カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

計らいとして。その2。

2020-12-30 12:39:08 | Weblog
 白髭橋まで来ると、道路の反対側にはすでに数台の消防車があり、警察車両もあった。

 警察官や救急隊員が慌ただしく走り回っていた。

 ヒデ君が「Tetsuさん、ちょっと見て来ます」と言い残して、さっそうと走り出した。

 私はそう言えば、こうした時、救命医は活躍するんだと実感した。

 どこかテレビドラマのような光景だった。

 現場に向かって走り去って行くヒデ君の後ろ姿がカッコよく見えた。

 飛び込み自殺があった場所は橋の真ん中ではなく、南千住寄りの隅田川の端のようだった。

 すでに警察がテープを貼り、歩行者を通行止めしていた。

 私が歩いていた反対側の道路には野次馬が集まっていた。

 そのなかに私も加わった。

 ヒデ君はすでに警察官と話しをし、また水面を覗いたりしていた。

 橋の上には身体を吊り上げる装具が設置されていた。

 すでに飛び込んだ人は発見されたようだった。

 いっそう慌ただしく走り回る救急隊員の姿から、辺りの緊張感が高まってくのが道路挟んだ反対側まで伝わってきた。

 私自身も緊張してきた。

 橋の上にゆっくりと濡れた身体が上がってきた。

 固まった身体から冷たい水が滴り落ち、水面に戻っていく様は、それを見る者をも冷たくさせていたに違いない。

 私の知っている人なのか、どんな表情をしているかまではまったく分からなかった。

 気が付くと、すぐにヒデ君が心臓マッサージをしていた。

 たぶん飛び込んでから30分以上はすでに経っていると思う。

 ヒデ君は命を救おうと必死に働いていた。

 私は野次馬のなかで祈っていた。

 私の正面には青空のなかに綺麗にスカイツリーは立っていた。

 {つづく} 

計らいとして。

2020-12-28 11:28:03 | Weblog

 先週の土曜日は山谷のクリスマスだった。

 3年ぶりに救命医としている友達のヒデ君がボランティアに来た。

 例年は施設で行う山谷のクリスマスとは違い、コロナ禍の今年は毎週土曜日にカレーを配っている白髭橋でクリスマスプレゼントを配ることになっていた。

 私とヒデ君は一足先に二人で歩いて白髭橋に向かった。

 コロナ禍の今年を振り返りながら、またヒデ君の働く病院のことなどを聞きながら、白髭橋に向かった。

 とても天気が良かった。

 白髭橋に着くと、ヒデ君は「Tetsuさん、ちょっと写真を撮って良いですか?」と言い、白髭橋の看板をメインにし、白髭橋を撮った。

 「一緒に撮りましょう」とヒデ君が言うのでは、その看板とスカイツリーが映るアングルで私たちはマスクをしたままで写真を撮った。

 カレーを配る、いつもの場所にはやはりいつもよりも多いおじさんたちが集まっていた。

 そこにはクリスマスと言うことで久しぶりに来るおじさんの顔がいくつも見えた。

 向こうから私に声を掛けてくれるおじさんも何人もいた。

 また来ていなかったおじさんたちもいた。

 彼らがどうしているのかを心配した。

 一人ひとりのおじさんたちの顔を可能な限り記憶に留めようとし、彼らの無事を願い、祈りのなかで、私は何回言っただろう、「良いお歳を。来年もよろしく」と。

 一人ひとり違う、その答え方を私は有り難く頂いた、それが私のかけがえのないクリスマスプレゼントであった。

 あっという間に終わった。

 私はヒデ君と白髭橋の方へ歩き始めると、隅田川の反対側を白髭橋方面に消防車が走って行った。
 
 白髭橋の袂には何人か救急隊員が隅田川に方に降りて行くのが見えた。

 ヒデ君が「ボヤですかね?」と言った。

 私は「たぶん飛び込みだよ」と答えた。

 その場所は以前も白昼に飛び込み自殺をした人がいた場所であった。

 隅田川の橋の下にはすでに赤橙を付けたボートがあった。

 それを見て、私たちは確信した。

 誰かが飛び込み自殺をしたんだと。

 {つづく}
 

レモン塩。

2020-12-24 11:34:26 | Weblog

 昨日、初めてレモン塩を作った。

 今年は家のレモンがけっこう豊作だったので、すでに8リットルのブランデーベースのレモン酒も作っていた。

 レモン塩はネットでいくつもレシピを読み、動画を見て準備をした。

 容器を煮沸したり、切ったレモンの種をしっかりと取ったり、塩はレモンの30%くらいだとか、いろいろとレモン塩の知識を増やし、美味しくなることだけ想像しながら作った。

 私は塩の焼き鳥にレモン塩を付けて食べるのが好きなのだが、私のレモン塩でそれはいつ出来るのだろうか、今から楽しみである。

 先ほど、レモン塩を瓶を振ってみた。

 これはしばらく毎日しなくてはならない。

 レモンに塩をまんべんなく行き届かすためである。

 私はこの行為を一種のまじないだとすでに思っている。

 「美味しくなれ~!」のまじないだと。

 私は喜んで、このまじないをこれからもしていくことだろう。

 喜んでやることに意味がある。

 可能な限りすべてのことに置いて、喜んでやりたいものである。

 もし喜んで出来ないものがあれば、それを素直に認めて行こう。

 そうすれば、それすらも喜んでやろうと試みる意志を生まれるのではないだろうか。

 今日はクリスマスイブ。

 仕事が終わってから深夜のミサに行こうと思う。

 喜んで、喜んで。

 メリークリスマス!
 

山谷のクリスマスの準備。

2020-12-22 12:58:17 | Weblog
 
 先週の土曜日は白髭橋でのカレーの炊き出しを終えてから、クリスマスプレゼントのパッキングをした。

 MC{マザーテレサの修道会の略}ブラザーの施設で約450人分のプレゼントを用意した。

 その中身は下着、肌着、靴下、手袋、ホッカイロ、カップラーメンなどである。

 まず身体の小さいおじさんたちのためにサイズM{その後にサイズL}から作り始めた。

 長テーブルにプレゼントをそれぞれ置き、流れ作業で作っていった。

 私は手袋を入れていた。

 右隣にはフランス人の女の子がカップラーメンを入れ、私は最後にビニール袋を軽く結んだ。

 それをフランス人の男の子がまた大きなビニール袋に入れていた。

 左隣にはフランス人の男性が私と同じように手袋を入れ、女の子にカップラーメンを入れてもらっていた。

 この日、フランス人の団体がボランティアに来てくれていた。

 毎年クリスマスのこの時期はフランス人のボーイスカウトの子供たちが来てくれていた。

 今年は流石にコロナで少なかったが、他のボランティアも少なかったので、彼らが来てくれてほんとうに助かった。

 勢い良く流れ作業は始まった。

 50個ぐらい作った時であろう、ブラザーマッカリオが毛糸の帽子を入れるのを忘れていることに気が付いた。

 しょんぼりの空気が一瞬漂ったが、すでに手遅れと言うことで当日にお弁当と一緒に毛糸の帽子を入れることにした。

 26日の当日にはお弁当、ビスケット、ミカン、コーヒーもビニール袋に入れて渡す予定である。

 また流れ作業は始まると、私は一種のゲームをしているような感覚になっていった。

 スムーズに、出来るだけ手早く、そして、少しカッコよく、隣のフランス人の女の子にカップラーメンを入れてもらっていった。

 そのゲーム感覚は私だけではなく、隣の女の子も同じだったと思う。

 彼女もなるべく手早くカップラーメンをビニール袋に入れるように狙いながら楽しんでいた。

 そしてたまにお互いの息が合わなく、カップラーメンがビニール袋からはじかれると、私たちはニコッとした。

 作業を楽しんでいたが、無心でもあった私に気が付くと、自画自賛ながら、「けっこう真面目に働いているなぁ」とも思ったりする瞬間もあり、またそれをクスッともした。

 いろいろと用意などをしたことも含め、二時間弱でクリスマスプレゼントのパッキングは終わった。

 毛糸の帽子を入れ忘れたことを除けば、無事に終わった。

 積み上げられたクリスマスプレゼントの山を見て、少しホッとし、このコロナ禍ではあるが、クリスマスを迎えられることを私は静かに喜んでいた。

マザーのサリー。その2。

2020-12-16 12:52:37 | Weblog

 私には鏡を使わなくても、私が満面の笑みを浮かべていることが分かっていた。

 私はベンガル語を話す時、決まって満面の笑みになるのであった。

 それはカルカッタの路上で瀕死の患者や貧しい人たちや子供たちに会った場合、必ず笑みを携えてベンガル語で会話をしていたからである。

 たぶん初めて会うのだろう、バングラディッシュから来たシスターも私の話すベンガル語を聞いて驚き微笑んでいた。

 ベンガル語を話す日本人を初めて見たのかも知れないと思った。

 インド人かと思ったら、ニューギニアから来たシスターも居た。

 このシスターはまだカルカッタのマザーハウスに行ったことがないと言ってた。

 もちろんマザーにも会ったことがない。

 このシスターのなかでマザーはどのように生きているのだろうか。

 このシスターはどのようにしてマザーに出会ったのだろうか。

 神秘に包まれた召命があったのだろう。

 そんなことをマザーのサリーを見ると瞳に映るもの以上のものを感じずにはいられなかった。

 シスターたちはインドのロックダウンの前にインドに戻ったダイスケ君のことを心配していた。

 ダイスケ君は今年の一月の終りだったと思う、インドのボランティアを終えて、ビザのために一度日本に帰って着た時、シスターのところを何度か訪問していた。

 私はダイスケ君から送ってもらった写真をスマホで見せた。

 何枚も見せたが何か足りない気がした。

 ビデオ通話を試みた。

 行き成りのビデオ通話にダイスケ君が出てくれるか、分からなかったが、私が出来る最良のことだと考えた。

 呼び出し音が止まると、スマホの右上に私の画面が出た。

 ビデオ通話はカルカッタ{現コルカタ}と繋がった。

 すぐにダイスケ君の顔を現れた。

 私はダイスケ君を驚かすためにすぐにシスターたちの方に画面を向けた。

 シスターたちはキャーキャー言い始め、驚き微笑み、そしてとても喜んでいた。

 心配していたダイスケ君が小さなスマホの画面ではあるが微笑み、話しかけてくるのであった。

 ダイスケ君もとても喜んでいた。

 便利な時代だとつくづく思った。

 私たちは小さな画面を通しての再会をとても喜んだ。

 これもマザーの導きだったような気がした。

 

マザーのサリー。

2020-12-15 13:38:10 | Weblog

 先週の土曜日は山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}ブラザーの炊き出しのボランティアを終えてから、二年ぶりに山谷のMCに来た「マザー・テレサ 日々のことば」を訳したマーシーさんと西新井のMCシスターに家に行った。

 マーシーさんは彼女の会社の女性を連れて来ていた。

 私は前もって、西新井のシスターのところでもボランティアしている広瀬さんにシスターたちのアポイントを取ってもらい、広瀬さんにも一緒に行ってもらえるように頼んでおいた。

 午後二時半の待ち合わせで私たちはシスターの家に向かった。

 私がシスターの家に行くのは三年半前に来日していた、カルカッタで仲が良かったアメリカ人のケンと一緒に行って以来だった。

 日本人のシスターカリーサと院長はいないとのことだったが、彼女らがちょうど出かけるところで、私たちは運良く会うことが出来た。

 日本で見るマザーのブルーラインの三本入ったサリーは何故か私にはとても新鮮に見える。

 たぶん私の視覚の記憶は勢いよくカルカッタ{現コルカタ}の数々の美しい想い出たちを瞼に集め、一瞬にしてカルカッタのシスターたちの映像と同化してくるようだった。

 シスターカリーサは私を見るなり、「Tetsuさん、久しぶりです。インドに行きたいでしょうね。こんなことにならなかったら」との一声だった。

 私は現在カルカッタにいるダイスケ君から教えてもらったこと、シアルダーのディスペンサリーやシュシュババンのディスペンサリーが再会したことなどを教えた。

 私たちが来たことに気が付いた家のなかにシスターたちが窓を開けて、声を掛けてきた。

 私がベンガル語を話せることを知っているインド人のシスターは「ノモシカール。ケモナチョ?」{こんにちわ、元気ですか?}とベンガル語で話し掛けてきた。

 彼女らはちょうど長テーブルを出し、そこにクリスマスのプレゼントを載せ、パッキングをしていたようだった。

 私は言語の脳裏のチャンネルを何年も使っていなかったがスムーズにベンガル語を合わせることが出来た。

 これは間違えなく、マザーのサリーを見たことに由来していただろう。

 {つづく}


片足を引きずったおじさん。その3。

2020-12-14 11:27:14 | Weblog

 「診察券もあったみたいで、そこに書いてあった名前はAだったんだって。だから、たぶん、本名はAさんだと思うよ」

 「そうなんだ。名前、使い分けていたの・・・」

 片足を引きずったおじさんは二つの名前を使い分けていた。

 セカンドハーベスト{まだ食べれるが売れない食べ物を集め、それを配っている団体、二週目と四週目の土曜日は同じ場所で食べ物を配っている}の方のカードには偽名を使い、やはり病院の診察券には本名を使っていたのだろう。

 山谷はそうしたことをする人は路上生活者である。

 ドヤに入り、生活保護を受けている人では有り得ないことである。

 だから、私は彼に名前を聞いたことがなかった。

 以前、生まれた場所を聞いただけで怒り出すおじさんも居たくらいだった。

 いろんなものを抱え、いろんなものから逃れ、どこにも居場所が無くなり、生きるために山谷にあのおじさんもたどり着いたのだろう。

 私は彼には必ず声を掛けていた。

 何を話す訳でもないが、彼の隣に座って話すことも度々した。

 艱難辛苦を乗り越え、刻み込まれた顔の皺が穏やかな笑顔に深みを与えていた。

 私はその笑顔に魅了された。

 彼特有に懸命に生きた人生の表情が優しく何度も私を見詰めた。

 彼は私の神さまであった。

 「忘れられない。決して忘れられない。あなたのために祈っている」と私は隅田川を見ながら呟いた。

 私にはもう会えないのが信じられない。

 しかし、きっとあなたがまた姿を変えて、私の前に現れてくれるだろう。

 私に愛を授けに来てくれるだろう。

 いま、私はこの別れが愛となっていくのを感じている。

 私がもっともっと愛情深くあれるように、この別れはしてくれている。

 だから、私はあなたに感謝してもしきれないである。

 「ありがとう」

愛するマラドーナ。

2020-12-01 12:21:47 | Weblog
 マラドーナの神の手ゴール、五人抜きがあったメキシコ大会の時、私は15歳だった。

 それから30年以上経ち、改めて、今、その動画を見ても鳥肌が立つほどに感動する。

 マラドーナは私のスーパースターだった。

 そのマラドーナと私の関わりと言うか、私の愛する人を、マラドーナも愛していた。

 私生活ではいろいろとニュースになっていたマラドーナであるが、一般的にはマラドーナがこうしたところを訪問していたことは日本人には知られていないと思う。

 マラドーナはコルカタのマザーハウスを訪問していた。

 写真はちょうど三年前のもの、マザーのお墓のある部屋の前である。

 私の知っている限りではマラドーナはこの数年前にもマザーハウスを訪れている。

 友達が送ってくれた動画では、マラドーナはマザーのお墓の前で跪き、お墓に両手と額を当てて祈っていた。

 マザーハウスに一人いるアルゼンチン人のシスターがマラドーナをエスコートしていた。

 私が見ていたものをマラドーナも見ていたと思うと、ぐぅっと親近感が湧いてきた。

 今、ニュースでマラドーナがピッチで走る姿を見る度、涙腺のパッキンが壊れかけたおじさんは瞳を潤ませている。

 ありがとう、マラドーナ。