カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

花吹雪。

2021-03-31 12:42:58 | Weblog

 多摩川はやっと護岸工事を終えていた。

 この護岸工事をしている時、臆病者の愛犬あんはその音に脅え、せっかく来たのに早足で逃げるように帰って行くのだったが、今日は久しぶりにゆっくりと草の上を歩き、楽しそうにクンクンしていた。

 私はそれを喜んだ。

 きっとあんと同じように楽しんだ。

 春の陽気を私たちは一緒に喜び感謝していた。

 頬に優しく当たる春風は黄色の菜の花の香りをほんのりと持って来てくれた。

 草の上には所々に黄色く輝くタンポポが太陽と見つめ合うように咲いていた。

 すべてが春を喜び、春に感謝し、いまを生きていた。

 そのことを私は優しく感じた。

 春の陽気を贅沢だと思うほどに堪能した。

 多摩川の沿線道路沿いには私が子供の頃からあった桜が数本ある。

 そこから花吹雪は生まれていた。

 花びらがひらりひらりと空に舞い、空に踊り、空に歌い、そこを通る者たちを祝福していた。

 
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炊き出しの人数。

2021-03-30 12:12:59 | Weblog

 随分前に書いたものをホームページを閉める時に読み返してみると、白髭橋のカレーの炊き出しに来た人数が一番多かった時は750人くらいだった。

 たぶんMC{マザーテレサの修道会の略}の炊き出しは東京では一番人数の集まる炊き出しだったかも知れなかった。

 その日は680個のカレーを作り、持って行ったが足りず、カレーをもらえなかった人たちにはビスケットを配った。

 それは派遣村が生まれた時ぐらいだと思う。

 それから炊き出しに来る人たちは少しずつ減って行った。

 亡くなったり、入院したり、生保を受けるようになり、山谷から離れて行った。

 山谷には日韓ワールドカップを契機に新しい建物がいくつも出来、街は綺麗になっていった。

 以前は酔いつぶれて路上に寝ている人を見ないことはなかったが、いつしか滅多に見なくなった。

 しかし、まだMCの施設の近くには雨に寝れながら路上で寝ている年寄りもいる。

 認知症の路上生活者もいる。

 ズボンの上にトランクスを履いた精神障害を持つ男性もいる。

 そして、コロナ禍で炊き出しに来る人数はゆっくりと増え始めている。

 先週の土曜日の白鬚橋では230人くらい、浅草方面に自転車でカレーを配った数は50くらいであった。

 浅草方面で配る人数も増えてきてる。

 しかし、忘れてはならないことがある。

 何かと何かを比べ、何を思うか、何を思っているか、何を思おうとしているか、それにどんな意味があるのか、私は気付いていなくてはならない。
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この時期の散歩。

2021-03-24 12:24:50 | Weblog

 昨日は三沢川、今日は多摩川に愛犬あんと散歩に行った。

 写真は昨日の三沢川のものである。

 この時期の散歩は何とも言えぬほど、気持ちが良いものである。

 植物が芽吹くように、私も少し私の生命を活き活きとさせているような気すらする。

 桜や菜の花や春の花たちをゆっくりと眺めていると、コロナ禍にいることすら忘れてしまうほどである。

 ならば、私はどこにいるのだろうか。

 私がただ私の捉えた世界にいるだけではないか。

 ならば、私はどんな世界に居たいと自問すれば、こんな春の穏やかな日の世界に居たいものだと答える。

 すると誰かが言う。

 「分からないのか、お前はいつも祝福されている」と。

 私は答える。

 「やはり私は愚か者である。すぐにそのことを忘れてしまう」

 愛犬あんは電柱を夢中で楽しそうにクンクンしている。

 今日も何気なく時は流れて行くが、忘れてはならない、それは奇跡であり、有り難い時なのである。

 小さなことに大いなる感謝を。

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レモンの蕾。

2021-03-22 11:31:59 | Weblog

 階段のところの窓を開けると、私の家の猫の額のような小さな畑が見える。

 昨日の春の嵐を受けて、植物が活き活きとしているのを見ようと窓を開けた。

 その畑で私が面倒を見ているのは主にシークヮーサーとレモンである。

 今年、実りの歳であったシークヮーサーは数週にわたっての休みの日の手入れにも関わらず、まだ取りきっていない実があるが、あと少しなっている実は鳥にあげることにした。

 シークヮーサーもレモンも剪定は終わり、蕾が顔を出すのを待っているところだった。

 一瞬目を疑ったが、レモンの幹に白くなっている部分が見えた。

 激しい風で幹が割けてしまったのだとすぐに分かった。

 私は手当をすぐにした。

 割けてしまったところよりも下の部分をノコギリで切り、切り口に薬を塗布した。

 レモンも今年は30個ぐらい収穫出来るほどになっていた。

 大きく成長したその分、風をもろに浴びるようにもなっていた。

 ノコギリで切ったレモンの枝をゴミになるように細かく切った。

 これから蕾になるであろう、小さな小さな芽を見つけると、心が痛んだ。

 この犠牲が何になるのだろうか、少し考えてみた。

 一つ二つの枝が無くなった、その分は光りを多く浴びる枝が出来た。

 一つ二つの枝があった、その場所に心地良い風が流れ、思いっきり背伸びをするように違う枝が伸びて行くだろう。

 私は私のレモンの復活を目にするだろう。

 心が痛んだ分、より喜んで、それを目の当たりにするだろう。

 違った枝に生まれた蕾により豊かに声援を送るだろう。

 そして気付く、犠牲は無駄では決してなかったと。

 あなたが教えてくれたことを。

 
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シスターメルシーマリアの声。

2021-03-15 10:39:20 | Weblog

 インドのロックダウン前からコルカタにいたダイスケ君が帰国する前日にシスターメルシーマリアの声を録音した。

 それを一昨日、帰国途中のデリーの空港から送ってくれた。

 世界で一番有名なボランティアの場所マザーハウスのボランティアに残ったのは外国人は四人だけだった。

 すでにロックダウンくらいから施設でのボランティアはなし、残った彼らは炊き出しや路上のボランティアをしていた。

 その全員にもう延長のヴィザは出なくなり、帰国と言うことになった。

 それゆえ、ボランティア担当だったシスターメルシーマリアは世界中にいるボランティアたちを励ましたく、名前を伏せて録音にした。

 シスターメルシーマリアが何を録音したかと言えば、マザーハウスでの朝食後の祈りと歌である。

 私たちボランティアは毎朝その祈りと歌を歌い終え、各施設にボランティアに向かった。

 シスターメルシーマリアの声はその光景を鮮やかに思い出させるに十分だった。

 シスターメルシーマリアの祈りは口にする、音に出すだけの祈りではなく、祈りの祈りであった。

 優しい歌声は聴くものをあたたかな気持ちにさせ、希望へと導いてくれる。

 誰もがマザーハウス滞在中に感じた歓喜がそこには溢れていた。

 私は50人ほどの友達にその録音を転送した。

 スペイン、イタリア、マルタ、カナダ、イギリス、マレーシア、アルゼンチンの友達から喜びの返信が帰って来た。

 もちろん、すぐにその声がシスターメルシーマリアだと気付いた日本人の友達も喜んでくれた。

 シスターメルシーマリアの祈りは世界中を繋がっていった。
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あんばぁーちゃん。

2021-03-10 12:40:06 | Weblog

 私の愛犬あんはもう11歳である。

 だから、ほんとうはあんばぁーちゃんになる。

 黒柴だから白髪も目立つようになった。

 これから老いていくことを見据え、階段にはマットを敷いたり、肉球の周りの毛を刈り、なるべく滑らないようにしたりしている。

 食べ物にも気を付け、鹿肉、グルコサミン入りの牛肉などもおやつとしてあげている。

 私があんを優しく撫でることは有限である。

 いつか必ず、私はあんの温もりを味わえなくなる。

 ならば、惜しみなく、あんを愛そうと思う。

 あんが幸せであれるように。

 それで私は十分、いや、十二分に幸せである。

 あなたの大切な人を大切に出来るように。

 この今を微笑んでください。
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本日でHPを閉じます。その2。

2021-03-08 12:08:49 | Weblog

 2003/05/28
 昨日は救急車で運ばれた叔父さんの見舞いに行って来た。午前中、白髭橋{火曜は弁当を500ぐらい配っている。昨日は525配ったが、それでも何人かはもらえることが出来なかった}の炊き出しに行き、彼が病院を抜け出し帰ってきていないかを確認してから病院に電話を入れ見舞いに行った。
 自分は以前、彼の福祉のものを見せてもらっていたが下の名前をどうも思い出せなかった。彼のテントの周りにいる叔父さん達にも聞いたがやはり下の名前までは誰一人知らなかった。それでも、もう十年の付き合いになる人から彼の話しをいろいろと聞いてみた。
 今年になってから、彼は結構高い場所から落ちて救急車で運ばれていた。その時、片腕を折り、頭も打っていたが腕の治療だけで、その日のうちに自分から病院を放れたらしい。その後遺症が出て脳出血の疑いが出たのだろう。
 病院へ見舞いに行く前にはいろんなことを想像した。自分が行くことでまた彼が病院を出たくなりはしないか?彼は自分よりも何倍も照れ屋でシャイである。そんな彼は病室でしらふで自分を受け入れ話しをしてくれるのだろうか?追い返されるのでないか?小心者の自分は頭を抱えていた。
 病院に行くと、やはり下の名前が判らないことでいろいろと病院内を廻されたりしたが、とりあえず、彼に会うことが出来た。
 彼に会う前には警備員の人がナースステーションに行き話をしてくれたが「いろいろと管が付いているから、どうかなぁ?」と言うことだった。看護婦さんも意識はあるけど・・・と話してくれたが、それでも、自分は「どうかぁ、顔だけでも見せてもらえませんか?」と言うと病室まで案内してくれた。
 緊張しながら病室に入ると、きれいな顔をした彼が寝ていた。
「・・・さん、どう?大丈夫?会いに来ちゃったよ」そう言うといつも彼のくしゃくしゃな笑顔で微笑んでくれた。
「きれいになって良かったね、きれい看護婦さんも優しいでしょ。良かったね」彼は返事をしてはまた笑っていた。その会話を聞いていた看護婦さんは元気良く「今日もしっかり磨きました!」笑顔で話してくれた。
 彼は今日になってから、やっと話しが出来るようになったとのこと。それでも、やはり少し前には帰る気満々でいたらしい。自分は何度も今度こそはここでゆっくり体を休めるように言い聞かせた。看護婦さんに彼がどう言う性格で前に高いところから落ちて頭を打っていることなども話し、くれぐれもお願いしますと頼み病室を出た。
 たぶん、歩けるようになったら彼は病院を出てしまうだろう。病気を治す意思のないものを無理やり病院に縛り付けることは誰にも出来ないのだから・・・。例え、それが死を意味するものであろうと自分は受け入れることが必要なのだろう。だけど、まだ何かが出来ると信じ、この体を動かしていく。
 また、明日、彼に会いに行こうと思っている。最近は少し忙しい・・・。病院の前には精神障害者の作業所に行くつもりだ。気が付けば、去年の今頃もこんな感じでアサダの病院や山谷に足を運んでいた。まったく、お金とは縁がないことばかりに一生懸命になる馬鹿だが、そんな自分を自分は結構好きなんです。いつだって好きな自分でいたいものですもんね。


 2003/06/16
  「独り言・・・」
 少し愚痴るのでどうか独り言として読んでもらいたい・・・。
 ・・・さんのベットの位置、部屋が変わっていた。
「酷い…」の一言に尽きてしまう感じがした。また、ナースコールも置いてくれていない。{以前はわざと看護婦のいる前で彼に話しかけて「これを押すと看護婦さんが来てくれるんだよ。苦しいときとか、何かしてほしいことがあったときにはここを押して呼んでいいんだからね。ナースコール必要だよね・・・」と言うと、彼も「・・・あぁ、そうだね、必要だね」と言ったので自分でナースコールを彼の手が届き押せる場所に付けたが、もう今回は自分が勝手にナースコールを付けてきた。もちろん、彼が必要だと話したからである}病院のトイレには石鹸すらない・・・。当たり前のことに気付かないのであろう。ホームレスを良く引き取ってくれると言われている病院だが、面会者もあまり来ないためか、第三者の目がないからなのか、その怠慢なあり方に悲しくなった…。
 「・・・さんが汗が出ているんですけど・・・」と看護婦さんを呼ぶと、「あぁー、食事の後だから、汗が出たのかなぁ・・・、後で着替えましょうね、風邪引くと良くないから・・・」と言ってタオルを胸元に入れるだけで帰ってしまった。滴るように出ているその汗すら拭わないで…。血圧が上がっているのか?下がっているのか?体温の変化はないのか?そのようなことを調べる行動もしないままに・・・。
 その日、彼は午前中に歩行訓練をした事すら思い出すことが出来ないでいるのに、医者、インターン達が来て、大勢の人に囲まれて驚いている彼に医者がかけた言葉は・・・。「しっかりと歩く練習しないとね・・・」とだけだった。その記憶もない患者に対して、不安を重ねているだけにしか見えなかった。脳に問題があると知っている医者なのに、機械的な行動で成すべきことをするだけの存在に見えた。
 差別しているのか?医療に携わる者としての職業観、倫理観が麻痺し低下していた。
 「・・・さん、困ったことはない、怖いことはない・・・?大丈夫なの・・・?」 そう自分が聞くと、少しの沈黙経て、「・・・あるけど、そんなこと、看護婦さんに言えないよ・・・」 彼がこう言う性格であることはすでにみんな分かっていることだと思う。ならば、どうして、「言えるように」もっと相手の心を大切にしないのか?心のケアをする時間はないというのか?彼の性格を読み取りはしないのか?忙しいからと言ってしなくてもいいことなのか?彼はお金も無くて治療を受けている羞恥心がある、どうして、それを和らげてあげるような不安を少しでも取り除いてあげられるような言葉を見つけない?どっちが上で、どっちが下?そんなことすら思い起こさせる。何を大切にすべきかを見失っている。
 きっと、これらは自分の中にもありえるものへの愚痴でもあろう・・・。少し放れた場所から自身を見れば、何らかしらは見えてくるものであろう。必ず、それらに気が付きたい、そう言ったものに麻痺はしたくない。そう祈り願う・・・。
 さて、今日もこれから会いに行って来る。ただただ、会いたいと思うから会いに行って来る・・・。何も出来ない自分だけど、していることすら迷いがあるけど、ただただ、会いたいと思う気持ちには迷いはないんだ。


 2003/09/30
 悲しい電話…
 見舞いに行っていた叔父さんの病院の事務から、昨日の朝に電話が来た。 
 彼が早朝に病院を抜け出してしまったとのことだった。前日から病院を抜け出そうとしていたらしい。病院側は今日中に戻ってくればベットはそのままにしておき、戻ってこなければ退院の手続きをするとのこと。
 さて…、自分はどうすれば良いのだろう…。
 彼は自分があげたスエットと寝巻きしか着る物を持っていない。もちろん、お金も一銭も持ち合わせていない。山谷までの帰り道も判らない。夜の寒さにどうしているのだろう…。自分のケイタイの番号を教えておけば良かったのか…?薬も飲まなくてはいけないのに…。彼は薬を飲むことが出来ない、病院でも目の前で薬を飲んでもらわないと隠してしまう。自分は事務の人や看護婦とも話し合い、施設に行くことを待っていたのに。自分と何度も約束していたのに。彼自身も施設に入りたいと思っていたのに。
 やはり自分には誰一人救えないのか…。そんなことは百も承知だが・・・。
 土曜、山谷で会えれば良いが…、そんな約束はない…。それでも、自分は願い祈る。逢えることを祈る。
 そして、ほんとうに良く話し合いたい。自分一人で無理あれば、彼の友達の叔父さん達にも話し合ってもらおう。
 彼にはもう路上での生活は無理だ。けれど、きっと施設でも同じように抜け出してしまう可能性もあるだろう。
 もし、逢えたとして、自分は彼の命を守るのか?それとも、心を守るのか?どうすれば良いのだろう…。いやぁ、出来ることなら、命も心も守ってあげたい。そのためのより良いものを見付け出そう、自分は諦めない、何がなんでも…。起きてしまったことを嘆き悔やんだところで何も始まらない。何かがまだある。きっと何かがまだあるんです。

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本日でHPを閉じます。

2021-03-08 11:59:20 | Weblog

 ODNの契約を今日で終えますのでHPの方は見えなくなります。

 もう随分、ブログの方に移し替えたと思いますのが、古い文章であるがせっかくのなので少し文章を載せます。

 2003/01/23
  長い間、HPの更新をしていなくてすいませんでした。今まではS氏にHPの更新をしてもらっていましたがどうにか自分でも出来るようになりましたので、これからはどんどんとまでは言いませんが、少しずつ書き足していきたいと思っています。
 昨年はほんとうに悲しいことが身の回りで多く起こり、生まれて初めてでした、こんなにも涙を流した年は・・・。
 そのなか大きく一つの理由は親友アサダが昨年七月に天国に行ってしまったことです・・・。脳腫瘍だった・・・、彼の余命を知ったのは三月終わり、医者から余命二ヶ月とのことだった・・・。
 どうしても何も手に付かない状態が長く続きました。そして、何も書く気にはなれなった・・・。しかし、今、心の落ち付きを見せ始めた今、どうしてもアサダのことを書いてから、また始め出したいと考えている。
でも、・・・そう言っても、奴のすべてなど書き切れるはずがありませんから、今日はそのほんの少し書いてみましょう。

 それは亡くなる一ヶ月ぐらい前のある日のこと。
 この日の午前中に意識を困惑していた、意識記憶が現在過去を相互に彼の頭に回っていた。自分がどこにいるのかさえ分からず嘆いたことだろう・・・。
 その午後、彼の上司が見舞いに来た。
 「どう調子は良くなった?」と聞くと・・・。
 「だんだん良くなっていますよ・・・」と薬の副作用で膨れ上がった顔の頬に笑みを浮かべながら指を上に上げて彼は答えた。
 今朝から心電図を付けているに・・・、酸素マスクも用意されるようになっているのに・・・、もうすぐ話しが出来なくなるのに・・・。
 「なぜだ・・・?どうしてそんなことが言えよう・・・、優しい奴だよ、お前はほんとうに優しい奴だよ・・・」 心のなかで涙を流しながら・・・、それでも微笑んで自分は彼を見つめていた。
 アサダのその姿にはほんとうに震え感動した。相手への気遣い、素晴らしいもので、アサダの深い強さを感じた。
 今思うとそれはオグ・マンディーノの「十二番目の天使」に出てくる言葉、そのものようだった。「毎日、毎日、あらゆる面で僕はどんどん良くっている・・・」 
 彼は死に近づく一方で限りなく生に近づいていた。命を輝かせていた。そして、自分に「人間は素晴らしい」と深く伝えてくれた、その命をかけて教えてくれた。
 自分の今までは、そう、マザーにあったこともすべてはこのためにあったのだと感じていた。しかし、自分は自分を捨てきれずあったに違いない。自分の心よりも彼の心を守ると誓ったのに、そう出来なかった思いがある。心のどこかでは自分のためだけに時間を費やしたこともあった。そう、自分は無力で弱かった・・・。彼の死を前にして無力なのは百も承知だった、それでも、「自分には何かが出来る、まだ・・・まだ何かが出来る」と信じ、入院してから週の三日は病院に行った。
 彼はこの十年間付き合いが途切れることがなった親友であり、弟のようだった・・・。
 何が何でもほんの少しの支えでいいから、自分の知り得る知恵知識を絞り厚め、愛を持って、彼の痛み苦しみを感じながら、その日、その日、その瞬間、瞬間を一期一会に思い、彼を見続けることは出来たのではないかと思っているが・・・。
 だけど、彼が亡くなり、彼が姿を変えた焼き場の帰りは、どうしようもないほど涙が出て来た。肩をふるわせ、声を出して泣いた。我慢しようとしたがどうしても止めることが出来ず泣いた。
 「アサダ、ごめんな、にぃーさんは力不足で何もしてやれなかったなよ、ごめんな・・・」 自分は何のためにマザーの愛を学んで来たのか?そんな思いが自分を包み上げた・・・。
 でも、・・・でも、自分には分かる。そんな情けない自分を彼は許してくれるだろう。ほんと良い奴だったから・・・。彼の声も聞こえていた・・・。
 「テツ兄ィー、そんな泣くなよ、泣いてもしょうがないだろ。いつも応援しているよ」
 入院中に彼は妹に自分の病気に対して、こう言っていた。
 「愚痴を言ってもしょうがねぇーだろ」 そんな奴だから許してくれるだろう。
 自分は答える・・・、「生きていく、悲しみも痛みも受けとめ生きていく、愛を持って生きていく、お前の分までしっかりな・・・」 そう約束をした、アサダとちゃんと約束をした。
 アサダにはいつも「ほんものになれ」と夢を語り話してきた。
 アサダは自分より先に「ほんものになった」 そして天国に旅だった。
 自分は一生寂しい、だが、一生嬉しい、なぜなら、奴に会えたからだ。素晴らしい人間に出会えたからだ。奴への感謝は一生だ。
 今回はこの辺にしときます。またいつかアサダのことは書きたい思いがあります。自分の文章は言葉やその状況設定が足らず、良く分からないこともあることでしょうけど、どうぞ、お許しください。自分の文章も「あらゆる面でどんどん良くなっていきますから・・・」 どうか、足りない分は想像して見てください、心で感じ理解してください。
 自分は同じようなことを何度でも書くかも知れない。けれど、それは簡単な理由…、愛を書き続けるだけですから…。


 2003/02/20
 丁度、この寒さが思い出させる、昨年の一月、二月、アサダとはメールのやり取りだけしかしていなかった。そのアサダからメールの返信が短くなっていた・・・、自分は何か嫌われたか?どうしたんだろう?彼のからのメールを見てはそんなことを考えていた・・・。
 12月、忘年会の次ぎの日、彼は風邪をこじらせ、病状の悪化に発車をかけてしまった。短いが入院もしていた・・・。
 3月初め、彼に昼食を一緒に取ろうと電話を入れた。
 彼と出会うなり、はっきりと自分の罪を感じた。片麻痺がある、片手は使えない、その使える方の手も常に震えがあった・・・。
 自分は自分の愚かさに悲しくなった・・・。そんな手じゃ、短いメールを打つことも大変な苦労だったんだろう。彼は食事をしている時もその震えを気付かれないようにするためにテーブルの上に手をずっと置くようにしてた。自分に気を使わせないためであろう。そして、男としてありたいがために弱さを示したくはなかったのであろう。自分と会って、たわいない話をしている時も彼は自身と病気を戦っていた。
 歩くのも二車線の歩道を信号が変わってから渡り、アサダが渡り終える頃にはまた信号が変わる・・・、そのくらいの速さでしか歩けなかった。彼を見送り、その後ろ姿を見て堪らなくなった・・・。
 一月、二月、彼は日に日に病気が悪化していたのだ。絶望を日に日に感じながらいたであろう。自分は知らなかった・・・、しかし、知らなかったでは許されない罪を感じる。親友の痛みを知らずにいたのであるから・・・。知ろうと思えば、知り得た痛みを知らずにいた・・・。会いに行けば、自分には一目で分かったであろう彼の痛みを・・・、日々の忙しさを理由に会いに行かなかった。だから、今も、こうして胸を痛める、激しく痛める・・・、それは私の罪だからだ。
 自分はこうすべきであったのに・・・、そう知っていたのに・・・。
 カルカッタで出会った二人のボランティアの話しを少ししよう。
 アンジェロはこう言う男だった・・・。
 その頃、二人で一日中、プレンダンで働いていた。昼食を取った後は必ず昼寝もした。
 アンジェロは御堂の前だったり、患者のベットだったり、自分はヤシの木の下や来客用の部屋の椅子を並べて寝たりしていた。
 体は二人ともかなり疲れていた。自分は良く気が付くと2時間以上寝ていたこともあった。
 6時過ぎ、すべての仕事が終わり、自分達が帰ろうとすると、結核の患者達が近くに寄って来た。自分達は働いている間はいつも120人以上いた患者の中の重傷患者「死に近い患者」のケアで忙しくしていた、だから、仕事を終えた後、少しの間だけでも話がしたくて来たのであろう。
 自分はそのとき、立っていることがやっと、もうただただマザーハウスのアドレーション「夕の礼拝」に行き、祈りたい思いで一杯だった。疲れを癒したかった。もう疲れきって患者達と話す力など残ってはいなかった・・・。
  しかし、アンジェロは違った。患者達が望むがままに話に付き合っていた。疲れている体だろうにそうしていた。
  その姿を見て、自分は気が付いた、自分の愚かさに気が付いた。自分は自分のことしか考えていなかった。恥ずかしくなった・・・、自分は何をしにこの場に来ているのかを忘れていたからだ。体が疲れているというだけで、愛から遠のき大切なものを忘れてしまっていた。自分を捨てきれずに彼らと会っていたのだ・・・。
 バーニーはこう言う女性だった・・・。
 その頃、自分はプレンダンの木曜休みにステーションの患者をピックアップするボランティアしていた。
 ある日、知的障害を持つ妊婦をシュシュババンに運んだ帰り道にこんなことがあった。
 自分達は疲れていた。バーニーは特に疲れていた。彼女はオートリクシャーで帰ろうとまで言ったくらいだからだ。自分達は近いから歩いて帰ろうと言い、バーニーも笑いながら「そうね、いいよ」と答えてくれた。
 その帰り道、バーニーは突然、「Tetsu、あそこにいる赤ちゃん、少し様態がおかしくない」と言って、その赤ちゃんの方に歩いて行った。
 見るとその赤ちゃんは腹部が貼れ上がり、腕は棒切れのように細く、見た目にも栄養失調だった。
 すぐ、バーニーは母親を呼び、紙に無料で子供診察をしている場所のアドレスを書き、そこに行くように説明した。文字が読めるか分からなかったので細かいところは自分が母親に通訳し、「近くに行ったら、この紙を誰かに見せて場所を教えてもらいなさない、お金は何も必要無いから、大丈夫だから行きなさい」と伝え、その場を去った。
 感動しました。さらっとそう言うことが出来るバーニーに感動しました。それも自分達の中で一番疲れているのに、彼女の目にはしっかりあまりなく貧しく弱く困っている人が映っている。どんなときもいかなるときも彼女には人が見えている。素晴らしい、その一言だった・・・。
 自分はこうした素晴らしい人達からいろんなことを学んできたのにアサダが、親友であるアサダが苦しんでいるときに、日に日に悪くなる体に脅えていた頃に手を差し延べることをしなかった・・・。
 自分は忙しいから言って、一日の内で1分でもいい、電話でもすれば良かったのに・・・。それに忙しいから言って大切なことをないがしろにする人達に何度なく傷付いて来たのに・・・、気が付けば、自分がそうであった・・・。
 愚かな自分は何度でも失敗を繰り返してしまう。それでも、アサダ、お前のような奴が自分を自分にしてくれる。
 アサダよ、今でも、にぃーさんはお前を思えば良く涙する。お前は一生自分に命の大切さを教えつづけていくんだろうな・・・、ありがとうよ、お前と出会えて一生幸せだよ、涙流そうともな、ありがとうよ、アサダ・・・。
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読みかけの本たち。

2021-03-08 11:49:55 | Weblog

 ライブも無事に終わった。

 歌う練習やライブの緊張から解放された私の心には今日の雨は優しく映る。

 気になるのは読みかけの本や新たに手に入れた本たちが部屋のなかに溜まって来たことである。

 マザーの修道会から出ている厚さ2センチ以上ある「あわれみの招き・マザーテレサ」も読みかけ、山谷に行く途中、電車のなかで読んでいる映画「スラムドッグ・ミリオネア」にもなった「ぼくと1ルピーの神様」はあと少し読み終える。

 先々週は山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}の施設に置いてあった女子パウロ会から出版されているホスピス関係の本を二冊もらった。

 女子パウロ会からはたまに出版物が寄付される。

 私の知っている先生の本があったのでもらって来た。

 それと神さまのカルテに出てきた島崎藤村の「夜明け前」を買った。

 と言うか、これは誤算だった。

 ドラマのなかで学士殿との別れの時に「夜明け前」を一冊、一止が置くのであるが、それを見て、すぐに私はアマゾンで注文した。

 もちろん、私は飲みながらドラマを拝聴していた。

 飲んでいる時にアマゾンはやはり失敗だった。

 「夜明け前」はほんとうは一部上巻下巻、二部上巻下巻の四冊だった。

 それも私は最初に注文したのは「夜明け前」二部の上巻だった。

 間違えなく、私は注意散漫だったし、ドラマのその場面と芋焼酎に酔っていた。

 ほんとうに飲酒ネット注文はしてはならない。

 私には罰則が必要なくらいだ。

 それゆえ、「夜明け前」四冊全部後日買った。

 読んでない本はまだある。

 この前ライブの時にPAのまりえちゃんがマザーの本を読んでいると言うので題名を教えてもらった。

 「マザーテレサCEO」と言う本である。

 驚きべきリーダーシップ原則とか、表紙には書いてあった。

 それを見て、あまり気が進まなかったが、すぐにその場でアマゾンで注文した。

 私は何か縁だと思った。

 それに私は私が望まない本も読む必要があると感じている。

 そこにはちょっとした未発見の私の宝がありそうだからである。

 あとは身体と一緒、自分の欲しいもの、望むものだけ接種していては健康にはならないということ。

 心も同様である。

 さて、あと一冊漫画がある。

 ユヴェル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」である。

 これは読みに急ぐ必要はないと思っている。

 何度も何度も読み直し、生活のなかに生かしていこうと思える漫画である。

 本たちを前に私は「宝の持ち腐れはもったいない」と呟き、「少し待っていて」と伝える次第である。
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もうすぐです!

2021-03-03 19:46:16 | Weblog

I sing from 8:30 Japan time.
Live delivery! You can watch it for free!

https://youtu.be/pXG8xNoy95k

無料で見れますので、どうぞ見てください!

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