カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

この雨のなか。

2009-01-31 08:47:08 | Weblog

 この雨のなかでも、彼らは一つのカレーをもらいに来る。

 その意味を深く考えて彼らに会う。

 二度と戻らないその瞬間を。

 しかし、緊張することはない。自分に優しく言う。

 外がどうであれ、内は静かに柔らかくあたたかく。ただ変えられないものを静かに受け容れよう。

 強く吹く雨風に揺られてもいい。

 根こそぎはさらわれぬ心がこの身体を支えていてくれる。

 目には見えぬ何かが私のすべてを支えていてくれる。
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2001年1月26日。

2009-01-30 12:50:35 | Weblog
 1月26日はインドのリパブリックディー。国の祭日。どちらかというと政治的意味がある祝日で、1950年インド憲法が作られて、完全にイギリスから独立した記念日です。各地で軍隊や国の人たちがパレードをしたりしている。

 街はマーケットやほとんどの店は休みになったり、学校ではその祝日を祝ったりもする。

 2001年のこの日の朝、インドグジャラートで地震が起きた。新聞では地獄絵のような写真が載り、毎日亡くなった人の数が増えていった。

 毎年のこの時期になるとそのときのことを良く思いだす。

 昨日、ふとトイレに入っていたときにこんなことを思い出した。

 向こうではいつもトイレは野外でしなくてはならなかった。キャンプには自分たちも含め300~400人以上の救援者がいたが、トイレはその数に足りず、いつも荒野を歩いてしていた。

 イタリア人のロレンソォには良く冗談でこう言った。
 「サソリも蛇もいるから、ほんとうに気をつけた方がいい!」
 身体の大きい彼であったが、小心者でいつも怖がったりしていた。その姿は子供っぽくて自分たちを笑わせた。

 出来るだけ遠くに歩いていき、岩の陰を探しながら、「こっちを見るなー!」そう大きな声を出しながらしていた。

 二週間後物資を少し離れたラジコートに運んだ。被災の中心地には物資は集まるが、離れた場所では集まりにくい状態になっていたからだ。そこでもほんとうに困っている人たちがいた。

 ラジコートのシュシュババンで一泊した。
 そこで久しぶりに水洗トイレを見た自分たちは喜んだものだった。

 イタリア人のファビオがトイレに座り、子供のような顔をして笑いながら水を流して喜んでいた。

 思い出すだけで笑える。

 昨日は笑いながらトイレの水を流した。

 そして、それから、何気なく当たり前にあるものへ感謝をした。

 グジャラートでのことはHPの方にも、以前その行く前までのことは書いたが、その後のことは書いていない。
 時間がある時に書いていこうと思っている。
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温度差。

2009-01-29 11:49:50 | Weblog

 カルカッタから帰ってきた人たちのなかでは、それまでの仕事を辞め、新たに新しい職種に就く人がいる。

 そのなかでも介護・看護職・福祉関係に就く人たちが多い。これは日本人だけではなく、海外の人たちにも言えることである。

 この前、ある友達の話しを聞いた。
 仕事場のことであった。同じ介護をしているのに職場には信じられない人がいる。自分の思い通りにならないと怒り、身勝手で、相手のことなど何も考えていない、自分のことしか考えてない人がいる。

 そういう人がいることを知って寂しくなりました。

 自分のなかにあるカルカッタでの愛あるケアとの温度差が他人のそれとあまりにも違い、その友達を苦しめていた。

 そこには受け容れられない現実があるのだろう。向こうでの経験が新たにその友達のなかのある部分で生き辛くしてしまっているのかも知れない。比べることによって何かを逃避し、カルカッタでの生活を哀願してしまう。

 だが、その苦悩のなかには成長の糧がある。

 表面的な出来事に心を奪われ、自己の心に意識を向けていられなくなっている。それは自分で自分を苦しめていることに気が付かないでいる。

 自分にもそうした瞬間が度々ある。失敗もする。

 その間違いや失敗が自分を支え、教育し、その次に何かを繋げて行ってくれることを思う。

 静かに自分の心の声に耳を傾けることをいつも進める。

 それが出来るように見守る。

 声を掛ける。

 焦らなくていい、ゆっくりでいいと。

 あるがままを受け容れられるように。

 あたたかな思いであれるように。

 祈る。
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健康診断。

2009-01-28 12:02:31 | Weblog

 昨日は今日の健康診断のために9時以降何も食べれなかった。

 仕事から帰ってくると、いつも以上に何かお腹が減っているように感じたり、飲みたい思いにもなっていた。だが、どうにか我慢した。喉が渇いては水でうがいをしてしのいだ。

 こうした非現実的なものも良いだろう。

 そこでまたいろいろと思い出すことが出来たりもする。

 もう二年以上前に小腸の問題で入院していた二週間以上何も食べれなかったときのこともよく思い出した。そのあと、初めて重湯を食べれたときの嬉しさ、またそこから、恐る恐る食べ物を食べていったこと、お腹の感じをほんとうに丁寧に見ながら食べ物を選び食べたこと。

 そのときの不安感・恐怖も思い出していったり、食べ物が普通に食べれることの素晴らしさを何度も感じ味わい直した。

 いま、思い出しても、それは必要な日々だった。

 当たり前のことを当たり前に出来るその意味の重さ・大切さを身を持って、痛みのなかから学んだ日々だった。

 何気ない毎日を自分たちは過ごしているが実はそうではない。そこは変らないように感じてしまいがちであるが変らないものはない。

 良くもなれば、悪くもなっていく。また同じことを繰り返していってしまったりもする。

 それを見詰めてく勇気が必要であり、その姿勢と態度がどうあれるのか。諦めるか諦めないか。受け容れるか受け容れないか。心はどうしたいのであるか。それが問われ続けてある。

 答えて行きましょう。静かに心の声を聞きながら。素直に正直に。

 さて、今夜はゆっくりと飲もう。

 芋焼酎お湯割りです。

 
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心の呼吸。その2。

2009-01-27 11:48:35 | Weblog

 カレーを笑顔で配るその姿が必要である。一つひとつ、一人ひとりになるべく丁寧にあたたかい態度で向き合うようにその一瞬にも大切なものを込めてもらうに伝えていく。

 食べ物だけを相手に渡すのではない。食べ物になるまでの多くの人たちの思いもまとめて、目の前の人により良いものになるようにして渡す。それが相手の心に届くようにあることがお互いの幸いになり得る。

 カレーが足りそうにもなかった。
 だから、自分はその場を離れずにいた。

 彼らに謝るために。

 誠心誠意謝ることが必要になる。自分たちがしていることで彼らを傷付けることになるその意味を十分に分かっている自分がそれをやる必要があると考えていたからだ。
 謝ったところで空腹はぬぐえないがそうするしかない。孤独のなかにいての空腹を知りえないがそうするしかない。演技ではない、彼らの痛みを感じながら謝る。それに向き合う。

 やはり、カレーは20人ほど足りなかった。最後に配る三つのカレーを自分が配った。自分の目の前には何人もの手が差し出された。

 胸が締め付けられる瞬間だった。

 覚悟を決め、列の前にいた人から渡した。

 謝った。胸が痛んだ。

 しかし、そのとき、誰も怒りはしなかった。

 それでも、一人の片足不自由なおじさんが話しかけてきた。今日の人数の多さのことなど聞いていたが、何か話さなくてはその気が治まらないようだった。

 ふと思った。
 いつからか自分は彼らをどこかで押さえ込んではいないか。

 自分がいるというだけで、彼らの怒りを押さえ込んではいないか。

 怒り罵られる方がいいのではないか。

 自分自身が彼らが受ける痛みを受けるためにも、そうあることの方がいいのではないか。

 分からない。

 分からなかった。

 分からないがただもらえなかった人たちには謝った。そのとき、自分が出来ることは、それしかなかった。

 決して慣れてはいけないと思った。仕方がないという思いに身を寄せる卑怯な態度はあってはならない。

 彼らと向き合ってこそ、愛を通わせることが出来るのである。そこには明確な自己の罪を認めるということが必要になるのかもしれない。

 その意味を感じた。

 空を見上げて「許してください。」と呟いた。

 胸に手を当てて、心の呼吸を観る。

 そして、また、今やるべきことを見つけ出して行った。

 彼らのそばに近づいていった。
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心の呼吸。

2009-01-26 11:46:56 | Weblog

 吐く息が白かった。
 いつものようにおじさんたちに挨拶をゆっくりとしていった。二列の並んだその間を歩き右左交互に声をかけながら、彼らの顔を見ていった。

 おじさんたちは階段を上がってカレーをもらう。もう一つ離れた階段が300メートル先ぐらいあり、そこまで並んでいる人がいると人数も多い。この前もそうだった。だんだんと多くなってきていた。

 先週ケンカをしていた耳の潰れている人もいた。八割ウソのおじさんもいた。笑顔を見せてくれた。

 よしこちゃん、マフラーをあげたおじさん、耳の遠い小さな顔のおじさん、ナンクルナサイーおじさんたちの顔はなかった。

 また会えることを願いながら、彼らの顔を捜した。

 いつも列の一番後ろにはスペイン人のシスター{MCではない違う修道会のシスター}と男性のボランティアがいてくれる。

 スペイン人のシスターは自分が最後まで挨拶し終わると、「今日は多いから二回目の人は一列に並んでもらうように言って。横入りしないようにって。」そう自分に言った。

 いつもそのことを気に掛けているシスターは必死の様子だった。自分はシスターに「笑顔で。」微笑みながら言うと、忘れ去られていた笑顔が現れた。その方が彼女にとっても良いものである。

 何かに囚われていては大切なものをないがしろしてしまう。見るものも見えず、与えるものを与えられず、受けるものも受けられず、その不安のみ、内にあり続けてしまう。

 愛からの目線で心を通して観ること、彼らに触れること、それは彼らのなかの神さまと触れるということに繋がる。

 それをするかしないかは問われていることであると常々思う。

 カレーを配っているところまで戻る前に隅田川のなかを自分は少し覗き込む。泳いでいる魚がいたらいいと思いながら覗き込む。

 きっとこの行動は心を落ち着かせるためにしている。それだけの緊張をしているということであろう。

 それは心の呼吸を整えているようにあるのだろう。

 そして、また新たに違う角度から彼らを見詰め、言葉を少し掛けながら、カレーを配っているところまで戻った。

 {つづく}
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指の傷。

2009-01-24 08:39:53 | Weblog

 先週に作った右手親指の傷は治りかけてきている。

 その傷を見ながら思う。争うことを止めて欲しいと。

 平和を祈る。

 一人、ひとりの。

 山谷は今日どんな顔を見せてくれるのだろうか?

 彼ら、一人、ひとりの今日はどんな今日なのだろうか?

 それは分からない。

 だから、右手親指の傷を忘れて分からなくして会いに行こう。

 新しくして会いに行こう。
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丁寧に。

2009-01-23 11:18:41 | Weblog

 丁寧に生きる。

 丁寧に食事を作り、丁寧にその食器を洗う。

 丁寧にお茶を入れて飲む。

 一つひとつの小さな行動を丁寧に行う。

 ゆっくりと続ける。面倒だと思うものなら、なおさら、それを丁寧にする。

 そのなかにはその意味を見出せる。

 今まで出来なかった理由や驕り、感謝の無さなど。

 そのことも思い感じながら、ただまたそれを丁寧にする。

 だんだんとゆっくり面倒さは消え、心のなかの騒ぎも落ち着きを取り戻していく。

 誰のためでもない自分自身のために、それを丁寧にする。

 疲れたら休む、疲れた心を丁寧に観てあげる。その心を丁寧に分かってあげる。

 そして、また新たに小さなことを丁寧に行う。

 誰のためでもない自分自身のために。

 自分で自分を縛り付けるのではない。自分で自分をあたたかく包み込むように、ただ丁寧に生きる。

 それを丁寧にする。
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テーブルの上。

2009-01-22 11:27:41 | Weblog

 テーブルの上にはずっと新しいベンガル語の教本が置いてある。

 たまにぱらぱらを開く程度で汚れずにずっとある。

 最近タゴールの詩集を読み始めた。ガンジーにマハトマの称号を贈ったタゴールの詩集をいつかベンガル語で読みたい思いになっている。それの音の響きは宝物のようだろう。

 そのいつかは。

 ただ自分がするか、しないか、だけの問題である。

 問題は自分である。

 いつも。

 そして、問題のなかに新しい自分がある。

 いつも。

 
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ご馳走さま。

2009-01-21 11:55:04 | Weblog

 昨日は岡さんと飲んだ。

 「石垣島の病院に一年行くので暫く会えないから今日は奢りますよ。」と言うので有り難く奢ってもらった。

 医者になって10年目になる今年が良いターニング・ポイントになれば、ほんとうに良いと思う。

 気が付けば、出会ってから10年以上になる。お互いにモラトリアムのなかにくすぶっていたこともあった。

 それはいつもいつでも活き活きと生きる力、新たに生まれ変わる力、一つの自分自身となる力を蓄えていたものとしてあったのだろう。

 否定から肯定へ、何度も何度も、その道筋を行き来し、深く落ち着き払ったあたたかな思いで有れる可能性のなか、その成長過程のなかに生きている。

 いつでもどこでも、マザーの思いを胸に、神さまのために美しいことが出来る。

 そのことを良く話した。

 一刻者は美味しかった。ボトルは飲み干した。

 いま、短い文章を読み返しながら、カルカッタで買ったSILK CUTというタバコを吸っている。いつも向こうで吸っていたタバコだ。

 カルカッタの香りが身体のなかを駆け巡り漂っている。

 そして、その煙は消えていく。

 消えて見えなくなるが、それはそこにある。

 感じられるものとして、それはそこにある。

 
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