カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

教え方。

2018-03-28 13:22:26 | Weblog

 先週の土曜日は山谷に初季ちゃんとバタコさんを連れて行った。

 初季ちゃんは4月から看護大学に行く18歳の女の子で、これで会うのは三度目だった。

 バタコさんから初季ちゃんがインドに行きたいのでいろいろとアドバイスをしてほしいと紹介されてからの付き合いである。

 初季ちゃんは二度目の山谷だった、炊き出しが配られる白髭橋では私とともに歩き、おじさんたちに挨拶して回った。

 まず三人でカレーが配られるのを待つおじさんたちに挨拶をしていった。

 一番最後まで挨拶をし終ってから、先週の土曜日に山谷に来た医師のヒデ君の話しをした。

 「彼はね、この最初のおじさんたちへの挨拶でかなり疲れたと先週言っていたよ。いろんな人たちと会って来たけど、炊き出しに来る人たちの視線と言うか、エネルギーと言うか、そうしたものを強く感じて疲れてしまうとね」

 初季ちゃんはまだそうした感覚を感じる自己の全体性を客観的に見ると言うことをこれまで考えたこともなさそうな表情で私の言葉を受け取った。

 私はヒデ君のように自分がどう感じ、どう影響を受けているかを知っていた方が良いと思う、そこには自己の精神衛生を正常に保つ鍵があるだろうし、無理をしていることに気が付きやすいと思えるからである。

 18歳の初季ちゃんには何をどう教えたら良いのだろうかと私は考えながら、彼女と一緒に歩き、おじさんたちに声を掛けて行った。

 一人の年老いたおじさんが背中を丸めながら小さくなってカレーを食べていた、彼女にとってはおじいちゃんのようなおじさんだったろう、その彼に私は彼女に声を掛けてみたらと言った。

 彼女は一瞬戸惑いながらも、ちょこんと彼の真正面に座り、いきなり「どこから来たんですか?」と言った。

 おじさんは無言だった、彼女を見もしなかった。

 それを見て、私はすぐ「カレー美味しい、ゆっくり食べて」と彼の肩に手を置いて言った。

 それでも彼は私たちの方を見るために顔を上げることをしなかった。

 まずかったかなと思ったが、私たちが立ち上がり、去ろうとした瞬間になって、笑顔を見せ「ありがとう」と言った。

 おじさんたちにどう声を掛けて良いのか、分からないと初季ちゃんは言った、それは当たり前のことである、18歳の女の子が炊き出しに来る人たちと上手に会話出来る訳はない、いや、ないことはないかも知れないが、それは年齢に関わらず、とても難しいことである。

 私は「失敗しながら覚えるんだよ。自分も良く失敗してきた。でも、やればやるほど、辛いことだけど、自分の至らなさや汚さ、弱さ、狡さが分かって来てね。丁寧にしようと思うようになったよ」と彼女に言った。

 彼女は「テツさんのおじさんたちとの話し方を見て、こうやって話すんだと思いました」と言った。

 言葉よりも行いを観てもらうことがやはり何よりだと思った、これはカルカッタでも同じだった、その日々をも私に思い出させた有り難い暖かな春の日だった。


 
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パセリとペパーミント。

2018-03-27 12:03:32 | Weblog

 金曜日は朝一番に近所のホームセンターのなかにあるトリミングの店に行き、あんの爪切りをしに行った。

 もう歩いてホームセンターには行けなくなった、と言うのは、あんはすぐに気が付く「あの爪切りに行くのね、嫌だァ!」とホームセンターまでの道のりの半分も来ないところから引き返そうとしたり、あんなりの地団駄を踏んだり、終いには抱っこをしなくては行けなくなってしまったからである。

 それから車で行くようにしているが、あんはその車からも出たがらない次第である。

 が観念して、車を降り、そしてカートに乗せられるがブルブル震え始め、自慢の尻尾はだらんと垂れていた。

 しかしこの日は良かった。

 いつもあのトリマーさんが切ってくれると良いなと期待していた、一番上手いトリマーさんがあんの爪を切ってくれた。

 爪を切る前にあんをなるべく安心させてくれていたのだろう、声を掛けていたその姿を私は外から安堵しながら見つめていた。

 私はあんのドキドキを私のうちに感じながら、あんを見たり見なかったりしながら、終る時をただ待った。

 あんは怯えながらも良い子で爪を切ってもらった、部屋から抱っこされて出て来たあんは自慢の尻尾をいつものようにくるりと巻き上げていた。

 「今日は少しだけ後ろ足の爪を切る時にワンワン言いましたが、あんちゃんは噛まないことが分かっているから安心です。柴犬はパクッと噛む子が結構いるんです」

 「そうですか、そうですよね。大変ですよね」

 確かにそうだ、噛む犬もいるだろう、そして噛まれながらも爪は切らなくてはいけないのだろう、やはりトリマーさんも大変な仕事だとつくづく思った。

 ちなみにこのトリマーさんは私の同級生の娘さんである、ほんとうに親しみやすい可愛らしい子で会うと気持ちが良くなる、きっとそれはあんも同じだと思う。

 爪切りの拷問から解放されたあんはもう意気揚々であった、しおれた尻尾はその記憶すらもうないかのようであった、それを私自身も感じた。

 天気良く暖かな春の陽射しを浴びている、意気揚々のパセリとペパーミントの苗が目に映った。

 「鉢植えにしよう」と思い、それを買って帰った。

 いまもベランダで二つの鉢をぼんやりのんびり眺めながていた。

 なんとも気持ちが良いのである、春をみんなで愛でているようで。


 
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初めてのカルカッタ。その3。

2018-03-22 11:44:06 | Weblog

 ダンは誰とでもすぐに友達になれる明るさと社交性を持ち、良く笑う男だった。

 アンは赤毛のアンのような活発さはないが、いつも静かに微笑んでいるような女性だった。

 ボランティア後もいつも彼らが泊まっていたホテルマリアに行き、テラスで誰かが持っていたギターを弾いたり、歌を歌ったり、ビールを飲んで過ごしていた。

 私の英語の不自由さはいつでも付きまとっていたが、それでも、嫌な顔一つ見せずに彼らは私の不安を取り除き、私と付き合ってくれた。

 ボランティア以外の時間も私にはすべてが真新しい体験であった。

 私の滞在の最後の夜、二人は私のためにお別れパーティーを開いてくれた。

 ホテルマリアに居たボランティアではなかったが、ダンと私とも親しくなった長髪のヒッピーのような姿をした男性は私のためにケーキを用意してくれた、そのケーキには日本語で「ありがとう!テツ」と書いてあった。

 彼はケーキ屋の前で、そこを通る日本人に声を掛け、日本語のメッセージを書いてほしいと頼み続け、不審者のようにも思われたと笑って言っていた。

 パーティーには50人ぐらいの人たちが来てくれた、もちろん、その中には声も掛けたこともないボランティアもいたが、私はそれまで味わったことのない幸せを全身で味わった。

 私は泣けた、去る寂しさとここに来れた喜び、出会いのすべてに感謝し、泣けた。

 当時22歳だったが、私は今まで生きて来てほんとうに良かったと思えた、それまでの私を私が全肯定が出来た、私は私で良かったと、心の底から思えた感動の日々だった。

 プレムダンではこんなことがあった。

 私は老人の患者の食事介助していた、その患者は前日まで何も口にすることが出来なかったが、ある日、私が口元までスプーンで食べ物を持って行くと、それを食べてくれた、その瞬間である、私は嬉しくて嬉しくてしょうがなくなった。

 患者が一口の食べ物を食べてくれただけで、なぜ私はこんなにまでも喜んでいるのか、分からないくらいに喜んだ。

 私はその時、「お前は誰?」と聞きたくなるくらい、私の知らなかった私に出会えた。
 
 それまで好きになるのは可愛い女の子ぐらいだと思っていたが、私がこの患者に抱いていたものは間違えなく愛だった。

 それに気付いた感動も決して忘れられない、自分の知らなかった自分に出会えた感動も決して忘れられない。

 あの最初のカルカッタ滞在の比類ない感動が私のターニングポイントになったことに違いないのである。

 

 
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初めてのカルカッタ。その2。

2018-03-21 12:15:35 | Weblog

 いろいろとあの当時のことを思い出す、それときっと記憶の層の底に埋もれ、思い出せないものがあることも感じている。

 思い出せることを書き表すのもかなり時間が掛かるだろう、しかし、あの最初のカルカッタ滞在で、自分が生まれ変わったかのような感動、自分の知らなかった自分に出会えた奮えるほどの真新しい感動がなければ、私はそれ以後、何度もカルカッタに向かうことはなかっただろうことだけを書いて見よう。

 私はボランティアなど、それまでしたことがなかった。

 私に出来ることと言えば、掃除や洗濯ぐらいだろうと思っていた。

 初めてプレムダン{愛の贈り物と言う意味のマザーテレサの施設}に行った時、患者たちが私がそれまで知り得なかったような愛情深い笑顔で握手を求め来た。

 どうしてそんな笑顔が出来るのか、それが分からなかった、命の喜びや愛情が溢れ出している柔らかい笑顔、見たこともなかった素敵な笑顔だった。

 その前日、私はドラックの売人に通りで付きまとわれて、ほんとうに嫌な思いをした、それが一瞬にしてすべて消え去った。

 私はとにかく一生懸命に働いた、プレムダンでの掃除や洗濯は想像していた以上に体力的にもとてもきつい仕事だった。

 だが、ヨーロッパのボランティアはとても明るく陽気にその仕事をこなしている、その姿にも私は感動した。

 喜んで、それをしていたのであった、そこら中に笑顔が咲き乱れていた。

 ボランティア後はくたくたにもなったが、爽快感も残った。

 それから、今ではどうして仲良くなったのか、思い出せないが、カナダから二人で来ていたダンとアンと仲良くなり、ほかの数人のボランティアと昼食も一緒に食べた。

 それまで外人の友達など居なかった、外人に道を聞かれても逃げてしまうような私だったが、ほんとうに不思議なくらいダンとは気が合い、肩を組みながら、灼熱のホコリ舞うでこぼこのカルカッタの道を一緒に歩いたことは鮮明に記憶に残っている。

 今でも英語が上手いとは到底言えない私であるが、当時は悲惨なもので、会話にも苦労したが、この世界には言葉を超えた所で通じ合える人たちがいることを初めて知った。

 {つづく}
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初めてのカルカッタ。

2018-03-20 11:27:12 | Weblog

 25年前、私はカルカッタに行った。

 それが最初のカルカッタ滞在であった。

 その時、とても仲が良かったアンが25年ぶりにフェイスブックを通して連絡をくれた。

 これを機会に少しあの当時のことを思い出してみようと思った。

 あの最初のカルカッタ滞在がなければ、いまの私は居ないのである。

 私は当時マザーテレサもカトリックのことも何も知れなかった、ましてやボランティアなどするような人間ではなかった。

 もちろん、今でもはた目から見れば、と言うか、私の外見はボランティアをしている人には見えないだろう、頭はスキンヘッド、春になれば、下駄を履いている。

 しかし、そんなことはもはやどうでも良い、私の勝手な思い込みでもあるし、外見云々を言うのはつまらないことであり、それがボランティアとは関係がないことが、今の私にはよく分かって来た。

 今はもうない成田からカルカッタに向かうビーマンバングラディッシュ航空で向かった、シンガポール、バンコクで止まり、ダッカで一泊してから、カルカッタに向かう長い道のりだった。

 そのダッカで日本人が5人いて、そのうちの3人がマザーのところの行くと言うので、バナラシに行きたいと思っていただけで何の計画も立てていなかった私は彼らに付いて行った。

 カルカッタの街は見る物すべてが衝撃的だった、インド人の顔、服、匂い、音、道、物乞い、街並み、私はそこに立っては居たが、何か夢のなかを歩いているような実体感が無かった。

 にも拘らず、少しずつ、その場に順応して行ったのも不思議な感じがしたのを覚えている。

 {つづく}
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Very good。

2018-03-19 11:52:45 | Weblog

 昨日シカゴの神学校に通っているケンがメールでこんなことを書いて来た。

 「昨夜部屋の前の通りから銃声が聞こえた。一人殺された。自分は部屋の窓から警察や救急車を見た。今朝ミサのあと、その場所に流れた血を見た。シカゴは{私の地元のニュージャージーより}とても危険である。こんなに近くで銃声を聞いたのは初めてだった。昨夜はとてもショックだったが、今朝流れた血を見た時、あまりショックを受けなかった。It was strange」

 このstrangeとはどういった思いだったのか、どう訳せば一番いまのケンの心境に近くなるのか、はっきりとは分からなかったが私はこう返信してしまった。

 「その瞬間ではなく、すべては終ったから」と。

 人間はたぶん激しい音の銃声でも恐怖心を十分に感じるだろう、だが、その瞬間が去り、決して元に戻らないものがあることを目の当たりにすることにより、恐怖心・パニックの次に来るもの、本能的に怒りを含んだ諦めに似たものを感じるのではないかと言うような思いで返信したが、たぶん、これは的外れの返信になったのではないかと送った直後から、私は感じた。

 ケンと目の前で話すことが出来たなら、何かもっと的に近いものを差し出すことも可能だったかも知れない、心理的なことはメールで伝えることが日本語でも十分難しいことも知りながら、それに私の英語が上手くないことも不甲斐無さを私自身にいっそう感じさせた。

 しばらく経ってケンは「アメリカはクレイジーな国だ」と書いて来た。

 私はケンがやはりショックのあまりに自らを含めた自国の全否定と言う心理になり、重苦しい顔をしているように思えたので「銃に関しては」とだけ返信した。

 「そうだね、たぶん、昨夜の事件はドラックが関係していると思う、私が毎日通る道で」

 一度目の失敗を考え、少し間を置き、私はケンにこう返信した。

 「私は山谷{ケンが日本に来た時に二度ボランティアに連れて行っている}では行き倒れて死んだ人の場所、ホームレスが自殺して亡くなった場所を通る時は胸に手をあてて祈る」と。

 「Mmm Very good」とケンから返事だった。

 英語を話す友達が居る人なら、この「Mmm」が何となく分からるだろう、ケンのこれは苦悩の底から縛りだした納得のため息のようなものであろう。

 最後のケンからの「Very good」に私自身も少し救われた思いになったが、その後、私の身体は重たかった、それはきっとケンがいま感じているものに近いのではないかと思った、ケンが私にわけてくれた苦悩であろうと感じた、十字架は一人で背負っているのではない、今度は沈黙のうちにそれを感じながらケンのために祈った。


 話しは変わるが今日は聖ヨゼフの祝日である。

 1949年の今日、二月の終りに一人でクリークレーンのアパートに住むようになったマザーテレサの所に一人の教え子が来た。

 マザーはその教え子に聖ヨゼフの祝日に入会するように伝えた。

 シスターアグネスの誕生である。

 マザーはこの日、どんなに嬉しかったことであろうか。

 私はコルカタでこの日を迎えるたび、駅の仕事に向かう前に一緒に働くボランティアたちにこのことを話した。

 今日はマザーから喜びをわけてもらおう。
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25年ぶり。

2018-03-15 11:55:23 | Weblog

 昨夜フェイスブックに25年前、私の最初のカルカッタ滞在時にいつも一緒にいたフレンチカナディアンのアンから友達申請とメッセージが来た。

 当時アンは彼氏のダンとボランティアに来ていた。

 私はダンととても気が合い、朝も一緒にマザーハウスに行き、ボランティア後も一緒にいた。

 アンとは何度か手紙のやり取りをしたが、いつの間にかに、それは途絶えていた。

 メールも何もない時代だった、今のようにネットが容易に使えていたら、連絡を取っていたかも知れない。

 しかし、こうして25年ぶりに連絡が来るのが信じられない、ほんとうに嬉しい。

 あの最初のカルカッタ滞在のプレンダンでの人生初めてのボランティア体験がなければ、今の私ではなかった。

 またゆっくりとあの時のことを書きたいと思う。

 {つづく}
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春の散歩。

2018-03-14 11:43:22 | Weblog

 私はこの時期の散歩が大好きである。

 暖かな陽射しが優しく降り注ぎ、寒さから解放された私の肩は自然とゆるみ、森羅万象が春の訪れをいっせいに喜んでいる、その声まで聞こえてきそうな陽だまりを歩くのが何とも言えない心地好さを与えてくれた。

 昨日ブログに書いたことと同じように、私も少し照れ笑いをしながら、神の愛に満ちているとでも言いたくもなった。

 今日は三沢川の方にあんと散歩に行った。

 すると、あんと同じ黒柴のバイク{男の子・柴犬}に会った。

 バイクはおじいちゃんと一緒に散歩していた。

 バイクはあんに気が付くと、後方から来るあんと私の方をずっと見ながら、おじいちゃんに引きずられるように歩いていた。

 だが、あんは何事もないようにトコトコと歩いていた。

 バイクは右後ろを見る体勢から、左後ろを見る体勢へと交互に身体を動かして歩いていた、その間おじいちゃんはバイクのそれには無関心のように我が道を歩いていたが、バイクのその歩き方は何とも愛らしかった、きっとあんと遊びたかったのだろう。

 途中離れ離れになり、違う道は通ったが三沢川でまたバイクに会った。

 三沢川まで来て一息いれたのだろう、そこでやっとおじいちゃんは私に挨拶をした。

 おじいちゃんは近くで日向ぼっこをしていたおばあちゃんと大きな声で話していた。

 少し離れても二人の声は聞こえた、二人は耳が遠いんだと私は思った。

 途中、花びらを落し始めたアンズの写真をバックが青空だけになるようなアングルで撮った。

 帰りアリ{柴犬}ちゃんのおばさんに会い、あんは喜んでいた。

 それから、車の塗装の準備をしていた石坂に会い、あんは撫でられた。

 何とも気持ちの良い散歩だった。

 何気ない日々の始まりだが、それはいつもかけがえのない一日であると思えた。
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神の愛。

2018-03-13 11:46:02 | Weblog
 
 カレーの炊き出しを配り終えた後、いつものようにカレーを食べているおじさんたちに声を掛けて回った。

 一人のおじさんがカレーを食べずに一人でぽつんと座り、寂しそうにしていたので声を掛けた。

 「カレーは後で食べます」

 「そう、じゃ、後でゆっくりと食べて。どうかしたの?」

 「いやね、縄を見つけて、それで首をくくろうかなって思ってさ。でも、その縄を持って仕事に行っちゃうかな」

 と嘘とも本当とも言えぬ微妙な笑みを浮かべ、彼は言った。

 「そうなの、まぁ、まぁ」と私は彼の肩にゆっくりとなるべく優しく手を置いた。

 「ありがとう」と言った彼の顔は皺くちゃなり、一重の目がいっそう細くなっていた。

 それから、私はその場所を離れた。

 帰りにまたその彼に会った。

 彼はゴミ捨て場に居た。

 そこで分別をされていないゴミを一人で分けていた。

 彼は笑いながら言った「オレは神の愛に満ちているから」と。

 一瞬何を言い出すのかと思いもしたが、私は即座に「そうだね、おじさんは神の愛に満ちているね」と答えた。

 「そうだ、オレは神の愛に満ちている」と言い、また両手を動かし始め、ゴミの分別を始めた。

 誰のためでもない、誰に褒められるためでもない、誰にも認められないかも知れない、しかし、神さまはそこに居て、彼の行いを喜んでいたと思った。

 彼は孤独であるだろうが、彼のうちにいる神さまは彼を孤独にはさせないことを目の当たりにした気がした。
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Bettyから。

2018-03-12 11:58:08 | Weblog

 昨日は私の誕生日だった。

 いろんな人たちが祝いのメッセージをくれた、その一つひとつが私のために時間を割いてくれたことであり、感謝の思いに私を包んでくれた。

 人からのメッセージをそのまま載せるのはどうかとも思うが、すでにフェイスブックでは載っているものなので良しと考え、ここにメキシコのBettyが送ってくれたものを載せてみる。

 彼女はマザーテレサの列聖式で使われた絵と一緒にこんなメッセージをくれた。

 My dear friend! I hope this birthday could be all for Jesus and Mary... Mother and Kolkata changed your life and you changed mine with your lessons and example. Thank you, thank you, thank you very much for being my teacher in the service of Jesus in the poorest of the poor! Big hugs and blessings Tetsu. Still growing to the holiness。

 私がコルカタを去る時、一番長く滞在するのがまだ21歳の彼女だった。

 一ヶ月間彼女と一緒に働いたが駅の仕事のすべてを教えることなど不可能だった。

 昨年三月半ば、路上から患者を施設に運ぶのにとても難しい状態になった。

 私は残された彼女がこれから苦しむことは目に見えるようだった、それを思うと、涙も出てきたが、その涙は誰にも見せなかった。

 それでも何も出来ないのではないと私は私に言い聞かせた。

 私には彼女のために祈ることが残されていた、神さまに彼女を見守ってくれるように祈ることが残されていた、その時のことが上記の彼女のメッセージから思い出された。
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