上記の写真は三重の尾鷲の海である。
コルカタのシアルダーの駅で一緒に働いたタダさんの地元の海である。
約1年前、タダさんはこの海で捕れたサザエ、岩ガキを私に送ってくれた。
タダさんは「是非、夏に遊びに来てください!」と昨年から言ってくれていた、それが今年の夏にようやく実現した。
ほんとうに素敵な時間を持てた、そのどれから書こうかと悩みもするくらいである。
金曜から月曜に掛けての私の夏休みがあまりにも楽しく嬉しくあったものだから、昨日は9月1日の小学生のような思いで仕事をしていた。
タダさんを含め、この旅行でコルカタで会った3人の友達に会った。
私が川崎を離れ、遠いところまで誰かに会いに行くなど、ほんとうに滅多にないことであるが、4月に盛岡に行ったことから、私の腰を少し軽くなったのかも知れない、誰かが呼んでくれるのであれば、この命があるうちに会いに行きたいと思うようになったのかも知れない。
この写真の三重の海はほんとうに綺麗だった、いや、川も山も尾鷲のすべてが綺麗だった。
それにシアルダーで一緒に働いたタダさんとは積もる話がありすぎて、その話しは花は咲き乱れ、二人ともコルカタに帰りたくなってしょうがなくなったりもした。
不思議にいろいろとコルカタの患者の話しなどをしていると、その当時の気持ち、現場の感情がどこからやって来て、私のうちにすぅーっと入り込み、その感情が熱い涙となり、私の瞳から溢れ出しそうになることもあったくらいだった。
だけど、それは決して悪いものではなく美しいものだった。
こうした思いもすべてマザーからのギフトであることを私はこのいまも噛みしめている。
タダさんは月曜日午後3:47分の松阪発名古屋行きの列車に間に合うように車で松阪まで送ってくれた。
いろんな話しをしたが、松阪のインターを降りた後、私は最後にタダさんも知っているプレムダンのあるワーカーのことを話した。
話している時、言葉に詰まった、むせび泣きそうになってしまった。
だから、途中、沈黙に助けられながら、最後にこの話しをした。
今日はその話しを載せることにする。
2014年3月の話しである。
「誓いを超えた誓いへ」
私は未だかつて、彼ほどに自分の死期をはっきりと知る人を知らなかった。彼は完璧なほどに素晴らしい最後を自ら整え、魂とともに愛の生命を放ち、その終止符を打った。それは美しすぎるほど美しく、神々しくあり、神に見守られたものであったに違いない。私はそれをどうしても疑えないのだ。
彼はカルカッタのマザーテレサの施設プレムダンで働いていた。私は95年から彼を知り、彼に助けられてきた。彼がいつどのようにしてプレムダンに来たかは誰も知らない、なぜなら、彼は「喋らない誓い」を立てていたヒンドゥー教のサドゥー{修行者}であった。
きっと何かの事情があり、プレムダンに来たことであろう、もしかすれば、行き倒れて運ばれた患者だったのかもしれない。しかし、私の知る彼はいつもワーカーのように、患者たちの世話をしていた。それも誰もが嫌がるような仕事も嫌な顔一つ見せず、寡黙にして穏やかなに行っていた。その姿には誰もが敬意を示した。シスターたちですら、そうであった。患者たちからは「サドゥーババ」と呼ばれていた。「ババ」とはベンガル語で「父」と言う意味である。その彼が歳を重ねていく上で病気にもなり、以前のように働けなくなったが、それでも、他の患者たちは彼への尊敬の念を無くすことは決してなかった。
今年二月半ば、サドゥーは様態がかなり悪くなり、自らアイルランドのNGO「Hope」の病院に入院することを望み、入院した。私はそれを知り、彼を心配していたが仕事の忙しさを言い訳に見舞いには行かなかった。
それから二週間ぐらい経った頃、サドゥーがプレムダンに戻ってきたことを知った。しかし、その退院は病状が良くなっての退院ではないことを知り、私と彼を知るボランティアたちは確信した。サドゥーは「死ぬためにプレムダンに帰ってきた」ことを。
その後、彼はプレムダンでカトリックの洗礼を受けた。洗礼名はジョセフメリーである。彼が洗礼を受けたと言う、その意味は安易に想像できるものではないが、彼自身が間近に死を覚悟していることを誰もが感じたであろう。彼はヒンドゥーのサドゥーとしての誓いを超えて、永遠の誓いの中へ、その時歩もうとしていた。
3月12日、マザーハウスの夕の礼拝後、友達のイタリア人神父から、サドゥーの様態がかなり悪いので会いに行った方がいいと知らされた。翌日木曜でボランティアは休みだったから朝のミサを終えてから、私は一人でプレムダンに向かった。ミサの間やプレムダンに行く道すがら、私はサドゥーとの思い出を一つひとつ思い出しては目頭を熱くし、祈っていた。
プレムダンに着き、最初サドゥーに会った時、彼だと分からなかったほど、顔を膨れていた。彼は苦しそうに息をしながらも、私と目をあわし、時に私の言うことに頷いてくれたり、今朝のミサでは心配でずっと祈っていたと言うと、彼は元気だった頃のような慈しみ深い笑みを浮かべたりもした。会話の中で私もカトリックなったことを告げたりもした。
お互いに長い年月をかけてカトリックになったが、サドゥーの場合は命をかけた永遠の誓いへと向かう洗礼であり、天国へ旅立つ準備であり、また新しく生まれ変わった復活の意味もあったのであろう。病状に苦しむ彼であったが私は長い間畏敬の念をもって見つめた。そして、また来ることを告げて、プレムダンを去った。
午後に私のゴッドファーザーのジムとゴッドマザーのジョアンとの食事会があった。そこで普段プレムダンで働いているジョアンにサドゥーのことを聞くと、サドゥーは一昨日喋ったと言うことだった。彼が喋れるとは、にわかには信じられない話であった。しかし、彼ももうサドゥーではなく、カトリックの信者であるからサドゥーになった時の誓いを守らなくても良くなっているのである。だから、数十年ぶりに彼は喋ったのである、ベンガル語、ヒンドゥー語、英語も喋ったとのことだった。
彼は死を前にして、語らずにはいられなかったのか、何かを言い残したかったのか、私には確かなことは分からない、しかし、ただ分かるのはサドゥーは死への準備をしていることだけである。もう彼にはあまり時間がなかった。ジョアンはサドゥーが今日まだ生きていると思えないくらいに一昨日は様態が悪かったと話していた。
3月15日土曜日、私は駅の仕事が早く終わったのでサドゥーに会うためにプレムダンに向かった。そこで初めて彼の声を聞いた。その声はまだ音を出すようになってからままならない不憫さもあり、簡単な言葉しか発することが出来なかったが、私がはっきりと理解できるものであった。
彼にいつから喋ることを止めたのかと聞くと、うまく返事が出来なかったのだろう、右手の指先で3と7と書いたのだった。彼は何と37年間も喋らなかったのである。想像できるであろうか、例え神さまとの誓いとは言え、そんなに長い間不自由な生活になることが分かりながら、誓いを守り続けることが果たして可能なのであったのだろうか、いや、信じなくてはならなかった。その証明者であるサドゥーが目の前にいるのである。私には到底理解しがたいが、誓いを破ることなく己の真理に生きた男の神々しさにただただ畏敬の念を抱くしかなかった。
サドゥーには現在シュシュババンの院長であるシスターポリタ{以前、長い間プレムダンの男性病棟の責任者であった}にもサドゥーのことを昨日の午後に伝えたことを知らせた。その時、彼女もサドゥーが話したことを知ると、とても驚いていた。そして、彼女もサドゥーに会うに行くと言っていたことをサドゥーに話すと、彼は仰向けに寝たベッドの上で、人差し指を天にさし、天国で会うと示した。
それは「もう間に合わない」と言う意味だと言うことが瞬時に分かった。それはサドゥーの予知能力なのか、彼はすでに分かっていた。シスターポリタにはプレムダンに来る時間がないかも知れないと・・・。シュシュババンの院長とは、世界中から集まってくる物資の処理から養子縁組、そして、子供たちの世話とその管理など計り知れないほどのハードワークである。だが、私は言わざるを得なかった「シスターポリタは忙しいけど、来ると思う。彼女もサドゥーのことをとても心配していた」と再度伝えた。しかし、彼は優しく微笑んでいた。それを知っただけで十分ですと言葉に出さずに微笑みの上にそれを現していた。サドゥーはその時すでに分かっていたのである、自分の死ぬ時を。それも逃げも隠れもせず、落ち着き払った心で、死を受け容れる覚悟をしていたのである。
この日プレムダンを去る時、私はサドゥーにこう言った。「明日はホーリーだから、駅の仕事はお休みなんだ」と。すると、彼はとても愛くるしく微笑んだ。ホーリーとはヒンドゥー教徒のカラーの祭りで色を他人つけあったりする、そして、中にはドラッグ入りのラッシーなどを飲んだりする者がいたり、狂乱状態にもなったりする者もいるので、駅の仕事は危険な状態が想像され、毎年休みにしている。これをインド人と一緒に楽しむボランティアもいるが、レイプされたりした者もいた。
サドゥーの微笑みは、ホーリーは色付けらたり大変だから、と言う感じと、またそのホーリーを喜ぶ微笑みでもあった。それがほんとうに人懐っこくて美しい微笑みだった。「サドゥー、月曜日にまた来るからね」と私は伝え微笑み返した。
月曜日の朝、私はプレムダンに行くジョアンに、もしサドゥーに何かあった場合には携帯に連絡して欲しいと伝え、仕事に向かった。毎朝の駅の仕事に向かう前に行く病院の訪問を終えて、マナーモードにしていた携帯を見るとジョアンからの着信が二度あった。「まさか、サドゥーが・・・」と思いながらも、すでに心のうちでは覚悟を決めて、ジョアンに電話した。
サドゥーは昨夜亡くなったと言うことだった。サドゥーはホーリーの喜びの夜に亡くなったのだ。ヒンドゥー教のサドゥーとして生き、結婚もせず、親兄弟などとは一切会わずに、その哀しみも誰にも語らず、私利私欲なく、その生涯の長い間を病人のケアのために使い、最後にカトリックになり、言葉を話し始め、最後の最後まで周りの者たちに愛を与え続けた。そして、選んだ最後の日がホーリーの夜とは、私にはあまりに完璧に思えてしょうがなかった。あまりに美しく思えてしょうがなかった。彼の生涯、そのすべては神さまのために美しいことをしたことに終えた。
人間にはサドゥーのような生き方が可能なのか、私は彼を聖人だと思わずにはいられなかった。駅の仕事を終え、花輪を買ってプレムダンに行った。多くの患者が私を見るとサドゥーが亡くなったことを知らせてくれた。一人の小さな知的障害の男の子はサドゥーの死を惜しんで泣きじゃくっていた。サドゥーは誰にでもほんとうに優しくあり、愛された男だった。
一人の患者が私のところに駆け寄って来て、サドゥーが亡くなったことを言うと、彼は亡くなる前にサドゥーが話したことを教えてくれた。「私はもう先に行くから、あなたたちは後からゆっくりと来なさい」と。
彼はそれをとても嬉しそうに教えてくれた。私ははっとした。死は決して哀しむべきものだけではない、十二分に生命を生き抜いた死は祝福されるものであることを肌身で知ったのだった。私は微笑んだ。サドゥーを思い、感謝の思いに包まれ、比類ない喜びに包まれた。それはサドゥーが周りの者たちに祝福を与え続け、天国に旅立ったと言うことの証しが私のうちに芽生えたのであった。
近くにいたジョアンに私は「今日はサドゥーのために祈ろう」と言うと、ジョアンは微笑んで言った「いいえ、サドゥーが私たちのために祈ってくれている」と。