カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

今出来ること。

2010-02-28 11:07:20 | Weblog
 カレーを配りに出ると雨が降り始めた。

 MCから出て、センターの向かいのドヤの壁に寄りかかるようにして立っていたおじさんがよろめきながらタバコに火を点けようとしていた。

 彼の股間から下は濡れていた。酔ってそのまま排泄してしまっただろうと思った。

 他の誰もそのおじさんには気が付かず、カレーを配る白髭橋の方に向かっていった。

 自分も同じように「カレーを配った後でおじさんに洋服を渡せば良い」と思い、おじさんの姿を確認してから5メートルほど自転車を走らせたが、やはり止まった。

 今出来ること、すぐにすれば良い。

 あとカレーを配り終えて戻ってくる時間まで彼がその場にいることなど分からない。また少しでも早くその不快感を取り除き、また人のあたたかな声、誰かが心配していること、その思いをいち早く伝えることが何よりだと思った。

 自転車を5メートル走らせる時間、行動するまでの決意が固まらなかった。その間、走馬灯まで行かないまでも、過去からの自分の後悔の絵図らがふつふつと上がってきた。

 二度と戻らないその時に生きていること、過去にする前に今出来ることを丁寧に行う。

 自分は自分の自由のなかから、それを選んだ。

 MCに戻ると、すでに昼食を用意するためにほとんどの人は二階に上がっていて、あまりそこには居なかった。

 寄付された洋服が仕舞われたタンスから下着、長ズボン、靴下を探した。

 ほんとうはブラザーの誰かか委員長に許可を取らなくてはいけないことも知っていたが、それをせずにいち早く彼に洋服を届けようとした。

 自分は自分の罪を意識し感じながら、洋服を持ち出した。

 彼のいるところまで行くと、かなり酒の臭いした。彼はふらふらと左右にゆったりとよろめきながらタバコを吸っていた。

 「洋服を持ってきたよ、はやくセンターに行って着替えると良い」

 彼は顔を上げ、自分の顔を確認するとにわかに笑顔を見せ、「すいません・・・、ありがとう・・・、センターに行って・・・」しどろもどろに答えたが、酔いすぎていてしっかりと答えることは出来なかった。

 罪を犯したが、これで良いと思った。

 酔っている彼の記憶には残らないかもしれないが、不快感は取り除ける。風邪を引く可能性も低くなる。

 自分は自分が罪人である確かな存在を大切に感じ抱きしめ味わい、雨を浴びながら白髭橋まで向かった。

 それからもう自転車を途中で止めることはなかった。
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チョコとあん。

2010-02-27 23:53:00 | Weblog

 今朝山谷に行く前、これからバリカンで頭を丸めようとしている時、石坂がゴミを出しに来たついでにチョコと一緒にうちに来た。

 もうあんは大はしゃぎで石坂の周りを走り回ったり、顔をぺろぺろなめたりしていた。あんは石坂のことが大好きみたいだ。

 チョコはずっと石坂から離れないようにして、あんには興味を示さなかった。

 あんはチョコに遊んで遊んでのポーズを取り、始終近くを走り回っていた。

 しかし、チョコがとことこと家のなかからボールを見つけくわえて来ると、それを石坂が投げるとチョコはすばやくそのボールを取ってくる。

 あんはその素早さに圧倒され、今度は尻込みし始めた。

 あんはチョコより先にボールは取れず、少ししょんぼりした感じでボールを素早く取るチョコをずっと眺めていた。

 {つづく}
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問題。

2010-02-26 12:53:34 | Weblog

 運良く雨も降らず、しっかりあんと散歩が出来た。

 今日は大学生がラクロスをしているなかをあんも走り回ってしまった。遊んで欲しかったのだろう、前足を上げて、ぴょんぴょん飛び跳ねて、遊ぼうと「ワン!」と言っていた。

 「すいません」と駆け寄り、あんを捕まえてリードをつけた。

 それまで十分に遊んでいたので、もう帰る方向に向かった。

 多摩川の信号のところでは老人と老芝犬に会い、あんは静かにお座りをして、老人に撫でられていた。

 老柴犬は14歳で片目はもう見えず、初めは友達として好意的に近寄ったが、あとは警戒して逃げ腰になっていた。

 老人からは「柴犬は逃げるから気を付けるように」と言われた。

 「はい」と答え、今日はもう逃げて行きましたと心のなかで思い、また気を付けようとも思った。

 あんは十分に遊び疲れたのだろう。散歩から帰ってきて少ししてからずっと寝ている。

 それが可愛い。

 問題がある。

 あと三週間後にはカルカッタに行くので、あんに二週間も会えない・・・。

 それはとっても寂しい。

 三日間あんに会えなかっただけでたいへんだった。通りすがる犬を見る度、あんのことを思い出していた。

 会えない二週間できっとあんはまた大きくなるだろう、それを楽しみにするしかない。

 変えられないものをどうのこうの思い巡らしても仕方がない。

 マザーのお墓参りが出来ること、あの雑踏に帰れることも自分にとってはかけがえのないことに違いない。

 あの地に立てば、今の問題は問題とならず、自分は何かに操られるように動くのであろう。その何かに身を委ねるようにいるのだろう。

 その時は必ず来る。

 今はただ十分あんと遊べるだけ遊ぼう。

 今は今を楽しもう。
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心の視力。

2010-02-25 12:58:11 | Weblog

 今日もあんと散歩した。あたたかくて気持ちのいい外だった。

 明日から雨なので今日はたっぷりとあんを多摩川のグランドで走らせた。40分ぐらいはリードを外し野放し状態であんを走らせた。

 いつも自転車に乗って散歩をしているおばさんにも会った。あんは大好きみたいで両手を挙げて遊ぼうとはしゃぐ。

 その姿が愛らしく、そのおばさんも喜んで、あんの相手をしてくれる。

 散歩している犬は体重15キロぐらいはある犬であんのことをあまり相手にしてくれない、きっと子供扱いしているのだろうけど、それでも、警戒したり嫌うような態度を示さず、穏やかに居てくれる。

 安心してリードがなくても、あんを自由にさせてあげられる。

 知らない犬がいるとやはりあんを呼んで、その犬が遠くに行く前でリードをつけたりもする。

 今日はたっぷり遊んだから、多摩川から帰る時はいつも抱っこしないと上がれない階段も自ら上がり、信号の前ではちゃんと待てをしてから帰れた。

 あんと散歩をするようになって、生まれてからずっと住んでいる町がまた新鮮に見えてくる。

 すずめが大きなパンくずを持って飛び去ったり、梅の花がきれいに咲くのを見たり、近所の知り合いたちが朝の挨拶を心地良くしている姿を見たり、年老いた女性が歩くが疲れ、一休みしているときに猫と話しているのを見たり、すれ違う身も知らずの他人があんの姿を見て笑顔になっていることを見たり、愛が花開く瞬間を多々目にする。

 春のかすみが柔らく優しくたたずむなかにいることを知り、数限りない恵みを与えてくれているこの世のなかを美しいと思わせてくれる。

 小さな幸せを見えるようにしてくれているあんとの散歩。

 心の視力は良くなっていくばかりである。
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河津桜。

2010-02-24 12:27:18 | Weblog

 月曜には河津桜を見てきた。

 まったくあっぱれな桜だった。その観光客の多さもすごかったし、また出店もほんとうに多かった。

 何より河津桜がきれいだった。想像以上であった。

 その花たちと遊んでいるような小さなウグイス色のメジロがとっても可愛かった。黄色の菜の花たちも満開で桜の色鮮やかさを惹き立てていた。

 春祝うかのようなその景色に人々は魅了され、その一人ひとりのなかに花を咲かせていた。

 命の洗濯の一つにでもなりえよう春祝う姿があった。

 笑顔と喜びも咲き誇っていた。

 
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小さな春。

2010-02-20 07:45:25 | Weblog
 いち早く春を探しに西伊豆に行ってきます。

 しばらく書くことを休みます。

 あんと会えないのはとっても寂しいけど、これも一つ自分の生まれて初めてのトレーニングになる。その心の作用を知ろうと努める。

 帰りには鮎のはらわたの塩辛うるかを買いたいと思っている。これで一杯やるのが堪らない。

 ただのんびりとしたいと思っている。

 小さな春、小さな春を見つけに行ってきます。
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ライオンのシャンプー。

2010-02-19 13:01:12 | Weblog

 一時期よりはあんのふけは少なくなったがすこし気になっていたので、ライオンのふけようシャンプーを買った。

 もちろん、犬用、そして、低刺激である。

 どのシャンプーがいいか、売り場の前で座ったり立ったりしていろいろと手にとってみたが、やはりよく分からない。そこでライオンならきっと安全だろうと思い買ってみた。

 安易な思いかもしれないが、そこには願いもあった。

 そして、今日多摩川から帰ってきてから、そのままシャンプーをした。

 最近はお風呂場があんのお気に入りで散歩から帰ってくるとシャワーを足にあてても気持ちよくしている。

 すかさずそこであやつをあげ、「足湯、気持ちいいね~」と何度も声を掛ける。

 今日は身体全部洗ったので、「うぅ~ぅ~」と言い、自分の腕にしがみついていた。これでお風呂場やシャワーを嫌いにならないで居てくれると良いんだが。

 あんはとってもきれいになった。毛はつやつやである。

 そうなると自分はあんと立場が入れ替わり、あんの匂いをくんくんする。

 風邪を引かないように部屋をあたためてあげた。

 そして、あんは健やかにお昼寝をしていた。
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命。

2010-02-18 13:09:08 | Weblog

 今日はまっちゃんの父親の通夜に行く。

 まっちゃんの父親が仲人したブリーダーの人からあんを頂いた。あんへのご縁を感謝しながら、そのことをこの数日ずっと考えていた。

 ご縁について、必然について。その有り難さについて。

 朝まで降っていた雪が止んで、いま陽が差してきた。有り難い陽射しが差してきた。

 すると、返信がなかった子から久しぶりにメールを来た。

 子供生まれた知らせだった。

 そして、シングルマザーになる知らせだった。

 どんなことがあったのか、決断にどれほどの勇気が必要だったのか。想像しても、それは決して仕切れるものではない。

 彼女は生まれてきた我が子をみて、自分の選んだことの正しさを感じずにはいられないだろう。

 そのことを決して忘れないで欲しいと願う。

 彼女に自分は勇気付けられた。この雪が上がった陽射しのように。

 この知らせも必然であることだったと疑いようもない。自分のなかに祈りが増える。

 有り難いことである。
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多摩川のグランド。

2010-02-16 13:03:17 | Weblog

 あんが一日二食になって五日目。いつも朝食後に散歩に出かける。

 ほんとうのところはよく分からないが、どうにかあんは一日二食に適応している。

 いつも仕事に行く前にお昼ご飯をあげていたのだが、その時にもご飯を欲しがったりしないでいる。

 少し申し訳ない思いにもなってしまうがあんを肥満にはさせたくはない。これで良いと思えるように努めている。

 今日は多摩川のグランドを散歩した。雨上がりの曇り空、見渡す限り誰も居なかった。自分とあんの独り占め、いや、二人占めの場所が提供されていた。

 そこで少し挑戦してみた。

 あんをリードを外して遊ばせてあげた。どっか遠くに行ってしまうかもしれない怖さもあったが、あんは自分の周りを「はぁーはぁー」言いながら元気良く走り回った。

 一緒に走ったりじゃれたりしながら楽しんだ。あんの顔が喜んでいるのが分かった。それを見るととても嬉しくなる。

 多摩川から帰るとき、沿線道路は抱っこして渡った。下ろすといつもとことこ帰り路に向かうのだが、遊び足りなかったのだろうか、帰りたくない様子で足を止め、動こうとせず、そして、また多摩川に戻ろうとしていた。

 「もう帰るよ、また今度ね」そう言って5メートルほど抱っこしてから下ろすとまたいつものようにとことこ帰り路に向かった。

 あんは今日も確かに成長している。有り難いことと素晴らしいことである。

 曇り空も清々しく思えた。
 
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久しぶりに。

2010-02-15 12:56:54 | Weblog

 久しぶりに二年前のブログを少し読み返した。

 自分はその時、何を思い、何を感じ、何を考えながらあったのか、改めて読むと胸に熱いものが込み上げ、脳裏には鮮やかな映像としてその場の雰囲気も身近なものとして現れてくる。

 自分の右手を見れば、この手で何千何万と言う人たちに触れてきた。そこから自分は何者であるか、その問いを何度も祈りのなかに問いただしてきた日々があった。

 時は確実に流れていく、記憶は深いところ、浅いところを外観からの自分個人の影響の仕方、思考のあり方により、目まぐるしく自由にあり、時に突拍子もなく現れもし、またすぐさま治まり消えたように小さくもなっていく。

 それらすべて分かり切らないものを含め、自分というものが成り立ち、いまこうしてある。

 それは自分は自分でありながら、にもかかわらず、自分だけではないと言う証しを示してるかのようでもある。

 過去の自分が語りかけ、また問いかける。

 意識せずにそうしていることすらある。

 そのなか自分は呼吸をやめない。愛することも祈ることもやめない。

 きっとこの先もそうであろう。

 愛することを祈り、祈ることを愛していくのだろう。
 
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