はっきり言って何をどう感じているのか、言葉では表現尽くせないし、分かりきらないがただただマザーハウスに行き、マザーのお墓の前に行くと、それ以前とまったくと言って良いほどに何かが変わり、何かが動き始め、私の胸が熱くなり、込み上げてくるものが溢れ出す感覚を味わう。
きっとそれは一人ひとり違うのであろうがマザーの愛を感じるのではないだろうか。
それはマザーが生きていた時と何ら変わらないものを感じて見ているのかもしれない。
マザーが亡くなり、もう20年以上経つが、私はマザーハウスに行くと、ほんとうにマザーが至る所から未だに歩いて出てくるように感じることがある。
不思議なことであるが、それは嘘ではない。
私たちはどうマザーを見ていたのだろうか、どうマザーを今もなお見ているのだろうか。
有名人の例を二つあげてみる。
インド首相ネルーは1961年デリーに一つ目のシュシュババン{孤児の家}が出来た時、その落成式でマザーにこう言った。
「マザー、ほんとうは私たちは貧しい人びとと同じくらい、あなたを必要としているのです」と涙ながら話した。
1971年パキスタンとバングラディッシュの戦争時、カルカッタでマザーが働いているのを見たアメリカの上院議員エドワード・ケネディーは公の場にも関わらず、涙を流した。
その後、彼はダムダム空港の近くの大きな土地をマザーに寄付をした、それはカルカッタで一番大きなマザーの施設グリーンパークである。
二人はマザーのなかに何を見たのだろうか。
私たちはマザーのなかに何を見るのだろうか。
私はマザーが私のうちにある、どうすることも出来なかった渇きを癒やしてくれる、癒そうとしてくれているのではないかと感じることがある。
マザーの傍に行くだけで、私は癒されていた、私の愛への渇きを癒やしてくれたと思わずには居られない。
このことは生涯考えて行きたいと思っている。
4月にSさんに会った時にも、このことについて話し合ってみたいと思っている。
あなたはマザーに何を見て、何を感じているのだろうか、それと語り合ってみても良いのではないだろうか。