カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

王妃マリー・アントワネット。

2013-07-31 13:01:04 | Weblog

 昨日遠藤氏の「王妃マリー・アントワネット上巻下巻」を読み終えた。

 私としてはマリー・アントワネットのことはほとんどと言って良いほど何も知らなかったが、遠藤氏がどうして彼女を描いたかと言うことを読んで行くほどに理解が増していった。

 正義の言う名の悪・その影への疑問は遠藤氏の戦争時体験への問い直しに他ならないだろう、何が正しく、何が悪であるか、またその時代の渦に否応なしに巻き込まれていく人たちを描くことによって、小説家は小説家自身を深め、また人間理解を深めていくのであろう。

 そこでカトリック小説家である遠藤氏は当時の宗教性への疑問・教会や聖職者の腐敗をも問い直さらさずにはいられなかったのかもしれない。

 マリー・アントワネットが当時有罪にされ絞首刑で37歳で亡くなったが、その意味は何だったのか、ほんとうに罪人であったのか、遠藤氏自身は彼女を無罪に近い、いや、オーストリアの王女として生まれ育った彼女にはそうした生き方をするのも仕方がなかったのだと考えていたように思う。

 そして、後半になるとアントワネットは死ぬことを受け容れることにより生きる、死に向かい生きて行き、生まれ変わっていく、彼女自身になっていったように私には思えてならない、ただそれはあまりにも儚くのあるのだが・・・。

 そして、庶民は善悪不二であり、アントワネットもそうであったのではないか、人間の集団意識の恐怖・脆さ・弱さ、その残酷性などを遠藤氏は問い詰めていった。

 小説は後半になればなるほどスピード感を増し、スリリングで読みごたえがあった。

 思ったことを簡単に書いてしまったがこれだけでは決してなく、言葉ならぬものたちは私の無意識の貯蔵庫にまだ落ち付かずにあるが、そこに向かっていった。

 

思い返せば。

2013-07-30 13:19:18 | Weblog

 私がなぜカクレキリシタンに興味をもったのかと言えば、それはもう4・5年前になるだろうか、天草に行ったとき、「天草ロザリオ館」に立ち寄ったことが始まりと言えよう。

 そのときは私は何も知らずにして、そこに行ったのであるが、今思えば、それが何らかしらの私の核となり、そして、その働きにより、遠藤周作氏の小説を読むことに繋がっていったことは間違いないだろう。

 だが、そうした過程をもう少し深く見れば、マザーとの出会いを通して世界中のキリスト教徒との出会いがその核の原材料としてあったのではないかと思わざるを得ないのである。

 そして、現在、日本人としてカトリックになるとは、と言うテーマとなり、私個人のカトリックとしてのアイデンティティーの芽生えを助長と模索するがゆえに、色形、その大小などは違えど、その問題をテーマにしてきた遠藤氏の小説の中に何かをつかもうとしてきたのかもしれない、もちろん、マザーの教えとして、その行いを通してである。

 確かなことなどまだ分からぬが私は導かれていくのであろう、今までもそうあったようにこれからもそうあることを期待する。

 一つ、天草のカクレキリシタンが行っていた呪術的な行いを紹介しておこう。

 これは宮崎氏の書いた「カクレキリシタン」に書かれていたことである。

 天草のカクレキリシタン独自の行いである。

 彼は毎年正月に行われる踏み絵の時には、いつも新しいワラジを履いて行ったそうである、そのワラジで踏み絵をし、家に帰ってから、そのワラジを炊いて、その汁を飲んだそうである。

 いつから、誰が、どのように始めたのか、不思議でたまらない。

 想像すれば、その汁はイエスやマリアの涙と同様に、彼らの偽りの生活を余儀なくされている彼らの涙・苦しみとしての融合・一体化として口にしたのだろうか。

 罪滅ぼしよりは有り難いものとして、口にしたのだろうか。

 それはどんな状況にあっても、人間はそれに適応していく生きる術を生み出す知恵を備えている証しと言えないだろうか。

 偽りの仮面を被らずにはいられない状況下であり、人は自己実現を目指す本能がある証しと言えないだろうか。

 そこにいつも神さまが見守ってきたと言えないだろうか。

 分かりきることなどは不可能であるが、私はもっと感じ考えたいのである。

 それは神さまを知っていくことに繋がっているように思えてならないからかもしれない。

 人を知り、我を知り、神を知る、祈りと行いのなかで。

日曜日は。

2013-07-29 12:59:39 | Weblog

 昨日はのんびりしてた。

 女子力アップを図るのか如く、オヤジ力アップを先行させ、緑のカーテンの世話や観葉植物の剪定、いつ大物が来ても良いようにリールの糸の交換などをしていた。

 もちろん、朝が五時半から、あんの散歩をし、二日酔いの軽い幻想の中を散歩した、前夜ゲリラ豪雨によって洗われた木々や道路の匂いの新鮮さが深呼吸を誘う。

 空を良く見れば、天神山の上に白くなったお月さまが太陽の姿を確認しているに拘らず、未だぼんやりしていた。

 私は白く空に解けていくお月さまを見ては「そんなあなたも綺麗だ」って嬉しそうに語りかけた。

 あんはいつもようにのんびりとしていて、ふと私が緑の木々の美しさや白いお月さまにうっとりしていると、「もう歩くのは疲れた、休憩だよ」とそっぽを向いて勝手にお座りする。

 「えぇ、あん、もう休憩なの!」と少しオーバーに驚きながら言うと、「えへぇ」とイタズラっぽく、私の方を振り向くのであった。

 仕方なく、あんをこねくり回すように毛を手でといて上げると気持ち良さそうにし、「さぁ、歩くよ」と私が言うと、素直に言うことを聞くようになるのであった。

 昨日はのんびりの日曜日なので、そんなあんと朝、夕、夜と三度散歩に行き、私のフクラハギはハリを感じている。

 今は静かな雨の音を聞きながら、あんは気持ち良さそうに寝ている、そんなあんの中に私は子供の頃の雨の日の二度寝の気持ち良さを見るのであった。

大好物。

2013-07-25 13:00:21 | Weblog

 私はたまに豚足が食べたくなり、晩酌時のつまみにすることがある。

 この前あんに私が食べていた豚足を小さく切ったものをあげると「これ何!凄い美味しいじゃん!」と言う感じになり、いや、きっとそうした心であっただろう、丸く潤む目を輝かせ、口を半開き、舌を出し、「もうちょっと、あんにもちょうだいよ!」との食いしん坊の心の声が聞こえた。

 私はそうしたあんの下心を分からぬふりをしながら、芋焼酎を口に運んでいると、普段晩酌のお小遣いとして、バナナやキュウリなどをあげている時には決して起こさない行動にあんは出たのである。

 すでにハイテンション、もういてもたってもいられぬと言う素振りで「ワン!」と吠えた。

 吠えたら何でも自分の言うとおりになるようには躾けてはならぬと犬の子育て書にあるので、「ワン!」と言っても、私は知らぬふりを決めこみ、芋焼酎をグイっとやっていると、今度は猫パンチならぬ、犬パンチをあんは私に食らわせるのである。

 「ダメダメ!そんなことをしてもダメ!良い子にしていないと豚足はあげない」と犬パンチをしてくるあんが可愛くてしょうがないのだが、にも拘らず、胸の痛む無視をする大根役者になる破目になった。

 解決策はいち早く豚足を残らず、私が食べることで逃げようとし、豚足を食べ、その手をタオルで拭いていると、今度はそのタオルをクンクンペロペロ攻撃をしてくるのである。

 「よし!分かった。あんの勝ちだ。んじゃ、お座り、お手、おかわり」と言い、結局あんにもう少し豚足をあげてしまうことになるのであった。

彼の子供。

2013-07-24 12:55:30 | Weblog

 三週間ぶりに白髭橋にあのオレンジ色の自転車を見た。

 あの目の上の傷を持った男性の自転車である。

 近くまで行くと彼は手すりに靠れながら、炊き出しに並ぶカレーの列に目をやっていた。

 少し汚れたスウェット着ていたが髭は剃られていたその表情が相変わらず暗い重みがあったが、すでに目の上の傷はすっかり綺麗に治っていた。

 「どうしたの?家に帰っていたでしょ?」

 「あぁ、二三日前にまた来たんだよ」

 彼は下を見ながら、自分を責めているのか、恥ずかしいのか、分からないがその両方の気持ちが絡み合ったような表情で目をしばしばさせながら答えた。
 
 「そうなの・・・」

 「うん、子供も一緒なんだよ。今知り合いとカレーをもらいに行っているよ」

 「そうなんだ、おじさんはカレーは食べない?」

 「あぁ、もらおうかな」

 「それじゃ、持って来るね」

 「子供に渡してくれれば良いよ。小さな子で可愛いTシャツを着ている」少し笑顔を見せて言った。

 「そう、分かった」

 なぜ彼は子供と一緒に白髭橋に戻ってきたか、どうして家を出されたか、少し話してくれたが、確かなことは分からなかった。

 言うに言えぬ、言うに言い切れぬことがあったのであろう。

 奥さんに出されたのであろうか、そして、あの自殺未遂をしたことのある子供とはどういう子なのだろうかと私は想像しながら、おじさんたちのカレーの列に向かった。

 この日は次の週に隅田川の花火大会に備えて、いつも河岸には入れなくなっており、首都高の高架下におじさんたちは並んでいた。

 カレーに並ぶおじさんたちとすでにカレーをもらってきたおじさんたちに挨拶しながら、カレーを配っているところに向かう途中に小さな男性とすれ違った瞬間、彼があのおじさんの子供であるだろうことは瞬時に分かった。

 可愛いTシャツを着ていると言っていたが、それはブルーのただTシャツであり、その背中の首元は疲れ破けているところがあった。

 背は150センチあるかないかの小さな男性、彼が興奮して暴れると父親に熱湯を掛けたりするのだろうか、私には想像などは付かなかった。

 だが、いつも私の想像などは現実のそれにはかなわず、お粗末なものであり、現実はより現実味があり、他者が想像することなど不可能に近いのである。

 ただ確かに小さな男性には影がなびいているような感じはうかがえた。

 私はまず一度カレーを渡しに行き、その時には子供は見当たらず、聞くとまだ戻ってきていないと彼は言う。

 すべての仕事を終えてから、また彼のところに行くと、今度は子供も一緒にいた。

 その時は子供もしっかりと私に頷くだけだが挨拶を返してくれた。

 子供の知り合いと言うおじさんの顔は私も知っていて、少し三人の前で話をした。

 子供はずっと下を向き、足をぷらぷらさせていた。

 この時は分かったこの子供のその父親そっくりの顔の影には知的障害があるように思えた、そして、たぶん感情を抑えられなくなる場合、癇癪を起こしてしまうのだろう。

 子供の傍にいる父親はニコニコしていたが、その笑顔のなかには私が読み取ることの決して出来ぬ複雑なものを感じた。

 そして、ただ間違えなく父親は子供を愛しているだろうことも感じた。

 救いの光りは辛うじてそこに輝いていた。

 

恋心。

2013-07-23 12:54:08 | Weblog

 炊き出しに来ている一人のおじいさんに私は興味を持った。

 彼はもうかなりの歳だろうが新しい電機自転車に乗り炊き出しに来る、白髪の不精ヒゲを伸ばし、胸元のシャツのボタンを暑さからか三つは開け、大きく胸元を見せて、いつもカレーをゆっくりと口にほおばっていた。

 そんなおじいさんに私は私の顔をしっかりと覚えてもらうくらいゆっくりと時間を取り、挨拶をし始めた数週間後に、彼が一人で公園の木の下でカレーを食べている隣に腰を下ろした。

 するとおじいさんは「あぁ、どうも」と言うなり、彼は彼の半生を私がずっと前からの知り合いであるかのように語り始めた。

 「この歳になっても、これ{小指を見て}が欲しいんだからさ」とか、笑いながら話すおじいさんは昭和二年生まれ、今は年金ぐらいだと言う。

 結婚は二度していて、子供4人くらいいるようなことを話していた。

 最初の奥さんは終戦後に自ら二十歳で美容院を始めた気の強い女性で、子供も儲けたが、彼の女性問題で別れたと言う、たぶん、二度目の奥さんとの間にも子供を儲けたが同じように女性問題で別れたらしい、今は独り暮らし、もう60くらいになる子供にもいつか会いたいがなとニガ笑った。

 さて、おじいさんはどうして行き成りこんなことを話し始めるのだろうかと私はそれを気にしながら聞いていた。

 きっと話を聞くのは私でなくても構わないだろうことは察するが、それにしても、彼はやはり話すことにより、自分の人生を思い返し、何かをまとめているかのようだった。

 それは彼の無意識の中になる老年期の統合への自己実現のように思えた。

 それが本能として備わっているんだと目の当たりにすると、私は嬉しかった。

 良いことも悪かったことも、嬉しかったことも辛かったことも、すべてを統合して死を向かい容れる準備を彼が意識せずにしていることを私は感じた。

 当の本人はまだ恋心を忘れぬ少年の心と笑顔{しわくちゃだが}を見せるのだが、彼のうちから、私のうちに流れてくるものは死を受け容れる叡智への道に向かう素朴さであり、純粋さである。

 私は微笑み、彼も微笑む、夏風が木の下にいる私たちを覆うようにして心地良さを届けて走り抜けていく。

 私は彼のそうした場所に静かに腰を下ろしたのであった。

 そして、言葉には出さなかったが、「長生きをして」と願うように心の中で呟いた。

 

マザーの思考から。

2013-07-22 12:53:59 | Weblog

 マザーの言葉。

 「すべてのミサを、あなたの初ミサのように、最後のミサのように、人生で一回だけのミサのように捧げなさい。」

 この言葉からマザーの思考を読み取れるのではないか。

 カトリック信者にとってミサはかけがえのないものであるが、普段の生活から、その価値や意味を薄め、他愛のないものにしているのは他の誰でもない自分自身であること、それを問うこともせず、またそうなりかねない警告をマザーを告げ、最後のミサと言うもう二度とない現実性への意識を高めることにより、目を覚めさせ、その価値と意味を復活させようと導く、それはその人の命・信仰の炎に油をさすことが出来る、またそうしてきたマザーの人間力、人間性の高さを物語っていないだろうか。

 人は自分にとって大切なかけがえのない出来事の最初の出会いの感動すら忘れることがあり、最後になってその価値に思い出すはめになること、また無くなってから、その価値に気付くのではないようにしなさいと、マザーは私たちの弱さ・人間の弱さを十二分に理解した上で労わることを、気付くことを、そして、祈ることを進めるのである。

 私はマザーのこの言葉を良く思い出し、考えることがある一時に、あんとの散歩の時がある。

 毎日の何気ないあんとの散歩は、あんが一番最初に散歩デビューした日のことや出会った日のこと、まだあんがこの世の中を今よりはぜんぜん知らずにおっかなびっくりしていた頃のこと、そのすべての成長の日々を思い出す度、思い返す度、私はトコトコと歩くあんに微笑むことは忘れない。

 そして、いつかあんと別れなければならぬ日、必ず来るその日を思えば、私の胸は熱くなり、目頭さえも潤むほどに身体はなり、そこから溢れるばかりの愛情とあんが私と出会ってくれた感謝の思いに包まれるのである。

 これが最後の散歩になっても良い訳では決してないが、思う存分にその日の散歩を楽しもうと思うのである。

 私の人生を豊かにするマザーのこの言葉である。

 あなたはこの言葉をどう受け取るのであろうか。

 そして、マザーはこうも言う。

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」

 私たちはまず思考に気をつけること、否定的ではなく肯定的に、破壊的にはなく建設的に意識と行動を向けることにより、人生は豊かになるのだと、そして、それは私たちのうちにあり、その選択も自由であるということを思い出させてくれてはいないだろうか。

 私たちは他人は変えることは決して出来ないが、自分自身を変えることは可能なのである。

 ゆっくりとじっくりと私たちがより良い人生を歩むことをマザーは願っているのである。


その後の緑のカーテン。

2013-07-21 12:58:45 | Weblog

 朝起きた時と仕事から帰ってきた時に朝顔の緑のカーテンを見るのがこの頃とても好きである。

 寝ている時や仕事をしている時に伸びたであろう蔓を見るのが楽しみなのである。

 きっとじっと見詰めている時にも、その蔓は伸びているのだろうけど、残念ながら私のこの目では、それを確認することが出来ず、ただ心で確認することを甘んじて許してもらっているだけである。

 今はベランダに張ったネットの四割ほどに伸びている朝顔の蔓である、ヘブンリーブルーという色の花を咲かせながら、暑さを喜んでいたり、たまにその葉は日中しょげていたりしながらも育っている、その姿は美しい。

 そう言えば、うちのあんは今朝の選挙の始まりの空砲の花火であろう音にブルブル震え、風呂場の前の洗面所の下に避難していた。

 「怖くないよ!大丈夫!」と言って抱いてあげても、心臓から身体までブルブルブルブルして「怖い~」となっていた。

 あんの大好物の鳥のササミを持って行ってあげても、それを欲しい顔振りは見せるものの怖くて動けず、あんの鼻先に持って行って、ようやくパクッと食べるくらいである。

 やはりあんはどうしても花火の音が嫌いなようである。

 そんなあんも可愛いのだが、少しは臆病者も克服してほしい願いもあるのだ。

 最近実はちょっと悩み事がある、それは右手の中指がバネ指になってしまっていること、朝などは曲がったまま固まってしまっていたり、カクカクし、ちょっと痛いこともある。

 さて、ギターを弾くにも支障があるので、どうにかせねばと思いながら何もせずにいたが、今日はネットでちょっと調べてみた。

 調べたものだけでちょっと対処してみようと思うが、誰か良い治療法など知っている方がいれば知恵を授けて欲しい。

 まぁ、悩んでいても、悩みに呑まれてならないので、冷蔵庫に冷やしてあったあんみつを食べた。

 あんみつ、美味しかった。


一人のひとりのドラマ。

2013-07-18 13:08:46 | Weblog

 彼は二週間ほど炊き出しには来ていなかった、いつもカレーの列の最後の方に並び、少し疲れた感を出しながらも髭は剃り身なりも綺麗にしていた50代半ばの男である。

 太陽とその暑さに瞳を眩しそうにしながら話す彼はなかなか良い男のように私は思っていた。

 カレーの列のおじさんたちに最後まで挨拶をし終わると、私は何度か彼と話しながら、カレーを配る場所まで戻っていったこともあった。

 その彼が「いや、参ったよ。とばっちりを受けちゃってさ」と片方の肩を少し下げ気味にいつも疲れた感の表情をしながら言った。

 「へぇ、どうしたのさ?」

 「とばっちりだよ、そんで捕まってさ。結局オレの方が悪いことになって、拘置所に二十日間もいたよ」

 彼はバッグの中から警察所で渡された逮捕後の経過などの束になった書類を私に見せながら、また瞳は陽射しに眩しそうにして苦笑いしていた。

 「えぇ、そうなの?何をしたのさ?」

 「いや、大井で変な奴がぶつかってきた。何度もぶつかってくるから相手にしたら、オレの方が悪くなっちゃったんだよ。んで田園調布の警察所にいたよ」

 「そうなの、それは飛んだとばっちりを受けたね」

 「あぁ、参ったよ」

 「面倒には拘らない方が良いよ」

 「ほんとそうだ。面倒には拘らない方が良い。でも、二十日間涼しいところで飯食えたし、それは良かったかな」

 「えぇ、そうなの、高い授業料を払ったね」

 彼は笑い頷き、恥ずかしそうに「そうだね、もうそんな奴がいても拘らないよ」と話を続けた。

 彼は学校のテストでも見せるかのように私に拘置所で渡された書類を見せたのだが、それは私にずっと見せたかったように思えた。

 バカなことを拘った口惜しさへのカタルシスを得るために、彼はそれを用意していたことが私には分かった。

 彼はいろいろと私の知らない拘置所でのことを教えてくれた。

 検事に会うときは手錠は外されるとか、移動時はずっと手錠がされていたとか、部屋は四人部屋で、飯は少なかったとか、金のある者は支給される石鹸や洗濯石鹸以外に買えるとか、パンツも貸してくれたが今度は自分のパンツが良い、綺麗だが他人のはいたパンツはやっぱり嫌だとか、釈放されたの夕飯のほんの十分前、だったら、せめて夕飯を食べさせてくれても良いんじゃないかとか、それから五時間掛けて歩いて山谷に戻ってきたとか、良い経験か悪い経験か分からないが、それも必然、必要な彼の時間であろうか、その高い授業料の日々をいろいろと照れながら苦々しく語ってくれた。

 私は彼のドラマのほんの一部を見させてもらった。

 彼のような人であれば、炊き出しに来る必要などないとも思えるが、私の知らないドラマを彼は長い間生きてきたのである。

 彼のことをMCの施設に戻ってから、福祉の勉強をしている大学生を連れて来ていた八王子刑務所の病院で働いている医師の小林さんに話すと、刑務所に来ている人たちにも一人ひとりドラマがあることを深く感じなおしてくれた。

 深く重いドラマがあることを。

 初見では分からぬ、ドラマがあることを。

 誰もの胸を痛めるほどのドラマがあることを。

 ならば、私たちは何をと思わざるを得ないもの、そう、それはただすでに自然のうちに生まれてくる愛を彼らにと思わざるを得ないのである。

 

今日はアサダの命日。

2013-07-17 13:07:08 | Weblog

 アサダが亡くなって、今日でもう12年になる。

 早いのか、遅いのか、もう分からないが、ただ分かること、確信していることは、もう私の人生の中でアサダのような友達を持つことは叶わないだろう。

 それは二十代の学生時代には戻れないこともあるのだが、それだけはなく、もっと特別な意味を成している、一言二言では到底言い表せぬ物たちがあまり多いのである。

 私はアサダを弟のように可愛がったし、そして、仲間であった。

 この前の日曜日は「アサダの飲み会」と称する集まり、アサダのお墓参りに彼を愛する友たちと行って来た。

 私は柄にもなく、その幹事をしている。

 その仕事の期限は私の呼吸が止まるまでであろう。

 幹事などと言う仕事は私の好まぬところであり、本来であれば、呼ばれていく方が楽であるが、何しろアサダのこととなると、やはり違うのである。

 毎回一ヶ月前には、みんなにメールをするが、その半分は返信はない。

 彼らがさすがに忙しいのか、どうなのかは分からない、だが、もちろん、家族を持った者などは忙しいであろうし、仕事も忙しくなる年齢に達していることは間違えない。

 そして、何よりある時から、微妙な思いを返信しない者たちに感じるようになった。

 それは行きたくても行けない惜しさ、その中に含まれる罪悪感と言い訳を感じるようになった。

 私はそれを私の影から知るようになったである。

 返信がないからダメな奴ではない、返信できない何かしらの理由があり、ましてや、誰もアサダのことを忘れた訳ではないことは十二分に感じるのである。

 なぜなら、返信のない者たちの中には親が亡くなったばかりの者や精神的に落ちている者などもいた、もちろん、他の理由もあるだろう、そして、彼らも場所は違えど、みんなには会えぬけど、アサダを思っているのである。

 「アサダの飲み会」の幹事は私の義務であると考える、そして、この義務は愛だと考える、だが、普段の私は「義務は愛でない」と考える。

 そこの矛盾を考えた。

 私のこの義務は使命であり、約束であり、友情であり、感謝である、そのようなところから生まれ、誰に何を言われたから、これをしているのではなかった。

 ただマザーの言うように、それをいつも喜んでしているかと問われれば、私の影は私に「そうではないだろう」と言う。

 だが、その影が私を思い正せてくれているように思えてならないのだ。

 だから、私はアサダに言った。

 「アサダ、間違えちゃいけない。ここに来ていない奴らもお前を忘れた訳じゃない。お前を愛していない訳じゃないんだ。奴らは今居るところから、お前を大切に思っている。なぁ、分かるだろ。もし分からないんだったら、オレがその愛を教えてやろう。天国にいるお前にだって、オレは愛を教えてやるからな」

 「テツ兄ィ、そんなことは分かっているよ。オレには彼らの心が見えるんだから」

 「だな、そうだ。兄さんは相変わらずだ。バカだなぁ・・・」

 「まぁ、そんなところもあるけど、オレはテツ兄ィが好きだぜ・・・」

 仏壇の上に飾られた古くなってきたアサダの写真より、私の心の中にある映像の方が、はるかに色鮮やかに映るアサダは言った。 

 「いつもありがとう、テツ兄ィ」

 私は涙が溢れてくるのを隠すために、すばやく芋焼酎の水割りを口に入れた。