散歩者goo 

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台風24号 ヘイトスピーチ 米国国債発行上限問題のデフォルト期日近づく :ニュースメモ131007

2013年10月07日 23時25分13秒 | 読書・考察・思索録
o非常に強い台風24号、沖縄地方を通過し北九州方向に向かい、その後山陰地方に進む可能性。

oヘイトスピーチ裁判で、京都地裁が違法判決
:人種差別発言であり当然だろう・
自分が逆の立場であったらどう感じるか、相手の立場に立って考えるべきだ。

o米国未だ予算決まらず、国の行政機関閉鎖、
更に、今月中旬までに借金上限引き上しなければ債務不履行になる、デフォルト問題の期限近づく。
:問題解決がなければ、金融混乱によりリーマンショックまたは、それ以上の、恐るべき事態が予測されている。
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昨日記131006日(異常気象 塔本シスコ展と表現の欲望 アールブリュット論断片)

2013年10月07日 13時02分26秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
天気:晴―mm 32.7 22.9℃ 61% 3.5m東

昨日の朝の気候に対する感覚は、よくあたっていた。
最高気温が32.7度と8月下旬並の高さだという。
買物でスーパーに自転車で行ったときも、確かに晩夏の風を感じた。
このように、とにかく異常気象が恒常的に起きているのは紛れも無い事実であるし、科学者、専門家の予測は当たっている。
最近我々は、異常気象が続いているため、驚かなくなった。
しかし、今もこれからも災害から我々の命を守る意味で、異常気象の原因の大きな要因の一つである地球温暖化問題とそのための地球の環境保全が、ますます重要なテーマになるだろう。
今日も蒸し暑つく、Tシャツの中が湿りだしたので、今、ミニファンを回した。

昨日は、午後から京阪百貨店守口店美術画廊で開かれている「素朴画塔本シスコ展」とJR高槻駅前のギャラリーマーヤで行われている展覧会「表現の欲望」に行った。
どちらの展覧会も塔本賢一さんご夫妻が関係している。

塔本シスコさんは、現代美術家の塔本賢一(日本の主要現代美術コンクールで入賞・入選)さんの母であり、53歳からリハビリのために本格的に美術活動を始められ、93歳でなくなられた。
専門的美術教育は受けておらず、感性の赴くまま、自己流の描き方で、息子さんに対抗するように、作品を作られ、その制作風景はビデオにも記録され残っている。
その明るい天真爛漫な生命力に溢れる不思議な絵は、高く評価され、多くの美術館の企画展で個展やグループ展として取り上げられている。
私が、昔ギャラリーをしていたときに、賢一さんの企画で数回、シスコさんの個展をさせていただいてこともあり、そのご縁でギャラリー廃業後もシスコさんや塔本さん関係の展覧会には、観に行くようにしている。

シスコさんの作品に関しては、始めのころは、正直なところ、シスコさんの作品をあまり理解できていなかった。
現代美術やアールブリュット<同種または類似の作品群の呼称や定義には、デビュフェの「生の芸術」以降多様に提唱されているが、価値観が絡むことであり、哲学的に考えると価値観は個人の属する文化・文明、宗教、民族、国家、言語、教育、地域・風土、・・で全く違っていて、同じ地域に住んでいても価値観は個人でも違うので、結論は出ないであろう。>や様々な種類の美術作品に触れ、総合的に美術を見ることができるようになって、素直に、シスコさんの喜びや感情や生命力やノスタルジーがはじけている作品のすばらしさが、感じられるようになった。
今では、シスコさんの作品一部は、米のグランマモーゼスにも勝るとも劣らぬのではないか、と思うほどになった。(当然美術家のみならず、すべての芸術家に言えることであるが、作品には出来不出来があり、すべて秀作ではないのが普通である。)

展覧会は、小品が多く、見たことのない作品も多かった。
京阪百貨店守口店6F美術画廊の「塔本シスコ展」は10月9日まで。

その後JR高槻駅前の東南にあるグリーンプラザ3号館2Fにある、ギャラリー
マーヤに行くため京橋まで京阪電車で戻り、その後JRで大阪経由高槻駅に向かった。
JR高槻駅中央改札口の東出口を出るとそのまま陸橋伝いに、下に下りることなくグリーンプラザ3号館の2Fに入れる。

ギャラリーマーヤでは、塔本さんご夫妻が居られた。
塔本さんの絵画教室(賢一さん ひろこさん、それぞれ絵画教室を持っている。)の生徒さんの作品展である。
出品者は5名でそれぞれ障がい者の方たちで、絵画教室に通っておられる人たちである。
いま教室に通っておられる生徒さんたちは、描いて表現することが生活の一部になっている。
その作品には、塔本シスコさん同様、美術教育の既成概念に囚われない自由な表現がある。
逆に健常者の美術にあるコンセプトやどのようなスタイルで表現するかという明確な意思はないが、何かを表現するということは共通である。
世界的に有名な美術家でも、過去現在問わず障害者の方もおられるが、例えば、病院に通院されたり入院していても、ほとんどの人は、それ以前に学校で学んだり、独学で勉強したりして、若いときに美術教育の洗礼を受けている。
塔本さんご夫妻と話していて、そのことがアールブリュットの意味の中に含まれることはよく知ってはいたが、改めてそのことの意味の大きさに気付かされた。

そういう意味では、アールブリュットと健常者を美術上で分ける必要は無いという意見が大きくなっている。
私も、昨日までその意見であった。

学問体系なり人間活動のあらゆるものは、カテゴリーで群として分類され、名づけられる。
そのため、同一人物でも多くのカテゴリーで分類できる。
表現の結晶である美術作品も同様である。
その意味ではアールブリュットもその一つである。
アールブリュットと現代美術と対立するのかしないのか。
例えば滋賀県立美術館の、アメリカ現代絵画コレクションと、アールブリュットの関係である。
美術教育を受けたもの、すなわち少なくともコンセプトなりその他の目標とする美意識があるものと、美術教育と無関係に独立した美意識という意味では、アールブリュットの違いはありえるのかもしれない。
そういう意味で、当面しばらく様々な思想、考え方、と事実を参考に思索してみたい。

たまたま、ギャラリーに若い男性が居て、話を聴くと、某名門国立大学の博士課程に在籍し研究員をしている人だった。
彼と話していて、法学の論文とか学問的議論の詳細やその成果である論文のことを聴いた。
論文には、他の分野と同様大学紀要や、専門誌や学会と発表のレベルがあるということだった。
彼は、国際法をしているが、法学の研究内容は、科学や人文科学とは又違った、実際の社会問題の中や制度からアプローチし、問題点を見つけ、議論をし論文を書いていることが、非常に興味深かかった。

帰りは、駅のカフェに立ち寄り、いつもの分厚い本を読んだ。

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