ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

機械文明の恩恵に浴すると同時に、「便奴」になってしまっている。

2011年06月15日 | Weblog
「老いる覚悟」森村誠一著より。

ここでの小タイトルは“便利な道具がダメ老人を増やしている”となっていた。それらの道具は、携帯電話、パソコン、デジカメだという。フレーズの中で“便奴”というのは、便利性の奴隷という意味の造語だった。

しかし、本当にそうだろうかとやや疑問を持っている。むしろ、私には携帯電話をはじめデジタル機器を自由に扱えるのは老人としてすごいことにさえ思えるが。デジカメを手にして、それを道具として趣味を発展させられれば素晴らしいことにさえ思えてくる。

逆に奴隷になっているのは、若者の方ではないだろうか。電車やバスの中ではケータイやデジタルゲーム機器に熱中している姿を毎日のように見かける。単なる時間つぶしにしか思えない。まるでデジタル中毒だ。

むしろ、ネットを通じての情報入手手段がないと不安を感じるのは若者の方に多そうだ。自分はもう若くはないがやはり、ケータイが身近にないと不安を感じることもある。そんなものがなくても平気で生きていけるのが、老人の強さにさえ思える・・・な。


ファインプレーは、何もしないか、何かをするかの違い・・・

2011年06月14日 | Weblog

「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

ここでのファインプレーはサービスに関することだった。一つの例として、あるレストランが貸切のとき、それを知らずに来店したお客さんに「今日は貸切ですので・・。」と何もしないで断るのはサービス業失格だという。

私も何度かそんなケースにぶつかったことはある。店の表にただ「本日何時から貸切り」とホワイトボードに書かれた看板が置いてあり、ガッカリしたことがある。

また、店が満員で予約がないと入れないという場合もある。場合によっては予約をしてから来てほしいという店もある。まあ高級な店によってはしょうがないところもあるが。

そこで、なにもしないというのもサービスに欠ける気もする。それなら、またの来店を促すような一言も必要だろう。先ほどの貸切りの場合でも、わざわざ来店してくれたお客さんには何らかの特典を与えることも考えるべきだ。たとえば割引券、サービス券なども入るようだ。

たとえ、満員や貸切りでもまた来ようという気にさせるほどのフォローがあるお店は、どれほどあるだろうか。もう次はないかもしれないものを、次のチャンスに変えられるかどうがかがポイントのようだ。やはり、ちょっとした工夫ができるかどうか・・・だろうな。


信用は、お金の扱い方によって築かれる。

2011年06月13日 | Weblog

「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

筆者の中谷さんは、商売人の家で育ったから、家業で一番大切なのは信用だと実感していた。これは“マネー”という章にあったフレーズだった。

また、仕事ができるからといって信用があるということにはならないともいう。たとえば、よく気がつく、仕事が早い、サービス精神があるなどは、仕事の技術だった。

しばしば、それらは仕事の評価になっている。でも信用とは直接関係がなかった。信用はお金の扱い方が基本のようだ。仕事ができてもお金の信用がなければ、信用できない人ということになってしまう。

客商売なら、いくらその人が愛想がよくても、その人から代金を払ってもらうまでは安心できない。しかも、ただ払えばいいということでもない。

毎回きっちり決められた期限までに、払っているということが信用につながるのだろう。いくらどんな言い訳をしても、期限を超えたら信用は失われるはずだ。


「何をしてもいい自由」と「何もしなくてもいい自由」

2011年06月12日 | Weblog
「老いる覚悟」森村誠一著より。

ここでのタイトルは「エリート社員だった人ほど悲劇的な老後を迎える」となっていた。なんだか信じられないことにも思えるが。エリートなら老後もそれなりにかなり保障されるようにさえ思えるが。

定年後のことだが、第二のスタートラインに立ったとき「これから自由にしなさい」と言われたときには、上記フレーズにあげた二つの自由があるということだった。

「何をしてもいい自由」とは、自分の夢に向かって活動することや新しいことに挑戦することだった。趣味を深めて行くことも入る。

現役時代にはやりたくてもできなかったことができるという機会でもあった。やる気次第だろうが。これも老いる覚悟だった。

「何をしなくてもいい自由」も確かにある。なるべく人と接しないで、テレビを見て寝ころんでいればいいのかもしれない。これといった趣味も持たず、何も挑戦しないということだった。これはさみしい・・・な。

老いたくなければ新しい出会いを求める。

2011年06月11日 | Weblog

「老いる覚悟」森村誠一著より。

年齢を重ねるにしたがって、ついつい人に会うのが面倒になりがちなもの。頭ではわかってはいても気持ちも体も硬くなってしまっているのかもしれないが。

しかし、人生は出会いの連続だったのだ。生きるためにはどうしても、人との触れ合いがなければ不可能だ。また筆者は出会いには三つあるという。

それらは、人間、文化、場所だった。さらに、意外なことに最近では動植物との出会いもその他に考えられるともいう。つまりペットや家庭菜園などだった。そう言えば、リタイアー後に野菜作りを楽しむ人も多い。

文化では、小説、絵画、演劇などさまざまな芸術に触れて感動することでもあった。場所というのは、初めての場所に行ったり、自然に接して感銘することだった。

出会いというと、すぐに人との出会いばかりを考えてしまうが、それ以外の出会いも豊富にあることにも気付かされる。新しいものに積極的に出会いたいという気持ちがポイントのようだ。


尊敬される老人であるために、まず重要なことは、心身ともに能力が高いこと。

2011年06月10日 | Weblog
「老いる覚悟」森村誠一著より。

まず、この新書版の帯(腰巻)には“老いるのも楽じゃない”というコピーがある。老いるには覚悟が必要なのだということなのだろう。

生きていれば、否応なしに老いていく。そこで筆者は、「ただ長生きしているだけでは邪魔な老人とよばれる」とまでいう。

実に厳しい言葉だが、それが現実なのかもしれない。またそうならないために何にでも興味を持って、行動しようという意識も必要なようだ。

できる限り社会に参加して、常に活動にかかわり続けることをあげている。忘れがちだが、「精神力・気力・体力」のメンテナンスは非常に重要だったのだ。気をつけねば・・・


ファインプレーはベターの寄せ集め・・・

2011年06月09日 | Weblog
「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

(前日のつづき)
一見すると、超ベストのプレーだけがファインプレーになっていると思いがちだ。しかし、実際は、それはいくつものベターから生まれたものだった。

たまたま偶然に現れたものが、ファインプレーではなかったのだ。地道なコツコツとした練習の成果の一つだった。それがより上達した結果生まれるものだろう。

始めから派手なファインプレーはできないもの。そのための長年の準備があることをしばしば忘れがちだ。

日々練習、工夫を継続しているからこそ、ある場面でそれが生きてくるということだ。普段の仕事のなかでも、同じことが言えそうだな。

ちょっとした工夫の寄せ集めが大きなミスにつながるのを防ぐこともある。人からは見えなくて地味だが、これもある意味ファインプレーに近いかも。

目的のない読書をしよう。

2011年06月08日 | Weblog
「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

ここでのタイトルは“ファインプレー”となっていた。これはスポーツの世界では見えやすいものだが、日常生活や日々の仕事のなかでは意外に見えにくい。

目的のためだけに行動していれば、比較的問題なく仕事をこなすことはできるもの。でも、それだけではファインプレーにはつながらない。

むしろ、仕事とは離れたこと、自分が本当に関心があってやっていることが、時に仕事に生かせたりする。それがファインプレーにつながっていくようだ。

目的以外のことは一切やらなければ、確かに効率はいいかもしれないが、それ以上の何かは生み出すことはできなそうだ。一見ムダに見えることのなかに価値があったりもする。

目的のない読書だからこそ、新しい発想、発見につながることもあるのだろう。人と盛り上がるのは、意外にそんなムダと思える知識のような気もする・・・な。

「センス」とは、何げなくやっている習慣や感覚・・・ 

2011年06月07日 | Weblog

「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

ここでのテーマは“成功センス”となっていた。それは運動神経のようなものらしい。少なくとも運動神経を良くするためには、普段からの練習しかないだろう。

筆者は、「小さな習慣の積み重ねで、センスは生まれる」という。つまり、日々やっていることで、センスは磨かれるともいえるのだろう。人から指摘される前に既に始めていることはあるだろうか。

「運動のセンスと同じように、成功のセンスを磨く」というのもなんだか新しい発想のような気もする。それは、あまり大げさなことではなく、ちょっとした工夫を継続しているかどうかなのかもしれないな。

例えば何げなくでも、長年にわたって映画、演劇、絵画などにでも関心があり触れたり観続けているいるなら、まったくそんなものに関心がない人より多くを語れるものだ。やっていることが好きだからこそセンスは生まれるともいえそうだ。


自分の道具を運ぶのが面倒になったら、そこまで。

2011年06月06日 | Weblog

「成功する人の一見、運に見える小さな工夫」中谷彰宏著より。

ちょっと長ったらしいこのタイトルがまず気になって手にとってみた。とくに“小さな工夫”という部分にひかれた。この本のサブタイトルは“ビジネスセンスを磨く55の気づきと行動”となっていたが、べつにビジネスマンに限らない内容だ。

さて、上記フレーズの「そこまで」とは、何がそこまでかといえば、「運」のことだ。面倒だと感じる人には「運」はついてこない、という意味のようだ。確かに宝くじを買うのが面倒だといえば、たった100円も、1000円も返ってくる確率はゼロだ。

道具は人それぞれ異なるものだ。会社員ならバッグや筆記具、電卓、メモなどだろうか。また道具ではないが、たった一冊の文庫本でさえも、時間を有効につかえるかもしれない。そこから仕事に役立つちょっとしたヒントが見つかることもある。

逆に積極的な意味では、自分のお気に入りの道具を身につけていれば、気分のよくなり運も向いてくるような気もする。趣味でも道具を使うものは多い。それを運ぶのが面倒になったら、もうそれ以上の上達はないのだろう。


仕事の実力のない人間ほど、「いい人」にならざるを得ない。

2011年06月05日 | Weblog

「もらった名刺は、全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

ここでは「いい人ほど、仕事ができない」とも言っている。これは実に逆説的な表現だ。つまり、仕事さえできれば、「いい人」になる必要はないということだった。

とくに今は成果主義が当たり前のようになっている。だから、結果だけが問われることが多い。途中のプロセスなどどうでもいいようにさえ思える。これでいいとは思えないが。

実力だけが問われるスポーツの世界では、これが分かりやすい。「いい人」は実力がない選手ということになる。実力があっていい人なら最高だろうが。たとえ嫌われても、人に信頼される存在が大事だということだろう。

かつての豪速球投手、江夏を思い出す。彼はしばしば各球団を渡り歩いて、優勝請負人などと呼ばれていた時期があった。人格者である前に、チームを優勝に導けるかどうかが実力だったのだ。

いい人をやめるためには、誰にも負けない仕事の実力を身につけることだった。そうなれば、先輩だろうが、上司だろうが文句は言えない。売上げさえ常にトップで信頼されれば、他の人以上の経費さえも認められる・・・かも。


価格が高いからといって、内容の質までは保証してくれない・・・

2011年06月04日 | Weblog


「もらった名刺は、全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

ここでは筆者の経験から、本を買う時のことが述べられていた。あるとき、こんな高価な専門書なんだから、きっとすばらしいことが書いてあるに違いない、と期待をもって読んでいたという。

ところが、読んでいるうちにまったくそれが裏切られたのだ。何度も同じようなことでだまされたらしい。私にとっては高いと思える本を買っても、途中で嫌になって放り出したことはよくある。

本は金額では判断できないことが多い。モノを買う場合は期待が大きいほど、その後のギャップは大きくなってしまう。また作者のネームバリューだけで買っても当たり外れは出てくる。

価格ではないが、本を書いた家族の人から、著書をいただいたことが何度かある。しかし読み終えたためしはない。ほんの数ページ読んだだけで飽きてしまうのだ。やはり、自分が欲しくて買った本でなければ読み通せない・・・かな。

必要なのは、聞く訓練ではなく、もっとおしゃべりする訓練・・・

2011年06月03日 | Weblog
「もらった名刺は、全部捨てろ!」内藤 誼人著より。

しばしば「おしゃべり」より「聞き上手」のほうが、人に好かれるというのはウソだと筆者は述べている。ただ納得して人の話を聞いているだけでは、会話も進まず面白くもないだろう。

やはり、会話が弾むのはキャッチボールと同じで、お互いの息が合った時が一番だろう。つまり、一方的に聞いているだけでは会話は前には進まない。

おしゃべりでいい前提としては、面白いまたは価値がある話題をそれなりに聞かせることができることだ。また、おしゃべりできる訓練というのはふだんあまりしていないことにも気づく。

一方的なおしゃべりでは相手をうんざりさせるだけだ。しばしばそんな人を見かけるが。本当に話(おしゃべり)が上手な人は相手がどれだけその話を面白がっているかもわかるはずなんだが・・・な。



金持ちになるより、自分らしい生き方がしたい・・・

2011年06月02日 | Weblog

「朝日新聞」土曜版2011.5.28付けより。

この日の「フロントランナー」という特集には「農家のこせがれネットワーク」代表の宮治さん(32歳)が取り上げられていた。会社員を経験した後で、実家の農業に携わるようになっていた。その理由が上記のフレーズだったのだ。

農業就業人口がかなり減っていたことにショックを受けたようだ。1970年に1000万人超だったのが、2010年には約260万人にまで減ってしまっていた。このままでは衰退してしまう。

彼は実家の養豚農家を継いだのは6年前のことだった。それまでは家業を継ぐことは考えなかったそうだ。というのも「6K産業」のイメージもあったからだ。それらは「きつい、汚い、かっこ悪い、くさい、稼げない、結婚できない」だった。これが現状なのだろう。

しかし、あるときそんな一次産業を「かっこよくて、感動があって、稼げる」3K産業にするという目標に設定したのだ。これが実現できればすごいこと。そして、新たに農業を起業したのだった。

それまで生産と出荷だけで終わっていた農業にマーケティング、商品開発、営業、流通までかかわっていく仕組み作りを作ったのだ。しかも、ネットなどもフルに活用していくということだった。これからの発展が楽しみだ。


いちばん新しい情報は人との出会いのなかにある。

2011年06月01日 | Weblog

「言葉の“頭の体操”」秋庭道博著より。

いくらインターネットからの情報が豊富に得られるからといっても、本当に知りたいことは、直接その情報を持っている人から聞いた方が正確ではないだろうか。

電話やメールでは大ざっぱなことは分かっても、真相はどうだかわからない。だから、むしろ人とのちょっとした会話の中に最新の情報が含まれていることが多い。

営業では、雑談のなかにビジネスのネタが含まれていることもある。また、会話のなかでさらに新しい発展が生まれることもあるだろう。つまり直接の出会いがポイントでもあったのだ。

また話していれば、その人の話し方でも内容がつかめるものだ。相手が強調しているのか、どうでもいいこことして話しているかなどだ。それがもし、人からの言い伝えの場合は、かなりあいまいになってしまうだろうし。

しばしば、人が作ったデータだけで物事を判断しようとすると現場の状況、意見とはかなり乖離してしまうものだ。実はこちらのほうが多くて問題だとも思える・・・な。