないですが、あの田母神サンの広島講演を仕鰍ッるKYな団体です。そういう団体の性格はともかくとしても、私自身としては左翼系の平和団体への疑念は尽きないわけですが、それでも左翼系の団体がメジャーであるという「事実」は否定するものではないわけで、「少数派」の声を大きく取り上げるやり方は、左翼系がよくやる「数多くの団体が抗議!」という手法と同根です。

さすがにダブスタを意識してか、27日の社説(「主張」)では、一般の図書館で閲覧制限をすることは問題、と船橋市西図書館事件を引用して論じていますが、前にも述べたように、描写の残虐性を理由にすることは、それによって事実がオブラートに包まれるリスクがあり、描写の偏向性を理由にすることは、特定の思想に基づいた制限となる、ということで、今回の制限は無理筋ですから、針の穴を通すように学校図書館での対応として肯定するには、よほど慎重かつ慎重な理論構成が求められるところ、あんな杜撰な筋書きでは話にならないのです。

さて、産経を中心として、「はだしのゲン」と言う漫画を崇める必要な無い、平和教育にふさわしい「書物」があるだろう、と言う「反論」があるわけです。一見もっともらしいのですが、まずそこにあるのは漫画と言う表現手法に対する蔑視であり、それこそ産経抄が馬脚を現した「ハレンチ学園」を巡って、当時ケシカランと騒ぎ立てたPTAや「識者」と同じ発想と言えます。

はっきり言えば、それこそ「平和教育」という目的が滲み出ている作品はあるが、被爆当時、また、その後の広島の様子を素直に書いた書物はどれだけあるのか。「はだしのゲン」が左右問わず評価されるのは、この一点に尽きるわけです。「反天皇」や「日本軍の残虐行為」と言った描写はありますが、それはあくまで脇役です。政治的主張を色濃くするのであれば、平和団体に入り、平和の伝道師として活躍する、というようなそれこそお花畑の世界にすれば子供たちを洗脳できるのでしょうが、そんな安っぽいストーリではないのです。

淡々とした描写、という意味では、柳田邦男の「空白の天気図」は、原爆投下前から被爆、そして9月の枕崎台風までの様子を広島気象台を舞台に述べており、イデオロギーのかけらもない良著ですが、これも江波というやや離れた地点からの、気象台という集団からの視点でしか書いていないわけです。
「はだしのゲン」である必要は無い、というのであれば、どういう書物がふさわしいのか、具体的に提示すべきですが、出来ないのでしょう。