Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

譲り合えば済む話

2013-08-21 23:47:00 | 交通
エスカレーターの「片側空け否定」キャンペーンが続いていますが、駅での迷惑行為、危険行為という意味では、スマホなどの歩きながらの操作なんですが、6月初旬から「ひっそりと」キャンペーンを開始しながら文字通りの立ち消え状態で、「片側空け否定」を大規模に始めている様を見ると、乗客にとっての迷惑というものをどう捉えているのかがよく分かるというか、鉄道会社が円滑な利用を促進する方向のキャンペーンは等閑で、阻害する方向は力を入れるという本末転唐ネ状況です。まあキャリア各社や携帯ゲーム関連の広告収入を考えると、こういう結果になるのもむべなるかな、というところでしょう。ドア横や妻面の広告枠の大半がそうした関係の広告ですし。

で、駅での呼びかけアナウンスが「歩きスマホ対策」の時とは比較にならぬほど熱心なんですが、その内容がお笑いです。
さんざん片側空けを否定し、みんなが歩くより遅い速度で移動しなさい、と言うその口で、「階段は譲り合ってご利用下さい」ですか。
階段だっていろいろな事情の人が混在するのですが一般論的に「譲り合い」というのであれば、エスカレーターだってそれでいいはずです。ハンディキャップがある人がいれば、右側(関西では左側)が塞がっていてもそれは「譲り合い」でしょう。単純な話です。

昨今のこうした風潮は、「安全」を盾にしているわけですが、常々言っているとおり、「安全」を徹底するのであれば、動かない、動かさないことが一番の「安全」なのです。それでは話にならないと言うことくらい子供でも分かる話で、どうやれば安全と業務(この場合は輸送、移動)をベストの形で両立出来るか、と言うことを考えるべきなんですが、安易に安全マージンを取るやり方は思考停止でしょう。
そして利用者にしわ寄せをしても損はしない。そういう状況が安直な対応に走らせるともいえます。

さて、階段での「譲り合って」もそうですが、道を歩く際でも、お互い譲り合うのがマナーとして確立しています。
横に広がって歩くな、と言う感じで、限られたスペースで円滑に通行できるように、ということなんですが、そういう視点でもエスカレーターの片側空けは平仄が合っているわけで、それの否定は弱者に事寄せてマナーを否定していることにもつながります。

片側空けが定着したことで、エスカレーターも無用に幅を取るといった事が少なくなったわけです。ぶつかってきた、という事業者が「事故」と挙げる事例も、本当に歩いている側が悪いのか。荷物を身体の前でなく横にはみ出して持っていたり、身体自体を中途半端にはみ出させるなど、「横に広がって歩く」と同じ類の行動が原因と言う一種の「マナー違反」でぶつかっているのではないか。日常の経験則で考えると、そういう「非常識」な人が半ば咎められるように押しのけられたのを「ぶつかってきた」と被害意識丸出しにしているのでは、と邪推したくなります。




「倍返し」が受ける訳

2013-08-21 23:46:00 | ノンジャンル
TBS系の月曜夜8時というと「ナショナル劇場」でしたが、松下電器の社名変更にあわせて「パナソニックドラマシアター」になり、2011年に水戸黄門が打ち切られて時代劇が消滅し、遂には月曜8時の1社提供そのものが終わりを告げると報じられました。

小さい頃は時代劇好きの祖父がチャンネル権を握っていたため、結局見ていましたが、まあ万人向けの水戸黄門がベースで、年配者向けの穏やかなストーリー運びの大岡越前、アクション多めの江戸を斬る、と、一家団欒の場で楽しめる工夫もされていましたね。
ストーリーの根幹は「勧善懲悪」で、痛快娯楽時代劇と言われるジャンルに限らず、アウトロー的な時代劇でも「勧善懲悪」が基本と言うことは、日本人のメンタリティにぴったりということなんでしょう。

ただ同時に、どんなに苦しくても、お天道様は見ている、正義の味方が助けてくれる、という他力本願的な期待を抱くと言う日本人の「弱さ」の現われとも言われていることは否めません。
そしてそれは時代劇だけでなく、現代劇でも同じ傾向が見られるわけで、ドラマ「半沢直樹」が好調ですが、これも基本は同じ、つまり、つぼを押さえているからこそのヒットと言えます。

実は原作しか読んだことが無いのですが、仕事の失敗、組織の軋轢といった身につまされる出来事に対する見事なリカバリーショットで大団円というストーリーは、時代劇と同じ流れといえます。
もちろん水戸黄門のような正義の味方が出てこないので、自力本願のようにも見えますが、通常ならありえないようなお膳立てで事態が好転していくわけで、「水戸黄門」は出てこないけど、スーパーマンのような黒子がいるのです。

このあたりは時代劇と言うよりは、「島耕作」の世界でしょうか。どんなに苦境に陥っても、なぜか大逆転のタネが舞い込んでくるし、情報通の味方が出来るし、これで「オンナ」が寄ってきたら「島耕作」ワールドそのものでしょう。
要はビジネスの世界でのファンタジーです。バブル世代の大量入社組の悲哀を描いた部分が、仕事に家庭にと苦しむ40代後半の同世代から共感を得ているのかもしれませんが、厳しい現実に先の見えない同世代の現実逃避と言ったら言いすぎでしょうか。

一方で「評論家」の指摘というか賛辞の中には、大阪が舞台だから関西での人気が高いことが牽引車だ、というものがあります。
そういう意見が必ず引き合いに出すのが「あまちゃん」の関西での「不人気」ですが、関西でも「あまちゃん」フリークは少なくないわけで、結局は「東京発」と「大阪発」と言えば関西人が受けると勘違いしているように見えます。
まあ梅田の風景が大写しになり、頭取を目指す野心に燃える主人公が大阪の支店から東京の本店に乗り込む、というシチュエーションは確かに関西人向けの隠し味であり、NHK大阪製作の連続テレビ小説のワンパターンな展開とも共通している部分があるので、そういう面もあるのでしょうが。

結局は疲弊する中堅層の心の安らぎとしての「ファンタジーワールド」なのかもしれませんが、時代劇のように明らかに設定が違う「お芝居」ではなく、現実との境目が曖昧な現代劇に救いを求めている姿は、複雑なものを感じざるを得ません。