カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

花を。

2017-01-31 17:47:19 | Weblog

今日は病院の訪問は一人で行った。
バーニーがダイナアシュラムに黙想に行っているので、今週は一人で病院の訪問をする。
それから駅を回る前に集まる場所に行き、今日はどのような回るかを話し合った。
五人いたので、私とバーバラがダムダムの駅に行き、アイリッシュがジョン、メリー、スパニッシュのアイマイはシアルダーを回ることになった。
私はダムダムののんびりとした駅を回るのも嫌いではない。
ダムダムも平穏無事に終わり、シアルダーのディスペンサーに戻り、五人で今日のことを話し合った。
サウスステーションにいる喘息の女性の様態が良くないので、HOPEの病院に運ぶとジョンが決めていた。
駅を回る前の話し合いで、私はその患者を一週間HOPEに入院させてはどうかと言うと、バーバラにはお金がいくら掛かると思うの?と言われ、それも間違いではない、誰も彼も運んでいたら、とんでもないことになる。
前日にタブレットだけ与えていたので、それで良くなってくれれば、とその場で私は言った。
だが、ダムダムに向かう途中、私はその患者の入院費を払うことに決めていた。
その患者の友達から、どうかこの女性を助けてほしいと何度も言われていたからである。
だから、ジョンが彼女の様態が今日は良くなく、HOPEに運ぶことにしたと言った時、入院費は私が払うと言うと、お金は心配ないと言ってくれた。
それとジョンは駅のフロントにいる患者が死にそうだと言った。
その患者は老人で弱ってはいたが綺麗なモーフや服も持っていて、昨日は歩けもしたので、施設に運ぶことはしなかった。
それとマザーのボランティアではないがフランス人の司祭がケアをしているので、私たちは関わらないと言った。
だが、そのフランス人の司祭は詳しくは書かないが問題のいろいろとある人物で、可愛い子供のケアはするが汚れた患者のケアはしないと思ったので、私はその患者をプレンダンに運ぶと言った。
まず喘息の女性患者をタクシー乗り場まで駅の車イスで運び、その後、老人を運ぶことにした。
喘息の患者の友達がHOPEの住所を知りたい、お見舞いに行きたいから、と言うので、私は時間があるのなら、HOPEに行く、ジョンとバーバラと一緒に行くように言うと、彼女は付いて行った。
老人のところに行くと、もう運べるような状態でなかった。
脈も取れなかった、だが、まだ少しだけ目が動き、喉元が動いたが、すぐに亡くなった。
誰かがあげたお菓子と水があった。
前からこの老人を運んで欲しいと私に言っていた女性は、私は三日前から言っていたじゃない、死んじゃったよ、あなたのミスよ、と言った。
私は彼女に言った、私のミスだと。
もう一人の女性は何も言わず、遺体を見つめ続け、憐れんでいた。
私は、ほんとうにバカである、何度も同じ過ちを繰り返す、もっと勇気があれば、老人を路上で死なせずに済んだ。
どうしようもない奴である。
拭い切れない罪を持った罪人である。
マザーはkeep on joyingと言うが、今これをどう喜べは良いのか、いや、痛み苦しむ他ない。
メリーは言った。
昨日は歩けたし、運ぶような状態でなかったと。
私は言った。
しかしもう少し何かは出来たはずだった。
私たちは苦しみを知らない、路上で死んでいく苦しみを知らないと。
言い訳はしたくなかった、これは私のミスである、間違いはない。
私はどうすることも出来なかったが、メリーとアイマイにはステーションマスターに遺体があることを知らせて来るように頼み、私は花を買いに行った。
そして老人の顔を綺麗にしてから花を飾り、私たちは祈った。

 

これからアドレーションに行く、祈りがなくては保てない自分がいる。

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シスターポリタのことの続き。

2017-01-30 19:35:13 | Weblog

シスターポリタは変わらなかった、何て言うんだろう。
ようこそ、と笑顔で迎えると言うよりも、やんちゃ兄弟を向かい入れてくれる感じ、そこには少し照れもあり、また人懐っこさもあり、また現れたの、と言う冗談めいた表情もするし、面白さもあった。
「チャ デベ?」(チャイを出してね)と私は、何の返事もしないで、すたすたとゲストルームに歩いて行った。
私とジョンはついて行き、テーブルに座ると、ちゃんと後から他のシスターがチャイとケーキを持って来てくれた。
シスターポリタは私たちにポットからチャイをティーカップに入れ、砂糖まで入れてくれた。
ジョンはチャイを運んで来てくれたシスターに「シスターポリタは良い院長なの?」と聞くと、そのシスターは笑い出し、「あとで教えてくれれば良いですよ」と言って、また笑わせた、シスターポリタも笑っていた。
一時間以上いろいろと私たちは話し笑った。
そのすべては到底書き切れないが、面白いところを少しだけ忘れないうちに書いておく。
ジョンがマザーが聖人になったけど、シスターはどうなの?と聞くと、「on the way」と答え、私たちを笑わせた。
確かにそうかも知れないが、そう答えるシスターが、さて、他に居るのだろうか、と思えた。
冗談とも本気とも取れる、またユーモアのセンスも良く、私とジョンはやっぱりシスターポリタが好きである。
書くか、どうか、迷ったが、まあ、日本に帰ってから、書くことにするが、シスターポリタがマザーの面白い話しもしてくれた。
シスターポリタは院長であるから、シャンティダンのなかでは一番偉いが、他のシスターたちと同じ生活をしていると言う。
部屋が特別に与えられる訳ではなく、食べるのも寝るのも他のシスターたちと一緒で、ただ院長にはテーブル一つが与えられていると教えてくれた。
時折、若いシスターが用事があるようで、私たちのところに来て、シスターポリタに話し掛けていたが、若いシスターはやはりかなり畏まっていた。
院長であるシスターポリタは威厳もあるのだと感じた。

それから、同じ敷地内にあるダニエルのいるブラザーの施設に行った。
私はどうしても私にカテキズムを教えてくれたダニエルと、私に洗礼を授けてくれたジョンを会わせたかった。
この機会を逃せば、私の生涯で二度と三人で会うことはないだろうと思ったからである。
ジョンは水曜日に帰り、私は四月の初めに日本に帰る。
そしてダニエルは八月終わり最終誓願式があり、それが終れば、ヨーロッパに行く予定であるから、私もカルカッタを離れれば、次はいつダニエルに会えるか分からない。
それにこれが最後のカルカッタになるかも知れないと思っているからである。
次あると思い、今日を生きるより、かけがえのない今日を生きる他ないのである。
二人はとても打ち解け、話し合い、微笑み合う、その姿を見ることがどれほどの喜び、恵み、幸せだったか、私はその私を知り切ることがないだろうと思ったほどだった。
ダニエルはこれで四回兄弟が会いに来てくれたと、ほんとうに喜んでくれた。
私もその喜びを全身に感じた。この喜び、神さまとマザーに感謝する以外、何があるのだろか。

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シスターポリタのこと。

2017-01-30 14:52:51 | Weblog

昨日はジョンと3時半にマザーハウスで待ち合わせてシャンティダンに行った。
疲れていたので、私がタクシーで行こうとジョンに言うと、そでも良いと言ったが、ちょうどトラム(路面電車)が来たので、それでシアルダーまで行くことにした。
私はトラムに乗るのが好きなので、それはそれで良かった。
ゆっくりとガタガタと走るトラムからカルカッタの町並みを見るのが好きである。
停車場から少し歩いて、今度はオートリクシャーでシャンティダンのあるバイサリーシネマまで行き、そこから歩いて行っ た。
シャンティダンに着くと、私たちは古い友達と言って良いシスターポリタを探した。
シスターポリタはシュシュババンの院長から、今はシャンティダンの院長になったので、ちょうどボランティアディがシャンティダンであるということもあり、この機会にシスターポリタに会いに来た。
シスターポリタは特別なシスターである。
何がどう特別かと言えば、まずユーモアがあり、人情味深く、またハードワーカーでもあり、患者たちからも「ポリタマ」(ポリタお母さん)と呼ばれるほど愛されているシスターである。
それと相手が司祭であろうが誰であろうとなかろうと、話さなくてはならないことはしっかりと話すし、態度を変えたりしないシスターである。
そして何よりも良く笑うシスターである。
そんなシスターポリタであるが、シスターアグネスが亡くなった時は人目もはばからず、声を出して泣いていた。
たぶん、マザーもそうだったのかもしれない。

これから、シュシュババンのオリエンテーションに行かなくてはならないので続きは帰って来てから。
今日も日本人が居なければ、早く帰って来れるのだが、さて、どうだろうか。

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ハウラー。

2017-01-29 15:04:08 | Weblog

今日はハウラーステーションに行った。
どうしても一度ジョンとジムと一緒に働きたかったからである。
二人と共に働くのは、たぶん9年ぶりになるだろう。
そして、これが最後になると思って働いた。
駅にいると言うか、貧しい人のなかのもっとも貧しい人たちは、シアルダーもハウラーも同じである。
今日も普通の身なりの男性が食べ物を欲しいと言ってきたが、その友達が止めた。
それは私が貧しい人のなかのもっとも貧しい人に食べ物を与えようとしているのを見たからである。
それから汚れきった破れた服を着た貧しい二人が地べたにおちているものを拾いながら歩いて来た。
私はその二人に食べ物をあげると、私に食べ物を与えられなかった男性も、それを見て微笑んでいた。
長い坂道があり、荷物を積んだ自転車の後ろを押している男性が、私の方を見て、微笑んだので、微笑み返した。
彼は話すことの出ない貧しい男性で、坂道の始まるところから、自転車を押して、僅かなお金を貰っているらしい。
彼はもちろん靴など履いていない、坂道の頂上で彼に会うと、ほんとうに美しい笑顔で微笑んでいた。
神さまを見た思いがするくらいだった。
ハウラーの仕事はさりげなく終わった。
1人女性患者をカーリーガートに運ぶことになり、クンとケンが運び、午後にシャンティダンに行くジョンとジムと私は帰ることにした。
私はハウラーからフェリーに乗り帰るのがとっても好きだった。
フェリーが着き、乗組員にバブーガートに行くか、と聞いた。
フェリーに乗ると、その乗組員がフェリーの先端に入れと言った。
私たちは他の客の入れない場所に入り、椅子に座り、ゆったりとフーグリー河を眺めることが出来た。
素敵な日曜日の朝だった。

 

これからシャンティダンで行われるボランティアディに行くが、たぶん最後までいないだろう。

院長のシスターポリタとダニエルに会いに行くからである。

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洗礼の誕生日。

2017-01-28 18:23:34 | Weblog

昨夜、ジョンが明日はセントメリー教会のミサに行くと言うので、私も久しぶりに行ってみたくなり、今朝行った。
マザーハウスのミサと違い、人は少なく、ゆったりと居心地の良さを感じた。
それとミサが始まるのが6時15分からなので、いつもは4時40分に起きるところを5時半に起きたので、すっきりと目が覚めた。
私は洗礼を受ける前はいつもこのセントメリーのミサに出てからマザーハウスに行っていた、その当時のことも思い出した。
大きなイエスの像があり、それに吸い込まれるような、いや、包み込まれるように感じながら、見つめ続けた。

マザーハウスでは、シスターメルシーマリアが私に近づいてきて、何を言うのかと思えば、洗礼の誕生日おめでとうと言ってくれた。
彼女はずっと覚えていてくれた。
私がカルカッタに居ない間もずっと覚えていてくれた。
ほんとうに愛あふれる優しい人柄のシスターである。
それゆえ、ボランティア担当と言う大変な仕事をしているのだと、改めて思った。
シアルダーのディスペンサーでみんなとシスターメルシーマリアのことを話したが、もうそろそろ移動になるだろうと。
その後は出世するだろうとも話した。
このボランティア担当のシスターはほんとうに素晴らしい人格者をマザーハウスは選ぶ、そして、この役目を終えたシスターはみんな出世して行った。
シスターメルシーマリアもそうなるだろうと、私も思った。

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雨に。

2017-01-27 19:49:27 | Weblog

今日はこれから駅を回ろうとした時に雨が降ってきた。
この時期、雨は珍しい、強い雨でないがしとしととしばらく降り続けた。
オカマのプジャーはその雨に濡れながら寝ていた。
駅の構内に行くように言ったがポリスがいるから行かないと言い、そのまま雨に濡れながら、また寝た。
雨に濡れながらモーフに包まり、妙に小さくなって寝ている人が居たので、気になり、起こしてみると、汚れきったボロボロになったシャツ一枚だけを彼は着ていた。
食べ物は何も欲しがらず、ただ水だけを欲した。
近くにいた女性に水の入ったペットボトルをもらい、彼に与えると、物凄い勢いで飲み干した。
何度もパンやゆで玉子をあげようとしても、彼は受け取らなかった。
近くでレモンティーを売っていたので、彼にあげようと持って行くと、それは飲んでくれた。
どうやって生きてきたのだろうか、想像のつきようがない。
集合場所に行き、彼のことを話すと、アイリッシュのジョンがズボンとセーターを持って居たので、一緒に彼にあげに行った。
彼はそれを自分で着た。
だが、まだ食べ物は受け取らなかった。
そして雨に濡れながら、またモーフに包まり寝た。

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触れる。

2017-01-27 18:33:36 | Weblog

シュシュババンからマザーハウスに行った。
かなり疲れているので、一度ホテルに戻って、またマザーハウスのアドレーションに来るのは辛いと思い、でも、少しだけでも祈りたかったからマザーハウスに向かった。
マザーのお墓のところでは四時半から始まる英語のミサの前のロザリオの祈りが始まっていた。
私はマザーのお墓に両手を当て、寝ているマザーの顔を見るように墓石に書かれた言葉を見詰めた。
何故か、いつもそうすると涙が込み上げてくる。
一度や二度ではない、いつも涙が込み上げてくる。
私はその理由が分からない、私はその意味が分かり切らない、ただ感じるのはマザーの愛に抱き締められているような感じかも知れない。
しばらくマザーの傍に居た。
そして二階の御堂に行った。
そこは外からの雑踏の音が聞こてくるが、にも関わらず、しんと静まりかえっていた。
シスターがぽつりぽつりと間を開け、三人だけいた。
私は祈った、毎朝行く病院の患者たちのことを。
今回の訪問でも、何人も亡くなった。
昨日午後二時亡くなった患者は脊髄損傷の患者でもう三日前ぐらいから生死を彷徨っていた。
患者の傍には貧しい身なりの痩せた父親がいて、私たちが彼を労ると、父親は大粒の涙をぽろぽろ流した。
掛ける言葉などなかったが、高熱でうなされている息子の胸に手を当て、ここに神さまがいる、あなたの子供はいま神さまと一緒にいる、そう言い、あとは瞳で憐れみを伝えた。
父親は何度も何度も涙を拭っていた。
ある患者は明日足を切断しなくてはならないと言い、泣きだした。
掛ける言葉などない、思いの限り、祈るだけだった。
彼の額に私は両手を当てた、その上から、彼は両手をのせた。
祈りが強くなるように、救いが訪れるように、願ってのことであろう。
私は何もしていない、彼の神さまがそこに現れていると感じるだけである。
多くの患者が言うことはほとんど同じこと、あなたが私の額に手を当て祈ったら私はすぐに良くなると。
彼らはほんとうに神さまとともに生きている、その素晴らしさに私は触れているんだと思う。
彼らに触れる資格があるのどうかさえも分からないが、彼らに触れさせてください、その勇気と静けさ、愛を私に与えてください、そう祈り続けた。

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シュシュババンより。

2017-01-27 15:53:46 | Weblog

今シュシュババンにいるが、今日も日本人はいない、これで今週は日本人1人だけの登録になった。
ちなみに中国人のボランティアが今までになく増えて来ている。
あと10分待って、遅れてくる日本人が居なければ、ホテルに帰れる。
今少し頭痛がするのでちょうど良かった。
また部屋に戻っだら、何か少し書きたいと思う。

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木曜日。

2017-01-26 21:46:50 | Weblog

木曜日はボランティアは休み。

朝、ミサに行き、モスリムのレストラン、カリックでパラタを2枚、ダール、チャイで朝食を済ませ、部屋に戻り、また寝た。

1時間半寝て、そこから大掃除、部屋の床をタワシで磨き、水で流し、シーツなどを全部洗ったら、仕事に行ったくらい疲れた。

ジョンとカルサで待ち合せた12時半までギリギリでゆっくりと休まずに出掛けた。

今日はダムダムのジムのところでステーションボランティアの食事会だった。

ハウラー駅のボランティア、クン、ケン、ルーカス、シアルダーのボランティア、アイマイたちが4時間掛けて、ビッグランチを作ってくれた。

何も考えず、リラックスすることが出来た1日だった。

大きな犬とも遊んだ。

アルゼンチンのお酒、イタリアのワインも飲んだ、少しだけ。

カルカッタではやはりもう飲み過ぎたりは出来ない、あと今回初めてビールも飲んだ。

リフレッシュ出来た良い1日だった。

だが、もう早くも夏が顔を出して来たようだ。暑くなっていた。

さてもう寝ることにする、あと15分で10時になる。

4時半くらいには毎朝起きるから。

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ボランティアのためのミサ。

2017-01-25 18:15:35 | Weblog

昨日は夕方の4時からボランティアのためのミサがあった。
そのミサをジョンがあげた。
ミサの間、亡くなったボランティアの名前が言われて行く中にジュリアンの名前を聞くと、胸に詰まる思いになった。
ジュリアンは素晴らしいプレンダンのボランティアだった。
本国のスペインで列車事故にあい、亡くなったが、それまで何年もの間、プレンダンでボランティアをしていた。
今プレンダンのボランティアのための休憩場にはジュリアンズ スクエアと大きな札がある。
もうその意味を知るボランティアは少ないが、私はそれを見る度、ジュリアンを思い出し、胸を熱くし、ジュリアンのために祈る。
それからアイリッシュのジョンとメリーにモニカハウスの夕食に招待された。
ジョンやカーリーガートで長い間ボランティアをし、今は障害者とともに生活をしていらドイツ人のアンディやファビオ、ファビオの母、パスカーレも来た。
この夜はテレサの最後の夜だった。
テレサはみんなのためにスイーツを用意していてくれた。
モニカハウスの食事は美味しくて少し食べ過ぎたくらいだった。
私と左にファビオがいて、前にパスカーレ、右にジョンがいた。
ファビオとはグジャラート震災の時にカルカッタから一緒に行った、その時のトイレのことで大笑いした。
と言うのは、トイレがないので、みな便をする時は、荒野のような場所を歩いて行き、用をたした。
歩いて行く途中、グットモーニングと挨拶しながら行き、日に日に、そのトイレの場所は新たな場所を探すため、どんどん遠くなって行った。
そして用を足した後はエチケットとして、大きめの石を載せるようにみんなで言い合った。
私はイタリア人のロレンツォにサソリとヘビに気を付けるように言うと、彼は怯えていた、そんな話をみんなにして大笑いした。
後、ファビオはプレンダンのシスターが変わったことでテツはラッキーだと笑っていた。
と言うのは前にいたシスターは患者に触れもせず、運んで来た患者を降ろそうとタクシーのドアをボランティアが開けたが、そのまますぐに締め、駅に返されたりしたらしい、たぶん、それだけではないだろうが、それを聞いて、私はほんとうにラッキーだと思った。
それから、ジョンも交え、ジュリアンの想い出話をした。
多く人から愛されたジュリアンだった、患者たちからはもちろん、ボランティアからも、シスターたちからも愛されていた。
ジュリアンも大きな大きな愛を持った人だった。
出逢えて今もなお、ほんとうに嬉しく思い、感謝している。
テレサとは思いっきりハグをして、写真を一緒に撮った。
良い写真を撮れた。

今日シュシュババンのオリエンテーションは日本人1人、それも2度目の人なので、簡単に話をし、4時にモニカハウスを出て空港に行くテレサを見送りに行った。
ジムとパスカーレがいた。

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