カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

マザーハウスの神秘。

2019-02-28 11:49:00 | Weblog

 はっきり言って何をどう感じているのか、言葉では表現尽くせないし、分かりきらないがただただマザーハウスに行き、マザーのお墓の前に行くと、それ以前とまったくと言って良いほどに何かが変わり、何かが動き始め、私の胸が熱くなり、込み上げてくるものが溢れ出す感覚を味わう。

 きっとそれは一人ひとり違うのであろうがマザーの愛を感じるのではないだろうか。

 それはマザーが生きていた時と何ら変わらないものを感じて見ているのかもしれない。

 マザーが亡くなり、もう20年以上経つが、私はマザーハウスに行くと、ほんとうにマザーが至る所から未だに歩いて出てくるように感じることがある。

 不思議なことであるが、それは嘘ではない。

 私たちはどうマザーを見ていたのだろうか、どうマザーを今もなお見ているのだろうか。

 有名人の例を二つあげてみる。

 インド首相ネルーは1961年デリーに一つ目のシュシュババン{孤児の家}が出来た時、その落成式でマザーにこう言った。

 「マザー、ほんとうは私たちは貧しい人びとと同じくらい、あなたを必要としているのです」と涙ながら話した。

 1971年パキスタンとバングラディッシュの戦争時、カルカッタでマザーが働いているのを見たアメリカの上院議員エドワード・ケネディーは公の場にも関わらず、涙を流した。

 その後、彼はダムダム空港の近くの大きな土地をマザーに寄付をした、それはカルカッタで一番大きなマザーの施設グリーンパークである。

 二人はマザーのなかに何を見たのだろうか。

 私たちはマザーのなかに何を見るのだろうか。

 私はマザーが私のうちにある、どうすることも出来なかった渇きを癒やしてくれる、癒そうとしてくれているのではないかと感じることがある。

 マザーの傍に行くだけで、私は癒されていた、私の愛への渇きを癒やしてくれたと思わずには居られない。

 このことは生涯考えて行きたいと思っている。

 4月にSさんに会った時にも、このことについて話し合ってみたいと思っている。

 あなたはマザーに何を見て、何を感じているのだろうか、それと語り合ってみても良いのではないだろうか。

カルカッタの喜び。

2019-02-26 11:57:37 | Weblog

 昨日、熊本のSさんからカルカッタ{現コルカタ}から帰国の報告の電話があった。

 Sさんはマザーが生きていた1980年代から看護学生を毎年カルカッタのマザーハウスに連れて行き、ボランティアの体験をさせていた女性である。

 今は引退され、一昨年から個人でカルカッタに行くようになり、その時に私とSさんは仲良くなり、日本に帰って着てからも連絡を取るようになった。

 Sさんは個人で行くようになり、肩の荷が下りたらしく、心からと言うか、思う存分自由にカルカッタの滞在を楽しんでいた。

 昨日の電話もすぐ隣にSさんの喜びの笑顔があるのではないかと思うほど、Sさんはマザーハウスに行けた喜びに溢れていた。

 そんなものを感じれば、そんなことを耳にすれば、私はすぐにでもカルカッタに行きたい、帰りたいと思わずには居られなかった。

 仕事の途中、車のなかで電話をしていたがカルカッタが車中に充満し、私のうちに溢れ出してくるカルカッタの思い出たちがどうにもならなくなるほど身にまといつき、私の身体を縛り上げた。

 私はしばらく縛り上げたれたままの状態を味わい、それから、それを整えるように車を降り、タバコを一服して、カルカッタの空と繋がっている夜空を見上げた。

 今回、Sさんは友達の上智大の看護学部の先生と二人で行った。

 その先生は初めてのマザーハウスだったがほんとうに喜びの滞在となったとのことであった。

 4月にSさんは上智大の看護学部で講義を二枠するらしく、その後、先生と三人で飲む約束と次の日に山谷に行く約束をした。

 ちょうど次の週には私が盛岡に行く予定が入っていたので良かったと思った。

 今から桜の開花を待つように、Sさんとの日本での再会を楽しみにしている。

私のシークワーサー。

2019-02-25 12:02:53 | Weblog

 土曜日は山谷から帰って来ると、北風吹くなか、シークワーサーの世話をした。

 今年、私のシークワーサーは実なりの歳だった、たぶん、2000個以上は実を付けてくれたと思う。

 土曜日はその最後の収穫をし、剪定を行った。

 3キロぐらい、橙色に色づいたシークワーサーを収穫した。

 シークワーサーは1月2月になり、色づき甘くなると鳥が食べてしまう、すでに鳥がつつき食べられているものもかなりあったが、それでも、フルーツシークワーサーとして頂けるものはたくさん採れた。

 今日も5個シークワーサーを贅沢に搾り、ホットハチミツ割りにして飲んでいる、ほんとうに有り難いことである。

 有り難いことはまだまだあり、長くシークワーサーを楽しもうと今年は5キロの果実酒用の瓶に時期をずらしながら、緑色のシークワーサーから完熟のシークワーサーを3本焼酎に漬けた。

 そして最後にウオッカで2キロ漬けてみた。

 3ヶ月過ぎれば飲めると言われる果実酒ではあるが、まだ飲んでいない、月日が早く立ち去って行くように感じられる大人になった私は時を待つことに慣れているようだ、と言うよりは、まだ1年前に漬けたものがあるから飲んでいないだけの話しかも知れない。

 それはたまにチビチビと飲んでいる。

 少し苦味があるがこれも悪くない、キリっとしている甘みとシークワーサー特有の香りが何とも言えないのである。

 私の家に来た友達にはいつも飲んでもらうが好評である。

 漬けたシークワーサーも美味しいと同じく好評である。
 
 シークワーサーは9月から味わえる、その味わいを変えながら2月までシークワーサーは楽しめ、その他の時期は果実酒を楽しめる素晴らしい柑橘である。

 私はちゃんと丹精を掛けたのか、どうか、分からないが試行錯誤しながら育ててきたシークワーサーが友達までも喜ばせてくれるのはやはり嬉しいのである。

 おこぼれにあたった鳥たちも喜んでいるだろう。

 2004年春に半年のカルカッタ滞在から帰って着て、近所のホームセンターで出会ってから15年が経つがほんとうに良く育ってくれた。

 11年間は何の実も付けてくれなかった大器晩成型のシークワーサーであったが、それだけに喜びはひとしおである。

 そのシークワーサーを眺めていているだけで私は愛おしく思い、いつも癒されるのである。

この御恩は。その3。

2019-02-21 11:58:19 | Weblog

 月曜日、仕事の途中、利用者宅に自転車で向かっていると高校の同級生の広沢のおばさんに会った。

 たまに広沢の家の近くを仕事で通ることがある、その時はいつも広沢のおばさんに会えないものかと思っていた。

 「おばさん!」と私が言うと、「あれ、野田くん!久しぶり!元気にしていた?」とおばさんは一瞬のうちに驚きから喜びの笑顔になった。

 「この前も野田くんがどうしているだろうって話していたところでね。きっと頑張っていて、すごくなっているんだろうって話していたわよ」

 「何も変わりはないけど、元気にしていますよ」と私は答え、短い時間ではあったが広沢のおばさんと少し話しが出来た。

 私は嬉しかった、おばさんに会うのはもう10年ぶりくらいだと思う。

 私が高校生の頃はおばさんにほんとうに良くしてもらった。

 当時、登戸駅の近くの小さな化粧品屋をおばさんは営んでいて、広沢が居なくても私はおばさんに会いに良く寄った。

 そこで奥の間にある小さなコタツに入り、何を話す訳でもなかったがおばさんと話しをすることで私の気は安らいだ。

 おばさんはいつも私のことを大切にしてくれ信頼してくれていたことを私は感じていた。

 バンドに飽き暮れていたガキだった私のことを。

 おばさんは行く度にお弁当やらラーメンを食べさせてくれた。

 気が付けば、もう30年前の話しになってしまう。

 しかし私はずっとおばさんに恩を感じている、もちろん、忘れていた時もあったが想い出す度にこの恩は私に受肉されており、一生消えないものとなっている。

 歳を重ねていく内に誰から良くしてもらえることはあの時のようにはない。

 今は私が誰かに良くする番にすでになっているかも知れない。

 そんなことをその日の夜にケアに入った利用者に「今日は良いことがあったんですよ・・・」と話しているだけで、私は涙が出そうになってしまったくらいだった。

 想い出は変えられない、誰にも決して変えられるものではない、フランクルが言う体験価値である、人はそれだけで生きる意味を見い出せられることを改めて体感する。

 今、読んでいるリーヴィの強制収容所に関する本「これが人間か」にはこのような記述があった。

 民間人労働者であるロレンソォとの出会い、彼が気兼ねなく人間的に接してくれたことで私{リーヴィ}は生きられたと。

 読んだことがある人だったら分かるだろうが、リーヴィの本は細かな強制収容所生活が描かれている分、フランクルの「夜と霧」よりも人間の弱み、醜い姿が多く書かれており、希望などはまったくと言って良いほどないが、このロレンソォのことだけは違っていた。

 リーヴィのロレンソォとの出会いはフランクルの言う体験価値に他ならない。

 誰かが居たから生きられた、その恩はやはり消えないのであると同時に生きる力とそれは成りえる。

 苦しい状況のなかにあればあるほど、恩を感じたのならば、その苦しい状況を超える生きる力と意味になり得るかもしれない。

 まったく同じとは言えないが山谷のおじさんたちも苦しい状況にある。

 あるがゆえに彼らは豊かに人の愛情を感じ取り、自らのうちに恩として生きる価値にしている人たちも少なくないもかも知れない。

 しかし私たちは誰もが誰かに感謝する心、恩に思う心は自らが作り出し得るものではないだろうか。

 その思いが自らを救えるものであることを気付かないままであれ。

 

御恩は。その2。

2019-02-20 12:44:31 | Weblog

 先週の土曜日、白髭橋のカレーの炊き出しに数ヶ月ぶりに顔を見せたおじさんが居た。

 彼はもう一年以上前のことではあるが、MC{マザーテレサの修道会の略}の施設の近くのいろは商店街の道の真ん中に倒れていた。

 そのことをボランティアに来ていたクリストロア会のシスターから教えてもらい、見てきてもらいたいと頼まれた。

 カレーを持って彼のところに行くと、酔いつぶれていて失禁し、ズボンは濡れていた。

 道の真ん中では危ないので端に彼を寄せ、下着とズボンを取りにMCに戻った。

 もう一度彼のところに行くと、彼は少し違った場所に寝ていた。

 道の端に寄せたところの家の人が彼を追い払い、そこでまた寝かせないようにすでに水をまいていた。

 家の人と彼に申し訳なかったと思いながら、彼に下着とズボンを渡して少し話した。

 「もう歩ける?大丈夫?」と私が言うと、綺麗な千鳥足で「大丈夫です。すぐそこのドヤだから」と言ってヨタヨタと歩いて行った。

 次の週、彼はカレーの炊き出しに現れ、「先週はありがとうございました。先生、とても嬉しかったです」と私に何度も頭を下げながら言った。

 私は彼は酔っていたので覚えていないだろうと思ったが、そうではなかった。

 それ以来、彼は私の顔を見ると、ぺこりぺこりと目が合う度に頭を下げるようになっていた。

 先週の土曜日も変わらずに私と目が合うとぺこりぺこりと頭を下げていた。

 炊き出しを終え、帰ろうとしていると、彼はまだ近くの石のベンチに座っていた。

 彼の近くに行き、隣に腰を降ろすと、「先生、タバコをどうぞ」と彼は胸のポケットからわかばを出した。

 辺りにはもうボランティアも他のおじさんたちも居なかった、彼の好意を断る理由などはなかった。

 彼のわかばからタバコを取ろうとしたら、二本タバコが出てきてしまい、一本は地面に落ちてしまった。

 彼はすぐに何も気にすることはありませんと言うように、地面に落ちたたばこを自分の口にくわえた。

 私には良いタバコをくれたのであった。

 それから、私はそのタバコを吸う時間、彼の話しを聞いた。

 別れ際に私は「たまには顔を見せに来てね」と言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。

 彼はずっと私への恩を忘れていなかっただろうことを私は彼の笑みのなかにはっきりと見た気がした、そのことが私の彼への恩となり、彼の恩と重なりあった。

 

御恩は。

2019-02-19 11:43:31 | Weblog

 私は年甲斐もなくクレヨンしんちゃんが結構好きである。

 毎週必ず見るとまでいかないが映画などがあった場合は録画しておくタイプである。

 私の好きなクレヨンしんちゃんの名言がある。

 それは「この御恩は忘れるまで忘れません」である。

 これを聞いた時、まったくその通りだと思った。

 他人から良くされ、恩に思い、感謝をしていても、いつもそれを思い出している訳ではなく、何かのきっかけで思い出したり、また忘れたりしているのが常である。

 これが普通の人間であろう、ならば、恩に思っている時と恩を忘れている時の違いは何であろうか。

 私は実験をし研究した訳ではないが、誰かから良くされ、心から恩に思っている時には脳内に幸せホルモンと呼ばれるオキシトシンなどが分泌されているのではないだろうか。

 なぜなら心から誰かに感謝をすることは感謝しているその人自身を幸せにしているように思えてならないからである。

 マザーテレサが歩いている時もバスに乗っている時もいつも祈るようにと言っていた一つの理由には神への感謝を忘れてはならないと言うことも間違えなく含まれているだろう。

 常に神への感謝があれば、感謝しているその人は喜びに包まれているからである。

 {つづく}

I need you。

2019-02-14 11:56:30 | Weblog

 クリスマスにイタリア人女性のマッセンシアから「I need you」と電話で言われた。

 と言っても、これは恋人に言う「I need you」ではない。

 一月の終りからコルカタのマザーハウスに向かうマッセンシアはシアルダーのステーションワークで私の助けが必要であると言う意味である。

 ちょうど二年前に今ごろだと思う、マッセンシアがシアルダーのステーションワークに参加した。

 彼女はその時二度目のコルカタだったと思う、それまでカリーガートでボランティアをしていたが、ずっとステーションワークをしたいと思っていたとのことだった。

 ステーションワークとはマザーハウスの長期のボランティアが中心に行う、シアルダーとハウラーの駅を二つのグループに別れ、駅周辺を歩き、患者を見つけてはマザーの施設や病院に運ぶボランティアである。

 いまマッセンシアはシアルダーのステーションワークしている。

 何か写真を送ってくれとメールをすると一人の女の子の写真を送ってきた。

 その子は私たちのシアルダーの駅郊外の待ち合わせ場所によく顔を見せていた女の子で、二年前からアイルランド人のバーニーが彼女を学校に行かせようといろいろと用意を整ていたが、いつも学校の面談に行く日に彼女の母親は姿を現せなかった。

 そして二年経った今も彼女は学校に行っていないとのことだった。

 彼女の母親は駅の郊外の路上でしょうがとにんにくを売っているが、子どもが学校の行く必要性よりも子供に手伝いをしてもらう方が彼女には利益なのかも知れない、しかしバーニーは今もなお何度も子どもを学校に行かせるように説得をしていると思う。

 何度裏切られても、何度も無駄足を運んでも、そうしていることが私には分かる。

 マッセンシアは写真とともに「I need you」とまた書いて来た。

 私は「Don't worry! God be with you and Mother too」と返信すると、彼女は笑顔の絵文字を返してきた。

 私はまた私と一緒に働きたいと言われることはやはり嬉しい。

 私は私の知っていることをなるべく新しいボランティアには教えようとしてきた。

 例えば、駅で患者を見つけ、患者と話す場合には風上に立って話すようにすることや患者をタクシーで施設に運ぶ場合、タクシーの窓側の方を向いて息を吸い、患者の方には微笑みを見せるようにとなるべくではあるが病気をもらわないように仕事するように伝えた。

 ハウラーでステーションワークしていたイギリス人のクリスはステーションワークをしていたボランティアが二人結核になったことを教えてくれた。

 しかし私と一緒に働いたボランティアでは結核に感染したボランティアもいなければ、疥癬に感染したボランティアもいない。

 それは偶然かも知れないが、私はいつも清潔で居るようにと口うるさいほど一緒に働くボランティアには言っていた。

 そして如何なる時も笑顔を忘れないように、誰に対しても優しくあるようにと合言葉のように言っていた。

 私は他のボランティアの心が傷付くことがないように難しい仕事や私も含め誰もが嫌がる仕事は私の仕事にしていた。

 それは一番長くステーションワークしている私には当たり前のことであると同時にマザーの言葉がそうさせていた。

 「Humility」と言うマザーの言葉の最後にはこうした一文がある。

 「To choose always the hardest」

 この一文は今もなお私を勇気づける言葉となっている。

 

雪降るのなか。

2019-02-13 12:55:26 | Weblog

 土曜日は傘の要らない冷たい雪が降っていた。

 炊き出しの配られる白髭橋に私はMCの{マザーテレサの修道会の略}施設から自転車に乗って向かった。

 目が上手く開けれないほど、私の前に雪は向かってきた。

 私のダウンジャケットにはシャリシャリと音をたて雪が腹部の辺りに少し積もるくらいだった。

 私の両手をすぐに真っ赤になっていた。

 おじさんたちは150人くらい来ていた。

 私は「雪のなか、来てくれてありがとう」と挨拶をして行った。

 川の方から強い風に乗って流れ込んでくる雪を背にして、おじさんたちはカレーを食べていた。

 足の悪いおじさんは一人雪降るなか、石のベンチに座っていた。

 私が「雪に当たらないところに行った方が良いよ」と言うと、「足が悪いからここでしか座れないんです。一度座ってしまうと立ち上がるのがたいへんだから」と言って、その場を離れなかった。

 彼の両足は丸太のように太く浮腫んでいた。

 「今度病院に行って、車椅子になるか、どうかが決まるんです」

 私はしばらく彼と一緒に雪を浴びながら、彼の隣に腰を降ろして、彼の話しを聞いた。

 炊き出しも終わり、私は一人自転車に乗ってMCの施設に戻る途中、白髭橋のたもとの石のベンチにまた違うおじさんが雪降るなか、一人でうつむき腕を組んで座っていた。

 その横を三人のボランティアがしゃべりながら通り過ぎた。

 私はそのおじさんが気になり、声を掛けた。

 彼は汚れていて所々が切れているビニールの合羽を着ていたが雪は彼の頭上に絶え間なく落ちてきていた、しかし、そのことなどお構いなしに寝ているように首を垂れ腕を組んでいた。

 雪の当たらない場所に行って方が良いと言っても、このままで良いと言うばかりだった。

 それは生きることなど、どうでも良い、このまま死んでも構わない、とでも言わんばかりの雰囲気を漂わせていた。

 少し前にあるおじさんに「今日はどこに行くの?」と聞くと「行く場所なんかないよ」と言われたことを思い出した。

 どこにも行く場所などはない人たちがいる、雪が降ろうが雨が降ろうが、どこにも行く場所がないのである、ならば、どこに居ても同じと言うことなのか、どこに居てもひたすら耐えることが出来ると言うのか、耐えなければ死が待っていると言うだけなのか、私には到底分らない、感じることが出来ないものを彼らはいつも感じ、そのなかで生きている。

 私は彼らにもっと心を寄せなくてはならない、何も出来ないかも知れないけど、そうしなくては意味がないと、この雪は私に知らせてくれた。

 「じゃ、あとで向こう{雪の当たらない場所}に行ってね」と言い、その場を一度離れた。

 だが、私の心はその場からまだ離れなかった。

 私は白髭橋を渡りかけた所から、また彼を見返した。

 すると、ブラザーセバスチャンが私と同じように彼に話しかけていた。

 それを見て、私はもう一度彼の所に戻った。

 セバスチャンはインドなまりの日本語で優しくこう言っていた。

 「ワタシと一緒にあたたかいところに行きましょう」と、しかし彼はいっこうに動こうとはしなかった。

 「そうだよ、一緒に行こう」と私も言った。

 手袋していたセバスチャンは「ワタシの手袋をあげます」と言って、手を差し出した。

 「うん・・・」と曖昧な答えしか彼は返事をしなかった。

 私は「もらいな、もらいな。手袋した方が良いよ」と言って、セバスチャンの手から手袋を取り、彼に渡した。

 彼はその場で手袋をはめようとはせず、脇の下にはさみ込み、また両手を組んでうつむいた。

 私は「タバコを吸う?」と聞くと、その反応は良かった。

 ライターが無いようだったので、私は彼のタバコに火を点けてあげた。
 
 少し落ち着いた様子を見せた彼を見て、私たちはその場を離れた。

 セバスチャンはほんとうに優しいブラザー{修道士}である、その優しさを見れて、私は嬉しかった。

 セバスチャンも彼に声を掛けずには居られなかったのであった、何かせずには居られなかったのであった。

 同じものを見ても、ある人には見えて、ある人には見えないものがある、大切なことは心で観てなくてはならない、愛で観なくてはならないのである。

 そしてマザーは言う、「神さまの目で見なくては意味がない」と。

あたたかな思い。

2019-02-12 12:14:28 | Weblog

 昨日仕事の途中、以前私がケアに入っていた私の大好きな作家先生の家の前を通ると、大勢の人だかりがあった。

 その人だかりは花が咲いたようにみんな微笑んでいた。

 これはもしかしてと思った、私の大好きな作家先生宅は年に二回、先生の書斎などを公開している、今日はその日ではないかと思った。

 私は近くの公園で用を足し、タバコを一服してから、スマホで調べてみると、やはり今日はその公開日であった。

 もう10年も前に先生が亡くなり、それから奥様も亡くなり、私は線香の一本も供えていない、可能なら仏壇に手を合わせ感謝の思いを告げたい、それに今日は次の仕事まで時間があった。

 もう10年も経っている、私のことなど忘れていないと思うが、仕事の途中に仕事の服で行くなんて、失礼に当たらないか、どうしたものか、と迷ったものの、勇気を出して行くことにした。

 仕事のエプロンをしたまま、先生の家の前に行くと、たぶん親族の方だと思うが、「あれ」と言う表情された。

 私は「今日は家のなかが見れるのですか?以前、ケアに来ていた者です」と言うと「もう片付けているところですが、どうぞどうぞ」と迎えてくれ、玄関に入った。

 すると、お勝手から出てきて、私の顔と姿を見てびっくりした長女さんに「お久しぶりです」と言って私の名前を言うと、長女さんは「まぁ、嬉しい!良く来てくださいました!」と言って喜びながら、私のことをそこにいた人たちに紹介してくれた。

 長女さんは以前先生の作品のあとがきに私のことを書いていてくれた、そのことをみんなに話しながら、私の肩に手を置き、私を先生と奥様の仏壇の方へ招いてくれた。

 すでに仏壇のロウソクには火は灯っていなかったが長女さんは私のためにロウソクに火を点けて線香を差し出してくれた。

 私の念願が叶った、先生と奥様に手を合わせることが出来たのであった。

 ゆっくりと祈っていると、長女さんはその間、私の隣で一緒に手を合わせていたような気がした。

 「ほんとうに良く来てくださいました」と何度の満面の笑みで言ってくれた。

 先生が亡くなってから長男さんにはたまに道端で偶然会ったりもしたが長女さんとはもう10年ぶりであろうが、以前と変わらず、あたたかく私を迎えてくれた。

 先生の家に行くと、私はいつもあたたかな思いになった。

 先生の小説そのままのこんなに優しい人たち、あたたかな家族があるのだと知り、私は喜びに満たされ、帰り道に涙を流したことも何度かあった家であったが、それは何も変わりはしなかった。

 長男さんの息子、先生のお孫さんは私のライブや家、山谷にも来てくれたことがあるのでしばらく話していた。

 長男さんに会ってからすぐに帰ろうとしていたが仙台から訪れた人たちを駅まで送って行ったらしく、なかなか帰ってこないので、先生の書斎でお孫さんとコーヒーを頂きながら話しをし待っていた。

 公開時間も終わり、もう来客者は私しかいなかった。

 しばらくして玄関に元気良く戻ってきた長男さんは私の顔を見て「あれ」と言った後にすぐに「嬉しい!来てくれたんですね」と言ってくれた。

 この家はほんとうにあたたかい、私もほんとうに嬉しかった。

 居間ではお疲れ様会が喜び溢れ始まっていた。

 「飲みましょう!」と息子さんが言うが流石にそれはお断りした。

 仕事の途中、週に二回、先生の家の前を通ることがある。

 先生の家の前に人だかりが無ければ、私は何も知らずに普通の一日を過ごしたのだろうが不思議である、ずっとお線香をあげたいと思っていた私の願いが叶ったのであった。

 私は10年前のようにあたたかな思いに包まれながら、先生宅を離れたがあたたかな思いはいつまでも残っていた。

「ここで見て」

2019-02-11 11:39:35 | Weblog

 先週土曜日はちょうど吹雪のなか、白髭橋でカレーを配った。

 昼食後ロザリオの祈りを終えて、MC{マザーテレサの修道会の略}の施設を出ると、一人のおじさんが私に近づいて来た。

 首のうらに腫瘍のある、1月5日にいなますさんが話しかけていたおじさんである。

 私は彼にちょうど用事があった。

 先週彼にブラザーセバスチャンから頼まれタバコを一本あげたのであった、その時、私は「これからも周りに誰も居なければ、タバコをあげるからね。周りにたくさんおじさんが居るとタバコはあげれないからさ」とタバコをあげる約束していたのであった。

 タバコは吸わないブラザーセバスチャンだが彼に以前誰かからもらったタバコをあげたらしい、その時、彼がとても喜んでいたので、もし機会があれば彼にタバコをあげて欲しいと私に頼んでいたのであった。

 彼は私を待っていたのではないだろうが、不思議ではあるが私の前にヨタヨタと歩きながら現れた。

 「会えて良かった。タバコをあげるね」と言い、私は彼に一本だけタバコをあげた。

 それからまた違うおじさんが私に近づいて来た。

 「あれ、今日は炊き出しに来なかったね」と私が言うと、「先生・・・」と重い口を開くかのようにとつとつと話し始めた。

 彼はこの一ヶ月間で二人が路上で亡くなったことを教えてくれた。

 一人はいろは商店街でもう一人は玉姫公園で亡くなったとのことだった。

 玉姫公園で亡くなったおじさんとは仲良くしていらしく、拭えない悲嘆に暮れながら話していた。

 亡くなったおじさんはあるドヤの番頭をしていたが首にされ、路上生活10日目で亡くなったらしい。

 「お金があるのに路上生活なんかしなくて良かったにさ・・・彼にはよく{酒を}おごってもらったよ・・・」と彼はそのおじさんの死を自らの未来と同一視しているかのような苦悩を感じていた。

 そのおじさんの死は彼の死の一部でもあったように思えてならなかった。

 それから彼は自らの痛みを語りだした。

 「先生、もういつか先生の顔が見えなくなるよ、もうだんだん見えないんだよ」

 彼は以前から耳も随分遠くなっていたが目まで悪くなっていることを語りだした。

 「それじゃ、もし自分の顔が見えなくなったら、ここで見て」と私は言い、彼の心臓の辺りに人差し指を当てた。

 彼はそれに驚き、そして微笑み、両手を合わせ、私に頭を下げた。