エスカレーターの「片側空け否定」キャンペーンが続いていますが、駅での迷惑行為、危険行為という意味では、スマホなどの歩きながらの操作なんですが、6月初旬から「ひっそりと」キャンペーンを開始しながら文字通りの立ち消え状態で、「片側空け否定」を大規模に始めている様を見ると、乗客にとっての迷惑というものをどう捉えているのかがよく分かるというか、鉄道会社が円滑な利用を促進する方向のキャンペーンは等閑で、阻害する方向は力を入れるという本末転唐ネ状況です。まあキャリア各社や携帯ゲーム関連の広告収入を考えると、こういう結果になるのもむべなるかな、というところでしょう。ドア横や妻面の広告枠の大半がそうした関係の広告ですし。
で、駅での呼びかけアナウンスが「歩きスマホ対策」の時とは比較にならぬほど熱心なんですが、その内容がお笑いです。
さんざん片側空けを否定し、みんなが歩くより遅い速度で移動しなさい、と言うその口で、「階段は譲り合ってご利用下さい」ですか。
階段だっていろいろな事情の人が混在するのですが一般論的に「譲り合い」というのであれば、エスカレーターだってそれでいいはずです。ハンディキャップがある人がいれば、右側(関西では左側)が塞がっていてもそれは「譲り合い」でしょう。単純な話です。
昨今のこうした風潮は、「安全」を盾にしているわけですが、常々言っているとおり、「安全」を徹底するのであれば、動かない、動かさないことが一番の「安全」なのです。それでは話にならないと言うことくらい子供でも分かる話で、どうやれば安全と業務(この場合は輸送、移動)をベストの形で両立出来るか、と言うことを考えるべきなんですが、安易に安全マージンを取るやり方は思考停止でしょう。
そして利用者にしわ寄せをしても損はしない。そういう状況が安直な対応に走らせるともいえます。
さて、階段での「譲り合って」もそうですが、道を歩く際でも、お互い譲り合うのがマナーとして確立しています。
横に広がって歩くな、と言う感じで、限られたスペースで円滑に通行できるように、ということなんですが、そういう視点でもエスカレーターの片側空けは平仄が合っているわけで、それの否定は弱者に事寄せてマナーを否定していることにもつながります。
片側空けが定着したことで、エスカレーターも無用に幅を取るといった事が少なくなったわけです。ぶつかってきた、という事業者が「事故」と挙げる事例も、本当に歩いている側が悪いのか。荷物を身体の前でなく横にはみ出して持っていたり、身体自体を中途半端にはみ出させるなど、「横に広がって歩く」と同じ類の行動が原因と言う一種の「マナー違反」でぶつかっているのではないか。日常の経験則で考えると、そういう「非常識」な人が半ば咎められるように押しのけられたのを「ぶつかってきた」と被害意識丸出しにしているのでは、と邪推したくなります。
で、駅での呼びかけアナウンスが「歩きスマホ対策」の時とは比較にならぬほど熱心なんですが、その内容がお笑いです。
さんざん片側空けを否定し、みんなが歩くより遅い速度で移動しなさい、と言うその口で、「階段は譲り合ってご利用下さい」ですか。
階段だっていろいろな事情の人が混在するのですが一般論的に「譲り合い」というのであれば、エスカレーターだってそれでいいはずです。ハンディキャップがある人がいれば、右側(関西では左側)が塞がっていてもそれは「譲り合い」でしょう。単純な話です。
昨今のこうした風潮は、「安全」を盾にしているわけですが、常々言っているとおり、「安全」を徹底するのであれば、動かない、動かさないことが一番の「安全」なのです。それでは話にならないと言うことくらい子供でも分かる話で、どうやれば安全と業務(この場合は輸送、移動)をベストの形で両立出来るか、と言うことを考えるべきなんですが、安易に安全マージンを取るやり方は思考停止でしょう。
そして利用者にしわ寄せをしても損はしない。そういう状況が安直な対応に走らせるともいえます。
さて、階段での「譲り合って」もそうですが、道を歩く際でも、お互い譲り合うのがマナーとして確立しています。
横に広がって歩くな、と言う感じで、限られたスペースで円滑に通行できるように、ということなんですが、そういう視点でもエスカレーターの片側空けは平仄が合っているわけで、それの否定は弱者に事寄せてマナーを否定していることにもつながります。
片側空けが定着したことで、エスカレーターも無用に幅を取るといった事が少なくなったわけです。ぶつかってきた、という事業者が「事故」と挙げる事例も、本当に歩いている側が悪いのか。荷物を身体の前でなく横にはみ出して持っていたり、身体自体を中途半端にはみ出させるなど、「横に広がって歩く」と同じ類の行動が原因と言う一種の「マナー違反」でぶつかっているのではないか。日常の経験則で考えると、そういう「非常識」な人が半ば咎められるように押しのけられたのを「ぶつかってきた」と被害意識丸出しにしているのでは、と邪推したくなります。