昨日遠藤氏の「王妃マリー・アントワネット上巻下巻」を読み終えた。
私としてはマリー・アントワネットのことはほとんどと言って良いほど何も知らなかったが、遠藤氏がどうして彼女を描いたかと言うことを読んで行くほどに理解が増していった。
正義の言う名の悪・その影への疑問は遠藤氏の戦争時体験への問い直しに他ならないだろう、何が正しく、何が悪であるか、またその時代の渦に否応なしに巻き込まれていく人たちを描くことによって、小説家は小説家自身を深め、また人間理解を深めていくのであろう。
そこでカトリック小説家である遠藤氏は当時の宗教性への疑問・教会や聖職者の腐敗をも問い直さらさずにはいられなかったのかもしれない。
マリー・アントワネットが当時有罪にされ絞首刑で37歳で亡くなったが、その意味は何だったのか、ほんとうに罪人であったのか、遠藤氏自身は彼女を無罪に近い、いや、オーストリアの王女として生まれ育った彼女にはそうした生き方をするのも仕方がなかったのだと考えていたように思う。
そして、後半になるとアントワネットは死ぬことを受け容れることにより生きる、死に向かい生きて行き、生まれ変わっていく、彼女自身になっていったように私には思えてならない、ただそれはあまりにも儚くのあるのだが・・・。
そして、庶民は善悪不二であり、アントワネットもそうであったのではないか、人間の集団意識の恐怖・脆さ・弱さ、その残酷性などを遠藤氏は問い詰めていった。
小説は後半になればなるほどスピード感を増し、スリリングで読みごたえがあった。
思ったことを簡単に書いてしまったがこれだけでは決してなく、言葉ならぬものたちは私の無意識の貯蔵庫にまだ落ち付かずにあるが、そこに向かっていった。