カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

山谷もお休み。

2020-02-27 11:33:03 | Weblog

 今日、ラインで連絡が来た。

 山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}の炊き出しもしばらく中止するとのことだった。

 これは日本の今の現状を考えれば仕方がないことと思う。

 おじさんたちのなかにはほんとうに困る人もいると思う。

 でも、きっとブラザー{修道士}たちは自転車に乗り、食べ物を配りに行ったり、施設に来たおじさんたちには何か食べ物をあげることだろう。

 私には祈ることしか出来ない、胸を痛めることしか出来ない、信じることしか出来ない。

 私に出来ることをただ変わらずに丁寧に心を込めて、今日も喜んで、それをするだけである。

 悪人探しはしない、もし悪人探しをするのであれば、それは私のうちの悪人を探すだけである。

 昨日の灰の水曜日から復活祭までの四旬節である。

 四旬節はカトリック信者は簡単に言うと何かを我慢したりするのである{もっと知りたい人は「2020年四旬節教皇メッセージ」で検索すると良いと思います}。

 私の友達は甘いものを食べなくしたり、大好物を取らないようにしている。

 私はと言えば、去年と同じである、ビールを飲まない、借りたトイレが汚れていたら掃除することである。

 しかし、このトイレ掃除は四旬節ではない時も、実はずっとしていた。

 私にとっては当たり前のこととなり、誰にも見られずに掃除することが楽しみになっている。

 あとは回心である。

 どれだけ私が回心出来るかを思い続けられる大切な時間となる。

 さて、それをするためにこれまた大切な私の身体をまず労わろう、仕事に行く前に筋膜リリースをしよう。

冬のパッションフルーツ。

2020-02-25 11:47:08 | Weblog

 陽射しの強い暑い夏の時期だけの緑のカーテンのつもりでいたが、私の家にはまだ今もなお緑のカーテンが存在する。

 それは九月に実となったパッションフルーツがまだ二十個ぐらいあるからだ。

 普通パッションフルーツは実がなってから二ヶ月ぐらいで食べれる状態になると、どこを調べても同じようなことが書いてある。

 だが、それは主に六月開花の場合のようだ。

 私の家のパッションフルーツは二年目、一年目は花を持たなかったので冬の初めに小さく剪定し、地植えしていたものを鉢に移し、部屋に入れて越冬させてみた。

 それを春にまた地に戻し、新芽はかなり伸びたが、六月には開花せず、九月になりようやく開花となった。

 花はいっせいには咲かず、初々しく付いた蕾を毎日観察し、朝に咲いた花を探しては昼に受粉をさせてきた。

 雨の日には受粉は成功しない、雨に花粉が流れてしまうからである。

 そうした運命を乗り越えた実がまだなっているのだ。

 いつなれば食べれるのか、紫色に色づくのか、毎日見守っていたが、そのうちにあっという間に冬となり、除夜の鐘の音も聴き、歳を超えてしまった。

 寒さに弱いパッションフルーツと言われるが、今年の暖冬のためか、今もなお黄色の枯れ葉を付けながらも健在である。

 冬場になり、葉に密が入ったのか、野鳥がその葉をついばみに良く来るようになった。

 それを眺めるのも一興である。

 そして、やっとその時は来た。

 パッションフルーツは自然に落ちるのが食べ頃と言うその時が。

 運良くその実は地面には落ちずに茎と茎の間には挟まって落ちていた。

 こんな時季外れのパッションフルーツを食べて、お腹はくださないか、と言う心配はあったものの、やはりここまで長い間、実となり、陽を浴び、雨風を凌ぎ、寒さに耐えてきた勇敢な実の功績をたたえるためにも私には食べるしかなかった。

 半分に切ってみた。

 写真で見た実の中身そのままだった。

 スプーンで中身を救って食べてみた。

 「酸っぱい・・・すごく酸っぱい・・・でも、どこかに甘みもあるような気がする・・・」

 でも、すぐに何かに言い訳するようにかも知れない、いや、勇敢な実でのある、何かを正当化しなくてはいけない、この酸っぱさは身体に良いと私は判断を下した。

 お腹はくださなかった。

 今は六月の開花に向けて、いつ短く剪定しようかと思いを巡らせている。

 今度は甘い甘いパッションフルーツを食べようと言う淡く甘い期待を込めて。

恩返しの男の日々。その4。

2020-02-24 14:38:45 | Weblog
 「恩返しの男の日々。その4」


 「久しぶり、どうしたの?病院に行ったんじゃなかったの?」

 「うん・・・」

 私は二週間ぶりに恩返しの男に会った。

 彼に会いたいと思っていた私の思いが天に通じたと言う、奇跡が私を静かに待っていてくれた。

 彼は一人きりでMC{マザーテレサの修道会の略}の横にある福祉センターの塀の前にある花壇の縁に腰を掛けていた。

 私の質問に彼は相変わらず正確に何も答えず、ただ首をぎこちなく回すようにして、返答するのを誤魔化していた。

 「カレーは食べに来ない?同じ場所に居るんだったら午後に持っていくよ」

 「良いよ。白髭に行くよ」とだけ答え、ずり落ちてしまうのだろう、着ていた大き目のジーパンのボタンの辺りをより合せて片手で持ち、その場から逃げるように立ち上がると歩いていった。

 私はその後ろ姿を見守るしか出来なかった。

 彼がほんとうに白髭橋まで行くかどうかは分からなかったが、彼はちゃんとカレーを食べに来ていた。

 「良く来たね。ベルト要るんじゃない?あとであげるよ」

 「良いよ。要らない」

 そうとだけ下を向きながら答えた。

 以前よりも少し小奇麗になった感と歩き方もしっかりしていた。

 やはりほんとうに病院には行ったのかもしれないと私は思った。

 ただ路上に戻ってきたことを思えば、病院で何があったのだろうか、福祉を得ることは不可能だったのかも知れない。

 たぶん、彼は誰からの質問にもはっきりと答えることが出来なかったのかも知れない。

 私と同じように彼を助けようとした人の苦悩を感じた。

 名前さえ明かさない彼である、その彼が苦手な質問を繰り返さないように話すことに、私はまた十分に気を付けようとしていた。

 私は彼の世界には入れない、きっと誰も彼の世界には入れないのかも知れない、また強引に土足で入るようなことはしたくはない、ただ彼の世界の端でずっと彼を見守っているようにありたいと思った。

 寒くなっていく季節だった。

 せめて、何かもう一枚羽織るものを来週には彼に用意したいと思った。

 彼はTシャツとトレーナーしか着ていなかった。

 その渡し方、その接した方にも十分心を配り、また何よりも彼にまた会えるように祈りを欠かさず、今日も彼に会わせてくれた神さまのお導きを信頼するのであった。

 私がその資格を持てるようにとの祈りを初めとして。
 
 しかし、それからまた彼の姿を見ることはなかった。


恩返しの男の日々。その3。

2020-02-20 11:42:18 | Weblog

 「恩返しの男の日々。その3」


 先週の山谷は月末{2012年9月}だったので久しぶりに500人以上のおじさんたちがカレーを食べに来た。

 二回目のカレーをもらうために列の前の方のおじさんたちは急いでまた並びなおす。

 だが、この日は500人ちょっと並んでいたので、二回目は10個ほどしか余っていなかった。

 にもかかわらず、すでに100人以上並んでいた。

 10個ほどのカレーが一瞬にして配られてしまうと蜘蛛の子を散らしたようにおじさんたちははけて行った。

 その姿は彼らの空腹と痛みの生活とを痛烈に物語っていた。

 もしかしたら、もう一つ食べるのではないか、その微かな希望がゆえ、列に並んだが、無駄な努力だったと分かると肩をおろし帰っていくその姿は私の知りえない彼らの厳しい日々が浮き彫りにされる。

 私はそれをじっと眺めていた。

 私はそれを可能な限り深い思いやりと祈りに変えようと試み、痛みを感じながら、彼らを静かに見送った。

 午後ロザリオの祈りの後、10個ほどのカレーを何人かのボランティアは浅草方面に自転車に乗り配りに出かけた。

 私はカレーとビスケットを持って、恩返しの男に会いに行った。

 ブラザートーマスは彼の姿が数日前から見えないと言っていた。

 それでも、もしかしたら、今日はまた同じ場所に帰ってきて、空腹のまま寝ているのではないかと思い、彼に会いに行った。

 だが、やはり彼は居なかった。

 彼はどこに行ってしまったのか、いまどうしているのだろうか、お腹を空かせてはいないだろうか、そんなことばかり、どうしても考えずにはいられなかった。

 そこに彼の傍にいつもいたおじさんがもらったカレーを立ちながら食べていた。

 以前恩返しの男が誰かに言われたのだろう、ダンボール敷いてニラとキャベツを売っていたことがあった。

 それはただの店番をさせられていたのだが、そのおじさんは恩返しの男を見てはクスクスと馬鹿にするようにして笑っていた男である。

 彼に恩返しの男のことを聞いてみた。

 恩返しの男は数日前に病院に連れて行かれたとのことだった。

 どのような状態で、どのようにして誰が彼を病院に連れて行ったかまで分からなかったが、少し安心した。

 私はいつも思っている、心ある人は私たちだけはないと。

 きっと心ある人が「神さまの計らい」を表したのだろうと思った。

 恩返しの男には今度いつ会えるのか分からない、もう会えない方が彼のためかもしれない、路上に戻れば、また同じような生活がただ待っているだけだからだ。

 入院して、そのまま福祉を受け、どこかの施設で穏やかな人生を送って欲しいと願った。

 恩返しの男に会えないのは寂しいが、そんなことはどうでも良いのであった。

 大切なのは貧しい人たちのなかでもっとも貧しい恩返しの男のすべてであるからだ。

 

恩返しの男の日々。その2。

2020-02-19 12:24:18 | Weblog

 「恩返しの男の日々。その2」


 次の週の土曜日も私は午後一人でカレーを恩返しの男に渡しに行った。

 彼は一週間前とまったく同じ場所で同じ体制で寝ていた。

 人通りは多くない商店街の道の端っこで、胸の上で両手を合わせながら仰向けで寝ている姿は、寝ていながらも祈っているようにも思えた。

 彼の容姿はイエスのようだった。

 私は「食べて、今日は何も食べていないでしょ」そっと声を掛けると、彼は目を開き、私を確認し、合わせていた両手を解き、起き上がって頷き、カレーを手にし、ゆっくりと食べ始めた。

 あえて無理やりの彼の言葉を聞くようなことはしなかった。

 ただ彼がカレーを食べ終わるまで、静かに彼の傍にいた。

 何かを語ることも必要だろうが、誰かが傍に居ると言うことも必要だろう、私はその静かな方の選択をした。

 一週間前「名前はない」とまで言う、彼が言った意味を尊重したいと思っていたからかもしれない。

 すぐに彼はカレーを食べ終えた。

 その容器をもらい、「じゃ、またね」と言って、彼の傍を離れた。

 彼は首と頭を掻いていた。

 もうこれ以上汚れようのない身体、その身体が自分の物であるのかを確かめるが如く、手を伸ばし、彼は彼に触れていた。

 命を継続するために、そうあるのか。

 痛み苦しみを乗り越えるために、そうあるのか。

 それは私のような者が安易に想像しえるはずもなく、そこは神さまとの関わりでまとまりを得ているのだろうか。

 答えのない問いがそこら中ににじむように溢れ出して行った。

 MC{マザーテレサの修道会の略}の施設に戻り、ブラザー{修道士}たちと彼の話しをした。

 ブラザーノアスも二度彼に名前を聞いたことがあったが、「名前はない」と言ったと言っていた。

 そして、ブラザートーマスは彼の風貌はゴルゴダの丘のイエスのように見えたと言っていた。

 彼の有り様は無実の罪を背負っているのではないか、それはイエスと同じではないかと私には思えてならなかった。

「恩返しの男の日々」

2020-02-18 11:56:14 | Weblog
 
 「恩返しの男の日々」

 昼食を終え、ロザリオの祈りのあとに、いろは商店街に一人で寝ているだろう恩返しの男のことが気になっていたので、私は一人でカレーを持って彼に会いに行った。

 彼はまったく同じ場所に仰向けに寝て、お腹の真ん中に両手を合わせ、両膝を曲げ、裸足のまま寝ていた。

 黒ずんだ両足の下には汚れて脱いだか、または誰かにもらったがまだ来ていないTシャツを下にして、MC{マザーテレサの修道会の略}が夏休みになる前に誰かにもらったであろう運動シューズは揃えて近くに置いてあった。

 私はそのシューズを見て、それでは足が蒸れて水虫にもなりかねない、そして、かゆくなり、どうにもならないのだろうと思った。

 私はある意味、姿勢正しく寝ている彼の姿を見て思った。

 それは生きるために最小限の力、またそのエネルギーを温存するように生きていた。

 だから、歩かず、人と関わらず、人目を気にせず、自身を汚いものにすることによって、他人を排除しているかのごとく、病理的になることにより、生き延びているかのようだった。

 私は彼に声を掛けた。

 彼はすぐに私だと分かると、起き上がった。

 それでも、一目ちらっと私の方を見ると、もう顔は合わさず、頭や身体を掻きむしっていた。

 不精髭は伸びに伸び、目は窪み、頬骨はくっきりと両頬に浮かび上がっていた、その姿がなぜかあのゴルゴタの丘を歩く、みすぼらしいイエスの表情のようにも思えた。

 姿は似ていた、いや、似ても似つかぬと思う者もいるかもしれないが、私にはそう思えた。

 それはマザーがもっとも貧しい人たちのなかに神さまがいると言い続けたことを信じていたからかもしれない。

 彼は手渡したカレーもすぐには食べようとしなかった、私が傍にいると食べづらいのかもしれないと思ったが、空腹であることは容易に想像できたので彼に食べるように進めた。

 やはり今日は朝から何も食べていないとのことだった。

 ぎこちなく右手でカレーを持ち、左手でゆっくりとカレーを食べ始めた。

 私は彼の路上の日常を侵さぬようにしながら、しばらく彼の傍にそっといた。

 そして、ふと彼に名前を聞きたいと言う思いが浮かんで来た。

 だが、山谷ではおじさんたちに名前を聞くと言うことは、いろんな意味を含む、捨て去りたい過去、知られたくない過去、自分のことなどほっておいて欲しい、だからここに彼らは居ざるをえない人たちである。

 以前は名前を聞くと怒り出すおじさんもいた。

 しかし、なぜかその時に聞きたい思いになった。

 それはもっと彼に近づきたいと願う気持ちがあったのだろうか。

 私はまず礼儀の如く、自分の名前を告げ、彼に名前を聞いた。

 すると、彼は「名前はない」とカレーを口にぎこちなく運びながら、何気なく答えた。

 怒ることもなく、疑うこともなく、いや、諦めが混じっていたのか、どうかは分からないが、自分などに名前は要らぬとでも言う感じで「名前はない」と答えた。

 「そうか、名前はないのか」

 私はそれを自分の想像と違った答えにある種のショックを感じたが、すぐに押し殺し隠し、また何気なく「そうか」と答えた。

 またしばらく彼の傍にそっといてから、彼に「大事にね、また来るよ」とだけ告げ、その場を離れた。

 もう名前などどうでも良いのかもしれない、名前があることによって、何かに生きるエネルギーを使うことより、無気力に近くある方が生きながらえることを苦しい日々の生活から無意識に学び取り、それに適応し、病理的になることにより、呼吸を続けることが可能に、彼の場合になるのかもしれないと思った。

 そうしたことが命を繋ぎとめているものの一つとも思えた。

 「名前はない。名前はない」

 「ならば、あなたは誰ですか?神さまですか?」

 私は答えのまとまらぬ胸のうちに呟いた。

 「あなたは神さまですか・・・?」

恩返しの男。

2020-02-17 18:58:00 | Weblog

 「恩返しの男」 2012年7月。


 「先生、どうか助けてやってください。服も汚れきっているし、足も顔も真っ黒じゃない、それに凄く痩せている、痩せすぎだよ・・・」

 「うん、このままじゃ死んじゃうそうだね・・・」

 「そうだよ、俺はまだ良いけど、彼は・・・」

 「うん、出来ることはするからね。でも、なかなかうまく行かないんだよ。彼は知的障害を持っているし、食べ物を渡そうと約束しても、その場に来れないんだよ」

 「そうだよね、でもさ・・・」

 以前、彼にカレーを食べに来るように約束した土曜日、彼はカレーを食べに白髭橋には顔を見せなかった。

 その日の午後、浅草方面に残ったカレーを配りに行った私は彼に山谷掘で会った。

 そこで私は「どうして白髭橋に来なかったの?」と彼に聞くと、彼は「助けられた鳥に恩返しをしていたから行かれなかった」と微笑みながら答えた。

 その時、私は「助けられた鳥に恩返し?」とは、どういったことがあったのかを聞きたかったがあえて聞かなかった。

 彼があまりにも嬉しそうにしていたからだった。

 「助けられた鳥に恩返し」とは昔話に出てくるような話しであるが、私は彼のような者が天国に行く者であろうと思った、彼のような幼心を持つ者が。

 その彼が久しぶりに白髭橋にカレーを食べに来た。

 「良く来たね」と私は笑顔で迎えると、「うん、うん・・・」と顔を少し上げ、目を合わせたり、また目をそらしたりしながら答えた。

 その彼の後ろにいたおじさんが彼のことを心配してくれて、私にどうにかしてほしいと頼んできたのだった。

 それほど見るからに不健康そうであり、目も窪み、不精髭を伸ばしっぱなしの汚れきっていた彼はカレーをもらうところで何か話していた。

 カレーを二つ手にしていた。

 カレーを渡すボランティアがどうして良いか、分からないでいるところ、すぐに私が行き、彼には二つ渡して良いと言うことをボランティアに伝えた。

 彼はさっきまで一緒にいた友達にあげるから二つ欲しいと伝えたらしい、こうした願いは普段誰に対しても聞き入れることはしないのだが、私は彼を特別扱いした。

 私がその非難を浴びることも覚悟し、また彼がカレーを二つ持っていることで誰かに嫌なことを言われないように、彼の傍にしばらくいた。

 彼はお腹が空いたからと言って、人を騙すような知恵がある訳はなく、またそれが妄想でも何でも良いと思った。

 とにかく彼には生きる力となる食事を取って欲しかった。

 彼が座り、カレーを食べ始めると、隣に座り、彼に話しかけた。

 彼の首はまじかで見ると象の肌のような状態であり、黒くただれていて、痒みを伴うのであろう、掻き傷から出血している場所が何個かあった。

 二ヶ月前に私があげた服をまだそのまま着ていた。

 「さっきまで居たのにな、友達、どこに行ったのか?」

 それは一つのカレーは自分のためのカレーではないことを示しながら、彼はカレーを食べ始めた。

 彼は左利きだった。

 もう何年も前から彼を知っているのに、その時、それを始めて知ったことに私は何を見てきたのかと不甲斐なさを感じた。

 私が彼を特別扱いしたことに対して、それを見たおじさんたちのなかには不満を吐くものもいたかもしれないが、目の前の彼とのこの瞬間を大切にしてかった。

 誰かに嫉妬や嫌な思いをさせてしまったかも知れないが、私はそう選んだ。

 彼はカレーを一つ食べ終えると、もう一つを持って帰って行った。

 私は彼の不安定に歩く後姿を見守った。

その日の午後、浅草まで自転車でカレーを配り終えて帰ってくる帰り道、彼がいつもいる場所に行くと、彼は膝を抱えたまま塞ぎこみ地べたに座っていた。

 彼の前にはニラとキャベツがあった。

 ニラは一束20円、キャベツは一個70円と書いてあるダンボールがあった。

 彼はここに座っていれば良いと言われたらしい。

 その彼がさっき彼が言っていた友達だったのかは分かり得ない。

 白鬚橋で会った時にはビーチサンダルを履いていた彼は素足に靴を履いていた。

 この店番も恩返しなのか。

 その近くでは彼が店番をしているのを面白がって見ている精神障害を持っているだろう、薄ら笑いのおじさんが一人立っていた。

路上の詩人。その4。

2020-02-13 11:35:43 | Weblog

 「日本なんて大嫌いだ!ほんとうに酷い国だ!障害者を、何もしていない障害者を袋叩きにするなんて・・・日本は変わった・・・ぜんぜん良くなくなった・・・」

 彼は激しい怒りをぶちまけ始めた。

 彼の言っていることは怒りに集中はしていたが、やはり支離滅裂だった。

 彼は治まりきらなかった怒りの感情を誰かに出さずにはいられないことは私にはよく分かった。

 私は「そうか、それは酷いね」と相槌を返しながら、彼の怒りを真正面から受けた、それが私に授けられたものとして大切にしようと試みていた。

 「両国に行けば、友達がいて、よくしてくれるから。オレだって、ちゃんと面倒見てくれる人がいるんだ。でも、そこまで行くお金がない。もう歩きたくもない。あなたが詩を買ってくれれば行ける。そのお金で」

 「えぇ、詩を?」

 「そうだよ、オレを詩を買うんだよ」

 「なんで?買わないよ」

 彼は以前、私に自分の詩集が国立図書館にあると自慢していた。

 彼は詩人だったのであろう。

 彼の怒りの感情はどこをどう通って詩を売ることに行きついたのか、即興でまたチラシに詩を書き、それを買えと言うのか、目の前で私は彼の話しを聞いていたが、まったく分からなかった。

 しかし、彼の生きる本能がどうにかしても両国まで行くバス代が必要だと言うことを言葉にしていったのかも知れない。

 詩を買う素振りを見せない私に見切りを付けたのか、私の傍に来たボランティアの和田さんの方に声を掛け始めた。

 また唐突に詩を買えと言うようなことを話し始めていた。

 私は彼が和田さんと話している時に、ジーンズのホケットから250円を出していた。

 そして、彼に「250円でバス代は大丈夫?」と言って渡した。

 「これは必ず返すから!ありがとう!」

 「うん、返してね」と言って、私は自転車に乗り、ペダルを漕いだ。

 彼はとっても喜んでいた。

 カレーをもらうより、その何倍も喜んでいた。

 たかが250円なのに、それだけなのに。

 彼は大きな声で「持つべきものは友達だ」と言っていた。

 私はそれでも分からなかった、私がしたことが最良だったのか、どうなのか、それを問わずにはいられなかった。

 ただその時は普通にそうしようと思い、そうしただけだったにも関わらず。

 

私の祈り。その12。

2020-02-12 12:44:47 | Weblog

 いま部屋のなかには岡さんからもらったアンさんの新しいアルバムが流れている。

 一曲目はオルガンの満月の夕だった。

 しっとりとした優しい感じが部屋を満たしてくれた。

 私もまた次のアピア40のライブでは満月の夕を歌おうと思った。

 「私の祈り」を数日にわけてあげてきた、これが最後である。

 ホームページがもう更新できなくなってから、かなり経つので近いうちに閉めようと思い、その片付けと言うか、ブログの方に書いたものを移している。

 20年以上前の私の祈りはいまの私に何を祈ってくれているのか。

 私は何を語り返せるのだろうか。

 私はまた祈り続けて行かなくてはならないようである。
 



 「今まで許せなかった事、ひとつでいいから許してみてください。それがあなたの成長になるのです」

 「わたしはうたいます。こころあるかぎり、友があるかぎり、愛する人があるかぎり、心に光りがあるかぎり、そして、闇に向かってうたいます。
その闇に向かって手を延ばすのです。このからだを使って、光りのほうへ、愛に近いほうへと」

 「私はいつも苦しむものから学んできました。そして、これからもそうするだけです」
 1999/11/24

 「今のあなたの孤独はあなたの愛の価値を高めている。今のあなたの虚しさはあなたの幸せの価値を高めている。今、わたしがあなたに知ってほしい事です」

 「悩んでいるなら笑ってほしい、楽しむことを学んでほしい」 
 1999/06/18

 「奇跡を信じ望む前にあなた自身を信じてください。何があっても、あなたはあなた自身から離れてはいけない」
 1999/06/19

 「あなたが決める幸せです。心を開いて物事に取り組んで欲しい。目だけでは見えないものにも気づくはずです。傷つくこころをしっかりと持ち合わせ、愛する心を育てるんだ」
 1999/02/13

 「言い訳をするようにきれいごとをならべる私のいやらしさ」

 「誰もが愛を持って生まれてきます。不必要な事などなにひとつありません。悲しみや苦しみもあなたのためにあり、必ず喜びにかわるのです。弱気にならずあなたを持つのです。始めることから始めるのです」
 1999/1/18


私の祈り。その11。

2020-02-11 13:12:18 | Weblog

 「Master of Lifeになろう。自分の夢の一つです。人生をいかなる時も楽しむ事の出来る人に、小さな感動を大きな喜びに変え、苦しみの中にいても、光ある方へ、愛ある方へ心を向かせていける人生の達人になろう」
 2001/01/01

 「私には泣きながらだって、どうにかして励ましたい人がいるんです」
 2000/10/11

 {ベトナム傷痍兵の医療施設のあるベットの傍らの壁の落書き}
 「大きな事を成し遂げる為に、力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱いものにされた。より偉大な事が出来るように、健康を求めたのに、より良い事が出来るようにと病気を頂いた。幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、神を求め続ける様にと弱さを頂いた。人生を楽しもうと、あらゆる物を求めたのに、あらゆる事を喜んで受ける事が出来るようにと命を授かった。求めた物は一つとして与えられなったけど、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」

  ・・・この文がいつも自分の心を揺さぶります。彼は苦しみ抜いた末、誰に告げようとした物を書いたのではありません。日記のような走り書きの落書きです。手では触れることの出来ぬ者へ告白だったかもしれません。
 あまりにも誠実で人間的で正直なところが私の心に痛く残るのです。自分自身と照らし合わせて見るのですが・・・。自分から出る答えは矛盾の中に消えていくようです。私は私と言ってしまえば、それで済む事ですが、そうはいきません。自分の卑しさ、哀れさ達がどんどん心を食い潰して行く様でなりません。自分の人生がいつか答えを運んでくれる様に思います。
 幸せを決めるのは常に私達自身です。遠回りしても構いません。必ず有るんです。人間は弱いものかも知れませんが信じる心の強さを少しずつ育ててください。
 2000/09/26

 「心の貧しさは、どうにかしても避けなければならない」
 2000/09/15

 「あなたを許します。私を許してください。これが私の生涯のテーマになるでしょう」
 2000/05/23