不思議である。
みんな元気にしているか、どうか、心のなかにずっとあり、それをブログに書くと、それを読むはずがない、ポルトガルのドゥッワからフェイスブックで13人の友達に向けてメッセージが昨日届いた。
その内容は自分が心配していたようなことが書かれていた。
カルカッタを離れてから、あまり元気ではないこと、もとの生活への適応が難しいこと、それらを恐れていること、どうしたら良いか迷っていることなどだった・・・。
思い返せば、向こうで本国に帰ってから気をつけなくてならないことなどを彼には話していなかった。
オリエンテーションでは、ここのボランティアの時だけではなく、その人の人生に問いかけるように話をしようと心掛けていた。
だが、身近で一緒に働いたものたちには、仕事の仕方や考え方、捉え方、その姿勢などについては話したが、やはりそうした心配りが足らなかったのではないかと思ってしまった。
日本人だけではなく、多くのボランティアがこうした問題に出くわす。
もとの生活になかなか適応出来ないのはある意味普通のことである。
カルカッタでは日々当たり前のように、足や手のうじ虫の湧いている患者、ゴミのなかから食べ物をあさるもの、シンナーを吸う子供、ドラッグをするもの、ドブネズミを食べているメンタンな女性、作業中の四階から落ち、病院を出され、駅で寝ているもの、瀕死の状態で運び、五分後に息を引き取るもの・・・など、どこをどう探しても本国ではなかなか居ない、居たらたいへんである。
こうした貧しい人たちに毎日関わった日々から、何不自由ない生活のなかに戻れば、何かがそぎとられた空白感を感じたりするのは当然である。
だが、その違いのなかに何があるのかに気付き、それを認めていくことが大切である。
Come and seeを終えたクレアでさえ、もとのボランティアに戻ったときには、何かしっくり来ないものを感じたらしい。
祈りのなかにあるがままにそれを受け容れられるものは必ずより良く適応し、成長して行く。
その真逆もあるのも言わざるを得ない事実であろう。
時間が必ず癒す。
感謝する心が必ずそれを乗り越えて行く。
些細な感情であれ、大切にする必要があり、それをあたため続けることが何よりである。
まずは自分自身が弱いそれを無条件に認めてあげることが良い。
それは自分の一部として大切に扱ってあげることが良い。
自分たちの心はきっと繋がっている。
なぜなら、素晴らしい過去は誰が何をしようとも変わることは決してないからである。
愛はあなたのなかに必ずある。
自分はそれを信じて疑わない。
自分はあなたのために祈る。
愛で祈る。
愛を祈る。