カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

タダさんのこと。

2018-07-31 11:36:47 | Weblog

 タダさんはとても純粋な優しい人、前回のコルカタで私がタダさんに駅のボランティア・ステーションワークに参加してもらうと、その日のうちに他のボランティアはタダさんのことを好きなっていた。

 昨年の三月の初めだった、タダさんは朝食を終えマザーハウスの中庭で座っていた私に声を掛けてくれた。

 「私は以前シアルダーでステーションワークをバーニー{アイリッシュのボランティア・彼女は1991年にステーションワークを始めた一人}としていました」と。

 「だったら、シアルダーが来ます?」と私は言った。

 「良いんですか?ありがとうございます!」とタダさんは言った、それが私たちの最初の会話だった。

 以前一度ステーションワークをしていたなら、必ずもう一度したいと思うのが常だと私は思っていたので、他のボランティアの意見も聞かずに私はタダさんに参加してもらうことを即座に決めた。

 タダさんは少しおっちょこちょいなところもある、だが、それが何とも愛らしかった。

 今回三重に行った時、タダさんは車のなかでこんなことを言った。

 「テツさんからベンガル語でインド人{路上の患者}に何時にどこに来るように伝えてくるように言われて、オレ、そのベンガル語をメモして行ったんですが、心配だったのでその場で4時間待ちました」

 「えぇ、いつだっけ?そんなこと知らなかったよ。4時間も待ったの!」

 「いやいや、あれもあれで楽しかったです」とタダさんは笑って言っていた。

 それを聞いて、私はとても申し訳ない思いになった、インドでと言うか、コルカタで、何が一番大変かと言えば、それは待つことである。

 灼熱の陽射し、ホコリと騒音と人が激しく流れるカオスのなかで4時間も待つことがどれだけ大変なことかは私は良く知っている。

 タダさんは私から言われたことをしっかりとやらなくてはならないと、親からの言い付けを守る子供のようにして、ずっとその場所で患者を待っていたのだろう、それはとても疲れることであったろうが、タダさんはそれを喜んでやってくれていたことを知った。

 マザーが良く言っていた「いつも喜んでいなさい」と言う言い付けをタダさんはしっかりと守っていた。

 そうしたタダさんだから、やはりみんなから好かれたのだろうと、私は改めて思った。

 {つづく}
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フルスイングをし終わった。

2018-07-30 11:55:34 | Weblog

 昨夜しばらくの間、格闘しながら読んでいたエピクトテスの「語録・要録」は読み終えた。

 昨日のブログで書いたようにフルスイングをするように読み終えた後、何も残らなかったような気がする、しかし、まったく何も残らなかった訳ではないだろうと、私は私に期待を残している、それが微細な証しのようにも思える。

 フルスイングして勢いあまってバッターボックス内で倒れ込み、見上げた空はやはり青空で、しばらく立ち上がることもせず、その青空のあまりの美しさに魅了もされた。

 白い夏雲がぽかんと浮かんでいるだけの青空は間違えなくあなたの頭上にもあることを思うと、あなたの優しさまで私は感じることが出来た。

 本を読んだ後はもう一度咀嚼するために何かを書き残しておいた方が良いだろう、しかし、このエピクトテスの「語録・要録」のなかの語録は難解極まりなく、それが無回答の白紙のようになってしまう。

 何度か注釈に「このところの原文は壊れている」など書いてあったりもした、その度、私はフルスイングしていた。

 気になった「要録」からの一文をせめてここで紹介してみよう。

 「馬鹿で無学と思われても、彼は気にしない。一言でいえば、敵や裏切り者にたいするように、自分自身にたいして用心するのである」

 大切なことはいつも遠いところや自分の外にあるのではない、自分の内側にあると言うこと、それをじっくりと腰を据えて見詰め、見守り、語り合う必要がある。

 このブログを書く前にフェイスブックを見ていると片柳君のマザーの日めくりカレンダーにはマザーのこの言葉があった。

 「誰かを欺くことができても、自分を欺くことはできません」と。

 これを少し言い換えると、「誰かにウソをついても、自分の心にウソをついてはいけません」と言い換えられるだろう。

 自分の心にウソをつき続ければ、自分の心が何なのかが分からなくなる、それはブレーキの無い自転車に乗るようなもの、それはあまりにも心理的に危険である。

 それゆえ「自分自身にたいして用心する」必要があるのである。

 そしてそれにプラスして祈りが必要であると言いたいのである。


 コルカタにいるアメリカ人のケンは昨日ハウラー駅から患者を二人カリーガートに運んだ。

 そしてその他にもう一人患者がいたが書類を作るためにポリスステーションに車椅子で連れて行ったがその場で息を引き取ったとのことだった。
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フルスイング。

2018-07-29 12:23:36 | Weblog

 昨日、山谷のボランティアの帰り、文化学院の後輩の清水君に新宿まで車で送ってもらった、その車中で、哲学書の読み方についての話しになった。

 清水君は以前哲学の先生にこう質問したことがあったと言った。

 「哲学のなんか優しい本はないんですか?」

 「哲学の本は優しい本はないからフルスイングするように読むんだよ」と先生は答えたらしい。

 私はそれに大納得した。

 私の手元には最近買った二冊の哲学の本がある、一つはエピクテトスの「語録・要録」と、もう一つはマルクス・アウレーリウスの「自省録」である。

 二冊とも神谷美恵子氏の「生きがいについて」を読み終えた、あとに触発されたようにして購入した二冊であった。

 最初に読み始めたエピクトテスの本は難解でどうしても読み切れた感を感じずにページをめくることが多いのであった。

 しかし良いことを聞いた、私はフルスイングして、きっと大三振して、この本を読めば良いと言うことを知ったのであった。

 私はバッターボックス内でフルスイングした勢いで倒れ、見上げた空が夏の青空だと願い、今日もこのエピクテトスの本と向き合おう。

 

 
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私の夏休み。銚子川。

2018-07-26 12:05:54 | Weblog

 タダさんがずっと自慢していた銚子川を初めて見た、その瞬間、私のなかの小さな男の子は大喜びした。

 その川を私と同じく初めて見た夏樹ちゃんも大喜びしていた。

 山々に囲まれ、そのなかを流れる銚子川は水質の良さで日本一番になったこともあることはきっと誰が見ても一目瞭然で、水中眼鏡で見なくてもほんとうに水が綺麗で魚がたくさんいた。

 タダさんが自慢するだけは十二分にある銚子川であった。

 木陰に陣を取り、小さなコンロでバーベキューをした。

 タダさんが前日に海で捕り、そのまま海に沈めていたサザエの美味しさは目に映る素晴らしい自然が否応なしにその美味しさを何倍にも引き出していた。

 間違えなく心が大喜びしていた。

 バーベキューには鹿肉も焼いた、その肉が焼ける間、タダさんは早く川で泳いでくださいと言うので、私と夏樹ちゃんは水中眼鏡をして川に入った。

 ほんとうに気持ちが良かった、川の流れに身を任せ、仰向けになれば、山と青空と白い雲、そこにはあり、ただただ、それに全身で魅了された。

 ずっと笑っていた気がする、私たちのほっぺたはきっと上がったままだった、あんなに楽しく嬉しかったことはもう何年も私は味わっていなかった。

 だから、竜宮城に行っても居ないのに、楽しい時間はほんとうに早く流れてしまった。

 この夕方は夏樹ちゃんは静岡に帰らなくてはならなかった。

 タダさんは迎えに来てくれた松阪まで夏樹ちゃんを送ってくれた。

 しかし、高速道路の車中、私とのコルカタの話しで盛り上がりすぎ、松阪のインターの出口を通り越してしまった。

 あの時、三重の時間は、夢の世界にいたようで、でも、どのように感謝しようか、迷うくらい感謝をしたいといまも思っている。


 これを書いていたいま、昨夜コルカタに着いたアメリカ人のケンからメールが着た。

 今日はボランティアディーらしい、これから、シャンティダンに行くとのこと、私の心もそこに連れて行ってほしいと思わずにはいられない。
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私の夏休み。

2018-07-25 12:02:07 | Weblog


 上記の写真は三重の尾鷲の海である。

 コルカタのシアルダーの駅で一緒に働いたタダさんの地元の海である。

 約1年前、タダさんはこの海で捕れたサザエ、岩ガキを私に送ってくれた。

 タダさんは「是非、夏に遊びに来てください!」と昨年から言ってくれていた、それが今年の夏にようやく実現した。

 ほんとうに素敵な時間を持てた、そのどれから書こうかと悩みもするくらいである。

 金曜から月曜に掛けての私の夏休みがあまりにも楽しく嬉しくあったものだから、昨日は9月1日の小学生のような思いで仕事をしていた。

 タダさんを含め、この旅行でコルカタで会った3人の友達に会った。

 私が川崎を離れ、遠いところまで誰かに会いに行くなど、ほんとうに滅多にないことであるが、4月に盛岡に行ったことから、私の腰を少し軽くなったのかも知れない、誰かが呼んでくれるのであれば、この命があるうちに会いに行きたいと思うようになったのかも知れない。

 この写真の三重の海はほんとうに綺麗だった、いや、川も山も尾鷲のすべてが綺麗だった。

 それにシアルダーで一緒に働いたタダさんとは積もる話がありすぎて、その話しは花は咲き乱れ、二人ともコルカタに帰りたくなってしょうがなくなったりもした。

 不思議にいろいろとコルカタの患者の話しなどをしていると、その当時の気持ち、現場の感情がどこからやって来て、私のうちにすぅーっと入り込み、その感情が熱い涙となり、私の瞳から溢れ出しそうになることもあったくらいだった。

 だけど、それは決して悪いものではなく美しいものだった。

 こうした思いもすべてマザーからのギフトであることを私はこのいまも噛みしめている。

 タダさんは月曜日午後3:47分の松阪発名古屋行きの列車に間に合うように車で松阪まで送ってくれた。

 いろんな話しをしたが、松阪のインターを降りた後、私は最後にタダさんも知っているプレムダンのあるワーカーのことを話した。

 話している時、言葉に詰まった、むせび泣きそうになってしまった。

 だから、途中、沈黙に助けられながら、最後にこの話しをした。

 今日はその話しを載せることにする。

 2014年3月の話しである。


 「誓いを超えた誓いへ」


 私は未だかつて、彼ほどに自分の死期をはっきりと知る人を知らなかった。彼は完璧なほどに素晴らしい最後を自ら整え、魂とともに愛の生命を放ち、その終止符を打った。それは美しすぎるほど美しく、神々しくあり、神に見守られたものであったに違いない。私はそれをどうしても疑えないのだ。

 彼はカルカッタのマザーテレサの施設プレムダンで働いていた。私は95年から彼を知り、彼に助けられてきた。彼がいつどのようにしてプレムダンに来たかは誰も知らない、なぜなら、彼は「喋らない誓い」を立てていたヒンドゥー教のサドゥー{修行者}であった。

 きっと何かの事情があり、プレムダンに来たことであろう、もしかすれば、行き倒れて運ばれた患者だったのかもしれない。しかし、私の知る彼はいつもワーカーのように、患者たちの世話をしていた。それも誰もが嫌がるような仕事も嫌な顔一つ見せず、寡黙にして穏やかなに行っていた。その姿には誰もが敬意を示した。シスターたちですら、そうであった。患者たちからは「サドゥーババ」と呼ばれていた。「ババ」とはベンガル語で「父」と言う意味である。その彼が歳を重ねていく上で病気にもなり、以前のように働けなくなったが、それでも、他の患者たちは彼への尊敬の念を無くすことは決してなかった。

 今年二月半ば、サドゥーは様態がかなり悪くなり、自らアイルランドのNGO「Hope」の病院に入院することを望み、入院した。私はそれを知り、彼を心配していたが仕事の忙しさを言い訳に見舞いには行かなかった。

 それから二週間ぐらい経った頃、サドゥーがプレムダンに戻ってきたことを知った。しかし、その退院は病状が良くなっての退院ではないことを知り、私と彼を知るボランティアたちは確信した。サドゥーは「死ぬためにプレムダンに帰ってきた」ことを。

 その後、彼はプレムダンでカトリックの洗礼を受けた。洗礼名はジョセフメリーである。彼が洗礼を受けたと言う、その意味は安易に想像できるものではないが、彼自身が間近に死を覚悟していることを誰もが感じたであろう。彼はヒンドゥーのサドゥーとしての誓いを超えて、永遠の誓いの中へ、その時歩もうとしていた。

 3月12日、マザーハウスの夕の礼拝後、友達のイタリア人神父から、サドゥーの様態がかなり悪いので会いに行った方がいいと知らされた。翌日木曜でボランティアは休みだったから朝のミサを終えてから、私は一人でプレムダンに向かった。ミサの間やプレムダンに行く道すがら、私はサドゥーとの思い出を一つひとつ思い出しては目頭を熱くし、祈っていた。

 プレムダンに着き、最初サドゥーに会った時、彼だと分からなかったほど、顔を膨れていた。彼は苦しそうに息をしながらも、私と目をあわし、時に私の言うことに頷いてくれたり、今朝のミサでは心配でずっと祈っていたと言うと、彼は元気だった頃のような慈しみ深い笑みを浮かべたりもした。会話の中で私もカトリックなったことを告げたりもした。

 お互いに長い年月をかけてカトリックになったが、サドゥーの場合は命をかけた永遠の誓いへと向かう洗礼であり、天国へ旅立つ準備であり、また新しく生まれ変わった復活の意味もあったのであろう。病状に苦しむ彼であったが私は長い間畏敬の念をもって見つめた。そして、また来ることを告げて、プレムダンを去った。

 午後に私のゴッドファーザーのジムとゴッドマザーのジョアンとの食事会があった。そこで普段プレムダンで働いているジョアンにサドゥーのことを聞くと、サドゥーは一昨日喋ったと言うことだった。彼が喋れるとは、にわかには信じられない話であった。しかし、彼ももうサドゥーではなく、カトリックの信者であるからサドゥーになった時の誓いを守らなくても良くなっているのである。だから、数十年ぶりに彼は喋ったのである、ベンガル語、ヒンドゥー語、英語も喋ったとのことだった。

 彼は死を前にして、語らずにはいられなかったのか、何かを言い残したかったのか、私には確かなことは分からない、しかし、ただ分かるのはサドゥーは死への準備をしていることだけである。もう彼にはあまり時間がなかった。ジョアンはサドゥーが今日まだ生きていると思えないくらいに一昨日は様態が悪かったと話していた。

 3月15日土曜日、私は駅の仕事が早く終わったのでサドゥーに会うためにプレムダンに向かった。そこで初めて彼の声を聞いた。その声はまだ音を出すようになってからままならない不憫さもあり、簡単な言葉しか発することが出来なかったが、私がはっきりと理解できるものであった。

 彼にいつから喋ることを止めたのかと聞くと、うまく返事が出来なかったのだろう、右手の指先で3と7と書いたのだった。彼は何と37年間も喋らなかったのである。想像できるであろうか、例え神さまとの誓いとは言え、そんなに長い間不自由な生活になることが分かりながら、誓いを守り続けることが果たして可能なのであったのだろうか、いや、信じなくてはならなかった。その証明者であるサドゥーが目の前にいるのである。私には到底理解しがたいが、誓いを破ることなく己の真理に生きた男の神々しさにただただ畏敬の念を抱くしかなかった。

 サドゥーには現在シュシュババンの院長であるシスターポリタ{以前、長い間プレムダンの男性病棟の責任者であった}にもサドゥーのことを昨日の午後に伝えたことを知らせた。その時、彼女もサドゥーが話したことを知ると、とても驚いていた。そして、彼女もサドゥーに会うに行くと言っていたことをサドゥーに話すと、彼は仰向けに寝たベッドの上で、人差し指を天にさし、天国で会うと示した。

 それは「もう間に合わない」と言う意味だと言うことが瞬時に分かった。それはサドゥーの予知能力なのか、彼はすでに分かっていた。シスターポリタにはプレムダンに来る時間がないかも知れないと・・・。シュシュババンの院長とは、世界中から集まってくる物資の処理から養子縁組、そして、子供たちの世話とその管理など計り知れないほどのハードワークである。だが、私は言わざるを得なかった「シスターポリタは忙しいけど、来ると思う。彼女もサドゥーのことをとても心配していた」と再度伝えた。しかし、彼は優しく微笑んでいた。それを知っただけで十分ですと言葉に出さずに微笑みの上にそれを現していた。サドゥーはその時すでに分かっていたのである、自分の死ぬ時を。それも逃げも隠れもせず、落ち着き払った心で、死を受け容れる覚悟をしていたのである。

 この日プレムダンを去る時、私はサドゥーにこう言った。「明日はホーリーだから、駅の仕事はお休みなんだ」と。すると、彼はとても愛くるしく微笑んだ。ホーリーとはヒンドゥー教徒のカラーの祭りで色を他人つけあったりする、そして、中にはドラッグ入りのラッシーなどを飲んだりする者がいたり、狂乱状態にもなったりする者もいるので、駅の仕事は危険な状態が想像され、毎年休みにしている。これをインド人と一緒に楽しむボランティアもいるが、レイプされたりした者もいた。

 サドゥーの微笑みは、ホーリーは色付けらたり大変だから、と言う感じと、またそのホーリーを喜ぶ微笑みでもあった。それがほんとうに人懐っこくて美しい微笑みだった。「サドゥー、月曜日にまた来るからね」と私は伝え微笑み返した。

 月曜日の朝、私はプレムダンに行くジョアンに、もしサドゥーに何かあった場合には携帯に連絡して欲しいと伝え、仕事に向かった。毎朝の駅の仕事に向かう前に行く病院の訪問を終えて、マナーモードにしていた携帯を見るとジョアンからの着信が二度あった。「まさか、サドゥーが・・・」と思いながらも、すでに心のうちでは覚悟を決めて、ジョアンに電話した。

 サドゥーは昨夜亡くなったと言うことだった。サドゥーはホーリーの喜びの夜に亡くなったのだ。ヒンドゥー教のサドゥーとして生き、結婚もせず、親兄弟などとは一切会わずに、その哀しみも誰にも語らず、私利私欲なく、その生涯の長い間を病人のケアのために使い、最後にカトリックになり、言葉を話し始め、最後の最後まで周りの者たちに愛を与え続けた。そして、選んだ最後の日がホーリーの夜とは、私にはあまりに完璧に思えてしょうがなかった。あまりに美しく思えてしょうがなかった。彼の生涯、そのすべては神さまのために美しいことをしたことに終えた。

 人間にはサドゥーのような生き方が可能なのか、私は彼を聖人だと思わずにはいられなかった。駅の仕事を終え、花輪を買ってプレムダンに行った。多くの患者が私を見るとサドゥーが亡くなったことを知らせてくれた。一人の小さな知的障害の男の子はサドゥーの死を惜しんで泣きじゃくっていた。サドゥーは誰にでもほんとうに優しくあり、愛された男だった。

 一人の患者が私のところに駆け寄って来て、サドゥーが亡くなったことを言うと、彼は亡くなる前にサドゥーが話したことを教えてくれた。「私はもう先に行くから、あなたたちは後からゆっくりと来なさい」と。

 彼はそれをとても嬉しそうに教えてくれた。私ははっとした。死は決して哀しむべきものだけではない、十二分に生命を生き抜いた死は祝福されるものであることを肌身で知ったのだった。私は微笑んだ。サドゥーを思い、感謝の思いに包まれ、比類ない喜びに包まれた。それはサドゥーが周りの者たちに祝福を与え続け、天国に旅立ったと言うことの証しが私のうちに芽生えたのであった。

 近くにいたジョアンに私は「今日はサドゥーのために祈ろう」と言うと、ジョアンは微笑んで言った「いいえ、サドゥーが私たちのために祈ってくれている」と。



 
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安倍の涙。

2018-07-18 13:13:20 | Weblog

 4月のことになるがインド・コルカタで4年前に会った安倍に呼ばれて盛岡に行った時のことである。

 それより1年ぐらい前、安倍と新宿で飲んでいた時に安倍が気付いたら飲みながら泣いていた、その時、なぜ泣いたのかを聞いた。

 「そう言えば、何で、新宿で泣いたんだっけ?」

 最初に言っておいた方が良いかも知れない、安倍は自分でも言っていたが酔うと泣くことが良くあるらしい、でも、安倍の場合、泣きながらもすぐに笑ったりする、何かと忙しい奴である。

 「メールの返信が遅いとテツさんに言われて・・・」

 「あぁ・・・」と私は思った。

 別に返信が遅いことは忙しい日常であるから誰にでもあることかも知れない、しかし、私が返信が遅いと言った後に話したことに安倍は勢いよく涙を流し始めたのであった。

 それはこんなことであった。

 「安倍、もう随分前に自分はね、小さなことだけど、自分に来るメールに対して、自分がすぐに返信する人としない人がいることに気が付いたんだよ。

 そして、それをはっきりと自分に分からせたんだよ。

 すぐに返信しない人、出来ない人には自分が心のどこかで大切にしていなかったり、この人だったら遅れても大丈夫と勝手に考え、それはその人を見下したりしているのと同じことだと思ったんだよ。

 それに気が付いて以来、自分はどうしても手の空かない時以外はすぐに誰にでも返信するようにしたんだ。

 これは出来ないことではない、また、そうしたことが出来なくて、なぜ、マザーを好きだと言えるのだろうか。

 小さなことかも知れない、でも、小さなことに心を込めて行うのがマザーの教えでしょ。

 こうしたことが出来なくて、それ以上のことがどうして出来るのかな。

 マザーは寝る時間を削って、世界中から来る手紙の返事を良く書いていたんだよ。

 移動中も、列車のなかや飛行機のなかでもね」

 安倍はほんとうのことを言われて、私がそれに気付いた時に感じた思いを味わったのかも知れない、今思うと、安倍には少しきつい言葉だったかも知れない、でも、安倍には知ってほしかった認められない自分を認めること、受け容れることを、その大切な意味を。

 学び続けなくてはならない、小さなことに思いを込めると言うことを自らの内から。

 過去と他人は変えられないが、自分だけは自分が変えられるのである。


 
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憩いの場。

2018-07-17 11:40:12 | Weblog

 緑のカーテンは今年のこの暑さからだろうか、例年より成長は早い、昨夜はもうゴーヤを美味しく食べることが出来た。

 どのように成長するのか分からなかった、今年初めて私の緑のカーテンの一員としたパッションフルーツはやっと二階まで上がって来た。

 だが、まだ花芽はないようだが、南国特有のように思われる大きな葉は存在感を大いに現し、この暑い陽射しを十分に楽しみ喜んで受け容れているように感じられる。

 私は毎日この緑のカーテンの成長を眺めるのが好きであり、私の憩いの場となっている。

 そこでは日々の成長の観察は欠かせない、まだ黄色の小さな花を先につけたままの小さなゴーヤが大きくなっていくともに重力に引っ張られていき、いつの間にか花は小さくなり、どこかに飛んでいく様など、その瞬間は見れないが、その過程を想像し得る私の脳は私に喜びを与える。

 この喜びはどこから来るのだろうか、隈なくそれを知ることは可能なのだろうか、それは今・現在からなのか、過去からなのか、そんなことをぼんやりと考えてしまうのには一つの答えがある。

 それは今エピクトテスの本「語録・要録」を読んでいるからであろう。

 エピクトテスは50年頃~135年頃までに生きた古代ギリシャのストア派の哲学者である。

 今はまだ語録を読んでいるところだが、私にはさっぱり分からないところもあり、お手上げの時もある、気付けば、本を力を入れて持っていることがあるくらい、集中をして読んでいるがなかなか理解や解釈しないままにページをめくることが多い、しかし、折角手にした本、何かの縁があって出会った本なので途中で投げ捨てることはしない、勝ち負けを争うのではないが、私に読解力がないことは分かっているが、諦めから何も始まらない、何も起こらない、負け惜しみかも知れないが「お前には負けない」とまだまだギュッとその本をしたいと思っている。

 イエスの死後、原始キリスト教会の誰かもきっとこの本を読んだことがあるのだろうと思うと、この本の周りにはこの今の私特有の新たな物語りが生まれてくるのである、せめて、それを楽しんで読んでみたいのである。
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アサダのアルバム。その2。

2018-07-16 11:40:25 | Weblog

 私「これ{アサダのアルバム}、ここに置いておくよ」

 ツヨシ{アサダ父}「へぇ、良いの!持って帰んなくて!」座っていた椅子から身を起こし中腰になりながら言った。

 「うん、これはアサダに持って来たんだからさ」

 「てっちゃん、ありがとう!」

 良く考えたら、アサダが亡くなってから16年が経っていた。

 私はアサダの命日は覚えているが、あれから何年経つかはいつの間にか忘れていた、あまり覚えたくないのか、私の記憶にその年月はあまり重要ではなかったのか、気にするのが嫌だったのか、どうかは分からない。

 でも、言われれば16年も経っていた。

 写真は25年前のものだった。

 昨日はバカ騒ぎした学生時代の写真のなかの笑顔のような笑顔に私たちはなっていたんだろう。

 みんなが帰ったあと、そして、今日、ミエコ{アサダ母}、ツヨシはアサダのアルバムを見て、アサダと何を話しているのだろうか。
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アサダのアルバム。

2018-07-15 11:41:25 | Weblog

 「なぁ、アサダ、ツヨシ{アサダ父}やミエコ{アサダ母}はこのオマエのアルバムを喜んでくれるかな?

 これを見て、元気だったオマエのことを思いだし、涙を流したりしないかな?

 どの写真もみんな笑っているものばかりだけどさ。

 そこにはそれから何年か後にオマエが死ぬなんてことは到底想像もしていないものばかりだ。

 ツヨシやミエコが知らない、オマエの笑顔がたくさんある、それを見て泣かれると困るけど、でも、この写真でまたみんなで笑いたい。

 この写真の時に今日はみんな帰るんだよ、あのバカ騒ぎをして腹がよじれるほど笑い、またガキのくせに、いや、ガキなゆえに真面目に夢を語り合ったあの時に。

 オマエはそれをどう見ているだろうね。

 どんな時であれ、オレはオマエを笑わせてやるさ、兄さんらしくな。

 それはオマエも同じだろう、そう考えるだろう。

 今日はオマエの声をオレたちは聞くだろう。

 いつも出かける時は文庫本しか手にしていない自分だけど、今日はオマエのアルバムを持って、オマエに会いに行く。

 きっとこの写真のすべてオマエは見たことがあるものばかりだ。

 だから、ちょっとまたさ、昔を思い出して、今日は笑おうじゃないか。

 20年以上前の写真ばかりだ。

 兄さんも若いが、オマエもかなり若い。時が経つのはあっと言う間だな。歳はさ、取ったけど、オレは何も成長できていないようだよ。

 みんな、変わっているようで変わっていないかも知れない、ただな、アサダ、みんな、オマエのことを今もなお、大切に、大事に思っているよ。

 今日はたくさん飲んで、たくさん笑うぞ。

 オマエと一緒にな」


 アサダの写真は80枚入いるアルバムに入れた。

 写真はまだアルバムに入りきれないほどあった。
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今年のアサダの飲み会。

2018-07-12 12:01:53 | Weblog

 毎年七月の海の日がある三連休の日曜日にはアサダの飲み会がある。

 アサダは文化学院の後輩、脳腫瘍で15年前に亡くなった、私が弟のように可愛がっていた友達である。

 私はこのアサダの飲み会の幹事をしている、きっと私の命が尽きるまで、この会の幹事をするつもりである。

 今年も子供たちも含めれば20人ぐらい集まるだろう。

 アサダの命日に近いこの日はまずお墓参りに行く、その霊園の隣には牧場があり、決まってみんなでジェラートを食べる。

 それはアサダの父ツヨシがいつもおごってくれる、たくさん並べ並ぶほど、嬉しそうに、ジェラート屋さんに私の息子はまだこんなにも愛されているとどこか誇らしげにしているのである。

 私はそれをアサダの気持ちになって、少し恥ずかしく思いながらも、嬉しそうにしているツヨシを一年一度この日に感謝するのである。

 要はアサダのお墓参りなのであるが、それよりもその後のアサダと私たちの学生時代のバカ話をしながら飲むことが主要であり、毎年腹がよじれるほど笑う、アサダの飲み会と呼ぶ方が、私たちには合っているし、きっとアサダもそれで良いんじゃんと思っているだろう。

 随分長い間、アサダの墓石の前に立つと、涙が出たものだが、この数年は涙腺のパッキンが壊れかけているにも関わらず、どうにか大丈夫である。

 やっとアサダの死を本当の意味で受け容れられたのかも知れない、アサダの死とともに生きれるようになったのかも知れない、それにしてもほんとうに長い時間が私には必要だった。

 それだけ私にとってアサダは大切なヤツだったのである。

 昨日アルバムを買った。

 私の押し入れのなかにはアルバムにも入れていないアサダと遊んでいた20年以上前の写真がたくさんある、このまま押し入れのなかにあっても、それじゃもったいない、笑いの種をなるこの写真のその芽をだし、花を咲かせるために日曜にアサダ家にあげようと思っている。

 明日アルバムに写真を入れるつもりである。

 私は何をアサダと語るのであろうか。

 
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