カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

声になる前の言葉たち。

2013-10-31 12:50:03 | Weblog

 昨日ふと仕事をしている時に気が付いた。

 少し問題のある家に伺い、サービスをしている時、自分のうちに逆転移があるように思われた。

 転移・逆転移は普通カウンセリングなどの時に起こる現象ではあるが、これは恋愛関係にある二人にもよく起こる現象でもある。

 しかし、それはやはりあらゆる人間関係のなかに多かれ少なかれ生まれるものでもあろう。

 自分のうちに逆転移があると気が付くと、私はもっとそれを知りたいと思い、興味が湧いた。

 不快な感情のなかに何があるのか、信仰すら拭い去るそれらには何があるのか、またそのうちで信仰がどう働くのか、私は知りたい。

 信仰が無理やりに私の衝動を抑圧するようなことであれば、それは心理的には不健康を生む、だが、その信仰がより深いものであれば、それは乗り越えられるものになるのだろう。

 私はほんとうに注意深く、それを見る必要がある。

 その狭間、胸のうちには声になる前の言葉たちはざわめき立っているのだ。

 それを何かに決め付けたり、何かだと思い込んだりせずに、そのまま大事に卵を温めるように抱いてみよう。

 曖昧なものであれ、認められることにより、それは変容をきたすだろう。

 私が私のそれに愛を注ぐ。

 そこに私以外にあの方も愛を注いでおられることを深く強く感じ入ることが信仰の深みへと導いてくれる。

 その導きはあなたのなかにもあるだろう。

 
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土曜日の読書。

2013-10-30 12:58:29 | Weblog

 もう下駄で山谷に行く季節ではなくなった。

 山谷のおじさんたちは相変わらず、私が下駄ではなく、ブーツを履いて行くと、それに突っ込みを入れる。

 その度、私は合言葉のように「寒くてね、もう我慢して下駄は履けないよ」と言うと、そうだろうそうだろうと言わんばかり、彼らは微笑む。

 足元が変われば、上着も変わり、そのポケットには夏場ジーンズのポケットに薄めの文庫本しか入れられなかったが、厚めのどんな文庫本も入れられるように変わった。

 最近7時17分の特急で新宿に向かうが、これがなかなか空いていて、運良く乗れば、そのまま座れ、読書に集中出来るのが何より嬉しい。

 読書に集中すれば、南千住までの通勤もあっと言う間である、だが、あまりに集中し過ぎてしまうと、途中乗り換えの日暮里で乗り過ごしてしまったりするので、これも気を付けなくてはならない。

 だが、そんな降りる駅を乗り過ごしてしまうほどの本に出合えることは嬉しいことである。

 先週はトルストイの「イワンのばか」を読み終えた。

 これは傑作中の傑作であろう、まだ嬉しいことに解説を読み終えていない、それは大好物を一番最後に楽しみに取っておくような心持ちに似たような感じがある。

 私の感想と解説者の感想の違いを楽しんで読むのである。

 「そうか、そう読むのか、そう読んだりもするのか、私はこう感じた。この時期のトルストイはそうだったか、だから、こう描いたのか」などなど、心のうちの語らいを楽しむのである。

 そして、今は遠藤氏の「口笛をふく時」と「大変だァ」を読んでいる。

 きっと「口笛がふく時」はもうすぐ読み終えるので、次の土曜日の読書は「大変だァ」になるだろう。

 遠藤氏の小説の私の読み方にも変化が生まれてきた、それはこれは事実であり、これは小説家の脚色であるなどなど、読みながらに思い、またその脚色の仕方を改めて感じ入ったりするのも楽しくなってきた。

 同じものを読んだとしても、それは同じ感覚で読み直せるものではなく、新たに何かを積み重ねるようにその深さを増して行くのである。

 そして、その変容その過程がどんなものであるかまで読み解いていけば、作家の息吹を感じれるのではなかろうか。

 
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あたたかな太陽。

2013-10-28 13:08:16 | Weblog

 ありがたいね、あたたかな太陽とその陽射し。

 今朝はゆっくりとあんと散歩した。

 二夜続けて、私はなんと深夜のラーメンとライスを食べてしまったのである。

 それも明日は健康診断なのに・・・。

 なので、もうすでに朝食前にウンチをしたにもかかわらず、あんをゆっくりな散歩に連れて行った。

 「もうウンチはしたから散歩はいいよ」と言わんばかりにあんは出かけに散歩拒否の行動に出るが、私の「がんばれ!あん!」と「一緒だよ!あん!」に負け、三沢川まで散歩に向かった。

 その甲斐があったのかのどうか分からないが穏やかな陽射しに包まれて、雨によって息を吹き返した山の木々たちも喜び勇んでいたし、なんと言っても久しぶりにカワセミにも会えた。

 それも水面着陸して獲物を狙っていたところも目撃し、そして、それが成功したか失敗したかは分からないが口ばしを濡らし休んでいる姿をまじかに見ることも出来、私はとても嬉しかったのである。

 あんと言えば、相変わらず小心者でどこかでちょっと大きな音がすると、すぐに耳を立て歩く速度を早めるばかりだった。

 それでも、私が気持ち良くしていることをきっと感じていただろう。

 今私がこうしてパソコンを向かっている後ろのあんのベッドで丸くなり、幸せそうに昼寝の最中である。

 一つお伝えすることがある。

 12月のライブの日程が決まりました。

 この前店長のレイ君がわざわざ電話してきた。

 「Tetsuさん、12月のライブなんですけど、一番最後じゃないと不満ですか?すぐに飲めないと嫌ですかね?」

 「いや、別にそんなことはないよ。三番目でもぜんぜん構わないよ」

 そう言えば、ここ何年かはずっと一番最後に歌っていたので、レイ君は気を利かせてわざわざ私の承諾を聞いてくれたのである。

 「それでいつになったの?」

 「クリスマスです。12月25日です」

 「へぇー、そうなの?もうちょっと早い時期、12月前半はないの?と言うのはさ。1月の初めにもうインドに行くから、出来たら前半が良いんだけどな」

 「そうですか、でも、空いてないんです」

 「だったら、良いよ。クリスマスに歌おう」

 「Sesoちゃんと一緒です」

 「そう、だったら嬉しいね!楽しみにしているよ。わざわざありがとね」

 Seso{牲捜}ちゃんは私と同い年で、アピアのレーベルから何枚もCDを出している実力派の素敵な歌ううたいである。

 そして、私と同様にマザーテレサが好きなところも同じなのである。

 そうだ、今はSesoちゃんはhijkと何年か前に改名している。

 どうぞインドに行く前のライブですし、また当分歌わないので良かったら来てください。
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ビーフビリヤーニ。

2013-10-25 12:59:32 | Weblog

 あなたはビーフビニヤーニを食べたことがあるだろうか。

 カルカッタに帰れると思うようになると、ふとビーフビニヤーニのことが頭に浮かび、口内に唾液が出始めた。

 私が泊まっていたゲストハウスの近くに一般庶民が行くカリックと言うモスリムレストランがあり、私はそこに良く行った。

 そこに行く度に私が食べるのは大好物のビーフビニヤーニである。

 ビニヤーニとは簡単に言うとピラフに近いような食べ物である。

 ビーフはインドでは一番安い肉である、もちろん、ヒンドゥー教徒は食べないこともあるのでそうなのかもしれない。

 そのレストランのビーフビニヤーニが出来上がるお昼1時頃にを狙い、出来立てのフレッシュなものを食べる。

 まず手を洗い、肩に掛けているガムチャ{労働者が使うスカーフ。ビハーリ州の人はとてもよく使う}で空いている席に座る。

 注文はダルとサラダとレモンとビーフビリヤーニ、これは私のお決まりもの。

 まず人差し指でダルをかき回し、一口味見をし、それをビニヤーニに少しかける、そこにサラダをのせ、レモンをしぼり、お皿に山盛りになったビニヤーニのなかには熱々の肉のかたまりが二つとジャガイモのかたまりが二つあり、それを指でやわらかくし、親指、人差し指、中指でこねまぜ丸くしたものを口に運ぶ。

 少しオイリーなのでダメな人もいるが、私は大丈夫、とても美味しく頂く。

 だいたいはハーフビーフビリヤーニをおかわりする

 食べ終わるとしぼったレモンで使った右手の指を拭き、それで油をとる、そして、手を洗いお会計場所に行く。

 会計の場所にはオーナーの男が笑顔もなくぶっきら棒に座り、私が会計に来たことに店員が気が付かぬとコインでテーブルをたたき、それを知らせる。

 そこで私の注文をとった店員が大声で会計の値段を叫ぶ、私はお金を出し、会計のテーブルの上にあるフェンネルシードを口に入れて、爪楊枝を口にくわえ、店を出る。

 知らない人も居るだろう、このフェンネルシードはインドのレストランの会計時にはほとんど言っていいほど出てくるのである。

 これは胃腸薬と口臭予防の作用があり、私は必ずと言って良いほど口に運ぶ。

 ただ問題なのはこのフェンネンシードが入っている器に安いレストランであればあるほど、お釣りを投げ込むのである、そのコインにどれだけの菌がついているか分からないと思うと、それは心配になるのである。

 だから、ここも気を効かせ、なるべくフェンネルシードも新しいものを出しもらうように言ったりもするのである。

 一人でさっと食べて、お腹一杯になって、さっと出て行く。

 それが良いシエスタに繋がった。

 あぁ~ビーフビリヤーニが食べたい・・・。

 
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カルカッタへの準備。

2013-10-24 12:39:23 | Weblog

 昨日今日とかけてカルカッタのマザーハウスにいるシスターに手紙を書いている。

 洗礼のことへの願いの手紙である。

 数々の思いに駆られ重い腰を上げれば、ペンは堰を切り流れるように白紙の上に切なる思いは私のうちの深いところからどんどん引き上げられ、その言葉に終わりはないようにも思える。

 事実語り切れぬ、だが、そこをまとめ、手紙にしなくてはならない。

 何度も読み返し、また削り、付けたし、の繰り返し、祈りとともに書いている。

 この手紙はマザーにも読んでもらえるように書いている。

 きっとシスターはマザーにも渡してくれるだろう。

 私は私の願いが叶うようにマリアさまに「メモラレ」を祈る。

 {慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次を願える者、一人として捨てられしこと、いにしえより今にいたるまで、世に聞こえざるを思い給え。

 ああ童貞中の童貞なる御母、われこれによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって、御前になげき奉る。

ああみ言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御あわれみをたれて、これを聴き給え、これを聴き容れ給え。アーメン。}
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山谷の炊き出し。

2013-10-22 12:16:57 | Weblog

 最近白髭橋の炊き出しに来るおじさんたちに出会うことがほんとうに嬉しく思う。

 彼らのことがほんとうに愛しくてたまらなくなっている自分に気付くようになった。

 私はそれを全身で感じるほどである。

 これは私自身が癒やされていることに他ならない。

 これは私こそ彼らから与えられていることに他ならない。


 北海道から組の解散時に堅気になり、東京に出てきたあの糖尿病の背中に漫画を描いているおじさんはこの前は来なかった。

 先々週彼は来た、私の顔を見て彼は笑いながら言う「あんまり来ねぇーと死んだと思われちゃうからよ」

 次に会う時にも彼はきっと同じことを言うだろう。

 以前「三日ぶりにご飯を食べた」と言うおじさんには、それから会うたびに「昨日食べれた?」と「うんうん、食べれたよ」と笑う。

 「倒れないようにちゃんと食べるんだよ」と言うと、「うんうん」と顔をくしゃくしゃにして頷いていく。


 私は彼らと出会わせてくれた神さまに感謝せざるを得ないのである。

 胸のうちにそれを見詰めなおせば、それは湧き上がる泉のようにあり、私の身体からこぼれだす勢いにすら見えてくる。

 それは私であって私ではなく、やはりあのお方の業なのである。

 
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傑作だった。

2013-10-21 12:47:21 | Weblog

 昨日マーク・トウェインの「王子と乞食」を読み終えた。

 これはほんとうに傑作だった。

 もう最後の方になると、読者が自ずと望み描いてきたラストシーンが手に汗握るままに繰り広げられ、胸の支えを解き放ってくれる。

 だから、私は読み終えても、まだそのシーンを何度も読み直したりもしたくらいだった。

 解説を読むとマーク・トウェインはこの「王子と乞食」と「ジャンヌ・ダルク」を彼の作品のなかでもっとも愛したとのことであった。

 それならば、やはり「ジャンヌ・ダルク」も私は読まなくてならないだろう。

 そして、彼は生涯イエスの伝記を書きたいと思っていたらしい、これは遠藤氏と同じであり、それこそ、私は何かに導かれるように、この「王子と乞食」を手にしたことに不思議な繋がりを感じた。

 そうした彼の意志の一部がこの「王子と乞食」のなかには容易に感じられ、そうしたこともあり、私は何度もラストシーンを読み、感慨にふけった。

 そして、今日からは土曜日に山谷に来た片柳君がくれた彼の書いた「祈りへの旅立ち・マザーテレサに導かれて」を読む。

 黙想が出来るようにまとめられた本ではあるが、少し読み始めてみると、ちょっと気のせいかもしれないがオグ・マンディーノの文章の香りがした。

 彼の本のなかの写真は三年前にカルカッタで彼に会った時、彼が滞在中に撮った写真が使われていた、それもその時を思い返すのを色濃くするだろう。

 片柳君には読んだら、感想を送るよと伝えた。

 それとマザーの来年のカレンダーももらった。

 今年私は一月にカルカッタに行ってしまうので、いつも余ったカレンダーが一月に山谷に送られて来るのであるが、来年のカレンダーは、さてどうしようと思っていたのだが、とても有り難かった。

 これもマザーの導きであろうか。

 毎年何人かの友人には山谷でもらったマザーのカレンダーを送っていたのだが、来年は申し訳ないが送れないのが残念である。

 心深く、祈りとともに彼の本を読んでみよう。

 
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「A氏」の訂正。

2013-10-20 12:46:38 | Weblog

 やはりテレビの撮影だったようです。

 昨日広瀬さんが猫と暮らしている女性に先週のことを詳しく聞くと、そのようなことだったと言うことです。

 広瀬さんはどこにカメラがあったかは分からなかったと言っていた。

 それでも、やはりあの女性は楽しい時を持てたことに違いないだろう。

 
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疑問。

2013-10-18 13:12:19 | Weblog

 私たちはどんな時に疑問を抱くのだろうか。

 そして、疑問を抱く意味、その中身をどう感じているのだろうか。

 疑問を抱く場合、二通りがあるように思われる。

 一つは疑いを持つことであり、もう一つ深く考えることである。

 前者は不信の心に繋がり、否定的な結果をもたらすことに成り得るだろうが、後者は柔和さと柔軟さを必要とし、それは心の成長の糧と成り得るだろう。

 逆説的だが、深く考えることが出来ないが故に疑うと言うことも言えよう。

 考えない方が楽だと言うことや考えても認められなかったと言う不信の闇が拭えないのかもしれない。

 しかし、その闇のなかでも、どこかで必ず自己実現を目指すものがあり、それが右往左往するのだあろう。

 私たちはこの心をすべて把握することは不可能だろうが、ここで「ちょっと待てよ」と深く考えると言うことにし、自己を深めていけば、柔和で柔軟な強い心が育つのではなかろうか。

 それは他者の心をも深く思いやれることや何らかの危険から逃れることも可能するのでなかろうか。

 先週山谷でミサの後の食事会であるボランティアの男性が私に言った。

 「やはり食べ物を与えるだけは何かが違うような気がする」

 それから、私たちはこの疑問を深めていく話をした。

 マザーは言う、「何度でも飽くことなく繰り返し言います。貧しい人たちがもっとも求めているのは、憐れみではなく愛なのです、彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです」

 
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A氏。

2013-10-17 12:35:10 | Weblog

 少し書こうかどうしようか迷ったところもあるがお伝えしよう。

 先週の土曜日の山谷ではブラザーの会の祝いのミサが行われた。

 そのミサのあと、食事会があった。

 余った食べ物をお弁当にし、浅草の方面に何人かのボランティアが向かった。

 帰ってきた彼らが言うにはロンブーのA氏に会ったと言う。

 どこで彼に会ったかと聞けば、隅田川沿いのところで猫を暮らしている女性のところで言うことだった。

 A氏とその友達であろう4人とその女性は車座になって酒を飲んでいたらしい。

 ボランティアの広瀬さんは思わず、「結婚おめでとうございます」と言い、彼は「ありがとうございます」と答えたと言う。

 テレビの撮影でもなく、プライベートで路上生活者の女性となぜ忙しいだろう彼が酒を酌み交わしているかは、その意図、目的、その過程などは分からないが、その女性はきっと楽しい時を持てただろう。

 彼女はとても朗らかで愛想の良い人であり、路上生活をしながらもその身なりは綺麗であり、パッと見、彼女が路上生活をしているとは誰も思わないかも知れない。

 彼らがどんな会話をしたのだろうか、きっとたくさん笑っただろう、その女性はいつもよりもたくさん笑っただろう。

 この世の中に路上生活をしている者と酒を酌み交わそうと思う者がどれだけ居るだろうか。

 私の場合、それをしたいと思ったことは度々あるが、それを一度してしまうと今までの関係性がどう揺らぐか、その人の依存心を高めることにはなり得ないかが怖かったり、またその姿を見た他の知り合いの路上生活者が見た場合、どう思われるか、嫉妬されたり、なぜ私とではないかと哀しませたりもする可能性から、私には出来ないのである。

 近くに誰もいないところで、その人とタバコ一本を一緒にふかすことぐらいしか出来ないのである。

 だから、私はその話を聞いた時、少し羨ましく思った。

 一緒に友達のように酒を酌み交わせば、その人はどんなに癒えるだろうか、酒好きの私はこう考えないことはないのである。

 如何なる思いがあったしろ、A氏とその友達はその女性を癒やしたであろう。
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