カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

まちゃこの後片付け。

2015-02-26 12:48:06 | Weblog

 昨日ライブの二週間前にあったのでライブのお知らせをメールで友達数人に送った。

 こうして毎回ライブの前にメールを送るのだがいつも返信もない友達もいる。

 その中、まちゃこはいつも二三日後であれ、律儀に返信をくれるのである。

 がしかし、昨日はなぜかすぐに返信が来た。

 母親が先週亡くなり、葬儀を昨日終え、喪主だったらたいへんだった、気が付くと13時間も寝ていたと書いてあった。

 ライブのことは何も触れず、そのことだけを書いていた、それは誰かに哀しみを伝えたかった証しであり、そのことだけが今のまちゃこを包んでいるとも切に思えた。

 まちゃことはもう20年ぐらいからの友達になる、そんなに長い間連絡を取り合う女性の友達は少ない、ましてや、彼女の場合は母校の文化学院の学生でもなく、知り合ったのはたまたま屋外のレゲエのライブで隣で踊っていたお姉ちゃんの一人だった。

 そんな出会いから交際ではなく友達としての付き合いは続いた、まちゃこは私の親友アサダの友達になり、アサダが死んでからも変わらずに連絡を取り合っている。

 そのアサダは私のことを「兄さん」と呼ぶようにまちゃこのことを「姉さん」と呼んでいた。

 アサダが亡くなる前に良くアサダの見舞いにも一緒に行った。

 だから、アサダの命日の毎夏の飲み会には必ずまちゃこにも連絡していることが付き合いが途絶えないことであり、縁があると言うことであろう。

 まちゃこは小学生の時に親が離婚して、それから母親と二人で暮らし、数年前から今の彼と一緒に暮らしていた。

 まだ結婚式はあげていないが、母親の最後二週間の入院には毎日病院に行き、前倒しでウエディング姿を写真に撮り、母親に見せたらしい。

 うまく微笑んだウエディング姿を撮れたのだろうか。

 どんな会話したのか、まちゃこは照れただろう、母親は喜んでただろう、そして、表だって話したかどうかは分からないがお互いに永遠の別れを感じながら、かけがえのない尊い時間がそこには流れていたのであろう。

 普段はバカなことばかり言うまちゃこが真面目な話も母親とゆっくりとしたのであろう。

 そして、死は否応なしにやってきた。

 すると、まちゃこは尋常ではない忙しさに見舞われた。

 喪主をする者は哀しみを感じでいる時間は与えられない。

 それが良いのか悪いのかを考える時間もなかっただろう、だが、気を許した瞬間に感情の堰を切ったように母親の想い出も溢れだしてきたこともあったであろうが、またかなり久しぶりに会う親類に喪主の役に戻らなくてはならなかっただろう。

 まちゃこはとにかく頑張ったのだろう。

 これから、母親の家の後片付けがあると言う。

 私はそれは辛い仕事になるから、一杯やりながらすると良いとメールで答えた。

 まちゃこはそうだね、写真とか見たら思い出すもんねと返信があった。

 私は瞳を閉じ、今のまちゃこの心を感じようと集中しながらメールの返信をした。

 後片付けも親孝行の続きだから、それを丁寧にやると良い、落ち着いたら一杯やろうと。

 少し時間を空けてから、やっと絵文字の着いた少し明るい返信が来た。

 まちゃこの後片付けは亡くなった母親のものの中に小さいまちゃこを観ることであろう、それを喪主を務めた大人の現在のまちゃこが出会う意味は死によって生を感じみるかけがいのない時に、哀しみに違いないが母親からの愛の贈り物になり得るだろう。

 いや、まちゃこには時間が掛かろうがそう受け取ってほしいものである。

 命の大切さを身を持って知ることはそうしたことでより強く育まれる。

 そうなるように辛い仕事だと思うが、まちゃこにはしっかりとしてほしいと思っている。

 窓の外は冷たい雨が降り始めている。

 今日はあっこちゃんの命日でもある。

 祈ろう。

 雨に濡れながら河津桜は一輪だけ咲いていた。

「神さまにNOと言わない」こととは。その2。

2015-02-24 12:08:32 | Weblog

 私は「神さまにNOと言わない」こととは、自らが嫌がることをするように思える。

 しかし、嫌がることは決して破壊的なことではない。

 嫌がることとは望まないことでもあり、それをすると言うことは自らの感情を超えて行うことであるが、自らの感情を抑圧し覆い隠すものでない、自らのありのままの感情を感じ受け容れてから、それを超えて行くことである。

 「自らの感情を超えて行う」と言うことは未だ未開発な未知な自己と会うと言うことでもある。

 その過程には自らのうちを内省することが望まれる。

 そして、望まないことを嫌々するのではなく、神さまが望まれたように喜んでそれをすることにより、真新しい自己との出会いがあり、それは心の成長を促進する。

 「神さまが望まれたように喜んでそれをする」と言うことは神さまを癒すことであり、神さまのために美しいことをすることに他ならない。

 「自らの感情を超えて行う」と言うことには決断が必要であり、また同時に柔和さが必要になる。

 私は私を観れば、「神さまにNOと言わない」のではなく、「神さまにNOと言ってしまう」ことが多いのであるが、しかし、そこにも救いはある。

 「神さまにNOと言ってしまう」弱さを神さまに伝えることである。

 悔悛することにより、私はまた息を吹き返し、そして、「神さまにNOと言わない」ことへ意志を向けることに微笑むのである。

 まだまだの私であるが、私は愛するマザーの意志に添いたいと思わずにはいられないのである。

「神さまにNOと言わない」こととは。

2015-02-22 18:42:43 | Weblog

 昨日白髭橋にカレーを配りに行く前の祈りの時に私の横にボランティアの大石さんとブラザートーマスがいた。

 大石さんがトーマスに鳩のおばちゃん{数日前にブログに書いた路上より緊急搬送されたおばちゃんのこと}のことを聞いていた。

 「もう良くなってきました。あと足が少し悪いだけでもう退院出来ます」とトーマスは喜んで答えていた。

 「トーマスさんは優しいから」と大石さんが言うと、トーマスはものすごく照れ笑いし、「神さまにNOと言いませんから」と言って顔を真っ赤にしていた。

 「そうだね、神さまにNOと言わないことが良いね」と私も会話に参加した。

 「神さまにNOと言わない」と言うことはマザーの生涯の信念であり、私の大好きなマザーの思いである、それは私だけが思うところではない、マザーを心の奥底から尊敬するもの誰もが抱くマザーへの思いであろう。

 トーマスはほんとうに優しい表情する、その顔はほっぺの赤いベビーフェイスであり、無垢な心そのものの微笑みを持つ素晴らしいブラザーである。

 私はそんな彼の照れ笑いが好きでしょうがない。

 そして、何よりもマザーへの畏敬の念を抱いている姿、マザーが大好きで大好きでしょうがないとしか思えない姿、それが健気のうちに見え隠れする姿は私には尊く美しいと思えるのである。

 この日白髭橋でカレーを配り終え、MCに戻ってくると一人の背の大きな作業服を着た男性が私に声を掛けてきた。

 「カレーが欲しいんだけど」

 「そう、もらっていないんだ。おじさんだけ?」後ろからもう一人の男性がついてくるのが見えたので聞くと、その彼も「オレもです」と言った。

 「んじゃ、ちょっとこっちに来て」と通りから見えないMCの横の自転車置き場まで彼らを誘った。

 「センター{MCの近くにある福祉センターのこと}の方には行かないでね。分かっているだろうけど、ここでは普通はあげないんだよ。今度は白髭に来てね」といつも私たちはそう言うことにしている、そうしないと誰も白髭橋に来てくれなくなるからである、がしかし、足の悪い人やいろいろの事情で白髭橋まで行けなかった人にはやはりあげずにはいられない現状である。

 「分かりました。いろは通りに行って食べるから」

 「うん、んじゃ、ちょっと待っていて」と彼らに伝えると、トーマスが私のところに来て言った。

 「{彼らには}ロザリオの祈り後、一時にあげるから、また後で来てと言ったんです」

 私はその会話を知らなかったので先にブラザーが彼らと話をしているのなら、それに従うことの方が良いと思い、おじさんたちの前に戻り、トーマスを横にして「ごめんね。んじゃ、一時で良いかな?」と伝えた。

 彼らはそれを素直に受け容れてくれた。

 施設の中に入るとトーマスは私にうつむく感じで言った。

 「新しい人でしょ?{彼らに}怒られたんです」

 その言葉だけで彼らとトーマス{彼らのことをあまり知らなかった}とのやり取りが想像出来た。

 きっと彼らは小柄で優しい顔をしているトーマスに横柄な感じでカレーを要求したのかも知れないと思った。

 そうでなければトーマスはすぐにカレーを渡していただろう。

 優しい顔をしている分、トーマスはおじさんたちになめられ、傷付いたのかも知れなかった。

 私の場合はもう長い間山谷に来ているし、背もわりとあり、頭もスキンヘッドで柄の悪い顔をしているところもある、それに日本語ももちろん流暢に話すのでおじさんたちからもうあまり横柄な態度を取られることもなくなっている。

 普段から私よりトーマスは不自由さの中で愛の行いをしているのである、私としてはすでに先にトーマスが話をしているのであれば、彼の面目を立てることと彼に従うことを選んだのである。

 がしかし、私はトーマスにこう言ってしまった。

 「神さまにNOと言わないんでしょ」

 するとトーマスはすぐに二個のカレーを用意し彼らのもとに持って行った。

 私はそのトーマスの純粋さ、柔和さに改めて尊敬するのである。

 私たちは好意的な人に対して優しくするのは容易いことであるが、「神さまにNOを言わない」ととは決してそうした容易いことではない。

 「神さまにNOと言わない」こととは横柄な態度をとられた相手や自分に罵声を浴びせるような相手、自分を裏切るような相手、誰もが拒むような相手、誰からも見捨てられたような人に対して、ひたすらに愛の手を差し伸べることに他ならない。

 なぜなら、そのような相手の中には激しい孤独があり、そこにはイエスがカルワリオを再体験し、また癒されるのを待っているからである。

 「その人を癒す存在になりなさい」と言うのがマザーの確信の教えである。

 トーマスは自己の主張を直ちに取り去り、そこに立ち戻れる「神さまにNOと言わない」自己を持っている人格者である。

 私としては沈黙を守れず、言わなくても良いことを言って、彼を傷つけたかも知れないと神さまに許しを請う次第である。

 

灰の水曜日。

2015-02-18 12:44:46 | Weblog

 今日から四旬節が始まる灰の水曜日(復活祭の46日前)である。

 私はこの灰の水曜日が洗礼を受ける前から好きだった。

 なぜ好きだったのかと言えば、それはカルカッタでボランティアをしている時、ともに働いていた友達と同じ印、額に灰で十字架の印を付けられることが嬉しかった。

 それは私のどこから来ているのかと言えば、「見捨てられ不安」であったろう。

 ミサの間、聖体拝領を受けれずに、「どうして友達は受けれて、私は受けれないのか?どんな違いがあるのか?同じように愛の行いをしているのにどうしてなのだろうか?」と問い続けていると自然と涙が頬を伝った。

 ある時から私はその涙を友に見られたくなく、マザーハウスのミサには行かず、セント・メリー教会のミサに出てからマザーハウスに行くようになっていた。

 セント・メリー教会は大きいので隅で涙を流していても誰にも気付かれずに済んだのである。

 しかし、いま思えば、ずっと神さまは私の涙を知っていたように思える。

 マザーハウスのシスタークリスティーやシスターカリーナも、私のそのことを知ると、きっとどうにかしたいと思ったのであろう、私を呼び寄せ、それまで以上にイエスのことを教えてくれようとした。

 だが、私は信仰の実は堅く、熟すにはまだまだ時間を必要としていた。

 それから、私は私の成り立ちを知るべくして、私のこと、記憶にある限りの私歴史を誰にも見せるものではない、ましてや見せることなど到底出来ないものを書きはじめた。

 三年間をそれを書き続けた。

 そして、私のその涙の訳を私が了承することが出来たのであった。

 それから、私はマザーハウスのミサに行くことを拒まなくなった。

 聖体拝領を受ける友達の幸せを嬉しく眺めることが出来るようになった、違いがあって良いと思えるようになったのである。

 そうなってから10年ぐらいが経ち、私は洗礼を受けるように意志が高まったと言うか、心が成熟してきたと言うか、やっと「彼の手を引き寄せる」にいたったのである。

 「彼の手を引き寄せる」と言うのは私と同じ名前を持つ、もう亡くなったシスターフランシスコ・ザビエルが何度目かのカルカッタだったが忘れたが私が日本に帰る際に「いまイエスがあなたの手を引いている。今度はあなたがその手を引いてください」と言ってくれたのである。

 シスターフランシスコ・ザビエルはマザーと同じようにロレットで最終誓願をし、マザーを慕い、マザーのもとに駆け寄ったシスターの一人、マザーとはたぶん二つぐらい若いだけでほぼ同じ世代であり、MCの初期からのシスターである。

 改めて思えば、あのお方はいつも私の手を握っていてくれたようであり、私を癒そうとずっと願っていてくれたのだろう。

 灰の水曜日はもしかするとずっと無意識のうちに洗礼へとずっと私を導いていたのかも知れない。

 額に十字架の印を付けながら、ママ{私のゴットマザー・ジョアン}と一緒にセント・メリー教会を出て、肩を組みながらマザーハウスまで微笑みながら歩いた道をいま思い出している。

 私はあの時の微笑みになって思い出している。

腰痛克服への道。

2015-02-17 12:34:59 | Weblog

 私は変わらずに仕事に行く前に体幹トレーニングをしている。

 しかし、未だ腰痛は無くならない、朝目を覚ますとやはり腰が痛む。

 ベッドの中で起きる前に両足を抱えて、ゆっくりと腿、背中などを伸ばしてから起きている。

 腰痛を持っている人なら、あの朝の腰の痛みを知っているだろう、血液の循環の悪さや同じ姿勢を長い間保っているから起こるであろう、あの腰の痛みである。

 私はいつかこの腰の痛みが無くなることを切に願うがべく、体幹トレーニングを続けている。

 この効果は間違えなく感じられるが、数日前はまた針を刺すような痛みを腰に感じ困り果てていたが、仕事中に利用者の奥さんから可愛らしいチョコレートをもらい、「あなたはうちの息子{36歳}よりもぜんぜん若いでしょ?」「いや~ぜんぜん上ですよ・・・」「そうなの、あなたみたいな人が独り身でいるなんて女性は見る目がないのね・・・」と真剣に言われると、知らぬ間に腰痛は感じられなくなっていた。

 この実体験からやはり「病は気から」と言うことも再認識する。

 なので、私は体幹トレーニングと合わせて、自己暗示も忘れないようにしている。

 「腰はずっと良くなっている、きっともうすぐ腰痛は無くなる。体幹トレーニングはとても身体に良い」など常に私は私の身体と腰痛で苦しんできた痛みへの不安の心を励ますようにしている。
 
 自己暗示だけでも腰痛は良くなると言う方がいるかも知れないが、やはりそれだけでは私の毎日の仕事の中ではどうしても誤魔化しが効かないのである。

 体幹トレーニングと自己暗示なるものの組み合わせに目標に希望をそえて身体をいたわりながらトレーニングすることが何よりだと思っている。

 10数年悩まされてきた腰痛を克服することはそれは容易いことではないことも百も承知である。

 だからこそ、私は地道に腰痛だけに腰を据え根本治療を望む、自論ではあるが対症療法や腰ベルトを使っては良いかも知れないが、私はそれに依存してしまうことを好まない。

 大切なものは私のうちにあると言うことで活きたいのである、事実そうであろう。

 体幹トレーニングと言う抗生物質ですべての根源を無くしてしまいたいのである。

 だが、実際の抗生物質は他の必要なものまで無くしてしまうこともあるが、体幹トレーニングは違う。

 抗生物質には副作用もあるが、体幹トレーニングには徳でしかない、漢字の違う福作用があるのです。

 まず身体が疲れづらくなったこと、そして、二日酔いになりにくくなったこと、お腹まわりが綺麗になっていたことなど嬉しいことがあるのだ。

 二日酔いになりにくくなったような感じはしていたが、ほんとうにそうなのか、この土日でそれを気にしながらいつもよりもちょっと飲んでみたが、やはり次の日の朝が以前に比べるととても楽になっていた、やはり、気の所為ではなかった。

 山谷で会うクロードアンヌも体幹トレーニングを続けている。

 先週彼女に会うと彼女も言っていた「この前テニスをしたんだけど、今までより身体が疲れなかった」と、そして、「腹筋も引き締まってきた」とお腹をさすり、とても喜んでいた。

 こうしたトレーニングが身体の変容を目的とされるものではあるが、それには心がついていくことがやはり望まれるのである。

 そして、その相乗効果の実感を実経験すればするほど、毎日の生活の彩りのプラスアルファも増していくように思えてならない。

 信じる者は救われると同時に切なる努力が必要なのである。

 

やっぱり。

2015-02-15 18:58:07 | Weblog

 昨日の朝、新聞のテレビ欄を見ていると志村動物園の欄が目に留まった。

 そこには愛犬との別れなどがあったので、私としてはこれ見てはいけないものだと思った、絶対に号泣するから。

 がしかし、晩酌をしながらその時間になるとちょっと見てみようかと思い、見てみたがもうすぐさま号泣した。

 私の傍で幸せそうに寝ているあんを何度も撫でながらテッシュで涙を拭い、鼻をかみ、あっと言う間にテッシュの山を築いていた。

 「一分一秒でももっと傍に居たかった」との愛犬との別れを経験した山口氏の言葉はあまりにも哀しくあり、私も私のそれを考えざるを得なかった。

 多くの人が永遠の別れを経験してから、そのことの大切さ、かけがえのなさを思い知るが、しかし、実は生きている今こそがチャンスであり得るのである。

 一度なくなった人生をもう一度生きるが如く生きることこそ、人生の意味を深め豊かにするのである。

 わざわざ永遠の別れを経験してから知る必要もないのだが、そうしてしまう人間の弱さもあってしまう。

 がしかし、また永遠の別れの経験から生きてくるものがある、それは愛の過去は決してなくなることはないと言うことである。

 そして、それが自身の行動を軌道修正してくれるものになり得るのである。

 そして、それは亡くなった愛するものとともに生きることになり得るのである。

 愛するものがいまあるのであれば、取引などはせず、惜しむことなく愛を与え続けよう。

 その愛はブーメランのようにまたあなたに戻ってくるのである。

 今日はあんと天神山の自然遊歩道を歩いた。

 私もあんも喜びに満たされた気持ちの良い時を過ごせた。

 さて、外の風の音の怯え、隠れ家に隠れているあんを招いて晩酌をしよう。

 

ダニエル。

2015-02-11 12:45:12 | Weblog

 ダニエルは今フィリピンにいる。

 そこで彼はどうしているだろうか?

 元気にしているだろうか?

 彼は私にカテキズムを通して、いや、それだけではない、日々の山谷での行い、おじさんたちとの接し方において、神の揺るがない愛を丁寧に教えてくれた神父であり、今はMCブラザーであり、私の兄弟である。

 彼がザビエル会を辞め、MCに入ることを決心し、それをみんなに告げた後に私にメールをくれた中に下記のある聖人の言葉を送ってくれた。

 
 「司祭とは誰でしょうか?

 司祭とは… 小さきものであると同時に大いなるものでもなければならない。

 王の血筋を引くかのように霊的な気高さを持ち合わせながらも、農夫のように素朴で自然でなくてはならない。

 自分自身に打ち勝つ英雄であるとともに、神(からの試練)に対して戦う人間でもあり、

 聖化の源であるとともに、神にゆるされた罪人でもあり、

 自分の願望をコントロールしつつ、力のない人や弱い人に仕えるものであり、

 力ある人々に対しては屈服せず、貧しい人々には身をかがめるものでなければならない。

 主の弟子であると同時に、自らの群の牧者でもあり、

 物を乞う人のようにその両手を大きく広げながら、多くの恵みを届けるものでもあり、

 争いの場では父であると同時に、病む人を慰める母でもあり、

 歳を重ねた者の知恵とともに、子供のような信頼を持ち合わせ、

 大地をしっかり足で踏みしめながら、天を見上げるものでなければならない。

 幸せになるために創造されながらも、悩みについても熟知していて、

 妬みからは遠く離れながら、遠くを見据え、

 怖れずに語りながらも、平和の友であり、

 無関心の敵であるとともに、いつの時も忠実であり…このように今の私と異なる者にちがいないのである!」


 この文章を読みながら、私はダニエルを思う。

 私の兄ダニエルも神さまにNOと言えない素晴らしい人格者であることを。

 ダニエルが山谷に居なかったならば、私は洗礼を受けようとも、もしかしたら思わなかったかも知れないほど、私にとってダニエルはかけがえのない人である。

 改めて思う、すべては神さまの計らいに違いないことに感謝しきれないのである。

 私は胸に手をあて、彼をひたすらに思う、そして、祈りににじむように彼のあたたかな愛情深い姿を思い浮かべる。

三月のライブ。

2015-02-10 11:48:37 | Weblog

 三月のライブは11日水曜日になった。

 なのでこれからライブまでの一ヶ月間は歌の練習をしなくてはならない。

 忙しくなるのでなかなかブログも書けないことがあると思います。

 腰痛は体幹トレーニングのおかげで少しずつ軽減されている感じです。

 体幹トレーニングが歌うこと、発声にどのように影響するのかも何気に期待している。

 トレーニング中の呼吸ではお腹を意識し横隔膜を上げたり下げたりし、息を吐き出したりしているので、これはもしかすると歌うことにも良いのかも知れないと思えたからである。

 山谷ではクロードアンヌも早速長友選手の体幹トレーニング20を購入しトレーニングに励んでいるとのことだった。

 彼女はセブンイレブンで本を見つからず、わざわざアマゾンで購入したとこのこと、その本気度が伺えた。

 彼女の息子ロマンももしかすれば体幹トレーニングをするかもしれない、なぜなら、ロマンも長友選手と同じ腰椎分離症を持っているからである。

 良い知らせは皆に伝えることが望ましい。

 今日はこれから歌の練習をして仕事に行くので体幹トレーニングする時間はないがストレッチだけでもして仕事に向かいたいと思っている。

 あんは幸せそうに昼寝している。

 

命の重さ。

2015-02-09 12:39:17 | Weblog

 土曜日の炊き出しで酔ったおじさんが二個目のカレーをもらうためにもう一度カレーの列に並ぼうとしたところ階段から転げ落ち鼻をぱっくりと切った。

 救急車に乗せやすいところまで歩いてもらう途中に便をもようし、ズボンの片一方の裾から便が落ちてきて、その便が脱げた靴の中に溜まった。

 それをまじかで見ていたブラザーノアスはまず彼の二枚はいていたズボンを脱がせ、便の着いた下着を脱がせてから、また二枚のズボンをはかせた。

 ボランティアの一人が便の溜まった靴を簡単に洗いに行き、救急車を待った。

 彼は申し訳なそうに鼻を押さえているだけだった。

 酒に酔ってはいたが彼は暴れるようなタイプではなく静かにしていた。

 彼がどこでどのように酒を飲んでいたのかは分からないがつまみなどは食べていなかったのだろう、酔っていたが空腹に苛まれていたのである。

 彼はたぶん入院などはさせてもらえないだろうが、しかし命に別状がなくて良かったと彼を救急車に乗せた後、私はノアスと話した。

 ノアスは火曜日に救急車で病院に運んだ鳩のおばちゃんのことを教えてくれた。

 鳩のおばちゃんとは浅草の公園に住む、鳩にご飯をあげながら生きているおばちゃんのことでブラザーや私たちボランティアは彼女のことを鳩のおばちゃんと呼んでいた。

 三日間ブラザーたちは彼女の姿を見せなかったが火曜日に公園で死にかけている彼女と会った。

 すぐに救急車を呼び病院に搬送された。

 医者いわく、もう一時間遅ければ鳩のおばちゃんの命はなくなっていたとのこと、体温は27度だった。

 もう三年前になるだろうか、同じように路上で猫と暮らしているおばちゃんがいた。

 彼女の体調はまったく優れなかったが猫のことが心配で病院に行くことを拒否し続け、そのまま路上で亡くなった。

 命の重さなど誰にもはかることが出来ないだろうが、その不条理を忘れず、向き合うことに諦めを覚えず、ただ神さまのために美しいことをし続けていくことにより愛の意味を深められ、その意志は暗闇の中であれ光りを放つのだと私は感じる。

原稿。

2015-02-08 17:03:15 | Weblog

 私の行っている調布教会にはシャロームと言う月刊の機関誌があり、その編集をしている人にマザーハウスでの洗礼のことを数回にわたり書いてほしいと頼まれたので今日手始めに書いてみた。

 まだ締め切りまで日にちもあり手直しもするが良かったら読んでください。


 「マザーテレサの導き」

 私は93年3月にカルカッタ{現コルカタ}のマザーハウスに行くまでマザーのこともキリスト教のこともカトリックがどういうものかも何一つ知らなかった。ましてやボランティアなどしたこともない、その真逆を生きるような男だった。その私が昨年1月28日マザーハウスでシスターたちやボランティアたちに祝福され洗礼を受けた。私に洗礼を授けてくれたのは私の親友であるオーストラリア人のFrジョンであり、代父はアイルランド人のジム、代母はニュージーランド人のジョアンだった。皆ともにボランティアをした私の家族のような人である。洗礼式では満面の笑みを携えたマザーがいたように思えた。私には一つの確信がある、それはマザーが私に神さまを教えてくれたと言うこと。
 
 これから数回にわたり、私が授かったマザーの導きを書いていきたいと思います。この機会を頂いたのも書くことにより私自身を見直すようにと神さまの計らいだと感謝しています。駄文ではありますがどうかよろしくお願いします。
 
 「あなたはなぜカルカッタに行ったのですか?」と良く聞かれることがある。私はその度こう答える。「女にフラれてインドに行ったんです」と。事実その当時は傷心だった。何よりも私は自分自身を見つめ直したい思いがあり、そしてバナナシィに行ってガンジス川で朝日を見ながら沐浴して今までの罪を流したい思いがありました。日本人からしてみればマユツバではないかと思うことかも知れませんがインド人には大真面目な話でバナナシィはヒンドゥー教徒の聖地です。罪が流れるものであれば、私も流してみたいと正直思ったものです。しかし、これと言った計画を立てていた訳ではなく、飛行機の中で知り合った日本人たちがマザーのところに行くと言うのでこれも何かの縁だと思いついて行くことにしました。
 
 初日のカルカッタはカオスそのものであり、何もかもが衝撃的だった。道を歩けばすぐにドラッグの売人が何メートルも私についてきた、これにはほとほと困り、日本からの旅の疲れを倍増させ、どうしてこんなところに来たのかと早くも後悔の念に苛まれた。
 
 翌朝初めてマザーハウスに行き、そのままプレムダン{愛の贈り物と言う意味}にボランティアに行った。疲れの取れぬままに何が出来るのかも分からず緊張のうちに向かった。プレムダンの周りは異臭漂うスラム、高い塀に囲まれた施設の中には大きなヤシの木が見えた。大きな鉄門をくぐり中に入れば、そこは別世界だった。患者たちが私がそれまで見たことのないような満面の笑みで迎えてくれたのである。私は一瞬にしてその笑顔に魅了された。
 
 私は毎日喜びの内に一生懸命に働いた。洗濯掃除を微笑みながらした。海外の友達もすぐに出来た。その中でもカナダ人のダン、アンとはいつも一緒にいた。私にとって初めての海外の親友と言っていい二人だった。彼らは本当に優しかった。日本人には限りなくYesに近いNoがあり、またその逆もある、時に曖昧な答えしか伝えることが出来なかった英語が不自由だな私だったにも関わらず、二人はほんとうに仲良くしてくれた。私は彼らとの出会いを通して地球に生まれたことを感謝したくらいだった。
 
 プレムダンでのボランティアは想像を遥かに超えて喜びに溢れ楽しかった。ある時私が気が付いた。それは昨日まで何も食べることが出来なかった年老いた患者がその日私からスプーン一杯の食べ物を食べてくれたことに物凄く嬉しくなっている自分が居たのである。私は思った「お前は誰なんだ?」私は私の知らなかった私に出会ったのである。それは今まで愛すると言えば可愛い女の子だけのようなところがありました。しかし私は死の近い目の前にいるこの老人を心の底から愛おしく思えたのです。これはマザーがくれた私への愛だと信じて疑いませんでした。私は感動のあまり泣きながらボランティアをしました。そして私は今までのすべてのものにまで感じたことがない感謝せざるを得ない思いに包まれ、私が私として生きてきたことに全肯定出来たのでした。20年以上たった今でもその時の思いは決して消えることがなく、私の内に色鮮やかに在り続けている。