カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

残暑厳しい山谷。その2。

2012-08-30 13:15:17 | Weblog

 昼食後、ロザリオの祈りを終えてから、自転車に乗ってカレーを浅草まで配りに向かった。

 いろは商店街で寝ているだろう、恩返しの彼のことを思い、カレーを一つ持って、龍太君と向かった。

 すると彼はほぼ商店街の中央に倒れるようにして寝転んでいた。

 そこは以前彼がニラ一束20円で売っていた場所だった。

 すぐに自転車を降りて、彼の近くにしゃがみ込み、声を掛けた。

 彼は悪臭を漂わせ、頭も首をぼりぼり掻いていた。

 相変わらず、汚れきった洋服を身にまとい、生きていた。

 「ちゃんとカレーを食べるんだよ」そう言うと身を起こし、カレーに触れた。

 どうにかしてお風呂に入れてやりたいが、彼は極力拒否し続ける。

 汚れきった服にはしらみがかなりいる様子だった。

 これほどまで山谷のなかで汚れた姿でいる人は最近は見ない。

 知的障害があるがゆえの姿であろう、がしかし、彼が神の子であることに変りはない。

 カルカッタではこうした死にかけ汚れきった患者を何人も運び、そして、丁寧に洗った。

 綺麗になった患者はベッドで落ち着く、すると、それまでの死ぬような苦しみを受けていた影など見えなくなってしまうことがある。

 そこをボランティアが訪れると、「みんな綺麗ですね、大した患者はあまりいませんね」など言う者もいる。

 それを聞く度、胸が苦しくなった。

 この悪臭、ゴミのように生きなくてはならない苦しみ、他人から忌み嫌われてきた苦しみとその恨み、そのもろもろのものが見えていない。

 想像力の深いものであれば、見えるかも知れぬ、しかし、見えぬものにも思いを馳せ、その痛みを癒やし和らげようと一人ひとりと丁寧に向き合うことがマザーの仕事である。

 だが、こうして実際に悪臭の前に立つまで、それは分からないのであろうか。

 そうではないだろう、心で見ていないから見えないのであろう、そう問いたくなってしまう。

 真心で見れば良いのに。

 自分と恩返しの彼とのやりとりを見ていた龍太君に、その場所を離れてから詳しく彼のことを説明した。

 龍太君は沈黙したままだった。
 

なぜ号泣か。

2012-08-29 11:27:27 | Weblog

 昨日、残暑の青空を見ながら、ふと考えていた。

 自分はどうして「プリズン・ドッグ」に号泣するのか。

 まず人が変容していく姿にであろう。

 だが、そこには、逆説があり、人が変容していくことがいかに難しいことを感じていることによる感情から涙が出てきたかもしれない。

 多くの人たちがより良くあろうと意識的にも、無意識のなかにも自己実現をしようとするが、それが破壊として現れてしまうものが少なくはない。

 自己のうちの何かを隠そうとするがために、起因が恨みや心の傷から、いろいろな行動を起こし、結局大切なものを手放していってしまう悲しみを見てきたかもしれない。

 必要なのは愛なのに。

 愛情不足のものが犬たちとの関わりのなかで、愛を蓄えていく姿が自分のうちのそれに過敏に反応した。

 それは自分の望みであり、願いであり、期待であり、救いであり、徹底的な孤独から復活を意味していたからである。

 罪を犯したものを罰したり、忌み嫌うのではなく、愛で救う姿にその真実に魅了された。

 その間逆を多く見てきたからかもしれない。

 見捨てられ虐待を受けた犬たちのなかに、受刑者が自分自身を観て、自分のそれを育てなおすように、忘れ去れていた愛を自分のうちに生み出していく、やり直すことの出来る、復活の出来る真実に魅了された。

 その間逆に諦めと信じることの出来ぬものがあったからかもしれない。

 そして、もちろん、自分が愛犬を飼うようになり、犬が見捨てられ、殺傷されていくことに耐えられなくなってきていることもあった。

 なぜ見捨てるのか。

 どうして見捨てることが出来るのか。

 その憤りからの涙もあったようにも思う。

 「プリズン・ドッグ」の主任は愛情深い人だった。

 受刑者が一生懸命育てなおした愛犬がどうなっているかを彼らに実際にビデオで見せることで、自分たちのしていることへの意味を強化させていくことには圧巻だった。

 感謝など他人からされたことなどない受刑者たちが犬たちを通して感謝されている事実を知る。

 それを彼らは真剣に見て、瞳に涙を浮かべる、その深い喜びが自分にも伝わり涙した。

 見捨てられた犬たちは愛によって、彼らを決して見捨てない存在になる。

 彼らが劇的に変容していく姿が、人は変れると言う事実を物語っている、それは愛によって可能になるのみである真実を。

 自分が自分を分かりきることなど不可能であるが、これらのものが箸の代わりにテッシュを持たせた原因になったのであろう。

 

何度見ても。

2012-08-28 11:19:31 | Weblog

 いまBSでもう何度も見ていた「プリズン・ドッグ」を見た。

 何度も見て分かりきっている内容だったが、最後のもらわれていった犬たちとその家族からのビデオメッセージにはもう号泣だった。

 食べていた朝食の箸を置いて、代わりにテッシュを持ち、映像に釘付けにされた。

 愛し愛されることを忘れた少年が、それを犬との関わりのなかに思い出す。

 アメリカの刑務所から出た者の5割が再犯を犯すなか、その刑務所{1993年から2000年まで300人の出所者}を出てからの再犯がないこと、犬ととも変っていく受刑者たちの姿はほんとうに感動的だった。

 愛情不足で育ったため、他人を信用できず、自己を苦しめ、その人生を行き辛くしてしまってきた彼らの人生からの劇的な復活の姿。

 他人から忌み嫌われることしかなかったような彼らの人生に他人から感謝されることを実感し、変っていく姿。

 愛情を持って接すれば、「絶対に裏切らない」犬たちに、彼らは忘れていた感覚を見出し、犬とともに成長していく姿。

 演技ではなく、心の深いところからリカバリーしていくそれは自分のうちのそれに共鳴してならなかった。

 見終わったあと、あんをたくさん撫で抱きしめた。

 自分の感想などはどうでも良い、また書いたものの書ききれぬものでもない。

 「愛し愛されること」「信じること」「変ること、変れること」胸が熱くなるこれらのテーマがしっかりと描かれていると思う。

 また描かれているというよりは、行われている、おきていることへの救いが見出されている。

 是非また再放送があるようなので興味がある方は見ると良いでしょう。

 9月5日(水)午前0時45分〜BSプレミアム

残暑厳しい山谷。

2012-08-27 13:05:29 | Weblog

 約一ヶ月間ぶり、山谷のおじさんたちに会った。

 白髭橋のカレーを待つ列に並ぶおじさんたちに休み明けの挨拶をしてから、列の最後まで龍太君と一緒に挨拶をしていった。

 彼らは一応に元気な笑顔を見せてくれた。

 それは暑さのなかをそこまで歩ける者だけが来るのである、もちろん、空腹のために精一杯の力を振り絞り来る者もいるだろうが。

 あのIさんには会えなかった。

 あの恩返しの彼には会えなかった。

 生まれて初めて炊き出しに来る多くのおじさんを目の当たりにして、龍太君はその思いを言葉にすることが出来ないほど驚いていた。

 日本のなかにこんな状況があるとは知らなかったと話していた。

 カレーを配り始めれば、あっと言う間に終わってしまう炊き出しである、なるべく彼を連れて、おじさんたちのなかを歩き回った。

 異質な文化のなかに入り込んだような感覚の時には、ある種のショック状態から、ありのままにものを見れなくなる、それは心を閉ざしてしまうかのように、ショック状態のままで見てしまう、そうならないように冷静にものを見れるように彼に話をしながら歩いた。

 時折、「どう思う、どうな感じがする?」そう聞いても、彼は黙ったままだった。

 その沈黙の意味をも大切にしてくれるように彼の傍にいた。

 沈黙とは感情やその個人の歴史、思考などが胸のうちにあまりにも激しく流れ込み動き出し、自分の答えを見出せず、そのまとまりもなく、また脳裏が混雑し、すべてを解釈するのに時間要しているとも言える。

 あふれ出すそれらの感情の一つでも言葉に出せば、意味を考え出し、認知にも繋がるのであろうが、それを焦らせてはならないとも考えた。

 ただ「彼らを良く見るように」と伝えるだけにした。

 大切なものは心で見るようにと願いながら。

 {つづく}

瞳を閉じて。

2012-08-24 11:56:19 | Weblog

 お気に入りのビールはスーパードライである。

 一昨日の晩酌時、あることに気が付いた。

 自分はビールを飲むとき、まず少し一口ビールを流し込み、そこで舌の上でビールを味わい感じ、次に一度目より少し多くビールを流し込み、喉元にビールを送り込み、最後に一番多くビールを流し込むその時に瞳を閉じていた。

 なぜ瞳を閉じるのか、ビールとキスをしているのか、どうなのか、何だか面白くなり、それを気にしながらビールを飲むと、今度はぎこちなくなり、それでも、最後は瞳を閉じた。

 言うなれば、それは瞳を閉じているとき、一番ビールを味わっている時だということは分かった。

 その味わいをもっとも効力の強いものにするために、瞳を閉じて、喉元を流れるビールに集中し、喉越しを楽しんでいた。

 シュワシュワシュワ~。

 幸せ。

 そして、ビールの吐息を吐き出し、「今日もお疲れさま、今日も良い一日だった」とこの身体に伝えているような気がした。

 それは無意識だった。

 ただ一番美味しい飲み方のようでもある。

 こんなことをしている自分を今まで知らなかった。

 この暑さはただ暑いだけではない。

 ビールが美味しくなる香辛料ともなっていた。

 あんはその間、お座りして、お小遣いのリンゴを待っている。

残暑が厳しい。

2012-08-23 12:22:43 | Weblog

 この暑さは厳しい。

 朝から夏バテしないようにゴーヤとうめぼしを食べる。

 それでも、すでにバテているかのように暑さが身に沁みる。

 あんはフローリングの上で伸びている。

 今朝はBSでシーラカンスの番組を見た。

 なんとシーラカンスの声を市原悦子さんがしていた。

 昔話のような声、そのものでシーラカンス役をしているのが何か面白かった。

 脚本と演出がそれを狙っていることは確かのように思えるほどだった。

 記憶は定かではないが、まだ小さかった頃、よみうりランドにシーラカンスの剥製を見に行ったことがあった。

 小さな自分にとって、恐竜とか、その古代動物、昆虫、また魚は目がキラキラ輝くほど、興味をそそるものだった。

 その時の感動が今朝起きた。

 自分のうちで寝ていた小さな男の子も一緒に起きた。

 シーラカンスは3億8千年前から生きており、最近ではそのDNAを調べ、3400年前にすでに完璧の姿となっていたことが分かり、それから、進化もせずにそのままの姿でいると言う、人間の創造を超えた物凄い生き物である。

 恐竜が絶滅した後も深海で隕石落下によって起きた気温変化にも耐えながら、生き抜いた生命力で、その奇跡の生命力で今日もどこかの深海で生きている。

 その神秘、その事実、その奇跡を思えば、自分が今見上げる青空のなかにも何かがあるように思えてならない。

 分からないことがたくさん、分かっていないことがたくさん、まだ知らないことがたくさんだと思うと、少しワクワクするようで、夏休みの宿題をそっちのけで遊んでいたあの頃を思い出す。

 と同時に夢が覚めるように夏休みの宿題を慌ててやりだす、夏の終わりも思い出す。

 昨日入道雲を見た。

 綺麗だった。

 「食べれそうだな、美味しそうだな」と思った子どもは自分一人ではないだろう。

 高校野球の決勝も9回の表になった。


あんのハゲ。

2012-08-21 12:36:20 | Weblog

 もうすっかりあんは夏毛になっている。

 全体の姿を見るとちょっと痩せすぎかなと心配になるくらいシャープになっているのだが、体重やあばら骨の出具合などを見ると、これでちょうど良い感じだと思いなおす。

 この思いなおしがなければ、おやつをどんどんあげてしまうことになるので、ここはぐっと堪えるところである。

 短くなった頭の毛の下にはハゲが浮かび上がってきている。

 このハゲはあんがやんちゃな証し。

 家のなかをドッグラン状態で走り回り、椅子の下を通ろうとし、頭をぶつけ、傷を作り、ハゲを作ってしまったのである。

 冬毛の時には隠れて見えないのだが、短くなると見えてくるのである。

 ハゲが見えるか見えないかなど、あんには関係がない。

 そこにコンプレックスのある自分が気にするだけのことであるが、それでも、家のなかを走り回り、また怪我をするようなことはあんも望んでいないはずである。

 昨夜も夜のうんち散歩を終えて帰ってくると、運動不足からなのだろうか、ボール投げを遊びをあんは要求した。

 あんはピィーピィーなるボールを一生懸命にとっては自分に持ってくる。

 その途中、そのボールをしとめるかのようにあんは首を振って、ボールの息の根を止めようとしている。

 あんの野生の証明である。

 それから、しとめていたはずのボールが口から離れると、それをまた狙い、飛び掛り、しとめなおすことの繰り返しをして、終いには、そうドッグラン状態になる。

 フローリング以外のところでしっかりユーターン出来る足場を選び、もうダッシュで走り回る。

 そのとき、障害物競争しているかの如く、テーブルの下、椅子の間を通るのであるが、そこで頭をぶつけるのである。

 「気を付けて」と言ったところで、あんは聞いているのかどうかなど分からない、たぶん、聞いていないが正解だろう。

 そして、終点は水飲み場である。

 水の飲みの白い茶碗に口をつけ、もうがぶ飲みである。

 その周りにたくさん水をこぼしながら、一気に水を飲み、そして、べたっと倒れるのである。

 もう遣り残したことはない、良く走った、足早いでしょ、とでも言う誇らしげに感じでハァーハァー言いながら寝転がるのである。

 そうして思いっきり遊ぶあんを自分はもちろんニコニコして見ているのである。

 あんはとっても愛らしいである。

 おやつがないと言うこともきかないけど。

 それでも愛らしいのである。

 ただ新しいハゲは作って欲しくないと思ってはいるが。

 

ご馳走になりました。

2012-08-20 12:28:40 | Weblog

 「てっちゃん、今度デートしましょう」と岡田さんはずっと前から言っていた。

 岡田さんはもう山谷に5、6年前から来ているボランティアの女性だが、仲良くなったのは彼女がカルカッタに来て以来である。

 それまで山谷で会っても、あまり話をしなかった。

 岡田さんはおもに火曜日の炊き出しに来ているので、土曜日に来る自分とはあまり会わなかったこともある。

 カルカッタで彼女が体調を壊したときに、自分が見舞いに行ったことをずっと感謝してくれていて、そのお返しにご飯を食べに行こうと誘ってくれていた。

 もう60くらいになる彼女の体調のこともあり、話しは流れに流れ、やっと土曜に実現した。

 他に山谷のボランティアの坂本君、杉山さんも一緒に岡田さんがお勧めの上野のお寿司屋さんに行った。

 回らないお寿司を食べたのはもう何年ぶりだろうか、もう記憶にないほど久しぶりだった。

 インドに12回も行くと、まず贅沢を喜ばないようになってしまっている。

 だが、岡田さんのご好意に甘えた。

 いろいろと話をすると、岡田さんのことを知らなかったことがあまりに多かった。

 もう亡くなった旦那さんは証券会社の社長していたらしいし、家もロスにもあるとこのこと、日本の家にはイタリアの装飾品で飾られている、それはセレブだった。

 自分は知っていた岡田さんはキリストの愛を輝かしている女性と言うこと。

 おじさんにもボランティアにも誰にも同じような明るい態度で接し、相手を常に明るくする女性である。

 それはカルカッタでもまったく同じであった。

 初めてマザーのお墓に行き、マザーハウスのミサに出た後、感動のあまりぼろぼろ泣いていた。

 そんな彼女も山谷に来た当初、いじめにあったと言う。

 切った野菜が大きいだの、小さすぎるだの、と言われ傷付いたらしいが、ブラザーの一人が気にすることはないと彼女を守ってくれたと彼女は話してくれた。

 そして、彼女は山谷に来るようになって変ったと言う。

 以前はたぶん、キリストなきキリスト教徒であったろう、セレブの生活で、貧しい人とすれ違っても、知らん振りを平気でするようだったそうだ。

 それが変わったのである。

 自分ひとりで山谷MCを探し、今ではおじさんたちに会うために山谷に来ていると話していた。

 最初は続かないと誰もが思ったらしいが、それが続いている。

 そこには大切な理由がある。

 ほとんどのボランティアが続かず辞めていく姿を見てきたが、岡田さんのように「おじさんたちに会うために来ている」人は続くのではないかと思う。

 そう思いながらも、答えは一つではないし、不思議だと思うが、そうあるようにイエスが彼女を導いたとも言えよう。

 イエスが新しい世界へと彼女を導いたのだ。

 一人暮らしの家では臭いするので揚げ物も焼き物もしない彼女が山谷やカルカッタに行き、喜びを見出したのである。

 彼女もまた自分の知らない自分に出会い続けている。

 祈りのなかに。

「玉ねぎって何。」その4。

2012-08-19 17:31:07 | Weblog

 「私が考えたのは・・・仏教のいう善悪不二でして、人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。何ごとも善と悪とが背中あわせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬ。分別してはならぬ。耐えられぬ飢えに負けて、人の肉を同じように口に入れてしもうた私の戦友は、それに圧し潰されたが、ガストンさんはそんな地獄世界にも神の愛を見つけられる、と話してくれました。偉そうな事を申しますが、戦友が死んでから私はね、このことを噛みしめ、噛みしめ、生きてきました」。

 「深い河」十二章より。

 遠藤氏はこの善悪不二のことは「ほんとうの私を求めて」のなかでも書いている。

 そこには美津子のあだ名であるモイラのことも書かれている。

 それは「私のすべてがある」と書いた創作日記からしても分かるように、「深い河」へと黙々と流れていったものであろう。

 彼が理解するように、この仏教の善悪不二が自分にも身に沁みる。

 例えば、ボランティアをしていても、一生懸命仕事をがんばる人は、どこかに切迫感があったり、またがんばれない人への否定が含まれることが少なくない。

 そして、そこには他者から、また深い記憶のなかの親からの評価を渇望しているからこそ、そうせざるを得なく、苦しみを生んでしまう。

 またがんばれない人はそうできない人を否定せずに、ありのままを受け容れたりも出来る人がいる。

 極端なものを嫌う仏教と、信じたものは救われるキリスト救いの教えを重ねみることが出来るだろう。

 行き着くところは同じであると自分も思う。

 思うが、それだけか、そこに何かあるのか、どうかをまた多くのものが探求するのであろう。

 そこが穏やかなものと感じられるものは豊かな人生をおくれるのではないだろうか。

 すべて分かる必要はない、また分かったつもりでいることに気付き、そこを受け容れる心の柔和さが必要であろう、にもかかわらず、答えを得ないとどうしても落ち着かないものは何なのか、表面的な答えを掴んだところで、実は有り余る他の可能性を放棄していることに気付かない、その意味、その心、その渇き、そのすべてを「玉ねぎ」は見守っている。

 お釈迦様の手のひらとでも言っても良い。

 「深い河」はそれらすべてを受け容れて黙々と流れていく。

 両手を合わせると言うことはすでに目に見えぬ何かを信じている行為である。

 自分たちはそれを無意識にしている、誰かの真似事かもしれぬが、真似事だと言い切れるものもないだろう。

 「深い河」はそれらすべてを受け容れて黙々と流れていく。

 
 今日は「深い河創作日記」のなかに遠藤氏は自分の大好きな作家先生の葉書を安岡氏の手紙の隣に書いている。

 それはどんなことを意味していたのだろうか。

 彼がそれにどれだけ救われ励まされあったのだろうか。

 そのことを自由に想像する。

 今日は自分の大好きな作家先生の奥様の誕生日。

 さっき手紙を書いて出してきたところだ。

 先生の葉書が創作日記に書かれていて、嬉しかったことも手紙には書いた。

 前回カルカッタに行ったときにシスターにもらったメダイを手紙と一緒に送った。

 奥様はすぐに手紙と一緒にお菓子も送ってくれた。

 その手紙のなかに自分が送ったメダイの行き先が書いてあった。

 カトリックである安岡氏の娘さんにも送ってくれたそうだ。

 ここにもマザーの繋がり、「玉ねぎ」の繋がりがあった。

 思い出す、マザーがメダイをくれるときには必ずこう言った。

 「家族は何人?友達は?」そう言うとすでに両手のなかに入っているたくさんのメダイをキスをして渡してくれた。

 マザーは神さまの愛の恵みを多くの人につたえようとしていた。

 その繋がりは消えることは決してない。

 今週末は作家先生のお孫さんの龍太君を山谷に連れて行く予定である。



玉ねぎの間に。

2012-08-17 11:42:48 | Weblog

 今日もとても暑い。

 ベッドから起き上がると、身体が痛くて重い、昨日の仕事で力仕事をしたので、その贈り物が身体にしっかり付いていた。

 重たい身体を動かし、まずカーテンを開け、ベランダのゴーヤと朝顔の成長を寝ぼけ眼で眺める。

 以前はペットボトルで水をあげていたが、今はバケツに水をたっぷりくみ、ゴーヤたちに大胆にあげている。

 そして、またしばらく緑のカーテンをぼんやり眺める。

 そこで昨夜の夢に出てきた出会ったこともない「サクラ子」という女性のことを考えていた。

 どうして出てきたのだろうか。

 彼女は誰なのか。

 行き先もなく当てもなく、寝ぼけ眼で考える。

 その顔を少し思い出し、また忘れていく。

 まぁ、良いか、と思い、一つなったゴーヤが昨日よりも少し大きくなっていることにニコッとする。

 今日の始まりはこんな感じである。

 「玉ねぎって何。」を書いている間に、「無鹿」「わたしが・棄てた・女」を読み、昨日から「切支丹の里」を読んでいる。

 この「切支丹の里」は始めて遠藤氏が長崎を訪れたところから始まる。

 この作品は「沈黙」へ繋がる取材日記、創作日記とでも言って良い、とても興味深い作品である。

 今日も「切支丹の里」を読むのが楽しみである。

 そして、自分も長崎に行きたいという思いが沸々とこのうちに湧き上がってくるのを感じる。

 今日はこれから仕事の前にうたをうたいにいくのでこの辺で。

 夏バテしないように。