カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

明け方まで。

2014-07-29 13:01:12 | Weblog

 月曜日は休肝日にしている。

 睡魔が襲い掛かってくるまでの間、昨夜は遠藤氏の「楽天大将」を読みふけっていた。

 12時半ぐらいから読み始め、一時半には寝たいと思いながらページをめくっていたのだが、いつしか私の睡魔なるものは小説に引き込まれてしまい、どこかに消えてしまった。

 この「楽天大将」はまだ読み終わっていないが小説の引きがとても強かった。

 それにはストーリーの展開、内容プラス、私の住んでいる区内の登戸や向ヶ丘遊園、多摩川など出てくると、どうしても、あともう少しもう少しとページをめくってしまうのであった。

 5時15分にはあんの散歩に行くために目覚ましを掛けていたのだが、勝敗は「楽天大将」に付き、私がベッド元の電気を消したのは4時だった。

 すでに敗戦を決めていたがちゃんと5時15分に起きて、母親が行くあんの散歩を見送り、ベッドに帰った。

 私は休肝日明けは目覚めが良くて、朝の涼しい時間にあんの散歩に行くのを楽しみにしていたが、昨夜は手に取る本を間違えてしまったようだ。

 まぁ、それも仕方がない、あんにとっては私と行く散歩は長くなるので散歩嫌いのあんは助かったかもしれない。

 
 この暑さの中、元気なのは緑のカーテンの朝顔と夜香木である。

 私は彼らの日々の成長を見るのは飽きないのである。

 ヘブンリーブルーの朝顔はまだつぼみもない育ちざかりである、というのは今年このヘブンリーブルーは新しく苗を買ってきた訳でなく、二年目であり、芽が出るが遅かったためと、周りの植物が先に大きくなり、日光があまり射さなくなっていた起因があっただろう。

 しかし、今は朝夜とその成長の変化を見るのが楽しみである、伸び始めた茎をネットに巻いたり、形を作っていくのがほんとうに飽きないのである。

 この前もしっかりと朝顔の根本に竹炭をまき、土をもって、成長しやすいように整えたりもしていた。

 私はそんな地道なことをするのが好きである、なぜなら、そこには期待、希望と祈りがあるからかもしれない。

 夜香木と言えば、いっせいに咲くのではなく、枝先にちらほら愛らしく咲き始めている。

 夜に咲き、夜にだけ香るこの花を晩酌の終了時にひと嗅ぎする香りが何とも言えぬのだ。

 休肝日明けの今宵を冷たいビールとともにその香りも今から楽しみにしている。
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隅田川の花火大会。

2014-07-28 13:20:24 | Weblog

 土曜日は山谷のMC施設の屋上で隅田川の花火を見た。

 昨年は最初の三十分で黒雲とともに強い風が吹き荒れ、いきなりの大雨となり、とても残念な思いをしたのだが、今年はとても綺麗に花火を見ることが出来、十分に楽しむことが出来た。

 よって、私はしっかりと飲むことが出来、酔っていた。

 屋上から見た花火はちょうどスカイツリーに朝顔が咲くように見えてとても綺麗だった。

 私はひとたび腰を据えて飲むと、その腰はとても重くなり、一度も立ち上がることもせず、ずっと同じ場所で隣にいた主にシスターのボランティアの谷口さんと話をしながら、ずっと花火を見ていた。

 谷口さんとはマザーの素晴らしさについて、酔いとともに話を深めていった。

 やはり私はマザーの話をするのが好きである。

 谷口さんも私と同じようにボランティアを通して、マザーの感銘を受け洗礼を受けた一人であり、大先輩である。

 西新井からシスターたちも花火を見に来ていた。

 その中に日本人のシスターでマザーの「Come be my light」の翻訳のチェックをしていたシスターがいたので、それがどうなったかを聞いてみた。

 すると、もうチェックは終わり、秋には出版になるとのことだった。

 それを知り、私は喜んだ、この「Come be my light」はマザーをより深く、より身近に知る切っ掛けを多くの日本人に与えるだろうことを大いに期待出来るものである。

 さあ、出版されたら、是非「Come be my light」を読んでみてください。

 マザーの心に私たちの心を重ねるようにして読めば、そこからマザーの声が聞こえるかもしれない、マザーとのあなた特有の特別の生きた出会いが待っていることでしょう。

 あなたの持つ苦悩の意味を変えてくれるかも知れない。

 あなたの持つ苦悩の意味にかけがえのない価値を与えてくれるかも知れない。


 
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夏の再会。その5。

2014-07-25 13:08:01 | Weblog

 ジェラートはいつもツヨシの驕りだった。アサダの墓参りの後は真冬であれ、必ずここに来てジェラートを食べたものだ。そして、ツヨシは店員の人たちといつしか顔見知りになり、自分の息子のためにいつもたくさんの友達が墓参りに来てくれることを感謝しながら自慢することもあった。息子を亡くした父親の哀しみをその人たちも和らげてきてくれたことを私は見てきた。

 二十数人が注文し、一人ひとりがそのジェラートを手にするまで今年はミエコがレジの傍で財布を開けたまま立っていた。そして、一番最後に自分のを注文し、その財布を閉じていた。

 ジェラートを食べ終わり、タクシーを呼んでもらうために霊園の受け付けに戻り、タクシーを待つ間、そこで私は集合写真を撮ろうと言った。

 「よし!みんなで写真を撮ろう。もう二度とこのメンバーで集まることがないかも知れないし、今年の記念だ」

 初参加のタマの五か月の赤ちゃんや渡辺君の一歳半の子供と来ていたし、ヒロの子供はもうヒロと同じ背丈の可愛い女の子になっていたし、キョウイチの娘のあやちゃんも去年よりも大きくなって、またいっそう可愛くなっていた今日と言うかけがえのない時を思い出に残したかった。少しずつ増えていくアサダの新しい友達もちゃんとアサダに見せたいと思っていた。

 飲み会はアサダの実家で行われ、墓参りだけで帰った渡辺君とノリマツ、その子供以外は全員集合したので家の中はえらいことになっていたが、タロウは顔をくしゃくしゃにして笑いながら、ほんとうに嬉しそうに「同窓会じゃん!」と言ってはしゃいでいた。

 タロウにとってはこうして墓参りの後にアサダ宅で飲むことは初めてだった。タロウは夏休みに親に海にでも連れてきてもらった子供のようにすでになっていた。

 がしかし、かぶっていた帽子をとれば、その後頭部はカナシイことになっていた。それをサワキに教えると「ダメダメ!」と言う仕草を笑いを堪えて伝えてきた。ユウにも教えると、すぐには何のことかは分からなかったようだったが、後になって吹き出しながら、「てっちゃん、ダメだよ」と言ってきた。

 笑いと笑顔が飛び散る中、私は声を出した。「まぁ、んじゃ、飲み物をもって早く乾杯しよう。では、今日はミエコの挨拶で行こう」

 ミエコはツヨシと違って短く感謝の気持ちを告げた。

 そして、みんなで酒を飲み始めれば、そこは20年前の文化学院の雰囲気、誰もが大人になる前の姿に戻っていた。アサダもそこにいた気がした。そう感じたのは私一人だけではなかっただろう。
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夏の再会。その4。

2014-07-24 13:07:41 | Weblog

 この日アサダの父ツヨシは入院していたので、みんなの顔を見ることが出来なかった。そのツヨシはいつも言っていた「自分の息子は亡くなったが、その代り、たくさんの子供が出来た」と墓参りに来る私たちを子供のように接してくれる。アサダの死がなければ、こうした付き合いは到底有り得なかっただろう。そして、何もよりもアサダの誰からも好かれたその人間性がまったく薄れずに生き続け、私たちの繋がりを強くしている。毎年のアサダの飲み会、夏の再会は命の恵みと友達の大切さを私たちに伝えて続けている。それはアサダが口にして言えなかった遺言の一つかも知れない。集まる誰もが口にしないがそのようなことを何か一枚羽織るような形で感じているように思う。

 アサダが亡くなってから、ツヨシが上尾駅前で満面の笑みでみんなを出迎えなかったのは今年が初めてあった。見舞いには来なくて良いと言っていたとのことだったが、きっとみんなに会いたかっただろう。この夏の暑さが一段落する頃に快気祝いをしようと思っている。

 だから、いつも霊園には行かずに自宅で宴会の用意をしていた母ミエコがみんなを引率して墓参りに向かった。墓参りをしている間に遅れてきた連中も揃った。その中のタロウは墓参りに来るのはもう10年ぶりぐらいかもしれない。久しぶりに会ったタロウは小太りになっていた。だが、そこには二児の良いお父さんになった暖かみもあった。がしかし、そのお腹は笑いにために突かれた。

 アサダの墓の前では、線香を供えた後、みんなそれぞれ時間をとって手を合わせ、何か会話をしていた。何を話すのだろうか、と眺めていると、合わせた手を開いた後の顔たちは何か澄んでいた。それでも、その周りで「暑い暑い」とうな垂れながら、やっぱり今年も暑いとアサダの嫌がらせを感じていた。

 知らない間にオサノの首にはAKBのタオルが自慢げに巻かれていた。しかし、それには誰も敢えて触れていなかった。

 墓参りの後はすぐ傍にある荒川を眺めに行くのだが、今年はミエコ引率なのでそれはなかった。毎年ここでツヨシの話をしばらく聞くことが私たちの義務でもあったのがツヨシ不在のため、それが省略された。

 墓参りの後は隣にある牧場に行き、ジェラートを食べることになっている。それにはみんな二十数人がダラダラと歩いていくのだった。

 私も最後に「じゃーな、またな、アサダ」と言ってついていった。

 {つづく}

 
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夏の再会。その3。

2014-07-23 13:06:17 | Weblog

 上尾駅に二時過ぎに着いた。上尾は毎年この日夏祭りで駅前は賑わっている。この賑わいも毎年恒例のものである。またここに来た、アサダに会いに来たという感傷的な感覚をしみじみ感じさせる。改札を出るともう何人かの友達は待っていた。その集団の先頭でアサダ母ミエコが「テツ兄、久しぶり」と出迎えてくれた。

 ほとんどが一年ぶりか、または数年ぶりの再会になるので容姿の変化が目立つ者もいる。だが、そこに馴染むのには時間は要らなかった。とにかく自然と起きる笑いが次々と私たちを学生時代に戻していく。また新たに身体に墓参りに向かう燃料のガソリンを入れるようにサワキとキョウイチと一緒にキヨスクに行き、ビールを買い、少しみんなと離れた場所で一服する。そこに山形からこの日のために来たトシちゃん、そして、オサノ、ユウが加わり、アサダの話となった。

 そこでキョウイチはアサダが亡くなってから二年後にアサダの夢を見たことを言う、それがあまりにもリアルだったので怖い感じもしたと話した。ユウもアサダの夢を見たと言う、そこでアサダは「オレはちょっと忙しいから、もう行く」と言いながらも見守っていると語ったらしい。そんな話を聞くと歳の所為か、涙腺のパッキンがバカになり始めている私は思わず涙が出そうなったが堪えた。その近くではオサノが話に加わるでもなく、ただ夏祭りに賑わう人たちを一人何か嬉しそうに眺めていた。ハゲ散らかした髪の毛をかき上げながら。

 待ち合わせは二時上尾集合だったが、二時半になってようやくエリが来た。エリはずっと音信不通だったが、数日前にフェイスブックで文化学院の友達に連絡をするようになり、私はアサダの飲み会に参加するように連絡した。そして、運よく新しく始めた仕事の休みが取れ上尾に来たのである。もう12年ぶりの再会、ずっと引きこもりでこの頃やっと社会復帰をし始めたところだとのことだった。エリと最後に会ったのはこのアサダの飲み会だった。その時も少し不安定な精神状態であることが分かったが、エリはみんなの前で夢にアサダが出てきて、「ケンちゃんが私を救ってくれた」と話していた。それ以来の再会だった。幼馴染のような何の遠慮もいらぬ私たちを前にしても少し緊張していたのだろう、エリは髪の毛を何度もかき上げながら、みんなに頭を下げた。

 後はタロウとコウキチが遅れてくるだけだったので、他のみんなはアサダの眠る霊園にタクシーで向かった。今年は例年のアサダの嫌がらせと噂される暑さではないことに
みんな少しほっとしているようだった。ちなみにサワキはこの日毎年の暑さから、今年もしっかり警戒して替えのシャツをバッグに二枚用意していた。

 {つづく}

 
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夏の再会。その2。

2014-07-22 12:44:54 | Weblog

 いつまでも変わらぬ過去に縛られていても何も変わらぬことを知りつつも、13回忌と言うことでサワキに改めてアサダが亡くなった日のこと、その時のサワキの気持ちを聞いてみた。思い返せば、今までそうしたことをサワキには聞いたことがなかった。それはやはり思い出すことがあまりにも辛かった私が居たことを知った。

 「あの時は現場で仕事をしていて、テツさんから連絡をもらったんですよ・・・」少し重い口調でサワキは答えた。

 私にはその記憶が無かった。あの日、誰にどのようにアサダの死を知らせたのか、私は覚えていなかった。ただ茫然としていたことだけは覚えている。

 そして、サワキも私同様にただ茫然としていたように私には思えた。サワキはそれ以上のその時のことは語らずにアサダの見舞いに行った時のことを教えてくれた。

 「オレ、テツさんからアサケン{アサダのこと}の病状のことを聞いて見舞いに行って、ずっとアサケンの足をマッサージしたんですよ」

 「そうか、マッサージしたのか。その時、アサダは何か言っていたか?」

 「サワキさん、良くなったら西荻に飲み行きましょうよって言いましたよ」

 「エビスか・・・」その時サワキは西荻窪に住んでいた。駅前にはエビスと言う居酒屋にあり、アサダはそこに行きたかったのだろうと思った。それとやはりアサダは治ると信じ、見えるはずもない、実体のない未来を見ていたのか、いや、それだけではない、見舞いに来たサワキに心配を掛けたくないから、そう答えたのか、私には分からない、その時のアサダの心を思えば胸は激しく痛むが、アサダの本心は分かる訳がなかった。私には分かろうと務める勇気がなかった。私は常に私の心だけを守ることだけで精一杯だったように思う。

 その時のアサダの様態といえば、全身に走る痛みに顔を時折歪めることもしばしばあり、その顔は腫れ上がり、もう歩ける状態ではなかったのである。

 そんなにも苦しい状況と確実に感じているだろう死への恐怖の中でアサダは先輩のサワキを思う優しい心を一ミリも無くさなかった男であったことだけは間違えないことである。

 「アサケン、がんばれよ!行こうよ。エビスにさ。なぁ、アサケン。だから、がんばれ!」

 きっとその時サワキはアサダにそう言って励ましたように思う。病室の二人の会話が見えたようだった。サワキは自分の願いをそのまま伝えただろう。切なる願いを伝えただろう。

 そして、心優しきアサダは晴れ上がった顔であれ、笑みを浮かべていたように思えた。

 {つづく}
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夏の再会。

2014-07-21 13:15:19 | Weblog

 「お疲れ~、サワキ」

 「あっ、お疲れ様です。テツさん、すいません。先にやってます」

 上尾に向かう新宿駅のプラットホームのベンチに座りながら、サワキはすでに缶チューハイを口にしていた。私もすぐにキヨスクで500のスーパードライを買った。

 サワキとは毎年アサダの墓参りに新宿のこのキヨスクの前で待ち合わせをし、一杯やりながら上尾に向かうことにしている。もう何年もそうしているのだが、いつからそうしたのかは覚えていない、たぶん、最初からそうしたのだろう、アサダの墓参りに行く寂しさから「まぁ、飲むか」みたいな感じで缶チューハイかビールを買い、墓参りに行く勢いを付けていくのだった。そして、この日は十三回忌のアサダの墓参りであった。

 私は毎年このアサダの墓参りの幹事をしている。幹事など面倒なことは私の柄でもないのだが、やはり弟のように可愛がっていたアサダのこととなると違う、私は生涯この幹事を続けることを決めている。そして、墓参りなどと言う畏まった言い方は、私たちには似合わない、照れ臭いので「毎年恒例のアサダの飲み会」としている。

 「まぁ、乾杯。最近どうよ?」

 「いや~、テツさん、金曜にやっちゃいましたよ。現場で6メートルの高さから落ちて足首を捻挫しました」

 「おぉ、そうか。でも、まぁ、骨折していないんだろう。それだけで済んで良かったな」

 「そうですよ。良かったです」

 「で、どう、その他は元気でやっているの?子供のひぃーちゃん{サワキの娘}は元気か?」

 「ヒビですか?元気ですよ。もう参りますよ。やんちゃで・・・」

 サワキはそう言ってデジカメをバックから出して、私にひぃーちゃんの写真を見せ始めた。

 電車は遅れていた。サワキはもう一つ缶チューハイを買い、私たちは遅れてプラットホームに入ってきた電車に乗った。

 「今日は誰が来ます?」

 私はコウキチ、タマ、ユウ、キョウイチ夫婦、タロウ・・・など来るメンバーを伝えた。それと誰が返信がないのかも教えた。

 私たちが卒業した文化学院の学生と言うものは呑気な輩が多く、しっかりとした社会生活を営めるものはいないと言っても過言ではない連中の集まりであり、その代り個性が極めて強いのである。そんな半人前の輩だが、しかし、それでも時とともにどうにかみんなそれなりの大人になってきた。

 私は毎年メールを送るがまったく返信のないものも一人や二人ではない、半数近かったりもする。それでも、返信がないからと言って、次の年にメールしないと言うことは絶対にしない。そこには愛がないし、アサダが寂しがるし、アサダが望むことではないことを私は知っている。そして、二三年返信がなかったものがちゃんと返信をしてくれたり、またずっと音信不通だったものが急に連絡をしてくれたりすると私はアサダと一緒にそれを喜ぶのであった。

 サワキと私は返信のない友達を心配し、また妊娠中で来れない友達の喜びを分かち合い、それぞれの酒を口に運んだ。

 その私たちの間にはアサダもきっと居たのかもしれない。

 {つづく}

 
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何気ない一日。

2014-07-17 13:09:43 | Weblog

 今日も暑い。

 緑のカーテンの朝顔は順調に伸びている。

 今年はそこに夕顔も顔を見せる予定だが、まだ二階まで上がってきていない。

 ネットをたどりあがってくる夕顔を眺めては「ガンバレ」と声を掛ける。

 シーツやタオルケットなどを洗濯し干した。

 雲が少し多くなってきたが、どうにか乾いてくれると嬉しい。

 今日はアサダの命日である。

 今年で13回忌になる。

 アサダの居ない世界をもうそれだけ私は生きてきたのである。

 アサダが亡くなったあの日を思い出す。

 私はアサダの死を覚悟はしていたが、それが覚悟になっていなかったことを知った。

 哀しむ前にアサダの親たちと病棟の待合場で通夜、葬式の話をした。

 私は抜け殻になり、異空間にいるよう感じに包まれていた、何も手にできないという感じだった。

 しかし、集まってきた友達を自然と慰めることを始めていた。

 誰もが初めてアサダの居ない世界に入って来る戸惑い、哀しみ、嘆き、落胆だけが有り余るその中で、どうにもならないことを受け容れるしかない痛みを感じていた。

 人を笑わすことが大好きだったアサダの死の前で。

 「アサダ、今でも思うんだよ。兄さんがもっとうまくお前を天国に送ってあげることが出来たんではないかとな。告知もせずに、最後まで激しい痛みの中、頑張っているお前に周りのものたちはガンバレと言い続けるしかできなかったことを。でも、それで良かったのかな。お前は言ったな。「こんな嫌な薬を飲むのは治るためだ。そうじゃないと飲まない」と。でも、きっとお前はあの時、怖くてしょうがなくて、そう言わなければ耐えられなかっただけじゃなかったのか。お前の死にゆく恐怖を兄さんは何も背負ってあげれなかった。ごめん・・・。ずっとそう思っているんだよ。でも、お前は間違えなく言うだろう。「テツ兄、良いよ、オレはそんなこと思っていないぜ。最後までありがとう」と」

 今日も何気ない一日で過ぎる。

 しかし、同様にかけがえのない一日のように思える。
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暑い暑い。

2014-07-16 12:59:40 | Weblog

 一日何度も思わず口にしてしまう「暑い暑い」と。

 山谷の路上生活者のおじさんたちにとって、夏は冬より厳しいと言う、夏の暑さには逃げ場がないとのことだ。

 北風よりも太陽が強いと言うことであろうか。

 いや、また冬になれば口にしてしまう「寒い寒い」と。

 不平不満を口にしても現状は変わりようがない、変わることの出来るものは内面であり、他者他物ではなく自己である。

 ならば、微笑もうではないか、笑う門の福を頂こうではないか。

 きっとケンジは穏やかに微笑んだろう。

 「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き。みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい」と思いながら。

 土曜にブラザーから聞いた。

 あのカニューレの男は病院に行ってくれたと。
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そう言えば。

2014-07-15 12:56:34 | Weblog

 今朝5時前あんに起こされた。

 普段は起きないだろうこの時間に起きたのはいくつかの起因がある。

 一つには昨夜は休肝日だったので酒を飲んでいなかったこと、もう一つは連日のワールドカップの観戦のために5時に起きていたためである。

 またワールドカップも終わってしまったので、運良く目覚めたら、あんと一緒に朝焼けを見に行きたいと思っていたところもあるからであろう。

 それに週末だけに関わらず、あんとゆっくりと会話しながら散歩がしたかったのである。

 もうセミの声も聞こえ始め、夏真っ盛りになり、お日様が上がり始めると黒柴のあんには暑すぎて、外に出かけるのを嫌がるのである。

 また私には夏の早朝の涼しさは子供の時にラジオ体操に行く時の思いやクワガタ採りに行く時の楽しみなどを未だほのかに感じさせる匂いをかぐことができ、何ともノスタルジックな思いに包まれる。

 普段起きない時間に見慣れた街を歩けば、ただまだ目を覚まさない街は非現実のようなものにも見えて、私の脳にも、あんの脳にも普段は感じない何かを感じさせる。

 特にそれを感じるのは未だ人気のない駅前である、あんはこの駅前がずっと何だか怖いらしく歩きたがらない、これでは駅で主人を待つ忠犬ハチ公にはなれないと今朝は駅前を歩いた。

 やはり苦手な駅前はあんは注意深く警戒しながら緊張して歩いていた。

 私は「大丈夫!大丈夫!ガンバレ!ガンバレ!」と忠犬ハチ公になろうとは思っているはずもないあんを励まし、京王線と南武線の駅前を歩き、そのまま多摩川に向かった。

 河原に出れば、一晩呼吸をした草たちの吐息が涼しい風に乗り、心地よく感じられる。

 やはり早起きは三文の徳だと、分かりきっていることを分かり直した。

 オレンジ色の朝日には会えなかったがオレンジ色の朝焼けが待っていた。

 あんは久しぶりに歩く場所だったので楽しそうにクンクンしていた、それは駅前を歩く緊張感からの解放、自由の獲得のようであった。

 散歩から帰ってきて、仕事までまだ時間のある私は二度寝する、読書しながら睡魔を待ち、それに身を委ねるのが何とも気持ち良かった。


 そう言えば、昨日書こうと思って忘れていたことがあった。

 ドイツ優勝が決まり、すぐにドイツ人の親友のグレッグに祝勝メールを送った。

 私には彼が喜ぶ姿が容易に目に浮かぶ、昨夜の彼のビールはとても美味しかっただろう。

 その彼から聞いたのだが、彼がカルカッタに滞在していた数年前にアルゼンチン代表はマザーハウスを訪問したそうである。

 ボランティアたちはメッシを見たいと思っていたのが、そのメッシはあまりに人が多くなってしまうことを警戒して来なかったらしい、それでボランティアは残念がったと言うことだった。

 何度目かのカルカッタだったか忘れたが、私がカルカッタに滞在していた10数年前、日本代表もカルカッタに来ていたことがあった、その時私は行かなかったが数人の日本人のボランティアは親善試合の応援に行った。

 しかし、やはりアルゼンチン代表のようにマザーハウスの訪問をすることなどなかった。

 ちなみにマラドーナも2008年12月にマザーハウスを訪問している。

 
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